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2日目

006 アイスチャンス

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 いつもの復習、いつもの予習、いつもの質疑応答。永遠のように思えて有限の時間が過ぎていった。平均台を踏み外すと、側には奈落へと誘う闇が喜ぶ。

 とんちが効いた質問に対してテキストを破り捨てた以外は、特にサプライズも起こらないまま進んでいく。いっそ、凸凹の砂利道に足を取られてしまえば接点を作れるかもしれないのに、だ。

「……なにも出来てない……。教えるだけ教えて、後はいつものままだ……」

 二時間の講義を終え、陽介の集中力にも限界が来た。彩の部屋を抜け出し、階段の直下に腰を下ろしている最中である。彩の両親は、愛娘を近所の高校生に預けて買い物に出かけていった。誰にも遠慮する必要はない。

 他人の家、とりわけ女子の家は身体が落ち着かない。経年劣化の加齢臭を放つ木々も、彩が生活している場所の補正が掛かって芳香に感じる。病院の匂いをマイルドにしたと言えば分かりやすいだろうか。

 嗅覚は、朝から酷使でお疲れ。ドリアンを顔面にぶつけられても、失神せずに切り抜けられそうだ。犯人を何処までも追いかけまわして、反対に地獄の苦しみを味わってもらう。

「……あ、陽介……」

 何の用事だろうか、彩が階段を下ってきた。横幅を占領してくつろぐ陽介を、今にもゴールネットを揺らさんと構えていた。運び込まれる先は、救急車である。

 非常勤講師でシフト制でない陽介はともかく、彩は学生の身分。休日の補講でも、時程は守らなくてはならない。休憩時間中も、繁華街の一階へ降りることは自粛していたはずなのだが。

「珍しいな、彩が規則を破るなんて……。録画した深夜アニメを見ようったって、そうはさせないぞ?」
「それは……、陽介の趣味……。私は、……漫画があれば……」
「勉強中にそれはそれで問題だけど」

 受験勉強中に深夜アニメと出会い、世界観に惹きこまれて勉強時間を削られたのは、何処のポンコツ中学三年生か。シルエットクイズにするまでもなく、答えは陽介だ。勝負師も唸る勘で、点数だけはもぎ取れた。

 趣味暴露大会は、一勝一敗の五分。勉強部屋の手の届くところに置かれている点では、双方成敗される。廃人までに熱中していなければ、簡単に勝馬を乗り換えるほど浅くも無い。

 主体的に外出したがらない彩の、数少ない冒険機会。月刊で店頭に並ぶ漫画本は、二足歩行が怪しい彼女をも虜にしている。今月の発売日はまだ先で、計画に組み込めなさそうなのは残念だ。

 彩は、口一つ動かさずに足を払った。道を空けろという偽将軍命令だ。末端で人を追い払おうとするとは、扱いの乱雑なお子様である。久慈宅の天気予報は、明日から数日間積乱雲が発達することだろう。

 年下の女の子に負けじと、陽介も足を突っ張った。家から床が消滅しても、摩擦力でしばらくは体勢を維持できる。

 我慢比べになるかと思われた、この勝負。均衡の亀裂は、想定を超える一撃で入った。

 彩は、膝を曲げた。溜められた力が一気に解放され、狭い長方形の空間に女の子の体が舞った。ズボンの隙間からパンツが見えなかったのは、悲しむべきなのか胸をなで下ろすべきなのか。男子の本能と理性が絡む、難しい決断だ。

「……次は、……容赦しない……」
「間違っても、スカートで同じことやるなよ! 俺の首が国会議事堂にさらされることになるんだから……」

 静かな殺意が、辺り一面を焼き尽くした。触れても熱くない見せかけの青い炎だが、次があるのなら具現化して陽介を灰にしてしまう。都市ガスが漏れて床全体がガスコンロになる未来はまだまだ先だ。

 刀剣を鞘に戻した彩は、敗戦の将になど見向きもしないでツカツカと食卓へ向かっていく。食料を独り占めして白旗を揚げさせる作戦は、陽介も昼食を持ち込んでいるので成立しない。智将も、たまにはポカをやらかす典型例だ。

 余分な動きがカットされた彼女には、十点満点をつけたい。上品な歩き方オリンピックの代表に推薦されるのは、真っ当な人選である。

 追いかけてキッチンに入ると、冷蔵庫を前にして疼く彩の姿があった。外を俯瞰して黒い液体を被る負のエネルギーは無く、欲求に飲み押し動かされる健全な女子高生だった。静電気で固まっている髪の毛も、いくらかばらけているように見える。

 冷凍庫に手を突っ込み、取り出した棒状の塊。サンプルだったのだろうか、すぐに箱へと戻した。

「……アイス……あるよ。……どう……?」

 公務員に賄賂など、平常時には通用しない。封筒に大金が隠したところで、返送される途中に配達員が盗むのがオチだ。お笑い芸人を目指す気はさらさらない

 時刻は、長いのと短いのが巡り合った直後。あと一時間もしない内に、一日の半分が過ぎる。半分を睡眠時間が奪っていると思うと、脳を寝かすことへの疑問が爆発する。

 ……確かに、腹が減ってくる頃合いではあるんだよな……。

 あえなく失敗かと思われた智将の策略は、陽介の薙刀を雁字搦めにしていたのだ。策に溺れる彩を見届けるどころか、自分が塩化ナトリウム水溶液に沈められていた。

 失ったエネルギーを補う得と、彩の支配下に置かれる損。短期と長期の視線が求められる、高度な知能戦になった。

 陽介は、決意を固めてあぐらをかいた。スペースを空けようと彩が立ち退いた一瞬の隙を捉え、光速でアイスを取り出す。

「それじゃあ、遠慮なく。後から否定しても、遅いからな」

 その気になれば、いつでも退職できる。収賄が発覚する前にトンズラをして、証拠を消せば完全犯罪の成立である。ローリスクハイリターンは、積極的に受けるべきだ。

 颯爽と台所を脱出しようとした陽介は、しかしながら、身柄を確保された。

「……その味……、あと一個……」

 陽介がランダムで選んだアイスを指差し、希少性をアピールしてきた。中に一万円札を丸め込んでいるのだとすれば、その紙幣は使い物にならない紙屑になっている。へそくりを隠すにしても、自室の漫画に隠せばいいのに。

 アイスが主目的で、味は二の次。無抵抗で城を明け渡しても良かったが、悪魔のささやきが陽介の耳を躍らせてしまった。天使は元から住んでいないので関係ない。

 ……動揺をカバーしてるんだとしたら、ここで揺さぶっておくか……。

 重りを引きずっている人間は、感情論に身を任せられない。可能性が消えることを恐れて、不自然な行動をしてしまう。高級寿司が百円で流れてきた時、気付くまでに時間がかかるのだ。最悪、見過ごしてチャンスを不意にする。

 彩の手を振りほどいて、階段を駆けのぼろうとした。静と動をはっきりさせ、残像を掴ませる作戦だ。反射神経が研ぎ澄まされていない一般女子高生が、この瞬間移動についてこれるはずがない。

 二階に駆け上がり、部屋の鍵を閉めて籠城に入る。見境なくチャンバラを振り回す彩でも、家の鍵を壊してまで侵入を試みようとはしないだろう。陽介の見立ては、寸分の狂いも無かった。

 前提が、合っていればの話だが。

 太ももを振り上げたところで、どうにも重力が真下に働かなくなった。床を蹴って推進力を得ても尚、左側に重心が傾く。

「……撤退は……、許さない……!」
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