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2日目

005 エントランス押し問答

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 生きがい無しに、人は生きていけない。悪の限りを尽くして富を貪りつくすのであっても、目標の看板を設置しておかなくては道に迷ってしまうのだ。

 昨晩、陽介は大層な計画書を発案した。海流に身を任せて底に引きずり込まれるくらいなら、浮き輪と空のペットボトルを手に彩を救出する。潮が読めない荒場だとしても、光が差し込まずに生還の道など開けない。

 その計画の根幹となる、ダイヤモンドで固められた最終目標。事前に道具を設置するのに最重要な、陽介の生命線。

 ……一晩中、寝られなかった……。俺、彩を助ける気があるのかよ……。

 我ながら、意志の弱さに脱臼した顎が塞がらない。下あごを手で戻そうとしても、ゴムの反発力で完治をかたくなに拒否された。脱臼したら誰でも口を塞げなくなるという指摘はいらない。

 とりあえず宿題を済ませ、さあ対策だと白紙のノートに焦点を合わせた陽介。古ぼけた木製の鉛筆を片手に、頬杖をついて運勢を占っていた。

 アイデアが脳に浮かべば、自ずと作業効率も上がってくるだろう。そのような砂糖を飽和させた水の考えは、思考を堕落させていった。砂糖水に浸かった脳からは水が染み出て、細胞が生きる為に必要な水分を奪ってしまったのだ。

 やる気スイッチが力の均衡で宙ぶらりんになっていた所へ、思わぬ刺客がやってきた。

『あ、また料理が炭になっちゃったよぉ……』

 徹夜の大敵、深夜アニメである。ヒロインがこぞって料理を炭にする現象については、科学的な検証の余地がありそうだ。酸素が十分供給された室内では、燃焼すると灰に変化するはずなのだが。

 作画ガチャが巷の話題に上がるように、当たり外れは課金ゲームそのもの。受信料を払わずに視聴できるのがメリットか。夜更かしで健康に与えるダメージと両天秤に賭けなくてはいけない。

 結論として、陽介は魔力で魅了されてしまった。決して録画予約を忘れていたアニメがたまたま放送されたからではない。ホオズキに誓って、絶対に。ちなみにホオズキの花言葉は『偽』である。

 ……ごめんな、こんな頼りないので……。

 近所の柿を溶鉱炉に放り込んでしまった罪悪感が、胃酸と手を組んでせり上がってきた。焼け付く感触が、粘膜にこびり付く。細かく歯で砕かなければ、柿も簡単に消化されてくれないようだ。

 水面下で進む議題なのだから、彩に謝る義務は皆無だ。身も蓋も無い事を言い捨ててしまうと、留年を回避させようとする努力も不必要である。

 しかしながら、あの他人には見せない頬を赤く染める顔を、どうして己の手でぶち壊せと言うのか。金棒を備えた鬼でも、頭にある皿の水を零して干からびる。今更ながら、河童と鬼は合体すべきなのだろうか。

 今日は、昨日に引き続いて講義の時間が埋まっている。希望生徒は、唯一在籍してくれている彩だ。口コミ評判には星一評価をしてくるが、よくコメントを覗くと誉め言葉が並んでいる。感謝の伝え方が下手な女の子である。

 慣れた手つきで、陽介は住人の呼び出しボタンを押した。休日のこの時間帯になると彩以外の人間と遭遇する恐れがあり、おいそれとタメ口を喉から投げられない。

『ぴんぽーん!』

 インターホンのチャイムは、今日も力の抜けた返事をした。健全な企業なら、窓際社員になるか首を通告されるかの二択だ。大きい顔で建物の前に鎮座していられるだけ、彩の心の広さに感激しておいてもらいたい。

 太陽はまだ低く、汗もうっすら生え際を濡らすに留まっている。朝から特訓して欲しいと願い出たのは、誰でもない彩だ。

『……はい、徳川です……。老中ちゃんなら……、人違い……』
「いつか首を表札の上に掲げられても文句無いんだな? 将軍さん?」

 『老中』のワードが出てこなければ、ど真ん中のストレートを後ろに逸らしてしまうところだった。ヒントの出し方が絶妙で、無駄がない。クイズ大会の主催者側で立候補して、テレビへ出演するアメリカンドリームを掴むのは彩だ。

 征夷大将軍ともあろうお方も、安全管理は疎かなようだ。影武者を使う頭の回転は賞賛に値する。が、表札で全てがバレてしまっている。せめて家に外堀を作らなければ、敵の目をごまかせない。

 三顧の礼では、二度追い払われて三度目にようやく会合する流れ。彩方式は、機嫌が良くなるまで訪問者を灼熱地獄に滞留させる。労働基準法の無い過去よりも厳しい。

 ……宅配便だったら、どうするつもりだったんだ……?

 陽介は、首を三百六十度傾げた。捻じれて身長が低くなっているのがアピールポイントだ。

 訪問者を確認するカメラは、もちろん取り付けられていない。学費に回しているとしても、防犯の資金を削るのはやりすぎだ。芸能人事務所のスカウトを門前払いしそうな家は、津々浦々を見渡してもここ久慈宅オンリーである。

 彩は、情報を得る前にボケをかました。陽介が時間きっかりに訪ねてくることを予期して。書店に並ぶエセ科学の本より、彼女が未来予知した出来事を羅列したメモを売るべきなのではないのか。

 切腹の志無しに将軍を語ったとなれば、ただでは生かしておけない。幕府に忠誠を誓った以上は、超電磁砲で家ごと吹き飛ばさなくてはならなくなる。彼女の家系図に『徳川』の文字を見た覚えは無い。

 スピーカーを指で突いて懲らしめようとしていると、少し離れた堅牢の扉が開いた。慎重に品定めをしてきたビビり体質の少女は、たった一晩でデータを収集したようだ。

「今日は早いな……。晩飯の中にトカゲでも入ってたんじゃないのか?」
「トカゲは流石に……、でも、ネズミの唐揚げなら……」

 女子が嫌がるナンバースリーを続けざまに召喚して腰を抜かそうとしたのだが、思惑は宇宙の果てへと連れ去られた。

 彩の口からは、食欲を抑えきれなくなって涎が垂れだした。眼に光を宿していなくとも、人は辞めていない。たこ足を生やして空へ飛び去って行かないだけ、まだ見込みはある。

 食糧難で明日のケーキも買えない緑あふれる町ならまだしも、ここは日差しに刺される中くらいの都市である。女子高生が増殖して外国語を操るスポットこそ存在しないが、折れかけた羽を休ませる場所は確保されている。山奥の人間は、鳥と並走するドローンを見て卒倒するだろう。

 ネズミが出る家は、不衛生。固定概念を手刀で叩き切るのが、彩の常識だ。水槽でぶくぶくに太らされたネズミが飼育されているのだから、跪いて上納金を差し出したくもなる。

「ネズミ、なぁ……。アニメで出てくるのはデフォルメされてるから可愛いだけで、現実のネズミは……」
「……私の舌……豊かにしてくれる……。……役に立つ……」
「地球破壊爆弾で日本が消し飛んでも、彩は木を削って樹液をすすってそうだな……」

 対外能力の絶望とは逆に、生存意識は誰にも負けていない。世紀末日本の主人公になるのは、作者に優遇されてご都合展開が待っている冴えない男子か彩くらいのものだろう。

 彩自身はサバイバルブックの熟読者でない。小説は一度手に付けると離れない一方で、興味を失った本はすぐさまネットショッピングでお小遣いにしてしまう。本棚に敷き詰められた漫画を売る気は無いらしい。

 彩の目は、今日も変わらず黒い渦を巻いている。プリンターの黒インクをそのまま滴下してしまった瞳が、周囲の生命力を吸い込んで膨張していた。

 ……笑いかけてくれる時でも、この目は慣れないな……。

 緊張が和らいで、口をすぼめて笑い声を漏らす。他の女子が笑顔を作る様に、彩にも喜怒哀楽は常設されてある。感情が欠落しているのでも、脳に障害を抱えているのでもない。陽介の一つ下の女の子である。

 そんな時にも、彼女の真っ黒に染まった目は開かない。嫉妬と軽蔑の総攻撃に疲れて、扉の鍵が錆びてしまったのだ。型を取って合鍵を作ってもらおうにも、心理カウンセラーの宛てが無い。

「……早く……。外の空気……溶ける……」
「体が何でできてると思ってるんだよ……」

 化学をかじったことがあるなら、人体が空気ごとき虚弱な気体にとかされないことは周知の事実。針を刺されて萎む体質で無ければ、生死の境目を泳ぐこともない。

 だが、しかし。陽介には、本気で彩が消えてなくなりそうに思えた。比喩ではない、ストレスの無い空間に逃げ込んだ彼女が空気と同化してしまいそうだった。

 気力が辛うじて蓄えられるのが、彼女自身の部屋。エネルギーを補充して、触覚を外の世界に触れさせる。この行為ですら、トラックを全力疾走した一般女子より息切れるのだ。

 内と外の境界が薄く、酸素に衝突されて細胞が壊れていく。通常の人なら働く防衛機能は、長期間の虐げに無力化されてしまった。

 足が庭のタイルにくっついた陽介の様子に、彩の頭上にははてなマークが浮かび上がった。滅多に起動しない便利表示が、どうでもいい時に発動してしまったようだ。わざわざ確認しなくとも、渦の流れが逆回転になったので把握は出来ている。

「……陽介……、まだ眠い……?」
「……ちょっと朝早いからな。いつもなら、床と友達になってる頃だし」

 高校で欠伸が止まらないのは、日曜の夜更かし癖が抜けないからだ。目覚まし時計に言われるがまま起床し、洗面器に顔を浸す彩を見習いたいものである。早起きは三文の『得』であり、ゲーム機の夢へも近づく一石二鳥だ。

 ……外風に当たらせるのも、酷か……。

 通りすがりの知り合いに証拠写真を取られようものなら、どっちつかずの心を支える杭を引っこ抜かれかねない。社会に身を晒す当たり前の事が、彩には心臓にまで届く傷となる。

 彩が抱くハテナが分裂しない間に、陽介はノートを両手に抱えて家へと滑り込んだ。
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