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七
しおりを挟む亨它郎の斜め前方では、相変わらず戦闘が続いていた。何も見るものが無いので初めのうち野次飛ばしながら観戦してたが、しかし、暇である。度胸いいことに、そこにねっころがってうとうとしていた。すると、
コンコン、コンコン
ノックする音が聞こえる。
「……なんだ?」
音がする方へ寝返りを打ちながら、寝ぼけ眼でジーッと見つめる。すると、ノックした相手もジーッと見つめていた。亨它郎は、ギョッとなって、ガバリと起き上がる。
「なんだ、なんだ!」
透明な壁を隔てた向こう側に、一人の青年がいた。歳は二十歳前後……に見えるが、よくわからない。月の光に近い色の銀髪に、高原の空の色に似た青の瞳。水の中に濃厚なミルクを溶かし込んだ様な白くて滑らかな肌……その色彩の取り合わせだけで、その青年が異国の者だという事が判った。しかし、ただの異国の者ではない。恐ろしいほど、整った容貌の持ち主だ。着込んでいる服は、そこらへんのスーパーの二階で買える様なトレーナーとジーンズの安物だというのに、上手く着こなしていて違和感を持つ事は無い。その青年が、屈み込んで壁の向こうからノックしていたのだ。
「……何か俺に用か?」
青年の屈み込んでいる場所が、空中だという事に気付き、その非常識さに驚いたが、よく考えたら、今の自分の状況や、魔物が出てきたという事を常識という枠で括れるものでは無いので、あっさりそれを放棄する。
「はい。……あのですね、斗草さんと神尾さん、ご存じありませんか?愛染さん。お二方のご両親が心配されているんですよ。夜遊びでもしているんじゃないかって」
ゾクリと鳥肌が立つ様な独特の響きを持つ声だ。この容貌にこの声。意中の女性に対して睦言でも囁いたら一発で落とせるだろうと思いながら見ていると、青年は目を細めてクスッと笑った。
(ゲッ!読まれた)
亨它郎は、思わず口を両手で抑える。声を出したわけではないのに口を覆う亨它郎を見て青年は面白いものを見る様な表情をした。
「……あなたって楽しい人なのですね?声を出したわけではないでしょうに」
亨它郎はその言葉を聞いて慌てて両手を口から離すと、ワタワタと焦って何か言い訳をしようと手足をパタパタ動かしていたが、咄嗟の事で何をどうしていいか判らない。
「そう驚かなくても。……息を吸って……吐いて!息を吸って……吐いて!」
亨它郎は言われるまま、その動作を繰り返し、深く二三度深呼吸をする。そうすると、どうにか落ちついて来た様に思えた。
「サンキュ!……で、誰かいるのか?」
「……居るにはいるのですけど、片思いなんですよ」
亨它郎は目を丸くして目の前の青年を見た。
「あんたが?なんでまた……」
「……らしくないって思ったでしょ。そう、自分でもそう思うんですよねぇ……でも、先に好きになった方が何事も負けなんです。
想いが叶うのなら、どんな事だって出来ますよ、わたしは。悩んでいるだけで、努力しないのってただの怠慢。それで想いが伝わるなんて考えるのはただのエゴだとわたしは思うんですけどね。だけど、アレはそんなわたしの気持ちも露知らず、のほほーんとしているし。おまけに何事にも猪突猛進型でしょ?だから別な意味でも目が離せない。それに、他の奴に持っていかれるのはどんな事をしても阻止しなくちゃならないし……男の嫉妬って醜いものなのでしょうか?」
ちょっと拗ねた響きが声に宿った。亨它郎は、その意外な事実に目を見開く。
「……マジ?」
「本当です、愛染さん。……わたし、アプローチ、さり気なくしているのに、全然気付きもしないんですよ?……彼女、他人には敏感なくせして、自分に向けられる好意には、超がつくほど鈍いんです」
ふうっと深いため息をついて、こりこり頭を掻いた。その仕種が妙に親近感を亨它郎に持たせた。そして、そこで改めて気付いたことがある。
(……俺、自己紹介したっけ……?)
疑惑の目で相手を見る。だが、壁の向こうの青年は、微笑を浮かべるだけで、それには答えなかった。
「かなり、脱線してしまいましたが……愛染さん、斗草さん達の行きそうな所、ご存じありません?」
小首を傾げて聞いてくる。亨它郎はフルフルと首を振った。
「……そだな、夜に出歩きそうな場所なんて、自動販売機以外、俺は知らないぞ?今日なんて……あれ、あれれ?」
亨它郎は、今までの事を思い出しながら答えるうち、何か引っ掛かりを覚え、少しの間、考え込む。
「どうかなさいましたか?」
「雪之達は一度、学校から家に帰り着いたんだろ?……俺と天地は学校帰りだぜ?特に用事とかも無かったし、会う約束もしていない……そう言えば、本当は俺が帰りがけ雪之ン家に寄るつもりだったんだけど、寄ってないって事はやめたの……かな?変だな」
首をひねりながら答えていくうち、妙なことがポロポロ生まれてくる。
(……記憶が混乱している?なんで!)
「あの突風の後の事ですか?」
青年の問いに亨它郎は、反射的に頷いた。
「そうそう!あんとき、風が何かを落としていって、それを拾ったんだ。だけど、その後の記憶が抜けてて……あれ?何で判ったんだ?」
亨它郎は青年を不思議そうに見る。
「見てたからですよ」
ことのほかあっさりと答える。しかし、亨它郎は彼に見覚えがなかった。こんなに目立つ容姿をした者が近くにいれば、直ぐ誰かが気が付くはずだ。変だと思いながら首を傾げていると、青年はきっぱりと言い切った。
「でも、今はその事は問題ではないでしょ?」
亨它郎は慌てて相槌を打つと、話を続けた。
「あ、ああ、そうだったよな。えっと…とにかく俺は変な物、玉の様な蛙の卵の様なのを拾った後からの記憶がスパッと無いんだ」
亨它郎は、真理亜と魔物が戦っている方へ指を差した。
「んで、我に返ってみると、ああだ」
青年は亨它郎が示した方を視線で追い、振り返る。
「俺と天地がこうなったって事は多分……」
頭をひねって真理亜からここに閉じ込められる前を思い出そうとする。
(……あれは確か……)
ゆるゆると意識が戻ってくる時に聞こえた会話……
「……確か、あの鹿の頭野郎に兄弟がいて、そいつが玩具を見つけたって……まさか!」
「……そう」
呟く様な返答を、亨它郎が全てを言いおわらない前に返す。亨它郎は、ふと顔を上げた。
そして、ゾッとする。青年は変わらない笑みを顔に浮かべていた。ただ、その目は笑っていなかった。
「そう。彼女……あんな雑魚と遊ぶためにここに来たの?自分の目的を忘れているのかねぇ……」
クッと口許を歪めてそう呟いた。声音は優しい。仕種も。だが、それが亨它郎にはうすら寒く感じたのだ。
「お……おい……?」
「……忠告までしてあげたのにねぇ。なんて馬鹿なんだろう」
クスクスと笑いながら独りごちる。
「…………」
「本当はね、放っておいても良かったんだけどね。失って嘆くのは彼女だし」
スッと立ち上がると、青年はピタリと亨它郎を囲んでいる透明な膜に手の平を当てた。
「でもね、そうすると、捕まっているらしい彼の側にいるアレが泣く。それは許せないね」
そうして、爪をその膜に立てる様にギリリッと掴み上げた。膜は悲鳴を上げて軋むと、呆気なく割れた。
「うわ……っ!」
「おっと!」
亨它郎の身体は、支えを失って、下へ落ちかかったが、青年があっさりと片手でそれを受け止める。
「愛染さん、あんな人達放っておいて帰りましょ。わたしは二人を探しに行かなければ成りませんから」
にっこり微笑まれ、頷きかけるが慌ててプルプルと首を横に振った。
「だって、あっ、あれあれ!」
青年は、嫌そうに真理亜達の方を見る。
「……わたし、彼女に忠告したんですよ?それなのに、それを受け流した彼女に対して少々怒っているんですけど……」
「だけどさ、黙って帰るのも何だなと、俺は思うんだけどな」
亨它郎を支えるこの青年が、怒っているのは判る。口調は穏やかだし、表情は微笑すら湛えている。しかし……しかしである。
「ほ、ほら!これから先、厄介事があるでしょ?二人を探さなくちゃなんないという?」
支えられている手前、変な事は言えない。また、思考は文字の様に読まれる。亨它郎が今、出来る事といったら胡麻すりだけだった。
懸命に頭の中で巨大すり鉢の中の多量なゴマをすりこぎでぐりぐり回している絵を想像する。
「その厄介事、天地さんに押しつけちゃえば?おたく、すっげー強そうじゃん!今、天地さんが相手しているゲテモノなんか、ちょちょいのちょいだろ?」
「…………」
「ゆ、雪之達を捕まえている奴のほうが絶対めんどいって!それに……ほら、あいつだって、おたくの相手をしたいって顔してるだろ?」
亨它郎の示した方向では、戦闘が一時中断していた。どうやら、この青年の存在に気付いた様だ。二人とも、驚愕のため、凍りついたように立ち尽くしている。
青年は、ふわりと笑い、亨它郎を連れて空間を滑る様にして移動し、彼らの元へ向かった。
「……そうですね。仕方ないですねぇ……愛染さん、あなたの口車に乗りましょう」
そうして、ボロボロの服の真理亜にふた言三言囁くと、有無を言わせず亨它郎を押しつけて、異界の外へ無理矢理送りだした。真理亜達を魔物が作り出した異界から無事、元の世界へ送りだせたのを確認すると、うっとりとした口調で、目の前の魔物に告げた。
「……愛染さんの提案で、八つ当たり対象をあなたにしました」
「なに?」
銀髪の青年は、すいっと手を魔物の方へ突き出すと、口許だけの笑みを浮かべる。
「……あなた達兄弟がいけないのですよ?わたしを困らせる様な事をするから」
魔物はギョッとした様子で一歩後ずさった。
「……他の人間なんて、これっぽちも価値が無いけど、あの子だけは駄目ですよ」
「……な、何をお前は言っている?……お前は、人では無いのか?」
気押された様によろめいて数歩下がったザードネスに、青年は優しげな笑みを浮かべたまま言った。
「さぁねぇ……何なんだろうね。君は、邪魔だよ、癪に障る。だから……」
「……な……っ!」
笑みが壮絶なソレと変わり、傲慢なほど揺るぎない態度と声音で宣告する。
「虚空でおとなしく眠るがいい」
銀髪の青年の突き出した掌から、眩しいほどの光量が迸り、ザードネスを包み込んだ。
「うわ……や、やめろ……やめろーっ!」
ザードネスは、驚きに目を見張り、懸命に逃げようもがいたが、力の差は歴然としたもの。あっさりと捕らえられ、光球に封じられる。
彼はその時になって、青年の発するオーラから、その正体を知った様な気がした。古い古い歴代の魔物の細胞という図書館に収められた一冊の本。それに記された事柄……。
判った様な気がしたのは一瞬。しかし、そのすぐ後に来た睡魔が彼の思考を麻痺させ、全てを忘却の彼方へ押しやった。青年は目を細めてクスクス笑う。笑いながら、ふと、何処かを見る様に一か所に視線を固定させた。
「……お前は賢いねぇ。なら、判るだろう?わたしが望む事が何か」
光球に封じられたそれを手で玩びながら、空中に語りかける。
「オマエも、この様に成りたくなかったら、彼らを無傷で取り戻す様に頑張りなさい。わたしは、無様で目的を忘れた怠惰な者は嫌いだよ」
そう言って、青年は自分のいるその空間に爪を立てて引き裂いた。魔物が作りだした漆黒の異次元空間は、豆腐を握りつぶすよりあっさりと、その存在を消失させた。
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