不機嫌な子猫

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131話

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 目の前で何もかもがスローモーションになる。
 信じがたい光景にウィルフレッドの時がそのまま止まりかけた。だがレッドが地面に倒れ、フェルが吼える音でハッとなる。
 突き刺さった闇の槍がまるで霧が飛び散るように消えた後、レッドの体からは大量の薔薇が散ったかのように鮮明な血が流れ出ていた。

 待て。

 ウィルフレッドの体はだがまだ動かない。

 待て……。
 待てよ。
 だって、今朝はレッドの声をほとんど聞いていないんだぞ。

 あれほど昨日は体を重ねながら愛の言葉を囁いてきたレッドだが、今朝はいつものようにまた寡黙だった。目を覚ました時もいつもと違ってキスをしてくれた後はいつも通りのレッドだった。そこそこ話したことと言えば、クライドに回復魔法を使ってもらうようにということくらいだ。しかも脅された。そしてウィルフレッドの正体を目の当たりにし、今度こそ本当に元魔王だったのだと知ったはずだというのに、それでもレッドの口からは何も聞いていなかった。肯定も否定もなく、ウィルフレッドに対してはただ「御意」とだけしか聞いていない。

 そんなこと、許せるものか。
 駄目だ。
 絶対に許さない。
 レッド。
 駄目だ、許すものか。
 だってそんなの、耐えられない──

「レッド……!」

 ようやく体が動いた。オートマタへはフェルが攻撃を続けているとはいえ、いつまたウィルフレッドに対して攻撃をしてくるか分からない状態の中、構わずレッドの元へ駆けつけた。
 そっと抱き上げると、思っていた以上に出血をしているレッドの血がウィルフレッドの手や服を赤く染めてくる。
 血とともにレッドの生命が流れているのが目に見えるようだった。

「だ、めだ……」
「おう、じ」
「レッド……今は喋るな……す、すぐに誰か回復出来る者を、よ、よぶ、から」
「王子、約束をや、ぶりました。しかし俺は……すべきこと、……っ、どうか……ご無事、で。愛してます」
「俺だって愛してる! お前がいないと何も出来ないほどに……」
「あなたなら何だって出来る……俺は……最後の力を集めて……あなたに剣の、術を……」
「ふざけるな! いらん! 絶対にいらんからな。よせ! 許さんからな、そんなこと俺は望んでない。生きろ。俺の命令は聞くだろ……? 絶対に生きろ」
「そう、したいです、が……」

 ごふ、っと咳き込んだレッドの口から血が溢れる。ヒューヒューと喉から苦しげな音が聞こえてくる。レッドの顔は苦痛に歪み、どんどんと血の気が引いてきている。気丈なはずのレッドだがそれこそ本当に話せないほどの激痛に苛まされているのが手に取るように分かった。
 何故自分が今使える魔法は闇なのか。
 魔王の力を取り戻したというのに、何故愛しい相手を回復することも出来ないのか。
 闇魔法でも蘇生させる力はある。いや、蘇生というよりは死んだ者をただのアンデッドにするだけの力だ。それはもはやレッドであってレッドでない。

 許さない。
 あのオートマタも術者もジルベールもアルス王国も何もかも──

 ウィルフレッドの体が黒い煙のようなモヤに包まれる。自分でも制御しきれないほどの毒々しい力が内から溢れ出てくるのが分かった。
 今なら全てを闇に包み、全てを壊してしまえる気がする。

 いっそ壊れてしまえばよい。

「お、うじ……あなた、こそ……駄目、だ……」

 レッドのいないこんな世界など壊してしまえばいい。

「王子……! 俺は……あなたが、元、魔王であろうが、なんであろうが、あなたは、あなたで……かけがえのない……愛しい、方だ……から」

 レッド……レッド……嫌だ……嫌だ……。

「あなたの……家族も……皆、あなたを愛して、る」

 家族──レッドがいないなんて──家族……かぞく……か、ぞく──

 憎しみに包まれているウィルフレッドにルイやアレクシア、ラルフの顔が浮かんだ。父親や母親、そして祖父母の顔が浮かぶ。

 かぞく……俺の、家族。

 この世界を壊してしまえばその人たちも塵となって消えるだろう。

 いや、誰を殺そうが構わないのではないか。もう何もかも一度消してしまい、この世界を全て余のものとしてしまえ。

「おう、じ……」

 レッドをも消して?

 いや、どのみちレッドは今死ぬ。

 本当に?

 まだ生きている。力があるなら何故足掻かないのか、それでこの世界を得るなどと、片腹痛い。

 ウィルフレッドの体が震えた。身が千切れてしまいそうなほどの混乱が生じる。
 思わず頭を抱えた。その際に左手の親指が髪に引っかかる。

 ……いや、指ではなく……指輪……?
 指輪……。

『あはは。そうか。うん、じゃあ左手の親指につけよう』
『左手は何なんです』
『意志を貫き目標を実現させる、と言われてるよ』

 ──ルイス。
 いや、違う。ルイだ。余の……俺の兄のルイが、くれた。俺の家族……大切な家族の一人、ルイが、くれた。

 意志を貫き目標を実現すると聞いて、ではケルエイダを我が物にと俺はいそいそと左手の親指にこれをつけた。

 意志を貫き──意志……意志。

「王子……ウィルフレッド……俺の、愛しい、人……もう、し、わけ……」
「……レッド……? レッド!」

 ハッとなった。ウィルフレッドの手の中で、ケルエイダどころかこの世の何もかもを含めもっとも大切で愛しい存在が消えていく。

 俺の何より大切な愛しい人が──

「駄目だ! レッド、駄目だ、レッド……絶対にさせない……!」

 ウィルフレッドの体を包んでいた禍々しい黒い煙のようなものがすうっと消え、光が溢れた。今度は緑色の光がウィルフレッドを包む。
 なにを詠めばいいかは分かっていた。

「風よ、目の前の者を力ある限り癒せ」

 風のエレメントが発動する。
 ウィルフレッドから溢れた光がレッドを包んだ。
 苦痛によりひそめられた表情が少し穏やかになる。
 震える手をウィルフレッドはそっとレッドにかざした。微かではあるが吐息が感じられた。風は回復に特化したエレメントではないため、魔力があっても効果はあまりない。しかしそれでも最悪の事態はとりあえず免れたように思われた。

「ウィル……!」

 力が抜けそうになっているウィルフレッドの背後からルイとアレクシアの声が聞こえた。

「ウィル、無事か……大丈夫なのか?」
「ウィル、あなた……」
「兄上、姉上……お願いです……! あなた方の強力な光魔法でどうかレッドを」

 駆けつけた二人にレッドを委ねるとウィルフレッドは今も戦っているフェルの元へ向かった。
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