不機嫌な子猫

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80話

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 実際狭間胸壁を登ってみると思っていたほど難しくもなくスムーズにクレネルに腰かけることが出来た。もしかしたら慣れかもしれない。ちょくちょくここへは来ていたらしいし脳が覚えていなくとも体が覚えているのだろう。
 だが景色を眺めるも、やはり何も思い出せなかった。確かにとても美しい光景ではある。そろそろ雪もちらほらと見ることが出来、森や至るところが白くなりつつある広大な土地だ。見応えはある。ただそれだけだ。
 自分はこの景色の何に魅かれていたのだろう。美しい景色というだけなら城自体が丘の上にあるため自分の部屋からもそれなりに美しい景色を見ることが出来る。慣れているはずが時折足元からくるもぞもぞとした痺れのような震えを思うと、元々高いところが堪らなく好きという訳でもなさそうだ。
 もしウィルフレッドが第一王子であるルイなら、いずれ自分のものとなるこの王国を一望出来るこの風景は感慨深いものがあるかもしれない。だが自分は第三王子だ。もちろん王族である限り国のために尽くすものではあるが、跡継ぎとしては限りなく可能性は低い。そのため感慨無量といった気持ちで見ていたのでもないだろうとウィルフレッドは思った。とにかく、少なくとも今こうして見ている限りでは美しい景色という感想以外特になさそうだ。
 そもそも頭は悪くないようだが見目もパッとしない、武術や魔力に関しても平均以下でしかない自分がこの景色を眺め、何らかの向上心を高めるタイプだったとも思えない。どちらかといえば図書室か自室に籠っているほうが性に合っている気がする。

「うーん……」

 数日前にレッドは自分の部下である騎士の一人と引き合わせてきた。一騎士ではあるがどうやら多少なりとも面識があったらしい。

「ウィルフレッド様。ご心配しておりました。でも一応お元気そうで本当によかったです……。とはいえ早くご記憶が戻りますよう願っております」

 やたら腰の低い騎士はモヴィという名前らしい。そして相変わらず自分以外は顔の整った者しかここにいないのではと思わされた。ただの一騎士ですらこれだ。そんなモヴィはウィルフレッドが何か話しかける度に顔を赤らめ、懸命になって返答してきた。モヴィと話しても何も思い出すことはなかったものの、赤顔症かやたら真面目なだけなのかもしれないが、こんな平凡で目立たないような第三王子に対してどうにも好意のようなものを寄せてくれているように感じ、嬉しく思いつつも非常に謎だった。改めて記憶を失う前の自分はどういう男だったのだろうと首を傾げた。

「ほんとどうしたら思い出せるのか……」

 ただふと思う。
 思い出した場合、今の自分はどこにもいなくなってしまうのだろうか。
 話を聞いている限りでしか判断出来ないが、おそらく元のウィルフレッドはレッドに対してはただの王子でしかなかったように思える。今のように懸想などしていなかったに違いない。

「こんなにいつもそばにいるこんなに親切なイケメンに対して何とも思わないって、元の俺どれだけ変な奴だったんだよ」

 少なくとも元の自分に対して好感は持てないが、レッドのためにもすぐにでも思い出したい。とはいえもし今の自分がどこにもいなくなってしまうのであれば。

「……せめてキスくらいはしたかったな」

 もしかしたら、お願いすればしてくれるかもしれない。だがそれはきっとあくまでも側近として王子の命令に従っての行為になるだろう。それは少々、いや、けっこう切ない。

「王子!」

 レッドのことを考えていたからだろうか。レッドの声が聞こえてくる。幻聴までとかどれだけレッドに懸想しているのかと苦笑しているとまた「王子!」と呼び掛けてくる。
 まさかと思い、高さにはまだ慣れていないので恐る恐る体の向きを少し変えて外の景色から内側に視点を変えるとレッドが心配そうに見上げていた。

「レッド。何故ここに? 演習があったのでは」
「単独行動出来ないはずのフェルがやってきたんです。その上ここへ案内するかのような様子を見せてきまして」
「あー……」
「とりあえず下りて頂けますか。一緒に塔に登ってこなかったのでフェルはまだ下で待っているとは思うのですが、放置は出来ませんし」
「うん、分かった。心配かけてごめんなさい。ここから見るのが好きなんだったらひょっとして何か思い出さないかなって思って」

 謝りながら下りようとして気づいた。
 いつもどうやって下りているのだろうかと。
 登るのは予想以上に簡単だった。それもあり、下りるのも元来た足場を使って下りればいいと安易に考えていたが、いざ下りようとすると非常にやりにくい。おまけに下が見えてしまい足がすくむ。

「あの……俺、いつもどうやって下りてたんでしょうか……」

 思わず敬語に戻ってレッドに聞けば「俺目がけて飛び込んできてください」などと返ってきた。

「はい? ちょ、そんなの」

 無理だ。

 ただでさえ勝手に来て迷惑をかけているというのに。その上懸想している相手に飛び込むなど、ある意味心臓が耐えられそうにない。

「大丈夫です。何があっても俺がしっかりと抱き止めます」

 待って死ぬ。
 今のセリフで俺は死ねる。

 ウィルフレッドは顔がとてつもなく赤くなるのが分かった。
 こんな人に抱かれるなどと、心臓がいくつあっても足りない気がする。幼い頃は部屋に引きこもっていたようだし、ウィルフレッドはそもそも内気だ。今は記憶がない上にどうやら成人もしているようだしでそれなりに他人と接することは出来るが、さすがに好きな人に対してそんなこと、到底出来るとは思えなかった。高いところから飛び込む怖さなど霞むくらい、緊張に震える。

「無理」
「大丈夫。俺を信じて」
「あ、あなたが信じられないんじゃない。ただ、その、俺がその、ヘタレで無理」
「は? えっと、よく分かりませんが大丈夫。体がきっと覚えておられます」

 体が覚えるくらい自分は何度もこうしてレッドの腕に飛び込むようなことをしていたのかとウィルフレッドは口から心臓が垂れ流しになりそうだった。思わず口元を押さえる。だがそのせいでバランスを崩してしまった。

「っ王子! 俺を信じて!」

 ぐらりと落ちそうになったウィルフレッドに、下からレッドが両手を差し伸べてくる。

 ああ、この光景、何度も見た。

 ウィルフレッドはそのままレッド目がけて飛び込んだ。ふわりと浮いた体が重力に負けて一気に引っ張られるかのように落ちる。

 そう、何度も見た。
 子どもの頃から今に至るまで何度も何度も、こうしてレッドは俺を支えてくれていた。いつからだっけか。ああ、そうだ、この俺が当時記憶を取り戻した頃からずっと──
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