虎と豹とキリン

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駆けつける虎

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 渉は必死になって駆けまわった。もちろん効率的ではないのはわかっている。だが盗聴器から聞こえてくる音を頼りに何とか見つけたいと必死だった。その内『嫌だ、離せ……』という颯一の声が聞こえてきてますます焦る思いは募った。

 そうちゃん。どこにいるんだ。頼むから場所を口にしてくれ……頼む……。

 ただドアを開ける音がした後、風が吹くような音も聞こえてきた。颯一は外に出たのかもしれない。
とは言え、どこからどの外に出たのかわからない。頼む、頼むと必死に渉が願っていると別の声で『何言ってんだよ、お前が屋上に逃げたんだろ?』と聞こえてきた。

 屋上……!

 途端渉は屋上めがけて猛ダッシュする。颯一の身が危ない上に屋上ということは颯一にとって耐えがたい場所でもあるはず。

 早く……!

 普段から体を動かすよう心がけているというのに、気が急いで足がもつれそうになる。ようやく屋上へ辿りつき、渉の目にまず入ってきたのが金網に押し付けられ座っている颯一の怯えと混乱の混じった表情だった。そしてその颯一の体を弄っている生徒。
 いつも年のわりに落ち着いているはずの渉は、それを見て冷静さが吹き飛んだ。いつもなら決して自ら振るわない力での暴力を止めることなどできるはずもなかった。相手がどうなるかすら考えず、渉はひたすら相手の後頭部もしくは顎めがけて殴りかかる。
 人間の脳はデリケートにできており、案外ちょっとした脳の振動で落ちる。気絶しなくとも体を動かすこともできなくなるほどの衝撃を受ける。
 脳震盪は下手すれば死に繋がる場合もあり、いくら武道を嗜んでいても当然危険だ。だが今の渉にとってそんなことどうでもよかった。また、誰かがナイフのようなものを持っていたらしく頬を少し切ったが、同じくそんなことくらいで怯まなかった。颯一の傍に行くのに邪魔するなら攻撃する。それしかなかった。

 だが一之瀬だけは別だ。こいつだけはわかってて殴る。

 他の生徒と違い力での暴力が得意ではないのだろう。渉がやってきて次々に皆を倒していくのを尻目に、そそくさと逃げようとしていた。それがさらに渉を腹立たしくさせる。
 あっという間に捕まえると「ごめん……抵抗しない。だから殴らないで」と言ってきた。もちろん思いきり殴らせてもらった。この男の性格はどうしようもなさそうなので、後でこのことを抗議してくるかもしれない。だが当然、渉は素知らぬ振りするつもりだった。
 ようやく颯一の傍へ行く。颯一を襲っていた相手は薬のせいだろうか、唖然としたままその場を動くことすらしていなかった。そいつが颯一にしていたことを思い、足で思いきり蹴り倒す。
 颯一は渉が怪我をしたのを見てからだろうか。様子がおかしかった。

「そうちゃん……! 何とか無事でよかった……俺は大丈夫だから。ほら、落ちてないし、落ちないよ、ほら、全然大丈夫だろ? 大丈夫」

 渉はそう言って、ガタガタ震えている颯一をぎゅっと抱きしめる。

「っひ、っく……。渉……だって、血だらけ……っ落ちた……だって、落ちた、俺のせいで、俺のせいでっ、渉落ちた……っ」

 颯一は薬のせいもあるのだろうか。混乱しているようにそう繰り返す。薬と、高い場所、そして渉が出血したのを見て思い出してしまったのかもしれない。その上、薬で朦朧としている今、現実と過去の区別もついていないのかもしれない。

「大丈夫。そしてそうちゃんのせいじゃない。絶対そうちゃんのせいじゃないから。俺が自分でしたいことした。そうちゃんのせいじゃない」
「だって、俺のハンカチ……っ俺の……取って……落ち……」
「俺がしたいこと、勝手にやっただけだよ。大好きなそうちゃんのハンカチを、俺は取りたかっただけなんだ。そうちゃんは悪くない。悪くない」
「渉……いっぱい、血が……っ、し、死んじゃう……、やだ……嫌だ、渉……っやだぁ」

 颯一は泣きじゃくりながら抱きしめる渉をぎゅっと抱き返してきた。だがその手はまだカタカタ震えている。現実と過去が混乱しているからだろうか、颯一の口調すらどこか幼く感じられた。

「生きてるよ。すごい元気だよ。ほら、こんなに。だから大丈夫。そうちゃん。俺は大丈夫だから」

 さらにぎゅっと抱きしめ、渉は颯一に笑いかけた。そして改めて颯一の恰好に気づく。ネクタイは外され垂れさがり、シャツのボタンはどこかにいってしまって前が完全にはだけている。ズボンも下着も途中まで脱がされていた。
 せめてズボンを上げようと、一旦颯一を抱きしめている手を離す。するとまだ泣きじゃくっている颯一が不安そうにしがみついてきた。

「大丈夫……、大丈夫……ほら、ちょっとだけ、待って……」

 そんな風に優しく囁きながら、渉は颯一の下着とズボンをちゃんと履かせた。上のカーディガンは逃げる前に脱がされていたのだろうか、見当たらない。元々カーディガンを着ていない渉は颯一にしがみつかれて四苦八苦しながらもなんとか自分のシャツを脱ぎ、それをゆっくりと「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせながら颯一に着させた。なかなかボタンが止められなくて、初めて自分も体が震えていたことに気づく。
 自分がタンクトップだけなのと渉のシャツが颯一にとっては多少ブカブカなのは仕方ない。外れたボタンのシャツのままでいるより全然問題なかった。渉はまた颯一をぎゅっと抱きしめた。
 そうこうしている内に友悠が先生を引き連れてやってきた。盗聴器を渡してあったので、とりあえず渉が現場に間に合って何とかなっているのを把握し、自分も駆けつけたいのを堪えて先生の元へ行ってくれたのだろう。普段は気に食わないが、やはり颯一の事をちゃんと考えてくれる友悠に渉はようやくホッとため息ついた。

「先生、あいつが主犯です。あとここに倒れている生徒が俺の嫁を襲っていました。俺の嫁もどうやら薬を飲まされているようです。ただちょっと今、まだ感情が不安定のようで……。心配なので一旦保健室へ連れて行っていいですか。吐かせたいし……」

 渉が颯一を「俺の嫁」と言うのは先生の間でも今では普通になりつつある。

「わかった。大変だったな……。早く連れて行ってやれ。だが後で込谷にも色々聞かなくてはならんが……」
「その時は俺も傍にいていいですか」
「ああ」

 渉はまだ何やら怯え「嫌だ嫌だ」と言っている颯一を抱いたまま立ちあがった。

「そうは……そうは、大丈夫なんです、か……?」

 友悠が駆け寄り、心配そうに聞いてくる。

「一応、は。……ちょっと過去にトラウマがあって、それを思い出したみたいだ」

 渉がそう言うと友悠は目を見開いていた。何かトラウマに関して知っているのだろうかと渉は思ったが、今はそれどころじゃなかった。もちろん友悠もそれはわかっているようで、渉たちを心配そうにしながらも黙って見送ってくれた。
 今が放課後でよかったと思いながら、渉は保健室へ向かった。人はもう校内にもほとんど残っていない。

「い、やだ……やだ、怖い……いや……」

 抱いて移動している間、颯一はまだ怯えぶつぶつと言っていたがだんだんそれに関しては落ち着いてきたような気が渉はした。少しずつ大人しくなっていく颯一が、だが眠ってしまったらと思うとそれも困る。吐かせたいと思っているからだが、今の颯一ならいっそ眠ってしまう方がいいのだろうか。
 尿に関しては代謝物が排泄されるのにはどのみち一、二週間かかると言われている。吐かせることも別に焦る必要ないのだろうか。流石に渉も医療に詳しいわけではないのであまりわからなかった。
 保健室へ着くと鍵がかかっていた。どうやら先生が不在のようだ。とはいえこのまま抱えてまたどこかへ移動するのはさすがに渉も辛い。いくら颯一が軽いとはいえ、高校生男子を抱えたまま歩き続けるのにも限界がある。

「すみません……」

 一応謝りながら、渉は先生から預かっている余分の鍵で保健室を開けた。颯一の部屋の鍵は色んな言い訳をしつつも不法で手に入れている渉だが、学校に関する鍵はちゃんと先生の手から渡されているものだ。何度か倒れたり怪我をした生徒を運んだことがあるので保健教論に渡されていた。
 中に入ると一応また鍵を締めた。本来先生が不在なのだから開けておくのもまずいと思った。保健教論が戻ってきたらちゃんと鍵を開けて入ってくるだろう。

「そうちゃん……具合、どう?」

 とりあえずベッドに降ろすと渉は颯一の前にしゃがみ、静かに聞いた。

「……渉……もう、落ちない……?」
「うん。落ちないよ」
「ごめん……渉……俺、忘れてて……俺のハンカチ取ってくれたのに、忘れてて……ごめん……」

 かなり落ち着いてきたからだろうか、颯一が今度は謝り出す。

「謝らなくていい。そうちゃん、俺は別に謝って欲しくないよ。問題ない。本当に俺は大丈夫だしもしそうちゃんが俺に謝るなら俺もひたすらそうちゃんに謝らないといけない」
「……何で、だよ……」

 泣いていたからだろうか、赤い目とそしてなぜか頬まで赤くして聞いてくる颯一がかわいくて、少し渉は目を逸らす。

「俺がした勝手な行動のせいで、お前に記憶を失うほどの怯えを与えてしまった。周りにも沢山心配と迷惑をかけた。それもこれも俺が後先考えずにしたいこと、してしまったせいだ」
「っ違、だってそれは……っ」

 首を振り、言いかけた颯一の唇に渉は指を当てた。

「うん。でもほら、お互いそう思い、そして言い合っていても仕方ないだろ? だから、そうちゃん。気にするな」

 ニッコリ笑って言うと、颯一の目からまたポロ、と涙が出てきた。だが「うん」とようやく少し笑ってくれた。

「……渉……」

 しかし渉が唇に指を当ててから颯一がモゾモゾとし出す。

「? どうした? やはりどこか具合、悪いのか? それとも怖い思いしたのが今ぶり返して……?」

 渉にしては珍しく焦りながら聞くと、颯一は「……違う」と呟きながらさらに赤くなり俯きだした。

「違う? じゃあ、どうしたんだ?」
「……具合は、確かにいいわけじゃ、ない。あの先輩にちゅ……、ちゅーとかされて、舐められて気持ち、悪かった……」
「っち……。あのクソ野郎……蹴り殺せばよかった……」

 キスまでされたのかと、渉は心の底からイライラと先ほど蹴り倒した相手を思う。

「で……でもその……さ、さっきまでは、何か、ちょっと色々俺、わけわからなくなってて、大丈夫、だったんだけ、ど……お前が、唇、触るから……」

 颯一は相変わらず赤いまま俯いてぼそぼそ喋る。しゃがんだまま怪訝な気持ちで、そんな颯一を渉は見上げていた。

「体、熱くて……これ、どーしたら、いいんだよ……つらくて……俺、どーしたら……」
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