3 / 20
3話
しおりを挟む
ろくでもないな、と芳は思っていた。
「安佐波さん、お疲れですか?」
どうやらため息をついていたようで、それに気づいた女子社員に聞かれる。
「ああ、いや……。その、通勤時に見かける猫が気になってて。鬱陶しいよね、ごめん」
我ながら下手くそな誤魔化しだと思い苦笑しながら言うと「とんでもない! 安佐波さん優しいんですね」と何故かニコニコされた。
ため息をついている意識はなかったが、原因はわかっている。
もちろん猫ではない。伊吹だ。
数ヶ月前に居酒屋で見かけて以来、ずっと気になっている。芳はまた無意識にため息をつきながら何とか仕事に集中した。
少し残業した後、自社ビルを出ようとしたところで「安佐波さん」と知らない男に呼ばれた。社章バッチを見る限り同じ職場のようだ。見たことがないのは恐らくフロアが違うのだろう。一応立ち止まると「あの、よかったら今から一緒に食事でも……」と言ってくる。
こいつらは一体何なんだ?
たまに目の前の男のように、少なくとも芳には全然面識がないというのにそういった声をかけてくる者がいる。その度に芳はゴミを見るような目で相手を見るとそのまま立ち去っている。
一度まともに受け答えしたらまるで調子に乗られたかのようにしつこく誘われたからだ。知り合いならまだしも、面識もないだろう? と芳はドン引きだったし、それ以来こういった誘いにはいつもこの態度でやり過ごしている。
そのまま自宅へ真っ直ぐ帰るつもりだったが、気づけば足はこの間伊吹を見かけた居酒屋へ向いていた。
本当にろくでもない。逃げたはずだったのに。
伊吹が中学生になった時、芳は高校三年生になっていた。それまでも確かに違和感というのだろうか。周りと何となく異なる気はしていた。友だちは皆、彼女ができたら嬉しそうだった。できなくとも好きな人はいたりした。
だが芳は一度も誰かを好きにならなかった。告白されたことはある。何度かそういった機会に付き合ってみたこともある。
それでも芳は駄目だった。綺麗な子やかわいい子だけでなく、平凡そうな子とも付き合ってみた。だがキスすらできなかった。それどころか手をつなぐことにも軽く抵抗を覚えた。
別に女性恐怖症などではない。付き合っていない、さばさばとした友だち関係なら手を握るくらい平気だった。
他にもアダルトビデオを観てもいまいち堪能できなかった。一応、やらしいことをしている状況にだろうか、それなりに興奮もするのだが、ずっと観ていると萎えてくる。
何となくおかしいとは思っていたが、そういうこともあるとあまり真剣に悩むことはなかった。
だがある日久しぶりに伊吹を見て愕然とした。中学生となる前に伊吹はもう芳の家に預けられることはなくなっていたのもあり、伊吹が中学に入ってから会うのは初めてだったと思う。
「芳!」
芳に気づいた伊吹が学ラン姿で嬉しそうにやってくるのを見た瞬間、芳の心臓が少しおかしくなった。起こしたことのない不整脈でも起きたのかと思ったが、そばまで来て話しかけてくる伊吹に、芳はますます落ち着かなくなっていった。
手を繋ぎたい?
そんなものじゃなかった。ドキドキしながらも抱きしめたい、キスしたいと伊吹を近くに見た瞬間思っていた。
何か自分の中で得体の知れない病気が進行しているのでは、と高校三年にして頭の悪い発想が浮かぶ。そんなすっとんきょうなことを考えてしまう程、あり得ない感情が駆け巡った。
伊吹にはどこか具合でも悪いのかと心配された。
「大丈夫だ」
芳は微笑む。
内面ではちっとも大丈夫ではなかったが、伊吹に格好悪いところは見せたくなかったし、自分に浮かんだ思いも知られたくなかった。
きっと自分の気持ちが誤作動を起こしたか何かだ、と芳は思った。というか思いたかった。
その後改めてまた彼女を作ってみた。もしかしたら今度こそと願ったが、やはり駄目だった。相手には本当に申し訳ないが、軽く苦痛さえ感じた。
これはどういうことなのだろう、としばらく考えた。だが考えるまでもない。
伊吹が、好きなのだ。
今まで彼女ができても駄目だった理由も、わからないがもしかしたらずっと無意識に気持ちが向いていたからなのでは?
芳は自分を罵った。何故伊吹なのか。確かにずっとかわいがってきた。大好きだった。
だがそれは紛うことなく家族のように、弟のようにかわいがってきたのだというのに、今さらふざけるなと自分を揺さぶりたかった。
ただ、伊吹の純粋な笑顔を思い出し、申し訳なく思ったはずなのに気持ちを自覚したからだろうか。
勃った。
あの時ほど某児童文学作品のワンシーンが的確なほどに過ったことはない。
……クララお前……!
そして、逃げた。
逃げたとしか言いようがない。実るはずのない恋だ。絶望しかない。
上京すればきっと変わるだろうと芳は思った。大学進学を機に上京し、勉強とともに改めて恋愛も頑張ろうとした。
恋も性的なこともしかしやはり無理だった。
もういい、仕方ないと芳は諦めた。その代わり就職をすると仕事に没頭した。恋人も作らず、というかある意味仕事が恋人な勢いで働いた。
その結果、今の芳がある。社内の、少なくとも芳を知る誰もが仕事のできる男だと認めているだろう。
だというのに。
……ろくでもない。
芳はまたため息をついた。
「安佐波さん、お疲れですか?」
どうやらため息をついていたようで、それに気づいた女子社員に聞かれる。
「ああ、いや……。その、通勤時に見かける猫が気になってて。鬱陶しいよね、ごめん」
我ながら下手くそな誤魔化しだと思い苦笑しながら言うと「とんでもない! 安佐波さん優しいんですね」と何故かニコニコされた。
ため息をついている意識はなかったが、原因はわかっている。
もちろん猫ではない。伊吹だ。
数ヶ月前に居酒屋で見かけて以来、ずっと気になっている。芳はまた無意識にため息をつきながら何とか仕事に集中した。
少し残業した後、自社ビルを出ようとしたところで「安佐波さん」と知らない男に呼ばれた。社章バッチを見る限り同じ職場のようだ。見たことがないのは恐らくフロアが違うのだろう。一応立ち止まると「あの、よかったら今から一緒に食事でも……」と言ってくる。
こいつらは一体何なんだ?
たまに目の前の男のように、少なくとも芳には全然面識がないというのにそういった声をかけてくる者がいる。その度に芳はゴミを見るような目で相手を見るとそのまま立ち去っている。
一度まともに受け答えしたらまるで調子に乗られたかのようにしつこく誘われたからだ。知り合いならまだしも、面識もないだろう? と芳はドン引きだったし、それ以来こういった誘いにはいつもこの態度でやり過ごしている。
そのまま自宅へ真っ直ぐ帰るつもりだったが、気づけば足はこの間伊吹を見かけた居酒屋へ向いていた。
本当にろくでもない。逃げたはずだったのに。
伊吹が中学生になった時、芳は高校三年生になっていた。それまでも確かに違和感というのだろうか。周りと何となく異なる気はしていた。友だちは皆、彼女ができたら嬉しそうだった。できなくとも好きな人はいたりした。
だが芳は一度も誰かを好きにならなかった。告白されたことはある。何度かそういった機会に付き合ってみたこともある。
それでも芳は駄目だった。綺麗な子やかわいい子だけでなく、平凡そうな子とも付き合ってみた。だがキスすらできなかった。それどころか手をつなぐことにも軽く抵抗を覚えた。
別に女性恐怖症などではない。付き合っていない、さばさばとした友だち関係なら手を握るくらい平気だった。
他にもアダルトビデオを観てもいまいち堪能できなかった。一応、やらしいことをしている状況にだろうか、それなりに興奮もするのだが、ずっと観ていると萎えてくる。
何となくおかしいとは思っていたが、そういうこともあるとあまり真剣に悩むことはなかった。
だがある日久しぶりに伊吹を見て愕然とした。中学生となる前に伊吹はもう芳の家に預けられることはなくなっていたのもあり、伊吹が中学に入ってから会うのは初めてだったと思う。
「芳!」
芳に気づいた伊吹が学ラン姿で嬉しそうにやってくるのを見た瞬間、芳の心臓が少しおかしくなった。起こしたことのない不整脈でも起きたのかと思ったが、そばまで来て話しかけてくる伊吹に、芳はますます落ち着かなくなっていった。
手を繋ぎたい?
そんなものじゃなかった。ドキドキしながらも抱きしめたい、キスしたいと伊吹を近くに見た瞬間思っていた。
何か自分の中で得体の知れない病気が進行しているのでは、と高校三年にして頭の悪い発想が浮かぶ。そんなすっとんきょうなことを考えてしまう程、あり得ない感情が駆け巡った。
伊吹にはどこか具合でも悪いのかと心配された。
「大丈夫だ」
芳は微笑む。
内面ではちっとも大丈夫ではなかったが、伊吹に格好悪いところは見せたくなかったし、自分に浮かんだ思いも知られたくなかった。
きっと自分の気持ちが誤作動を起こしたか何かだ、と芳は思った。というか思いたかった。
その後改めてまた彼女を作ってみた。もしかしたら今度こそと願ったが、やはり駄目だった。相手には本当に申し訳ないが、軽く苦痛さえ感じた。
これはどういうことなのだろう、としばらく考えた。だが考えるまでもない。
伊吹が、好きなのだ。
今まで彼女ができても駄目だった理由も、わからないがもしかしたらずっと無意識に気持ちが向いていたからなのでは?
芳は自分を罵った。何故伊吹なのか。確かにずっとかわいがってきた。大好きだった。
だがそれは紛うことなく家族のように、弟のようにかわいがってきたのだというのに、今さらふざけるなと自分を揺さぶりたかった。
ただ、伊吹の純粋な笑顔を思い出し、申し訳なく思ったはずなのに気持ちを自覚したからだろうか。
勃った。
あの時ほど某児童文学作品のワンシーンが的確なほどに過ったことはない。
……クララお前……!
そして、逃げた。
逃げたとしか言いようがない。実るはずのない恋だ。絶望しかない。
上京すればきっと変わるだろうと芳は思った。大学進学を機に上京し、勉強とともに改めて恋愛も頑張ろうとした。
恋も性的なこともしかしやはり無理だった。
もういい、仕方ないと芳は諦めた。その代わり就職をすると仕事に没頭した。恋人も作らず、というかある意味仕事が恋人な勢いで働いた。
その結果、今の芳がある。社内の、少なくとも芳を知る誰もが仕事のできる男だと認めているだろう。
だというのに。
……ろくでもない。
芳はまたため息をついた。
0
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
幼馴染は僕を選ばない。
佳乃
BL
ずっと続くと思っていた〈腐れ縁〉は〈腐った縁〉だった。
僕は好きだったのに、ずっと一緒にいられると思っていたのに。
僕がいた場所は僕じゃ無い誰かの場所となり、繋がっていると思っていた縁は腐り果てて切れてしまった。
好きだった。
好きだった。
好きだった。
離れることで断ち切った縁。
気付いた時に断ち切られていた縁。
辛いのは、苦しいのは彼なのか、僕なのか…。
後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…
まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。
5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。
相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。
一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。
唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。
それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。
そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。
そこへ社会人となっていた澄と再会する。
果たして5年越しの恋は、動き出すのか?
表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(10/21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
※4月18日、完結しました。ありがとうございました。
【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。
桜月夜
BL
前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。
思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

【完結】I adore you
ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。
そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。
※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。
いとしの生徒会長さま
もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……!
しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる