彼は最後に微笑んだ

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76話

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 少しの沈黙のあと、また何やら考えていたらしいエルヴィンが「なあ、ニルス」と呼びかけてきた。

「うん」
「自分や家族のために奮闘する時間を与えられた後、さらに自分のその、何だ、えっと、欲望かな? を満たそうって思ったらやっぱ神様は怒るかな」

 頭の中でエルヴィンの言葉を即二回繰り返したが、何を聞かれているのかわからなかった。こうしてエルヴィンと二人きりで過ごせているため、もしかしたら嬉しさのあまり頭が回っていないのかもしれない。とりあえずニルスは「すまない、何の話だ」と正直に質問する。エルヴィンは困惑したような笑みを見せてきた。

 俺がちゃんと話を理解できていないから呆れているんだろうか。それとも先ほどから考えごとをしていたエルヴィンが、言いにくいながらに何とか言葉にして俺を頼りにしてくれて聞いてくれた、とか? 言いにくい内容だから詳しく話せなくて困惑している、とか……?

 自分の都合のいい風に考えているだけかもしれない。やはりエルヴィンは普通に話し、エルヴィンのことばかり考えてしまっているニルスがそれをちゃんと聞き取れていないだけなのかもしれない。
 どちらにしても、何か答えられることは答えたい。エルヴィンが聞いてくれている。イコール、頼ってくれているようなものだ。

 とりあえず、一番聞きたいことは……というかエルヴィンの欲望って何だ。いや、考えるなそこは。考えてもそれこそエルヴィンに対して邪な気持ちを抱いている俺は邪な風にしかとらえられない。

 ニルスは黙ったままそっとゆっくり呼吸した。
 とにかく改めて考えると、エルヴィンがしなければならないことだけでなく、自分のしたいことを満たそうと思うことは神の怒りを買うだろうか、というような内容を聞かれた気がする。
 ニルスはようやく口を開いた。とはいえここに至るまで実際のところさほど時間の経過はない。

「……よくわからないが、自分のために生きて何が悪いんだ?」
「っ、そ、そう、だよな」

 エルヴィンが嬉しそうに笑みを浮かべてきた。

「ありがとう、ニルス」

 その上ニルスをぎゅっと抱きしめてきた。

 これは何のご褒美だ? いやもしかしたらあまりに意識し過ぎての幻覚なのかもしれないから冷静に、ここは冷静になれ、冷静だ。とにかく冷静、いいから早く冷静になれ。

 それ以上何も考えられなくなった。いや、頭の中でひたすら何やら文字がぐるぐるしている感じなのだがそれを整理する機能が全く働いていない。
 だがそうしているうちにエルヴィンが抱擁を解いてきた。おかげさまで一気に冷静になれた。少なくとも今のは幻覚ではなかったようだ。
 普通に考えて、エルヴィンがありがたいことに感謝してくれ、それを態度で表してくれたのだろう。変に期待するような考えだけは持たないようにしなければとニルスはエルヴィンを見た。

 ……赤い?

「……エルヴィン、もしかして顔、赤い?」

 いや、まさかな。

 ニルスを抱きしめたことで赤くなるはずはない。多分夕暮れのせいでそう見えただけかもしれない。もしくは、まだ多少なりとも体調があまりよくない可能性はないだろうか。だとしたらこんな寒い場所でいつまでもいてはいけない。二人きりは嬉しいが、早く暖かいところへ移動しなければならない。

「お、お前のせいだよ」
「え?」

 一瞬、何が? と思ってしまった。その後で「顔が赤いのはお前のせいだ」と言われたことに気づく。

 俺?

「そう、お前のせいだぞ、太陽。はは、俺の顔まで染めてきてほんとに。でもすごい綺麗な夕暮れだな、ニルス」
「あ、ああ」

 エルヴィンが少々おかしい。やはり具合が悪いのかもしれない。やはり早く暖かいところへ移動しなければならない。
 そう思うのに、今のこの二人きりという状態があまりに居心地よすぎて足に根が生えたようになっている。おまけに顔を赤くしているように見えるエルヴィンがかわいいし、おかしなエルヴィンすらかわいいと思ってしまう。
 抱きつかれて少々頭のねじが緩んでしまったのかもしれない。「守る」などと言い放ったくせに具合が悪いかもしれないエルヴィンを優先させることもできないなど、言語道断だ。
 とにかくきっとどこかで有頂天になってしまっているのだろう。何かエルヴィンではなく全然違うことを考えて気を取り直すしかない。

 何か。
 そう、雲。

 向こうの空はすでに群青色に染まってきている。夕暮れから黄昏、そして夜の帳が下りる時間帯だ。雲が赤や桃色、橙、そして青や群青と様々な色に染められている。
 自然のなせる美しい芸術だ。

 そう、雲。
 雲を思えばいい。
 雲だ。
 雲。

 ふとエルヴィンが腕の辺りに触れてきたのを感じ、ニルスはひたすら「雲。雲」と自分に言い聞かせた。ようやくいつもの冷静さを取り戻したようだと思えてきたら「いや、何でだよ!」とエルヴィンの突然の突っ込みが入った。

「ど、どうした」
「あ、いや、違う、何でもない。何でもないんだ、ほんと何でもない」

 困惑してエルヴィンを見るも、思いきり手を振りながらエルヴィンは苦笑している。
 以前もたまによくわからないことを突然言ってきたことがあった。もしかしたらそれも今のも、疲れているか体調があまりよくないか、また何か考えごとをしているせいなのかもしれない。

「……そろそろ戻ろう」
「ニルス?」
「風はないが、冷えるだろう。病み上がりだしよくない」
「病み上がってからわりと経つぞ」
「それでも」

 ニルスは立ち上がると、エルヴィンに手を差し出した。エルヴィンはその手を取ろうとしてハッとなった様子を見せてから「ありがとう」と手を引っ込めて自分で立ち上がった。
 以前さりげなくエルヴィンの指先に触れようとした時も軽くだが払いのけられた気がする。
 改めて脈がないのだろうなと切なく思いつつ、ニルスは「打ち明けるつもりそもそもないというのに勝手に感情を振るな」と自分を叱咤し、エルヴィンに頷きかけて会場のほうへ移動し始めた。
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