満月の夜

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112話

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「なにを言ってるの」

 月時は唖然とした顔で聞き返してきた。それはそうだろう。だが海翔はいきなり過ぎようがなんだろうが説明している余裕すらなかった。

「本契約だ」
「そ、それは聞こえた。じゃなくて……!」
「今すぐ出来るものじゃないのか?」

 確か本契約も仮契約と同じで呪文を唱え、そして仮契約と違って噛みつくのではなく接触をするのだったと海翔は記憶している。

 接触――

「ああ、性交をすればいいんだったか? じゃあ抱いてくれ。あんたの家ではしないと言っていたが契約なら構わない」
「っちょっ?」

 海翔の言葉に月時が真っ赤になって焦り出した。いつもなら月時の反応が可愛くて好きなのだが、今の海翔にはそう思える余裕もなかった。少しイライラとしながらも、黙って服を脱ごうとする。

「ってほんとひろ、どうしたのっ? やめろよ! とりあえず説明して」
「……っ、そんな余裕、今俺にない」
「なくても作って。本契約がどれほど重大なことなのかひろも分かってると思ってるよ俺」
「分かってる! でも……」

 声を荒げつつ脱ごうとしていた自分の腕をつかんで止めてきた月時の手を振り払った後に海翔はハッとなった。月時はやはり唖然としている。ずるずると崩れ落ちると、海翔は「ごめん……」と謝った。

「なにか急がないといけないことが生じたの? ひろ、凄く焦ってる。でもお願いだから一旦落ち着いて」

 いつもは駄々をこねたり馬鹿なことをしてくる月時だが、いざとなるとしっかりしている。今も普段よりも低く落ち着いた声で言ってきた。それだけのことなのになぜか抱きしめられるよりも海翔は気持ちが少し落ち着くのが分かった。
 月時は急かすこともせず、崩れ落ちたままだった海翔を一旦立たせるとベッドの上に座らせてきて、その隣に自分も座りそのまま黙ったままでいた。

「トキ……」

 海翔は少し口元を震わせつつ、口を開いた。



 最初の出来事は一か月近く前だった。父親が入院したのだ。とはいえ検査入院ということで海翔も心配ながらもさほど深刻に捉えていなかった。ずっと体調不良そうだったのもあって、ようやくちゃんと検査してくれるとむしろ安心していた。検査結果も一週間程で出るだろうと言われており、入院期間もそれくらいを予定していた。だが何故か入院期間は伸びていき、その間に色々な検査をすることになった。
 元々口数の少ない父親は特に何も言ってくれず、仕方がないと母親に聞くも「今検査してるところだから」としか言ってくれない。確かにそうではあるのだが、どうにも歯切れが悪いような気がして、海翔はずっと落ち着かないでいた。
 一応月時にはとりあえず検査結果が出たところで世間話的な感じで話そうと思っていた。海翔の落ち着かない様子は月時を含め、周りは受験のことだと思っていたことだろう。
 ようやく父親が退院してきたのはおとついのことだった。それでも海翔はホッとしていた。とりあえず結果が出て特に問題なかったのだろうと思っていた。
 昨日、海翔は兄と輝空と一緒に父親と話をした。父親が改まった様子で息子たちと話すなど、今までなかったかもしれない。だからだろうか。海翔は話を聞く前から心臓が激しく鼓動するのを感じていた。
 そして聞いた時と暫くは頭が真っ白になっていた。
 父親はがんだった。それもかなり進行していた。もっと年を取っていたらその進行もかなり遅かったかもしれないが、部位はすい臓だった。
 すい臓がんはとても進行が早い。早期のうちから周囲のリンパ節や他の臓器へ転移していく。おまけにすい臓の周辺には重要な臓器、血液、神経が集中している為、もっと早く発見出来ていたとしても既に浸潤や転移をしていて切除出来なくなっているケースが多いのだという。
 父親も、手術に耐えうる体力があっても切除出来ないのだと告げられた。ちなみに父親のステージはⅣbなのだという。末期だ。
 恐らく具合が悪かったのも、違う部分への転移から来ていたのかもしれない。すい臓がんの自覚症状はほとんどないらしい。
 父親は静かに「母さんを守ってやってくれ」と言う。

 意味が、分からない。

 頭が真っ白になってどうしていいか分からない海翔がすがるように輝空を見ると、あの輝空がただ黙って泣いていた。それを見て、海翔の目にもようやく涙が溢れてきた。
 海翔はなんと答えたのかもあまり覚えていなかった。実際辛いのは父親だというのにと思いながら眠れない夜を過ごした。それでもうつらうつらとは眠っていたらしい。夢を見ていた。夢の中で海翔は願い事を叶えてもらう為に狼になっていた。
 ハッとなった時に「ああ、今眠っていたのだな」となんとなく思いつつも意味の分からない夢をぼんやりと脳内で反芻する。少しでも違うことを考えてたいのかもしれないと思いながら、すでにかなり曖昧になっている夢を思い返している途中で海翔は顔の表情を固まらせた。

 狼……。

 自分の記憶を探る。集中出来ない状態ではあるがなんとか必死になって記憶を辿ると、以前月凪が言っていたことを思い出した。

『本契約すると、今ならもれなく! なにか願い事を一つ叶えられるよー?』

 いつだって本当か嘘か分からないようなことを言ってくる月凪の、とてもふざけたような言葉だった。だがその後に念押しのように「願い事が一つ叶うのは、本当なんだよ」と楽しそうではあるが囁いてきた。
 いつものようにからかっていただけかもしれない。だけれども、と海翔は唇を噛み締めた。例えもしそれが本当だったとしても簡単に「じゃあそうしよう」と言えるものでもない。そもそも願い事は誰が叶えてくれるというのか。今までに何度も不思議な力を見てきている。だからそれなりに叶える力を持っている者が存在していてもおかしくない。
 契約するたびにそんなことが発生するものなのだろうかと考えるとやはり本当ではない気がとてもするが、そこは一旦スルーしたとしてもどれほどの力があるものなのかが分からない。
 魔物たちの魔法では、怪我は治せても病気は治せないと月時が言っていたことがあるような気がする。だったら、がんは治せない。
 とはいえ「願い事を叶える」という言い方は「本契約をするなら魔法を使ってなにかしてやる」というニュアンスとはまた違う気がする。もっと計り知れないなにかのような。それともただそう思いたいからそう感じるだけだろうか。
 そして、もしそれらが全部望み通りだったとしても、海翔自身にとってはとても大きな問題がある。
本契約をするということは、人間ではなくなるということ。それは家族や友人たちと完全に切り離されることを意味する。

 ……仮契約だったら全然変わらないままなのに、なんで本契約だと皆から俺の記憶を消されなきゃならないんだよ……。

 もちろん魔物になるからだと分かっていても理不尽さを覚える。悪魔や魔物が契約をする時は大抵いきなり本契約をするものだが、別に記憶の操作云々はないらしい。一度気になって聞いたら月時が言っていた。
 人間じゃなくなるということには、もう今更抵抗はない。月時を通じて魔物というものを完全からはまだまだ遠いだろうが知った。月時や月時の家族が一緒なら、と思える。

 でも……。

 昨日父親ががんの話をしたせいか、誰も起こしにくることはなかったのでずっとベッドの中で悩んだ。
 そして決めた。例え自分がその中にもういられなくなったとしても、かけがえのない父親なのだ。自分の欲よりも、もっと大事なことだった。
 本契約をする。
 そう決めると海翔はもう、他になにも考えられなくなった。契約をすれば父親を治してくれるという保証も確証もない。そもそも願い事を叶えてもらえるという話すら信憑性がない。だがそんなことすら過ることがなく、気づけば月時の元へ行き、そして本契約を迫っていた。



「ひろ……」

 ちゃんと説明出来ているかも分からないまま、なんとか言い終えると月時が海翔の手をぎゅっと握ってきた。海翔は微動だにせずに呟いた。

「願い事って……叶うの……」

 手を握っている月時の手がほんの少しだがピクリと反応した。
 ああ、なんて答えられるのだろう。

 叶う?
 叶わない?

 今はもう本契約だの記憶だのなにもかもがどうでも良かった。ただ一つだけが海翔の全てだった。

「……お願いだ……、お父さんを……助けて……」
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