蛇 と 兎

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30.わくわくする兎

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 とうとう千景が自分に住んでいる最寄りの駅を教えてくれた。それが嬉しくて堪らない。
 優史は初めて千景の家に行く前日の夜は嬉しくて、子どものようになかなか眠れなかった。
 何だか千景がさらに一歩、優史に対して気を許してくれたように思えるからだろうか。それにあまり自分について話さない千景だから、少しでも何かを話してくれたりするのが嬉しい。
 優史自身も特に率先して自分について話すタイプではない。かと言って話したくないのでもない。何かの流れで話しているかもしれないし、聞かれたら話す。そんな感じだ。
 千景もこちらが何か聞けば教えてくれるのかもしれないが、どうしても聞きたいことしか優史は特に聞かない。もし聞いた内容が言いたくないことだったら悪いとも思うが、それだけではない。どんな仔細なことでも、たまたま会話の流れで優史が知らなかったことを知るのは楽しいし、千景から何かを言ってくれるというのが何より嬉しい。

「千景の家……楽しみだな……」

 どんなところにあるんだろう。どんな家でどんな部屋なんだろう。
 ああきっとかわいい部屋ではないだろうな。何もないようなシンプルな部屋かな。
 そういえば兄がいると言っていたけれども明日はいるのかな。どんなお兄さんだろう。千景と似ているのかな。
 そしてほら。こうやって好きな人のまだ自分が知りえてないことを色々考えるのも、楽しいし。

 優史は嬉しさに口元を綻ばせると、ベッドに置いてある抱き枕をぎゅっと抱きしめた。前からずっとある抱き枕だが、優史は最近これを第二の千景と思ってよく抱きしめていた。

「千景……」

 愛おしげに呟くと、唇を綻ばせたまま優史はようやく眠りについた。
 翌朝はかなり早く起きた。
手土産にお菓子を持って行こうと思っていたのもあるが、どのみちそわそわして眠っていられなかったというのが大きい。
 何かを買っていけばいいかとも思ったが、甘いものをあまり食べない千景用に、甘さ控えめのパウンドケーキを焼いた。作る時間と焼く時間を入れてだいたい1時間少々。それでもまだ少し時間に余裕があったくらい、早くに起きていた。
 綺麗にラッピングしてから、早めの時間だが優史は出かける。遅刻するよりは早めに千景の住む駅に着いてゆっくり、千景が来るのをわくわくしながら待つ方がいい。
 そう思いながら天気のいい外を駅まで歩き、電車に乗る。ホームは通勤とは反対側だった。
 最寄りの駅に着き、暫く待っていると千景が「お待たせ」とやってきた。いつもと違う場所だからだろうか、ちょくちょく会っているのに久しぶりな気がして、優史はドキドキしながら微笑んだ。すると何故か千景が急に「かわいいね、今日も優史は」などと言って手を伸ばして頭を撫でてきた。
 かわいいと言われても最近は嬉しくて仕方ない。本当なら男がかわいいというのは駄目だし、自分がかわいいわけないのはわかっている。だが千景に言われると嬉しくて仕方ない。

「お兄さんは今日出かけてるんだっけ?」

 家に向かいながら優史が聞くと、千景はとてつもなく微妙な顔をしている。

「……何故?」
「ああ。その、千景に……じゃなかった! えっとご家族の方にと思ってケーキ、焼いてきたから……。もしいらっしゃるなら、よかったらと思って」

 思わず本音が出た。つい千景に、と言いかけた。優史が赤くなりながら千景を見ると、案の定笑っている。

「ありがとうね、優史。兄貴は俺より甘いもの好きだよ。まあ家にいるけどさ、でもそれ、渡したら後は無視してるといいよ」
「ええ? いや、それは……」
「だって先生は俺に勉強を教えに来たんでしょう?」

 千景がニッコリ言ってくる。また先生と呼ばれ、優史は「う……」と声を詰まらせた。
 千景の家に着くと優史は変にドキドキしてきた。

 何だか好きな男子の家に訪れた恋する女子だよこれじゃあ。

 内心微妙な気持ちになる。確かに千景に恋しているが、そもそも自分は女子でない。

「いらっしゃい。あなたが千景の先生?」

 玄関で靴を脱いでいるところに、にこやかな人が近づいてきた。優史がハッとなってよく見ると、どこか千景に似た雰囲気がある。いや、だが千景よりも柔らかい雰囲気だと優史は思った。
 黒髪でスラリとした千景よりも、ほんの少し背が小さくてそして柔らかい茶色の髪をしているから余計にそう見えるのだろうか。

「あ、は、はい。初めまして。俺、江口優史と申します」

 赤くなって挨拶すると、千景だけではなく、兄らしき人まで吹き出した。何か粗相でもしたのだろうかと少しおろおろしている優史に、その人はさらに優しく笑いかけてきた。

「面白い方だね。初めまして、千景の兄の優人です。ねえ、あなた二十五歳なんでしょ? 俺も。同じ歳だしさー敬語いいから。よろしくね」
「え? そ、そうなんで……、ああ、いや、えっと、そうなんだ。同じ歳なんだ」

 気さくに優しそうに笑いかけてくる優人に、優史はホッとしたように笑い返した。
 お兄さんまでもが自分より年下だったら切ないなと密かに思っていた。何だかいい人そうでよかったなと思う。あと手土産を思い出して差し出した。

「これ、大したもんじゃないけど……よかったら」
「え、何々」

 ニッコリ受け取る優人に、千景がどこか面白くなさそうに口を開いた。

「手土産って言ったよね。あ、優史が焼いたケーキ。勝手に食べてていいから。俺ら後で食べるしね」

 そんな千景をもの珍しそうに優史が見ていると、優人がまたニッコリ優史を見てくる。

「ごめんねぇ、こんな愚弟で。いつも面倒みてくれてありがとう。そういえばあなたの名前、優史って言うんだね。俺の名前と似てるなあ」
「そんな! こちらこそお世話になって……。ってほんとだ! 似てるね」

 指摘されて気づき、優史はニッコリ笑った。

「ねー? 偶然って凄いね、歳も同じだし。ああ、俺のことは優人って呼んでね」
「え? あ、えっと、じゃ、じゃあ俺も優史って……」

 千景の兄から親しくしてもらえたのが嬉しくて、優史が赤くなりながら言いかけていると千景に腕をつかまれた。

「ほら、行くよ、優史」
「え、ああ、うん」
「もーほんと千景は。まだ話してるとこなのにねぇ。ああ、優史。わざわざケーキ焼いてくれてありがとうね。後で一緒に食べようね」

 そんな弟の態度にもニッコリしたまま、優人が優しくポンと優史の二の腕あたりを叩いてきた。

「うん、後で是非一緒に」
「……いいからほら、早く」

 何故か千景がどこかムッとしているように優史は思えた。だがとりあえず優人に軽く会釈すると促されるまま千景の部屋へ向かった。
 部屋は思っていたとおりシンプルだった。余計なものはなく、とても片付いている。千景らしいなと思って微笑していると押されてしまい、バランスを崩した。そのままよろけていると、どんどん押されてベッドの上に倒れ込んだ。

「いきなり何す……」
「お仕置き、かな」
「ええっ? な、何の?」

 優史がポカンとベッドから起き上がって千景を見ると、顔は笑っているがどこか怖い。

「色々?」
「色々じゃわからな……っん、ぁ」

 言い返そうとしたら唇に噛みつかれた。痛い、けれどもどこか痺れるその感触に反射的に体が震える。

「噛みつかれただけで体震わすなんて、先生ってほんと変態」
「っ違……、って先生、やめて。ていうか勉強は?」
「後。先にお仕置きね、先生……」
「ええ? だから何で……?」

 優史は唖然とした顔を千景に向けた。相変わらず笑顔の千景はそれには答えず、ゆっくり手を優史に伸ばしてきた。
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