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パリ
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「着いたねー、パリ!」
「ああ、いよいよだな」
「うん」
夕方のシャルル・ド・ゴール空港に降り立つと、禅は表情を引き締める。
莉帆はカメラを意識して少し禅から離れていた。
「タダで日本には帰らない。必ず成功を掴み取ってみせる」
きっぱりと言い切る決意に満ちた禅の横顔を見つめて、莉帆も固く心に誓う。
(私も全力で禅を支えてみせる)
歩き始めた禅の後ろ姿は、ランウェイを歩くように颯爽としている。
莉帆もその背中を追いかけた。
パリ在住の日本人コーディネーターと空港の出口で合流する。
「ボンジュール!パリへようこそ。フランス人と結婚してかれこれ15年パリに住んでる真由美です。どうぞよろしく」
「禅と申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。まあー、あなた本当に日本人?私がいた頃の日本にはいなかったわよ。今はこんなに進化してるのね。あなたなら、海外のモデルにも負けてないわ。それに黒髪に黒い瞳がエキゾチックでいいわね。日本のサムライ魂みたいな感じで。私もしっかり応援するわ。パリコレ、一緒に目指しましょう」
「はい、ありがとうございます」
がっちりと固い握手を交わし、早速皆でホテルへと移動する。
チェックインすると、禅が泊まる部屋で打ち合わせを兼ねたインタビューの撮影が始まった。
ディレクターの質問に答える形で、禅が今の心境や意気込みを改めて語る。
その後は明日からの動きを再確認した。
観光で来ているのではない。
朝からすぐにパリコレに向けて動き始めなければ。
「まずはモデル事務所に行きます。正式に所属を認めてもらわなければ何も始まらないので」
禅の言葉にコーディネーターの真由美が頷く。
「教えてもらったモデル事務所にコンタクトを取って、撮影の許可はもらいました。だけど私がするのはそれだけよ。あとはあなたの実力次第。パリではコネも知名度もないわ。ゼロからのスタートよ」
「もちろん分かっています。真由美さんはノータッチでお願いします。通訳も、撮影に関することだけで結構です」
「え、いいの?ここはフランスよ?」
「はい。他のモデル達も自分の身ひとつで挑むんですから、当然です」
淡々と話す禅の瞳は、既にこの挑戦が始まっていることを物語る。
莉帆も資料を持つ手にギュッと力を込めた。
◇
その後は解散となり、テレビクルーたちは各々自分の部屋へと引きあげて行った。
「莉帆、夕食どうする?」
「そうね。禅、疲れたでしょう?ルームサービスにする?」
「いや。莉帆がよければ外に食べに行かない?」
「うん、いいけど」
「じゃあ着替えて。スーツだと変だから」
そう言われて莉帆は、部屋の奥のドアを開ける。
そこにもバスルームがついた寝室があった。
スーツケースからロングワンピースを取り出し、その上から薄手のノーカラージャケットを羽織ることにした。
日本では初夏だが、フランスの夜はまだまだ寒い。
クラッチバッグに財布とスマートフォンを入れると、禅のいる部屋に戻った。
「おっ、莉帆。大人っぽいな」
「そう?なんか海外って子どもっぽく見られそうだから。お酒とか頼めないかもって思って」
「まだ飲むのかよ?飛行機の中で散々酔っ払っただろ?」
「え?そんなに飲んでないよ?」
「それであんなにトロンと色っぽくなるのか?まったくもう…。帰りの飛行機は絶対に最初から隣にいろよ?」
何をそんなに怒っているのだろう?と不思議に思っていると、禅はグイッと莉帆の腰を抱いて歩き出す。
「ちょっと、禅!誰かに見られるよ?」
「大丈夫、ここはパリだ。誰も俺のことなんか知らない。あー、いいな、この解放感!外でも莉帆とめっちゃイチャイチャできるぞ!」
「遊びに来たんじゃないでしょう?」
「分かってるよ、もちろん。パワー充電して明日から一気に勝負だ」
自信をみなぎらせて歩く禅の姿は、オシャレなパリの街並みに溶け込んでかっこいい。
莉帆はその雰囲気に呑まれ、夢見心地のまま、美味しい食事と禅の仕草に酔いしれていた。
◇
次の日の朝。
莉帆が目を覚ました時には、もう禅の姿はなかった。
(え?どこに行ったんだろう)
不安に思いながら部屋のあちこちを探し、窓の外にふと目をやると、街路樹に沿ってランニングしている禅を見つけた。
(良かった、いた。そっか、身体引き締めなきゃいけないもんね)
これからは身体ひとつで勝負していかなければならない。
莉帆も改めて気合いを入れ、夕べ買っておいたサラダとヨーグルトとフルーツを用意した。
「おかえり、禅」
「お、起きてたの?莉帆」
「うん、おはよう。先にシャワー浴びる?軽く朝食も用意してあるけど」
「そうだな、汗流してから食べるよ」
「分かった」
部屋に戻って来た禅がバスルームに向かうと、莉帆はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。
ひと口味見をして、うーん、と首をひねると、新たにお湯を沸かした。
日本から持って来ていたジッパーバッグの中から、禅が毎朝飲んでいるドリップコーヒーを取り出してゆっくりとお湯を注ぐ。
その時ガチャッとドアが開いて、バスローブを着た禅がタオルで髪を乾かしながら出て来た。
「いい香りだな」
「はい、禅のコーヒー」
「ん?莉帆は?」
「私はホテルに備え付けのを淹れたの。禅はそっちを飲んで」
「なんで?」
「いいから」
すると禅は手を伸ばして莉帆の前のカップを手に取り、ひと口飲む。
「うえ、マズ…」
「だから言ったのに。ほら、いつものコーヒー」
莉帆は禅の持っているカップと交換した。
「ああ、美味いな。莉帆、持って来てくれてたんだ」
「うん。大事な勝負の日に、いつものルーティーンとか感覚とか大事かなって思って」
「確かに。そっちのコーヒーだとテンション下がる」
「たくさん持って来たから、滞在中は毎朝飲んでも大丈夫よ」
「さすが。できる奥さんだねー」
禅は莉帆の腰を抱き寄せると、顎をそっと下からすくってキスを落とす。
軽くチュッと触れたあとは、深く長くうっとりと…
んっ…、と莉帆が吐息をもらすと、禅はキュッと眉根を寄せて身体を起した。
「やべー、スイッチ入っちゃった」
「は?なんの?」
「決まってる。莉帆とのベッドタイム」
「バババカ!何言ってんの!」
莉帆は慌てて禅の身体を押し返した。
「大事な日にそんなことしてられないでしょ?」
「えー、じゃあ無事にパリコレのランウェイ歩けたらやってもいい?」
「やって…?!もうちょっと別の言い方あるでしょ?」
「やりたい!やりたいものはやりたい!」
「もう!盛りのついたサルなの?」
「ウキー!」
「バカバカバカ!」
ポカスカと胸を叩くと、禅はギュッと莉帆を抱きしめた。
「お願い、莉帆。必ず合格してみせるから、その時にはごほうびちょうだい?」
耳元で甘くささやかれ、莉帆は耳まで真っ赤になる。
「ね?いいでしょ?」
「う、うん」
「やった!俺、俄然やる気が湧いてきた。よっしゃー!がんばるぞー!」
何に向かって?と苦笑いしつつ、莉帆はパクパクと朝食を食べ始めた禅に、心の中でエールを送った。
◇
「おはようございます。今日からは我々、禅さんの後ろをついて行くだけです。話しかけたりもしませんから、どうぞお気になさらず。がんばってください」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
時間になり、ホテルのロビーでテレビクルー達と落ち合うと、禅は早速地下鉄を乗り換えながらモデル事務所を目指した。
余裕を持って出発したはずが、切符の買い方や乗り換えが分かり辛くて時間がかかり、到着はギリギリになる。
事務所の前で気持ちを落ち着かせると、禅は小さく頷いて気合いを入れてからドアを開けた。
「Bonjour, ravi de vous rencontrer. Je m'appelle Zen du Japon.(こんにちは、初めまして。日本から来た禅です)」
カウンターにいた女性スタッフに挨拶すると、顔を上げてにっこり笑いかけてくれる。
「Hi! How is feeling? I am Jessica.(こんにちは、ご機嫌いかが?私はジェシカよ)」
英語で返してくれたことに、禅も、後ろに控えていた莉帆も幾分ホッとした。
「I have an appointment at 10 o'clock」と言うと、「I know !」と明るく言ってジェシカは禅を中に促した。
真っ白な広いスペースに写真撮影用のスクリーンがあり、壁際のテーブルに集まって数人が何やら書類に目を落としている。
ジェシカが「Here comes Zen !」と声をかけると、皆が一斉に顔を上げて禅を見た。
そして大げさに、オー!いい男だね!と盛り上がる。
取り囲まれた禅は笑顔で握手を交わし、早速コンポジットと呼ばれる宣材写真を撮ることになった。
ピタッと身体に沿うタンクトップで腕を見せた上半身の写真。
素肌にジャケットをラフに羽織り、筋肉質の胸元とウエストを見せた写真。
全身のバランスがよく分かる写真など、次々と流れるように渡された衣装を着て、ササッと軽くヘアメイクを施し、あっという間に撮影は終わった。
パソコンで手際良く写真を取り込み、名前や年齢、身長やスリーサイズなどを書き加えたコンポジットが完成する。
「おめでとう!これで君もうちのモデルだ。だが我々ができるのはここまで。ここから先は自分でチャレンジしなければいけない。幸運を祈るよ」
そう言って渡されたコンポジットを、禅は感慨深く受け取る。
お礼を言って握手を交わし、グッドラック!と送り出されて事務所をあとにした。
◇
「ふう、まずは第一歩を踏み出せた感じかな」
軽く感想を撮影したいとのことで、オープンカフェで休憩することになった。
ドリンクを飲みながら、禅はもらったばかりのコンポジットをカメラに向かって見せる。
「こんな感じに仕上げてもらいました。日本では明るい雰囲気のコンポジを使ってるけど、今回はかなりダークな色合いかなと思います。新たな自分の一面も見られた気がして嬉しいですね。これを持って、次は『キャスティング』と呼ばれるオーディションへ向かいます。快く受け入れてくださった先ほどのモデル事務所の方々に感謝して、必ず突破してみせます」
力強くコメントし、はい!オッケーですと言われて、ようやく禅は肩の力を抜く。
「禅、何か買って来るね。ベーグルとかなら食べられそう?」
莉帆が聞くと、禅は、うーんと考え込む。
「あんまり食欲ないな」
「でもこれから早速キャスティング回るんでしょ?少しでいいから食べておいて。残したら私が食べるから」
「あはは!莉帆が残り物狙ってるって分かったら、なんか完食してやるって気になるな」
「なにそれー?ひどいわね」
ブツブツ言いつつ、莉帆はブルーベリーベーグルとクランベリーベーグルを買って戻った。
「どっちがいい?」
「莉帆はどっちが食べたい?」
「んー、クランベリーかな」
「じゃあそっちにする」
なんでよー!と憤慨すると、禅は笑いながら2つのベーグルを半分にして、莉帆に差し出した。
「はい。これでどっちも食べられるよ、食いしん坊の莉帆さん」
「禅が両方食べたかっただけでしょ?」
「人の善意は素直に受け取るもんだよ?禅だけに」
「うわ、さむ!」
ははは!と禅は楽しそうに笑う。
その様子をカメラマンはこっそり遠くから撮影していた。
「ああ、いよいよだな」
「うん」
夕方のシャルル・ド・ゴール空港に降り立つと、禅は表情を引き締める。
莉帆はカメラを意識して少し禅から離れていた。
「タダで日本には帰らない。必ず成功を掴み取ってみせる」
きっぱりと言い切る決意に満ちた禅の横顔を見つめて、莉帆も固く心に誓う。
(私も全力で禅を支えてみせる)
歩き始めた禅の後ろ姿は、ランウェイを歩くように颯爽としている。
莉帆もその背中を追いかけた。
パリ在住の日本人コーディネーターと空港の出口で合流する。
「ボンジュール!パリへようこそ。フランス人と結婚してかれこれ15年パリに住んでる真由美です。どうぞよろしく」
「禅と申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。まあー、あなた本当に日本人?私がいた頃の日本にはいなかったわよ。今はこんなに進化してるのね。あなたなら、海外のモデルにも負けてないわ。それに黒髪に黒い瞳がエキゾチックでいいわね。日本のサムライ魂みたいな感じで。私もしっかり応援するわ。パリコレ、一緒に目指しましょう」
「はい、ありがとうございます」
がっちりと固い握手を交わし、早速皆でホテルへと移動する。
チェックインすると、禅が泊まる部屋で打ち合わせを兼ねたインタビューの撮影が始まった。
ディレクターの質問に答える形で、禅が今の心境や意気込みを改めて語る。
その後は明日からの動きを再確認した。
観光で来ているのではない。
朝からすぐにパリコレに向けて動き始めなければ。
「まずはモデル事務所に行きます。正式に所属を認めてもらわなければ何も始まらないので」
禅の言葉にコーディネーターの真由美が頷く。
「教えてもらったモデル事務所にコンタクトを取って、撮影の許可はもらいました。だけど私がするのはそれだけよ。あとはあなたの実力次第。パリではコネも知名度もないわ。ゼロからのスタートよ」
「もちろん分かっています。真由美さんはノータッチでお願いします。通訳も、撮影に関することだけで結構です」
「え、いいの?ここはフランスよ?」
「はい。他のモデル達も自分の身ひとつで挑むんですから、当然です」
淡々と話す禅の瞳は、既にこの挑戦が始まっていることを物語る。
莉帆も資料を持つ手にギュッと力を込めた。
◇
その後は解散となり、テレビクルーたちは各々自分の部屋へと引きあげて行った。
「莉帆、夕食どうする?」
「そうね。禅、疲れたでしょう?ルームサービスにする?」
「いや。莉帆がよければ外に食べに行かない?」
「うん、いいけど」
「じゃあ着替えて。スーツだと変だから」
そう言われて莉帆は、部屋の奥のドアを開ける。
そこにもバスルームがついた寝室があった。
スーツケースからロングワンピースを取り出し、その上から薄手のノーカラージャケットを羽織ることにした。
日本では初夏だが、フランスの夜はまだまだ寒い。
クラッチバッグに財布とスマートフォンを入れると、禅のいる部屋に戻った。
「おっ、莉帆。大人っぽいな」
「そう?なんか海外って子どもっぽく見られそうだから。お酒とか頼めないかもって思って」
「まだ飲むのかよ?飛行機の中で散々酔っ払っただろ?」
「え?そんなに飲んでないよ?」
「それであんなにトロンと色っぽくなるのか?まったくもう…。帰りの飛行機は絶対に最初から隣にいろよ?」
何をそんなに怒っているのだろう?と不思議に思っていると、禅はグイッと莉帆の腰を抱いて歩き出す。
「ちょっと、禅!誰かに見られるよ?」
「大丈夫、ここはパリだ。誰も俺のことなんか知らない。あー、いいな、この解放感!外でも莉帆とめっちゃイチャイチャできるぞ!」
「遊びに来たんじゃないでしょう?」
「分かってるよ、もちろん。パワー充電して明日から一気に勝負だ」
自信をみなぎらせて歩く禅の姿は、オシャレなパリの街並みに溶け込んでかっこいい。
莉帆はその雰囲気に呑まれ、夢見心地のまま、美味しい食事と禅の仕草に酔いしれていた。
◇
次の日の朝。
莉帆が目を覚ました時には、もう禅の姿はなかった。
(え?どこに行ったんだろう)
不安に思いながら部屋のあちこちを探し、窓の外にふと目をやると、街路樹に沿ってランニングしている禅を見つけた。
(良かった、いた。そっか、身体引き締めなきゃいけないもんね)
これからは身体ひとつで勝負していかなければならない。
莉帆も改めて気合いを入れ、夕べ買っておいたサラダとヨーグルトとフルーツを用意した。
「おかえり、禅」
「お、起きてたの?莉帆」
「うん、おはよう。先にシャワー浴びる?軽く朝食も用意してあるけど」
「そうだな、汗流してから食べるよ」
「分かった」
部屋に戻って来た禅がバスルームに向かうと、莉帆はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。
ひと口味見をして、うーん、と首をひねると、新たにお湯を沸かした。
日本から持って来ていたジッパーバッグの中から、禅が毎朝飲んでいるドリップコーヒーを取り出してゆっくりとお湯を注ぐ。
その時ガチャッとドアが開いて、バスローブを着た禅がタオルで髪を乾かしながら出て来た。
「いい香りだな」
「はい、禅のコーヒー」
「ん?莉帆は?」
「私はホテルに備え付けのを淹れたの。禅はそっちを飲んで」
「なんで?」
「いいから」
すると禅は手を伸ばして莉帆の前のカップを手に取り、ひと口飲む。
「うえ、マズ…」
「だから言ったのに。ほら、いつものコーヒー」
莉帆は禅の持っているカップと交換した。
「ああ、美味いな。莉帆、持って来てくれてたんだ」
「うん。大事な勝負の日に、いつものルーティーンとか感覚とか大事かなって思って」
「確かに。そっちのコーヒーだとテンション下がる」
「たくさん持って来たから、滞在中は毎朝飲んでも大丈夫よ」
「さすが。できる奥さんだねー」
禅は莉帆の腰を抱き寄せると、顎をそっと下からすくってキスを落とす。
軽くチュッと触れたあとは、深く長くうっとりと…
んっ…、と莉帆が吐息をもらすと、禅はキュッと眉根を寄せて身体を起した。
「やべー、スイッチ入っちゃった」
「は?なんの?」
「決まってる。莉帆とのベッドタイム」
「バババカ!何言ってんの!」
莉帆は慌てて禅の身体を押し返した。
「大事な日にそんなことしてられないでしょ?」
「えー、じゃあ無事にパリコレのランウェイ歩けたらやってもいい?」
「やって…?!もうちょっと別の言い方あるでしょ?」
「やりたい!やりたいものはやりたい!」
「もう!盛りのついたサルなの?」
「ウキー!」
「バカバカバカ!」
ポカスカと胸を叩くと、禅はギュッと莉帆を抱きしめた。
「お願い、莉帆。必ず合格してみせるから、その時にはごほうびちょうだい?」
耳元で甘くささやかれ、莉帆は耳まで真っ赤になる。
「ね?いいでしょ?」
「う、うん」
「やった!俺、俄然やる気が湧いてきた。よっしゃー!がんばるぞー!」
何に向かって?と苦笑いしつつ、莉帆はパクパクと朝食を食べ始めた禅に、心の中でエールを送った。
◇
「おはようございます。今日からは我々、禅さんの後ろをついて行くだけです。話しかけたりもしませんから、どうぞお気になさらず。がんばってください」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
時間になり、ホテルのロビーでテレビクルー達と落ち合うと、禅は早速地下鉄を乗り換えながらモデル事務所を目指した。
余裕を持って出発したはずが、切符の買い方や乗り換えが分かり辛くて時間がかかり、到着はギリギリになる。
事務所の前で気持ちを落ち着かせると、禅は小さく頷いて気合いを入れてからドアを開けた。
「Bonjour, ravi de vous rencontrer. Je m'appelle Zen du Japon.(こんにちは、初めまして。日本から来た禅です)」
カウンターにいた女性スタッフに挨拶すると、顔を上げてにっこり笑いかけてくれる。
「Hi! How is feeling? I am Jessica.(こんにちは、ご機嫌いかが?私はジェシカよ)」
英語で返してくれたことに、禅も、後ろに控えていた莉帆も幾分ホッとした。
「I have an appointment at 10 o'clock」と言うと、「I know !」と明るく言ってジェシカは禅を中に促した。
真っ白な広いスペースに写真撮影用のスクリーンがあり、壁際のテーブルに集まって数人が何やら書類に目を落としている。
ジェシカが「Here comes Zen !」と声をかけると、皆が一斉に顔を上げて禅を見た。
そして大げさに、オー!いい男だね!と盛り上がる。
取り囲まれた禅は笑顔で握手を交わし、早速コンポジットと呼ばれる宣材写真を撮ることになった。
ピタッと身体に沿うタンクトップで腕を見せた上半身の写真。
素肌にジャケットをラフに羽織り、筋肉質の胸元とウエストを見せた写真。
全身のバランスがよく分かる写真など、次々と流れるように渡された衣装を着て、ササッと軽くヘアメイクを施し、あっという間に撮影は終わった。
パソコンで手際良く写真を取り込み、名前や年齢、身長やスリーサイズなどを書き加えたコンポジットが完成する。
「おめでとう!これで君もうちのモデルだ。だが我々ができるのはここまで。ここから先は自分でチャレンジしなければいけない。幸運を祈るよ」
そう言って渡されたコンポジットを、禅は感慨深く受け取る。
お礼を言って握手を交わし、グッドラック!と送り出されて事務所をあとにした。
◇
「ふう、まずは第一歩を踏み出せた感じかな」
軽く感想を撮影したいとのことで、オープンカフェで休憩することになった。
ドリンクを飲みながら、禅はもらったばかりのコンポジットをカメラに向かって見せる。
「こんな感じに仕上げてもらいました。日本では明るい雰囲気のコンポジを使ってるけど、今回はかなりダークな色合いかなと思います。新たな自分の一面も見られた気がして嬉しいですね。これを持って、次は『キャスティング』と呼ばれるオーディションへ向かいます。快く受け入れてくださった先ほどのモデル事務所の方々に感謝して、必ず突破してみせます」
力強くコメントし、はい!オッケーですと言われて、ようやく禅は肩の力を抜く。
「禅、何か買って来るね。ベーグルとかなら食べられそう?」
莉帆が聞くと、禅は、うーんと考え込む。
「あんまり食欲ないな」
「でもこれから早速キャスティング回るんでしょ?少しでいいから食べておいて。残したら私が食べるから」
「あはは!莉帆が残り物狙ってるって分かったら、なんか完食してやるって気になるな」
「なにそれー?ひどいわね」
ブツブツ言いつつ、莉帆はブルーベリーベーグルとクランベリーベーグルを買って戻った。
「どっちがいい?」
「莉帆はどっちが食べたい?」
「んー、クランベリーかな」
「じゃあそっちにする」
なんでよー!と憤慨すると、禅は笑いながら2つのベーグルを半分にして、莉帆に差し出した。
「はい。これでどっちも食べられるよ、食いしん坊の莉帆さん」
「禅が両方食べたかっただけでしょ?」
「人の善意は素直に受け取るもんだよ?禅だけに」
「うわ、さむ!」
ははは!と禅は楽しそうに笑う。
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