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今夜だけは

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「あのっ!」

真っ暗な寝室に入ると、莉帆は足を踏ん張って禅を止める。

「なんだ?今さら怖気づいても…」
「いえ、あの。シャワーを借りてもいいですか?」
「ああ。分かった」

禅は壁の大きなクローゼットを開けると何かを取り出し、ポイッと莉帆に投げる。

手に取ってみると、ふわふわのバスローブだった。

「バスルームは向かい側。タオルは適当に使え」
「ありがとうございます。あの、よろしければお先にどうぞ」
「ご親切にどうも。だがうちにはバスルームが3か所ある」
「ひいっ!」
「分かったらさっさと行け」
「はい!」

莉帆は慌てて寝室を出ると、廊下を挟んだ向かい側のドアを開けた。

広いパウダールームがあり、その奥にすりガラスの引き戸がある。

スーッと引き戸を開けると脱衣所とバスルームがあった。

「うわ、広い!」

高級ホテルのスイートルームのような豪華なバスルームは、タイルもなんだかオシャレでとにかくバスタブが大きい。

おまけにジェットバスもついている。

「わあ!お湯ためてもいいかな?いいよね」

ピッとパネルのボタンを押してお湯張りをする。

その間にシャワーで髪と身体を洗った。

あっという間にお湯張りも終わり、莉帆はタオルで髪をまとめるとゆっくりとバスタブの湯に浸かる。

「はあ、極楽極楽」

身体も心もほぐれていくような心地良さに、思わず伸びをする。

「ふう。色々あったな、今日は」

そうだ、この怒涛の展開はたった一日の出来事なのだ。

「朝は普通に出勤したのに、信じられない」

社長に呼ばれて、和也の裏切りを知り、仕事では尻拭いをさせられて…。
しかも今はこの身を捧げる生け贄のような状況なのだ。

「絶対私、厄日だよね、今日。しかも私史上最悪の」

そう思うと泣けてくる。

「泣いたっていいよね。こんなに辛いことってある?」

ううっと嗚咽をもらしながら、ボロボロと涙を流す。

膝を曲げて腕を載せ、顔を伏せてひたすら泣いていると、おい!と声が聞こえてきてビクッとした。

「大丈夫か?どうした?」
「え…」

どうやら扉の向こうから禅が声をかけてきたらしい。

「あ、大丈夫です」
「どうしてシャワーにそんなに時間がかかってる?具合でも悪いのか?」
「いえ、あの、お風呂に浸かってまして…」
「は?風呂に、浸かってる?」
「はい。すみません、お断りもせず勝手に」
「いや、別に、いいけど」

戸惑うような声がしたあと、じゃあ、と禅がそそくさと出て行く気配がした。

***

「はあ、気持ち良かった」

身体がほぐれたのもそうだが、涙を流して少しスッキリしたせいもある。

莉帆は素肌の上からバスローブに腕を通すと、ドライヤーで髪を乾かした。

下着をもう一度身に着けるのはなんだか気持ち悪く、手洗いしてタオルで水気を取り、乾かすことにした。

リビングに戻ってバッグの中からポーチと歯ブラシを取り出すと、メイクを落として歯磨きまで済ませる。

(すっぴんだろうと、どうでもいいもんね。牛丼魂を舐めんなよ?)

ふん!と鏡の中の自分にふんぞり返ってから、気合いを入れて寝室に戻った。

その途端、シュルシュルと気持ちがしぼむ。

そこには、恐ろしくムード満点な照明の中、窓際のカウンターチェアに腰かけてウイスキーグラスを傾けているトップモデルのお姿があった。

(う、嘘でしょ?あの人こそ生身の人間なの?)

窓の外に広がる夜景をバックに、バスローブをラフに羽織り、長い脚を持て余すように斜めに座ってグラスの氷をカランと鳴らすその後ろ姿は、もはや現実のものとは思えない。

思わずくるりと踵を返して出て行こうとすると、「おい、どこに行く?」と地を這うような低い声がした。

ひいっ!と莉帆は縮み上がる。

「逃げる気か?」
「い、いえ!逃げも隠れもいたしません」
「ならこっちに来い」
「は、はい」

恐る恐る振り返り、生け贄の気分で近づいて行くと、禅はグラスをベッドサイドテーブルに置いた。

手を伸ばし、莉帆の腰を抱くと強く引き寄せる。

「怖いのか?」
「いえ、ちっとも」

ツンと顎を上げて挑むように答えると、禅はフッと笑った。

「勝気な女も悪くないな。泣かせてみたくなる」

そう言うと莉帆をベッドに座らせ、そのまま一気に押し倒した。

バスローブを脱ぎ捨て、ベッドをきしませて莉帆を上から見下ろす。

すると莉帆はどこか遠い目をしてぼんやりと禅の身体を見つめた。

「随分余裕だな。何を考えている?」
「…いえ、何も」
「あいつのことか?」

その言葉にハッとしたように、莉帆が視線を合わせてくる。

やはりそうだろう。
今日一日色んな事がありすぎて、気持ちがついていかないはず。

仕事に追われる羽目になったが、何よりも恋人に裏切られたばかりなのだ。

その気持ちをまだ昇華できていない。

一人になって思い切り泣いたり、誰かに気持ちを打ち明ける時間もなかっただろうから。

さっきかかってきた電話も、おそらくあいつだろう。

着信拒否にしたようだが、このあとも未練たらしく接触しようとしてくるかもしれない。

最低な男に、まだ傷つけられるのか。

どうにかしてやりたい。
自宅に帰らせてやりたくても、今ここを一人で出て行けばマスコミに囲まれて危険だ。
かと言って自分が付き添うワケにもいかない。

ほんの少しでもいい、忘れさせてやりたい。
愛などなくてもいい。
ただ、なぐさめてやりたかった。

その一心で言ってみたのだ。
女を呼んでもいいか?と。

真面目な彼女ならこの流れになると思っていた。
それでいい。
今は考えるのをやめて、ただ俺の腕の中で溺れてくれれば。

そう思い、禅は冷たく言い放つ。

「忘れろ。興醒めだ」

莉帆はそっと目を閉じて身体の力を抜く。

そう、それでいい。

ギ…とマットレスをきしませながら莉帆に覆いかぶさる。

左の頬にそっと右手で触れると、みずみずしい肌を手のひらで包み込んだ。

背中に腕を回してグッと抱き寄せる。

莉帆の上半身がベッドから少し浮き上がり、仰け反った白くて細い首筋にチュッとキスを落とした。

「今は、忘れろ」

言い聞かせるようにささやき、伝えるように身体に触れる。

「忘れさせてやる」

耳元ではっきりそう告げると、唇を熱く奪った。

何度も何度も口づけ、乱れる吐息をも呑み込み、逃れようとする身体を腕にギュッと閉じ込めた。

バスローブの胸元に手を差し入れ、なめらかな素肌を暴いていく。

莉帆は抵抗しない。
その身体を悲しみが支配しているようにも見えた。

忘れろ。
今夜だけは俺に溺れろ。

一度身体を離し、ベッドサイドテーブルに置いてあったウイスキーのグラスをグイッと煽ると、そのまま口移しで莉帆に飲ませた。

ゴクリとウイスキーを飲み込んだ莉帆が、目を潤ませて吐息をもらす。

その妖艶さに、禅は身体がカッと熱くなるのを感じた。

アルコールの残る唇で莉帆の敏感な身体のあちこちに口づける。

忘れさせてやる、この俺が。

禅の降らせるキスの雨に、莉帆は従順に反応した。

それでいい。
今だけは2人でこの時間に溺れよう。

その言葉を最後に、禅の頭は考えることをやめた。

***

どれくらいの時間が経ったのだろう。

気がつけば莉帆は禅の腕の中で、くたりと頭を預けて眠っていた。

(こんなに我を忘れるとは)

禅は思い出して苦笑いする。

莉帆の身体は柔らかく心地良く、何度も求めては激しく抱いてしまった。

「…ごめん」

小さく呟いて、莉帆の前髪をそっとかき分ける。

形の良いおでこが可愛らしい。

その真ん中にチュッとキスをすると、莉帆は、んっ…と吐息をもらして身体をすり寄せてきた。

愛おしい。
ただその気持ちが込み上げてくる。

だが今はまだあいつと混同しているかもしれない。

そう思うと寂しかった。

いつの間にか、ウトウトまどろんでいたらしい。

腕の中の莉帆が身じろぎして、禅も目を覚ます。

莉帆は窓の方に顔を向け、三日月…と小さく呟いた。

禅も窓の外に広がる夜空に目をやる。

美しく輝く三日月がすぐ近くに感じられた。

綺麗…と呟いて、莉帆が右手を小さく伸ばす。

まるで月に触れようとするように。

すると、莉帆を抱いている左腕に何かがふと触れる感触があり、禅は視線を落とす。

ほろ、ほろほろ…

だんだんと増していくその感覚は、莉帆がこぼす涙だった。

心臓を鷲掴みされたように、禅の胸が締めつけられる。

右手を伸ばして莉帆の頬を包むと、グッと力を込めてこちらを向かせる。

驚いたように見上げてくる莉帆の瞳は、涙を一杯に溜めていた。

禅はクッと顔を歪めると、たまらず身体を起こして莉帆に深くキスをする。

忘れろ
忘れさせてやる
俺に溺れろ
今だけは

気持ちをぶつけるように、禅は何度も何度も莉帆に口づけていた。
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