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3:不穏な風

仕事開始

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「おはようございます……」


 欠伸を堪え、代わりに目を手で擦る
 日の出前の薄明るくなり始めてきている時間。少女はパン屋の裏口から入った。カーテンや窓が既に開けられ、テーブルにはいくつものカゴが置いてあった。カゴにはパンの名前が書かれた札がつけられている最中だった
 部屋の中にはグレンはおらずシェリーだけだった。シェリーは慣れた手付きで開店に必要なものの準備をしていた
 少女は両手で自分の頬をやや強めに数回叩いて眠気を遠ざけてからシェリーへと近寄った。シェリーに声をかけて頭を下げる


「――イヴです。よろしくお願いします」
「……そうかい。よろしく頼むよ」


 イヴと名乗った少女にシェリーは目を細める。彼女らしい枯淡な口調だったがシェリーの表情は穏やかだった


「仕事中はこのエプロンを着けておくようにね」


 シェリーがそう言ってエプロンを差し出した。黒のエプロンで新しい物のようで汚れなどはない。裾にはヒダがついていた。腰の紐は長めの赤色をしていて、後ろに回してから交差させて前に戻し、腹部でリボン結びにして大きなリボンを作れば完成だ


「着たね。それじゃあ早速開店準備をしようか」
「はい……!」


 ついてきな、と付け足してシェリーが先を行くのをイヴはついていった
 教えてもらいながら開店に向けて整えていく。グレンがほとんどの時間を過ごしている厨房で焼き上がったパンは、シートの敷かれたカゴに入れられて台に置かれている。シェリーが予め札をセットしたそれを厨房まで持っていけばグレンがパンを入れてくれるという流れになっていた
 補充の時には台に置かれているカゴを持っていき、店頭に並べるといった感じだ

 パンが並び、イヴは開けてある窓から外を見る。香ばしい香りが外へ流れていった。香りにつられて店に近づいてくる人が見えて窓から離れる。シェリーを見れば営業中を示すプレートを持って店の出入り口である両開きの扉に近付いていた
 扉を開けて外側の扉にプレートをかけ、片側の扉を大きく開いて止める。すると何人かが入って来てイヴは距離を開けた。シェリーがイヴに向かって唇を動かす


「声かけ。こ、え! 来店したらいらっしゃいませだよ」
「……い、いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませー!」


 客に聞こえない小声かつ大きく唇で文字を描いてイヴに伝えようとする。イヴはチラリとシェリーを見て慌てて客に向かって声を出した。イヴが声を出してからシェリーは声を張り上げた
 シェリーはイヴを招いてカウンターに向かう。シェリーはカウンターのレジ前に立ち、イヴはその横に佇んだ


「いいかい。今から忙しくなってあまりアンタの事見られなくなるから今のうちに言っておくよ。いらっしゃいませ、とありがとうございましたを言うことを忘れない事。購入したパンを袋に入れる事。あとはパンがない状態を長く作らないように補充してもらえばいいから。他の事はのちのち覚えればいいからね」
「わかりました」


 頷きながら了承の言葉を出すとイヴは客を見る。客層は様々で老齢の者もいればイヴより少し上の者もいれば同じくらいの者もいる。女性も男性も来ており、皆パンを見ていた
 選ばれたパンがカウンターまで運ばれるとシェリーが会計をし、イヴはパンを紙袋へと詰めた。それを客に手渡した

 袋詰めを何度かしてやり方を覚え始めるとイヴは店内のカゴに気付いた。空になっているカゴを見付けたのだ。客がカウンターにいない内にその場を離れてグレンの元に向かう
 グレンのいる部屋に入ると室温の高さに足が止まった。グレンは汗を滴らせ、首に巻いたタオルで何度も拭いながら竈でパンを焼いていた
 台を見ればカゴの中にパンが入っていた。なくなっていた人気のパンだ。イヴはそれを持って店へと戻っていく。すぐに札を付け替えて並べれば客が群がり始める。そこから逃げてカウンターを見遣ればシェリーはレジに追われていた。少しの間で忙しくなっているカウンターでの作業に、袋詰めのためカウンターへと入った


 そうして忙しなく店内でひたすら口と手と足を動かし、気付けば太陽は真上を通り過ぎていた

 この時刻になると昼食をとる者が多いためだろう。客もまばらになり始めた。グレンとシェリーが交代で店番をし、イヴは食事にすることとなる。イヴも手伝いながらテーブルに昼食を用意して席に座った。今食卓にはイヴとグレンがついている。グレンには事前に自己紹介を済ませてから椅子に腰掛けていた


「働いてみてどうだい?」
「とても忙しいです……でも、頑張ります」
「そうかそうか。やる事はそれほど多くはないから慣れるまでそう時間はかからないだろう。イヴ君は若いしあっという間だよ」
「頑張ります」


 期待に応えなくてはという想いからイヴは真摯に深く肯く。連続の頑張る宣言にグレンはやや困った顔をした


「これから長い付き合いになるんだ。そう緊張しなくていい。肩から力を抜いて、楽しむようにやってくれればいいんだ」
「楽しむように……」
「そうだ。そうすると自然な笑顔が出るからね。接客は笑顔が大事だよ」
「笑顔が大事……。わかりました」


 オウムのようにグレンの言葉を繰り返し、言葉を呑み込んだイヴの顔は先程よりは綻んでいた

 一足先に食事を済ませてグレンはシェリーと交代する。イヴはスープを飲み干し、パンも食べ終えてサラダに手をつけていた。シェリーとも軽く話をして食べ終えた。食器を片付けていくとシェリーに声をかけられる


「午後からはピークの時と違ってそんなに押し寄せないから、休憩とって好きにしていていいよ」
「え……でも」


 イヴは戸惑いを隠せずに言うが枯淡としているシェリーはさして気にした様子もなく続けた


「今日はどんな様子か見せるためのものに近いから……そうだね、陽が暮れるまでに戻って来るんだよ?」
「…………」
「ああ、明日からは本格的にやるから長い昼休憩は今日限りだからね。存分に楽しんできな」


 呆気にとられたイヴはシェリーの言葉を全部聞く事とになった
 しかしそのお陰でイヴも納得がいった。今日は様子見で明日からが通常。そう聞くと自然と腑に落ちたようだ


「じゃあ……少し出掛けてきます」
「ああ、行っておいで」
「時間までには戻りますので……!」


 エプロンのリボンを解き、エプロンを外して椅子の背もたれへとかける。シェリーに頭を下げてから裏口のドアを開けた

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