電脳世界のクリミナル

加藤彰

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電脳世界のクリミナル

第二章‐3『オーシャンリゾート』

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  3

 そしてさらに翌日――七月七日、日曜日。

 本日は待ちに待ったプールへ行く日。
 七城市、蔵慕町くらぼちょうにあるオーシャンリゾート。入場料金は子供が一〇〇〇円、大人が一五〇〇円と、中々いい入場料金を要求してくるが、規模は関東地方でも一位二位を争う大型プールだ。基本的な競泳用プールをはじめ、小さなお子様のための子供用プール、波の出るプール。

 そして目玉は、超大型ウォータースライダー。なんと、最高時速は五〇キロを超える。もはや道行く自動車とほぼ同速度となるのだ。
 結城はプールサイドで海パン一丁で友人二人を待っている。その二人は色川咲楽と西條海実。
 昨日、昼食時にプールの話が出たかと思えば、もう早速プールに来てしまっている。これを提案した咲楽の行動力は計り知れない。

「遅い……」

 だが、そんな行動力のある咲楽でさえも現在結城のことを待たせている。いや、いつものことなのだが、今回ばかりはあまりにも待たせているのだ。中へ入ったのは同じタイミングだというのに。

「女子の着替えは時間がかかると聞いたことがあるが、まさかここまでとは……」

 プルーサイドに出て、咲楽たちを待ち続けて約一〇分。未だに出てくる気配すら感じない。ひたすら女子更衣室の方をチラチラと見るが、誰もが知らない人ばかり。

 しかし、まだ七月頭だというのに、このオーシャンリゾートはとても賑わっている。やはり今年の夏は非常に暑いからだろう。どこもかしこも人、人、人の大群。もしかしたら、自分が見逃してしまっただけですでに咲楽たちは着替えを済ませて出てきているのかもしれない。

 そう思った結城は周りをくまなく見渡す。
 知り合いは――いない。そう思ったときのことだ。

「ん? あれは……」

 どこかで見たことのある女性。だけどそれが誰だか思い出せない。前にどこかで会ったような気がするが、一体いつ、どこで会ったのだろう。
 赤毛の長身、後ろ姿を見ただけでも惚れ惚れするようなスタイルの良さ。あれだけセクシーな体つきをしているなら覚えているはずだと必死に結城は思い出そうとする。
 うーん、と唸っているそのときだ。

「ゆうくん!!」

 後ろからいきなり大きな声が響き渡る。耳がキンキンして痛くなるくらいだ。

「咲楽、おせーぞ」
「ごめんごめん。ところで……どう?」

 ない胸を張りながら自己主張する咲楽に、結城は面倒くさそうに答えた。

「……まぁ、いいんでねーの?」
「いい加減だなぁ」
「毎年毎年同じ質問聞かれても困るっつーの。てか、咲楽ならどんな水着を着ても似合うんじゃねぇか?」
「そ、そうかなぁ……。じゃなくて、ぶっちゃけわたしのことはどうでもいいの! 今日のメインは海実ちゃんなんだからね」

 咲楽の後ろに隠れる小柄な少女、その名も西條海実。恥ずかしがってじっとその場に留まり続ける彼女にしびれを切らしたのか、咲楽は思い切って海実の手を引っ張って自分の前に連れてくる。

「…………」

 結城は言葉を失った。
 まず、目の前にいる女の子が本当に西條海実なのか。まずそこからの確認だ。目を瞑りながら恥ずかしそうにしている黒髪ロング。間違いない、彼女は西條海実で間違いない。

 だが、気がかりなことが一つだけある。男としては大変口に出しづらいので言葉にはしないが、その体つきだけは信じられなかった。

 そう、咲楽と並ばせたときの――二つの山の大きさが段違いなのだ。胸元が水着のヒラヒラで誤魔化されているため、咲楽だけを見ていればさほど気にならないが、海実と並ぶと別だ。明らかに違いすぎる。

(こう、つまり、その、結局のところ、ストレートに言ってしまうと、咲楽に比べて西條のパイオツがデカいのが分かっちまう。いや、咲楽と比べるだなんて全世界の女性に失礼だ。日本人の平均的な女性の乳房の大きさから見て――デカい)

 ここで結城も気付く。そう、西條海実は――。

(着やせするタイプ!?)

 咲楽とまったく同じ反応を示す結城。いや、きっとこの二人でなくとも同じ反応をするだろう。きっとそうだ。そうに決まってる。

「あぅ……榊原せんぱい、どう、ですか?」
「へぁ!? そうだなぁ……可愛いと思うぞ。うん、咲楽とは比にならんくらいにな」
「ちょっと、なんでわたしと比べるの!?」
「黙れ小僧!!」
「こ、小僧……?」
「いいか、よく見ろ西條を!」
「うん」

 じっと海実のことを見つめる咲楽。心なしか、少し表情が緩んでいる。

「可愛いねぇ……」
「そうだろそうだろ。じゃ、お前は自分の体を見つめ直そう」
「うん」

 そして、少し長く感じるくらいの時が流れ…………咲楽は地面に突っ伏していた。
 まだプールに入ってもいないのに、咲楽の頭周辺の地面が濡れているのはなぜなのだろう。謎は深まるばかりである。

「西條……お前の勝ちだぜ。誇っていい」
「あ、はぃ……。でも、色川せんぱいは、どう、するんですか?」
「大丈夫大丈夫、これ咲楽も楽しんでやってるから。そうだよな咲楽?」
「うん。でも、あらためてわたしの体は貧相なんだなぁ、ってショックを受けたよ。やっぱ格の差を見せつけられてしまうと、なんかこう、悔しいよね」
「気にすんなよ。西條は西條、お前はお前だ。それに、俺はお前のそのスレンダーな体つき、嫌いじゃないぜ」

 沈黙が流れた。結城はちょっとした変態発言で場を和まそうとしただけなのに、なぜこんなにも変な空気が生まれなくてはいけなかったのか。とても嫌な空気が流れ、とても暑い夏初頭なのに、プールに入る前なのに、変な寒気に襲われた。

「ゆ、ゆうくんのぉぉぉおおお……バカアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「へブラッ!?」

 そのとき、結城のお腹辺りから嫌な音が聞こえた。今は海パン一丁。つまり、上には何も羽織っておらず素肌を守るものはなにもないということだ。

「そ、そんなガチに受け取らなくてもいいじゃないか。つか、へブラってなんだよ。新種のヘビかなんかかよ」

 そんな彼は現在、軽く宙を待っている。
 咲楽の、今まで見たこともない力が結城のお腹へと吸い込まれていった。その結果がこれである。一体、今の馬鹿力は何だったのだろう。人間が無意識の内にかけている力のリミッタを少しだけ外したのだろうか。
 そんな呑気なことを考えている結城は、ようやく自分がどこへ飛ばされたのかようやく理解した。

(今年初めてのプールが、こんな形になるだなんて誰が予想できたし)

 ドパーン!! と、激しい水しぶきを出しながら祝☆入水。
 海パンがズレて半ケツ状態になりながら、競泳用プールの中央に浮かぶ彼は、監視員のおにーさんに助けられるなりこっぴどく怒られたとさ。めでたし。めでたし。

 さて、一方女の子たちはというと。

 仲良く手をつなぎながら波の出るプールでキャッキャウフフと楽しそうに遊んでいた。
 やはり、女の子は女の子同士で遊んでいた方がいい。野郎なんかはいらないのだ。
 むしろこの場面で野郎が混じる方が野暮というものだろう。

「せんぱい、絶対に手を離さないでくださいね」
「大丈夫だよ。海実ちゃんの手は死んでも離さないからね」
「せん、ぱい……」

 なにやらいい雰囲気だ。これはあれだろう、一部の男子諸君が歓喜しちゃうレ……いや、百合と言うものだ。この空間は男子禁制! 絶対に男をこの場に入れてはいけないのだ。
 それを守れない者は愚かというもの。

「くっそ……咲楽が俺を誘ったくせにこの扱いかよ。あれ、これ俺要らなくね? いかん、このままではマジメに俺がここに来た意味がなくなってしまう。何としてでも役に立たなくては――」

 何か武器はないのか、と焦りながら周りを見渡していたとき、目の前に飲み物を手に持つカップルが横切る。
 その瞬間、結城に電流走る。つい三日前は本当に電流を走らせていたのだが。

「こ、これだ……シンプル・イズ・ベストとは誰が言ったのか分からんが、これで気が利く人認定を貰えるはずだ!」

 今回はひどく独り言が多い結城。周りから変な人と思われているのに気付いていないくらいに、結城は精神的に追い詰められていた。せっかく女の子とプールに遊びに来たというのに、カッコいいところを見せずに終えてしまうと思ったからだ。
 プールサイドでチラチラと咲楽たちを見守る。それは、飲み物を買いに行くタイミングを見計らっているからである。遊び終えてちょっと疲れたところに飲み物を渡す。これで感謝感激されるはずだ。
 そこで、気が付いた。

(あれ、咲楽はいいとして……西條は何の飲み物がいいんだ!?)

 そう――この作戦、キライな飲み物を買ってしまった瞬間に総崩れするのだ。付き合いの長い咲楽はどういう飲み物を買ってあげればいいのか簡単に予想はつく。しかし、知り合って間もない海実に関しては好みなど知る由もなかった。
 ここで、買ってあげるべき飲み物を考察してみる。

(まず、炭酸系……これは絶対にありえない。好きなのかもしれないが、無難ではない。嫌いな人がいる確率が高いからだ。そして酸っぱい系のオレンジジュースも諸刃の剣だ。これも好き嫌いが分かれるからもし嫌いだった場合――。だからと言ってお茶など愚の骨頂!! やはり甘いジュースの方が喜ばれるに違いない。ならここで買ってあげるべき飲み物はこれしかない……!!)

 そして、咲楽と海実がプールから上がってくる。
 そこに颯爽と飲み物を持ちながら現れるのは榊原結城。

「お嬢さん方……飲み物はいかがでしょうか?」

 もうキャラもクソもない結城。もう、プライドのプの字もない。ただひたすらに、今自分がここにいる理由を追い求めているのだ。

「プッ……なにそれ。ゆうくんってそんなキャラだっけ? アハハ、おっかしー」
「榊原せんぱい、大丈夫、ですか? 頭をぶつけて、おかしく、なっちゃいましたか?」

 グサッ、と心臓に何かが刺さったような気がした。
 これは完全なる自爆。周りどころか自分すら見失っていた結城にとって、現実に戻してくれる二人の言葉はどんな薔薇よりも鋭いトゲを持っていた。

「はぁ……もういいや。で、飲むの? 飲まないの?」
「なに、ゆうくんの奢り? なら遠慮なく頂きまーす」

 結城の手から飲み物が一つなくなる。美味しそうに飲んでいるところを見ると、買ってよかったと思えるから不思議だ。別に自分で作ったわけではないのに。

「西條も飲めよ。俺の奢りだから。トロピカルジュースだけど、大丈夫か?」

 そう、彼が勝ったのは様々なフルーツで作られたトロピカルジュース。そこまで酸味は強くなく、飲みやすい一品。このオーシャンリゾートで人気商品となっているため、なんだかんだで一番無難な商品を選んだだけに過ぎない。

「はぃ、大丈夫です。ありがとう、ございます、榊原せん、ぱい」

 ニコっと笑いながら小さな口でジュースを飲む。その姿がとても愛らしく、抱きしめたくなる衝動に駆られたが、結城はなんとか抑え込んだ。やってしまえば咲楽のパンチで今度は場外に吹き飛ばされてしまうからだ。
 まぁ、とりあえず喜んでくれて何よりだ。結城は彼女の笑顔を見るだけで十分であり、それ以上は何もない。

「あ、あの……わたし、やってみたいことが、あるん、です」

 ちょっと戸惑いながら言う海実。言って良いのか悪いのか、その判断がつかないらしい。二人はとりあえず、その内容を聞いてみることにした。

「なんだ?」
「ウォーター、スライダー、やって、みたい、です」
「うっふっふ……ならば行こう、すぐに行こう!」

 何やら意味深な笑みを漏らしながらウォータースライダーに向かう咲楽。テンションが上がってしまっているためなのか、はたまた違う理由なのかは定かではないが、海実のことを置いて行ってしまった。
 これはつまり……。

(俺が西條を連れて行けってか!?)

 しかし、しかしだ。結城にとって女の子と手をつなぐハードルはスカイツリーよりも高いものだ。咲楽と手をつなぐのとはわけが違う。幼少期から共にいた人と、つい最近知り合った人を比べてはいけない。

 時は――すでに遅かった。先に行った咲楽がこちらを見て悪い笑みをこぼしている。つまり、これは咲楽が意図的に作り上げたシチュエーションッ!

「咲楽ぁ……!!」
「あ、あの、榊原せんぱい、どうかしたんですか?」
「んあ? き、気にすんな。よし、行くぞ西條」
「あ、あぅ……」

 結城は海実の手を取り、ぎこちなく歩き出す。
 突然の出来事に海実は言葉を発することもできなかった。この今の状況があまりにも恥ずかしいから。男の人に手を引かれながら、プールサイドを歩く。その光景は、見知らぬ人が見ればほとんどの人が恋人同士だと思うだろう。
 すでにウォータースライダーの順番待ちの列に並んでいた咲楽に追いつくなり、結城は鬼の形相でこう言った。

「俺たち二人を置いてさっさと行っちまうだなんて酷いぞ。このクズが」
「な……たったこれだけのことで私をクズ呼ばわりだと!?」
「西條を置いていくとかクズだろ。どう考えても」
「反論できない……だと……!?」
「ほら西條、言ってやれよ」
 海実は戸惑いながらも、ちょっと面白そうと思い、行動に移した。
「わたしを置いていくなんて、酷い、ですよ。失望、しました」
「――――!?」

 言葉にできない、何かの動物か何かと思ってしまう甲高い叫び声が響いた。
 咲楽の心臓には形容し難い衝撃が走り、その場に膝をついてしまった。片目をつぶり、辛そうな仕草をして、こう言った。

「海実ちゃんを使うとは、ズルいでござるぞゆうくん……」
「何とでも言え。お前が悪いことには変わりないんだからな」
「反省します。申し訳ありませんでした。いや、マジで。これマジだから。だから、ね? 海実ちゃん許してぇ!! 何でもしますから!!」
「ん? 今何でもするって、言い、ました、よね?」
「え、それは……」
「色川せんぱい、私のこと、しっかり、支えて、ください、ね?」
「う、海実ちゃん……」

 感情が抑えきれなかったのだろう。咲楽は海実に抱き付き、更に頬ずりまでやりだした。しかし海実は嫌そうな表情はしていない。むしろ咲楽にそうしてもらえるのが嬉しいご様子。

(昨日の咲楽とのデートで随分と仲良くなったようだな。さすがは咲楽、年齢の隔たりなんか関係ないか)

 海実にとって、あの三日前に咲楽が声をかけたそのときから、海実にとって咲楽は救世主だったはずだ。それに、昨日は海実をいじめるクラスメイトをカッコよく撃退したのだから、もう海実にとって咲楽はヒーローにしか見えないはず。
 だから、こんなに激しいボディタッチにも嫌な顔一つせず、むしろ嬉しがっている。

「お、気が付けばもう少しだぞ」

 前の人はすでにおらず、気が付けば列の前の方へと来ていた。
 さて、ここからが重要だ。海実は咲楽といっしょにスライダーを滑る。さて、問題です。榊原結城はどのポジションに行くのが正解でしょうか?

 一、一人寂しくボッチスライダー。
 二、このまま滑らずバック・トゥ・ザ・プールサイド。
 三、キミに抱き付いちゃうぞ! 咲楽の後ろを滑る。
 四、俺に抱き付いちゃってもいいんだぜ? 海実にしがみ付いてもらう。

 さぁ、どーれだ?

(ど、どれもやりたくねぇええええええええ。咲楽に抱き付けば無言の腹パンは不可避だ。だからと言って西條にしがみ付けとか言えねぇよ! なに、やっぱ俺はこのまま戻って再びバイ・ア・ドリンクしてればいいの!?)

 オロオロしていたとき、結城の下に救いの手が差し伸ばされる。

「じゃあ、ゆうくんは先頭切ってね? 海実ちゃん、ゆうくんのこと離しちゃダメだからね?」

 結城は感動した。持つべきものは幼馴染だと思った。自分は一体どうすればいいのか分からなくなっていたときに、やるべき道を示してくれた。これで迷いなく結城はウォータースライダーを滑ることができる。ただ、結城は海実と密接することをすっかり忘れていた。

 その結果が、これだ。

(あっれー? 何だか柔らかいものが背中に当たってるぞぉ?)

 はずがしがる海実を、咲楽が腕を持って半ば無理やり結城の腰に手を回させたのである。何という役得だろうか。こうなることを頭からすっかり抜け落ちていた結城は突然のことに心臓が飛び出しそうになった。

 そして結城は堪えていた。なんだか体の下の方が熱くなるのを堪えていた。男として、いや、人間として、民衆に汚いテントを見せるわけにはいかないのだ。
 もし見られれば、きっと彼は引きこもりになる。十中八九、外には出られなくなるだろう。
 だから耐えているのだ。この、男の戦いに。

「さ、さっさと滑ろうぜ! な、なぁ咲楽」

 声が震えている。圧倒的に震えているのだ。

「よっし、じゃ行っちゃおう!」

 終始、黙ったままの海実。こうなるのは予想外だったのだろう。なんて言ったって、男の人に抱き付いているのだから。恥ずかしさで顔が真っ赤になっていたが、それに気付かない結城と咲楽の二人であった。

 そして、時速五十キロメートルを超えるとの噂のウォータースライダーが今、始まる。
 最初はとてもゆっくりなスタート。何の問題もない。三人はまだ何のリアクションも取っていない。これがまだ前座でしかないことが分かっているからだ。
 緩いカーブを曲がった先、それを見た結城は絶句した。

「道が、ない!? いやこれは――」

 その瞬間、三人の叫び声がこだまする。
 唐突な大きなこう配によって、三人の体は急加速した。
 海実は結城に抱き付いていることをすっかり忘れ、その浮遊感に驚きを隠せず叫び声を出す。
 その後ろ、咲楽は純粋な楽しさから大きな声を出していた。

「アハハハハ!! 楽しー!! 速い、サラマンダーより、ずっとはやい!!」

 ネットスラングまで言えるこの余裕。さすがは色川咲楽。楽しいことはひたすら楽しむというその信念、それは本物のようだ。
 そして、先頭の結城はというと。

「いたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた!!」

 ひたすら痛がっていた。

 それもそのはず。だって、海実の爪がお腹に突き刺さっているのだから。海実は怖がってより結城を抱きしめる力が強くなっている。その際に、爪を立ててしまっているのだ。それが離さないようにするための行いなのか、深い意味はないのか、まぁ、そんなことはどうでもいい。

 背中の柔らかい感触など気にする暇もない。ただ、痛みだけが支配していた。
 すごいスピードの中、右へ左へ、胃の中のものがシェイクされるようなGに襲われ、さらにその爪は深く突き刺さる。

「ぐひぃ!!」

 なんとも情けない声を上げる結城だったが、それは仕方がないものだった。海実もわざとやっているわけではない。支えの結城を強く抱きしめるのは当たり前のことなのだ。文句など言えるわけがない。
 次に結城の目に入ってきたのは長いらせん状のスライダー。ここをグルグル回りながら下っていく。
 その遠心力によって今度は右手の爪がより深く突き刺さる。それも、この長いらせんの中、ずっと突き刺さっているのだ。それはもう、長く、とても長い。

「ぎゃああああああああああ、みぎぃ! お腹の右側がああああああああ!!」

 そのらせんを抜け、ある程度爪の食い込みは和らいで安心する結城であったが、最後の最後、この超高速ウォータースライダーを締めくくるにふさわしいものが待っていた。

 それは、超急こう配、ロングストレート。

 これが時速五十キロメートルを超えると銘打つモノの正体。
 三人の体はどんどん加速していく。
 それに従い、海実の爪はどんどんお腹にめり込んでいく。

「最後の最後にこれかよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 相変わらず楽しそうに叫ぶ咲楽。そして、可愛い悲鳴を上げる海実。
 最後に苦痛の声を上げる結城。
 この三人のウォータースライダーは豪快な着水によって幕を閉じた。

「アッハッハ!! 楽しかったねー。海実ちゃん、どうだった?」
「怖かったけど、楽しかった、です……あぅ……」

 海実は先ほどまで結城に思いっきり抱き付いていたことを思い出して赤面していた。滑っている最中はそのスピード感と風を感じ、ちょっと怖い想いをしていたから忘れてしまっていたが、今思うととんでもなく恥ずかしいことをしていると今更ながら気付いた。

「って、あれ? ゆうくんは?」

 二人して辺りを見渡す。しかし、結城の姿が見えない。
 次に後ろを向くと、水面からちょこんと顔を出している結城の姿があった。

「何してるのゆうくん?」
「何でもない。詮索すんな。先に行ってろ」
「うん? 分かった」

 咲楽は結城の言うことに素直に従った。海実と手をつなぎ、二人して水から上がる。
 そして、二人が見えなくなったことを確認すると、水面から上がる。
 その結城のお腹には見ていて痛々しい爪の跡があった。

(こんなの、咲楽に見せるわけにはいかねぇだろ)

 海実に結城のお腹に手を回させて抱き付かせるような格好にさせたのは咲楽だ。もしかしたら、責任を感じて悲しい顔にさせるかもしれない。そう思ったら、この爪の跡を見せるわけにはいかないのだ。

 別に、この爪の跡を作った張本人である海実には怒りなどは抱いていない。彼女に、プールに行かないか、と言い出したのはこちら側。彼女は今回のプールを目一杯楽しもうとしただけに過ぎない。
 これは故意にやったことじゃない。ならば仕方がないことなのだ。
 とりあえず、結城は持ってきていたジャージを着ることにした。

(体が冷えたことにしとこう)

 結城は、一人男子更衣室へと一旦戻って行った。
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