執事の喫茶店

ASOBIVA

文字の大きさ
上 下
15 / 20

7杯目【前編】

しおりを挟む
流れが変わるときはいつだって突然だ。

正確には、それまでの一歩一歩が
見えないところでじわじわ積み重なり

あるとき、臨界点を突破する

突破点まで耐え抜けるかどうか
あらゆる勝負は地道な蓄積がものをいう

彼が敬愛する大先輩であり
上司である経営者がかつて彼に
そう言い聞かせたことがある

『だから、結果が見えるまではしんどいことだらけ。
誰だってきつくてやめたくなるだろう?
それでも…お前は先を見たいと本気で思うのか。

もしその覚悟に嘘がないなら、俺と一緒にやってみるか?』

経営者がビジョンを語った時、
同じベクトルの夢を彼もまた描いた。

誰に笑われても、何かを失ったとしても
叶えるのだと決めた。

彼はそうして安定を放り出し
経営者の設立したばかりの会社に入った。

ちっぽけなコンテンツ制作会社だ。
ベンチャーと名乗ることすらおこがましいと
言われるかもしれない規模だ。

それでも、彼は未来を見た。

経営者から必死に学び、実地で経験を重ね
失敗を繰り返してなお、折れずに食らいついた。

トップの経営者の補佐の一部を担う総合ディレクター

それが、今の彼である。

(最初の臨界点は、きっともう近い)

次のアポが急にキャンセルになったことで生まれた余白の時間

ディレクターは公園の木陰でベンチに腰かけていた

携帯をチェックし、膨大なLINEやチャットを
さばきながら、SNSをチェックする

動画クリエイターや小説家、ライター…
様々なコンテンツ制作関連の連絡に加えて
後輩からの相談も来ているようだ。

次の展開に向けて、一部の信頼できそうな
インフルエンサーを見極めながら
アプローチもしていかなくてはならない。

多忙だ。
経営者の彼に比べればましとはいえ
ディレクターの時間は分刻み状態だった。

それでも

『やっと、ここまで来たよなあ…』

経営者が描いたビジョンのために必要な
ピースが急速にそろいつつある。

『知名度よりなにより、本当に信頼できる
仲間を作っていこう、育てていこう。
もろく崩れる砂の城をいくつ作っても意味がない。
どこまでも続き、時を超えて残り続ける万里の長城こそ
築くべき私たちの城だ』

経営者は執拗なほどに信頼にこだわった。
ビジネスの判断には情を挟まないことを徹底しているのに
人を見るものさしはどこまでも信頼、そして熱量だった。

数多くの失敗を重ねる中で、ディレクターは経営者の言葉の
重みを知ることになった。

口約束に何度だまされただろう。
信頼していたはずの相手にあっさり裏切られただろう。

逆に、会社の判断として相手から「裏切った」と言われても
仕方ない苦渋の決断を下したこともある。

(でも、ようやく、ようやく次の段階に進める)

経営者の彼もそう判断したようだ。
いよいよ土台固めから一歩踏み出していく時期だと。

これからが本当に楽しみだ。
そうディレクターは心から思っている。

その反面、今更な不安がたびたび彼を襲うようになった。

本当に充分なピースは揃ったのか?
積み上げてきたものを壊すような穴を
実はどこかに見落としていないだろうか?

ディレクターは公園の噴水を見つめる。
水は流れ続ける。決してもとに戻らない。

少しだけぼんやりした時間に浸ってから
彼はカバンからある書類を取り出した

今進めている一大プロジェクトの一部、
彼の夢のかけらというべき企画書だ

(時間が空いた分、企画を見直しておこう。
どこか抜かりはないか、改善できる点はないか…)

何度も見た企画書だが
彼はしつこく目を通していく

そうしてどれくらいの時間が経っただろうか

噴水の水しぶきが混じって
急に強い風が公園を吹き抜けた

ディレクターの手から書類が1枚
風にさらわれていく

彼は慌てて書類を追いかけた
企画書をなくしてしまったら大ごとだ

ひらりひらひら、1枚の紙が空を舞う

風の終着点にその男はいた。

「おや、落とされましたか?」

白い手袋をした手が拾い上げた書類が
追いかけてきたディレクターへと差し出される

『あ、拾っていただきありがとうございます』

お礼を言いつつも、彼は相手の風体に
内心ぎょっとしていた。

なにせ上質そうな白の燕尾服なのだ。
明らかに恰好が明るい昼の公園にそぐわない。

「大事な企画書とお見受けしました。
公園で読まれるのは不用心ですよ?」

男の言葉に、ディレクターは少々気恥ずかしくなった。

さすがに公園で書類チェックというのは、
思慮が足りていなかったと今更思ったからだ。

「私、これでも最寄の喫茶店を経営しておりまして。
公園よりはゆっくり書類も読める場所かと存じます。
あと、今ならきっとお気に召すサービスもご提供できるかと…」

最後に付け加えられた言葉は、なぜかディレクターには
聞き取れなかった。

ただ、場所変えは悪くないアイデアだと思った。

袖すりあうも他生の縁。
書類を見るだけなら、どこの喫茶店でも大差ない。

『書類を拾って頂いた縁もありますし。売り上げに
貢献させていただくとしましょうか』

燕尾服の喫茶店というのは想像がつかないが
誘われたら乗る、まずは面白そうなら試してみるというのが
ディレクターの常だった。

「ええ、ありがとうございます」

ディレクターの返事に、燕尾服の男はやわらかく笑った

公園から徒歩数分
奥まった路地の先へと彼らは向かう

そうして、ディレクターは扉を開け喫茶店へと招かれた

彼は知らない。

「違う世界でも『あなた』ですから
きっと多くを得てくださるでしょう」

聞き取れなかった言葉の意味など
今のディレクターには関係がない話

喫茶店は訪れる客の成功のために
存在している。

それだけのことだ
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち
ライト文芸
その喫茶店を運営するのは、匂いを失くした青年と透明人間。 コーヒーと香りにまつわる現代ファンタジー。    嗅覚を失った青年ミツ。店主代理として祖父の喫茶店〈喫珈琲カドー〉に立つ彼の前に、香りだけでコーヒーを淹れることのできる透明人間の少年ハナオが現れる。どこか奇妙な共同運営をはじめた二人。ハナオに対して苛立ちを隠せないミツだったが、ある出来事をきっかけに、コーヒーについて教えを請う。一方、ハナオも秘密を抱えていたーー。

ベスティエン ――強面巨漢×美少女の〝美女と野獣〟な青春恋愛物語

花閂
ライト文芸
人間の女に恋をしたモンスターのお話がハッピーエンドだったことはない。 鬼と怖れられモンスターだと自覚しながらも、恋して焦がれて愛さずにはいられない。 恋するオトメと武人のプライドの狭間で葛藤するちょっと天然の少女・禮と、モンスターと恐れられるほどの力を持つ強面との、たまにシリアスたまにコメディな学園生活。 名門お嬢様学校に通う少女が、彼氏を追いかけて最悪の不良校に入学。女子生徒数はわずか1%という特異な環境のなか、入学早々にクラスの不良に目をつけられたり暴走族にさらわれたり、学園生活は前途多難。 周囲に鬼や暴君やと恐れられる強面の彼氏は禮を溺愛して守ろうとするが、心配が絶えない。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

吸血鬼が始めるダンジョン経営 ~アトラクション化で効率的に魂採取~

近衛 愛
ファンタジー
吸血鬼のウィーンは、仕事が出来ない役立たずと、ブラッドワインを生産している家から勘当されて追いだされました。 ニートになり、貯金を切り崩して生活してたある日 『ダンジョン経営始めませんか?』というダンジョン経営のメールが来た。ウィーンは経営者になることを決め、日本でダンジョンマート金沢支店をオープンすることになった。 伝説に残る、九尾の狐や座敷童、天邪鬼、猫耳娘などの物の怪と協力しながら和気あいあいと経営を進めていく。 ダンジョンの探索には危険が伴う、安全に冒険するためには保険契約が必要?その対価とは……。人間の寿命???古今東西の物の怪が協力しながら、経営する一風変わったダンジョンストーリー ダンジョンでの人間の集客と、スタッフの募集に頭を抱えることになるウィーン。様々な出会いがウィーンを成長させていく。たまにダンジョンを私物化し、温泉スパリゾートや、スキー、オアシスでの海水浴場を作ったり、物の怪の思惑が重なりダンジョンは一体どこへ向かっていくのだろうか? おっちょこちょいな猫耳娘ミリィとのかけあいのあるちょっとした笑いのあるストーリー。あなたがダンジョンの経営者なら、どういうダンジョンにしますか?

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

月は夜をかき抱く ―Alkaid―

深山瀬怜
ライト文芸
地球に七つの隕石が降り注いでから半世紀。隕石の影響で生まれた特殊能力の持ち主たち《ブルーム》と、特殊能力を持たない無能力者《ノーマ》たちは衝突を繰り返しながらも日常生活を送っていた。喫茶〈アルカイド〉は表向きは喫茶店だが、能力者絡みの事件を解決する調停者《トラブルシューター》の仕事もしていた。 アルカイドに新人バイトとしてやってきた瀧口星音は、そこでさまざまな事情を抱えた人たちに出会う。

処理中です...