執事の喫茶店

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2杯目【後編】

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燕尾服の男に半ば強引に誘われた
扉の向こう側は確かに喫茶店としか
言えない空間だった

昔憧れた子供の秘密基地が
上品な大人空間になって帰ってきた

そんな錯覚すら抱かせる空気がある

『意外とまともな店だったんだな、安心した』

そうぼやきながら席につく

WEBライターに燕尾服の男は、ただ笑った

彼は自らを執事と名乗った

喫茶店を道楽で営んで
客との会話を楽しんでいるらしい

「当店はおすすめメニューしかございません。
お客様にふさわしい一品をご提供させていただきます」

カウンターの向こうで
一礼する執事にWEBライターは

『ふーん』と
適当な相槌で応える

できれば眠気が飛ぶようなものだとありがたい

今夜の仕事を思い出して
彼は一応の希望を付け加えた

執事は軽く頷いた手は止めない
ところを見るにメニューの変更はないらしい

(おすすめってコーヒーなのか)

(丁度いい)

執事がその場で豆を挽き
細く湯を注いでいくのを彼は
ぼんやりと見つめていた

芳しい香りが店を満たしていく

コーヒーが抽出されていく様子は見ていても楽しい

この怪しい喫茶店に入ってから
WEBライターの心は知らず浮き立っていた

「お待たせ致しました。
本日のおすすめです。今のあなたにはぴったりかと存じます」

差し出された白磁のカップの中で
琥珀の水面が揺れるカップの横には
ミルクピッチャーも添えられていた

「お好みでミルクもどうぞ…
違う味わいが楽しめます。
砂糖もございますが、ノンシュガーの方がお好みかと」

WEBライターの好みはブラックだとはいえ
最近胃が痛むことが多かったのでミルクがあるのはありがたかった

まずは一口何も入れずに味わう

少し濃い目だが苦味と酸味のバランスが丁度いい

ほのかに甘い後口がやみつきになりそうだ

カップの半分ほどをブラックで
楽しんでからミルクを注いでみた

ミルクに何か工夫がされているのだろうか

味わいがより複雑かつ、濃厚になってたまらない

(思ったよりレベルが高いな…)

うまいコーヒーと出会えた

それだけでも完全な期待外れにはならなそうだ

WEBライターはそっと胸を撫で下ろした

「さてそろそろ本題と参りましょう。
あなたが苛立っていらっしゃった理由を
よかったらお聞かせ頂けませんか?」

執事は口に指をあて秘密は
厳守いたしますよと薄く笑みを浮かべた

なんとなく信じてみてもいい気持ちになった

具体的な社名や案件名は
一切出さずに状況を説明する分には
企業案件の信用問題にも
ならないだろう

残っていたミルクを全部注ぐ

随分と白くなったコーヒーを
飲みながらWEBライターは
自分が抱えていた葛藤をゆっくり吐き出した

執事はただ彼の言葉が終わるのを待つ

悩みを言語化できるだけで
実は解決に近づいていることを
彼は経験上よく知っていた

「ふむ…つまりあなたはご自身の仕事の価値を
不安に思われているのですね?
お相手の企業が信用できないというより
今までのご経験から、安く買い叩かれている
印象を捨てられない」

執事があっさりと要約した内容を
WEBライターは首肯した

クラウドワークスやランサーズで
ありえないほど安く自分たちの
労働力が奪われる

しかもプラットフォーム内でしか
業績として蓄積されない

そんな状況を長く経験してきたからこそ
企業案件の単価の安さに
余計に不信感を抱いていたのだ

直接取り引きする以上
手数料もかからないはずなのに
どうして安いのかを、WEBライターはずっと気にしていた

「まず大前提として、仕事の価値は誰が決めるのか。
少なくともあなたではないわけです。
そこから考えてみましょう」

指をピンと立てた執事はそうして語り始めた

価格が仮に無料であっても
商品やサービスが不要あるいは
クオリティが必要に満たないなら
一方通行でしかない

相手にとってはやり取りに
割く時間や労力がすでにコストだ

「お相手の企業さまは安価とはいえあなたに
お金をお支払いするのですよね?
やり取りをされているのですよね?」

WEBライターはハッと目を見開いた

確かに継続前提でお金を頂くことになっていたし、
記事に対しても改善のフィードバックや諸連絡を
担当ディレクターとやり取りを交わしていたからだとはいえ
単価は相当安いわけだが

「そうは言っても、仕事の単価がご不満ですか?
時給換算で勝手に価値を決めてしまうのは
お互いにとって不幸なことだと私は思います」

抱いた不満が顔に出ていたらしい
執事は苦笑しながらさらに言葉を続けた

継続性がなく発展性もない

自分の成長も見込めない

もしそうなら単価が低いことを
理由に仕事を打ち切るのは
クリエイター側の自由だ

ただもし今は単価が安くても
これから伸びる可能性があり
実績として蓄積でき成長も見込める
全てに当てはまらなくても
お金以外の価値が見いだせる案件も存在する

「相手の企業もまた、あなたの仕事に価値を求めているのです。
相手が望む価値を知らなくては意味がない。
そしてあなたの求める成功はどんな未来でしょうね。
どんな価値を積み上げればそこに届くのでしょうか?」

執事の言葉をWEBライターは
うまく飲み込めなかった

仕事の価値を可視化したものが
単価だと思っていただから
単価をあげようと必死で
あがいてきたのに執事の言葉は
その前提から覆したのだ

無性にのどが渇いた

WEBライターはカップに残った
コーヒーを一気に全部飲み干した

世界がなんだか揺れている

そしてまぶたがやたら重い

執事に返す言葉を見いだせないまま
WEBライターは意識を手放した

カウンターに突っ伏した姿を
見届けて執事は小さくため息をついた

「やれやれ…やはり疲れがたまっていましたか」

体が疲れている時はまず
思考がまともに働かない

彼に必要なのは休息だろうと
執事は判断していただから
おすすめの一品はノンカフェインコーヒー

ブランデーを数滴垂らしミルクには
アイリッシュクリームの
リキュールを混ぜて提供した

「アルコールに頼るのはよろしくありませんが
心の枷を解くには有用ですね」

執事はWEBライターの肩に薄い
ブランケットをそっとかけた

「また落ち着いた頃にお会いしましょう。
できれば今日の言葉を覚えて活かしてくださればいいのですが…
彼が成功をつかむかどうか恐らく分岐点でしょうから」

執事の呟きを彼は知らない

目を覚ますとWEBライターは自室のベッドの中だった

『あれ…俺いつの間に家に戻ってたんだ?』

コンビニ帰りに変な喫茶店に連れて行かれて
美味しいコーヒーと理解し難い話を聞かされたような
記憶があるのだが夢だったのだろうか

『そうだ仕事!』

時計を見れば朝の5時

納期を考えればぎりぎりの目覚めだ

WEBライターは慌てて記事の作成にとりかかった

そして驚く最近追い詰められていたからか
記事を書くこと自体彼には苦痛だったのだ

それなのに思考がまとまるし、言葉がすらすら出てくる

文章を書くのが楽しい

久しぶりの感覚にタイピングが弾む

数時間後

無事に納期を守って仕事を、納品することができた

WEBライターは知らない彼の携帯の決済アプリに
謎の履歴が残っていることを

そして後に一通おかしなメールが届くことを

「エナジードリンクをお預かりしております。
ただ胃にはよくないので多用はおすすめしませんが…
またお目にかかりましょう」
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