執事の喫茶店

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2杯目【前編】

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この社会を生き抜くには、会社員だけでは不安定だ。

起業しろ、副業しろ。

そんな言説がさも正論のように、
SNSでは今日も繰り広げられている。

Twitterのタイムラインにしばし目をやってから
WEBライターはうんざりとため息をついた。

起業しろ、副業しろ、なんて言葉の多くは情報商材やら
コンサルやらの売り文句だ。

需要と供給を思えば、別に悪いことでもない。

(ただなあ、起業っつったって、そうそう甘くねえよ)

男は会社員をしながら、ライティング業を副業として営んでいた。

自分の力で収入を増やすビジネスというのは、魅力的に思えた。

ブログを書いて、更新を続けた。

ランサーズやココナラで受注を受け、
継続案件に繋がったこともあった。

でも、収益は会社からもらえる給与とは程遠い雀の涙。

そうして、会社は2ヶ月前、いきなり倒産の憂き目を迎えた。

会社員という立場は失われ、男は唯一残った
WEBライターという不安定な肩書にすがった。

けれど、ライターの仕事がいきなり増えるはずもない。

思うようにいかないことがあまりに多かった。

SNS経由で企業案件に採用されたのは快挙だったが
最初ということもあり想像以上に単価が低い。

やり取りをしている相手企業の面々は信頼できると思うが
正直、時給換算では割に合わない案件だ。

自分の仕事には思ったよりも価値がないのだろうか。

それとも実は騙されて、搾取されているのだろうか。

焦って、自棄になっている。

疑心暗鬼に陥っている。

WEBライターは自覚していた。

もっとも自覚と制御は別の話だ。

原稿の締切は明日だというのに、
仕事が一向に進まない。

下調べは済んでいるものの、
集中が切れて考えが整理できない。

こんな状態で書いても納品できる
レベルの記事に仕上がるはずもない。

(仕方ない、気分転換するか。
あと徹夜のおともにエナジードリンク調達してこよう)

夜23時を過ぎようかという頃WEBライターは携帯だけを
握りしめ、最寄りのコンビニへと向かうことにした。

携帯だけで決済ができる楽な時代だ。

今まで必要だったものも、次々といらなくなっていく。

身軽なはずなのに、心もとない。

「ありがとーございましたー」

のっぺりとした店員の決まり文句に見送られコンビニを出る。

お目当てのエナジードリンクは手に入ったものの
ささくれた気持ちは収まらない。

なんとなく家にすぐ戻る気にもなれず
WEBライターは見知らぬ路地へと足を向けた。

通い慣れたはずの街の景色が一本違えただけで、
異世界が口を開けたかのようだ。

ふと、夜空に手を伸ばしてみた。

星たちは、街の灯りで輝きを失っている。

ライティングを始めたばかりの頃の自分を思い出す。

手探りばかりで全てが新鮮で、失敗してもわくわくした。

あの頃の鮮やかな感情はどこに行ってしまったのだろう。

歩いて歩いて、行き止まり。

自分の前に立ちふさがるコンクリートが無性に腹立たしい。

「ちくしょう…」

苛立ちのままに、壁を蹴りつけた。

足から伝わる衝撃に、WEBライターは
のけぞりそのまま尻もちをついた。

「おやおや、大丈夫ですか」

声とともに、手が差し伸べられる。

あわてて男は顔を上げた。

目の前に、全身が白ずくめの男が立っていた。

見慣れない格好だが、燕尾服というやつだろう。

手にまで白手袋をしているあたり、徹底している。

「あまり乱暴なことをされるとご自分が傷つきますよ。
八つ当たりはほどほどにされたほうがよろしいかと」

燕尾服の男は、あまりに現実味が感じられなかった。

しかも男が現れた側は、行き止まりの壁だ。

先程まで人の気配などなかった。

この男は一体、どこから現れたというのか。

WEBライターは体を震わせた。

「おや、怖がらせてしまったようですね。
実はあちらに店を構えておりまして」

燕尾服の男が、行き止まりの壁の側面を手で示した。

そこには確かに木製の扉があった。

上品な作りの扉は場違いなほどの存在感を放っている。

普通ならすぐ気がつくだろうが、周りを見回す余裕など
なくしていたから、見落としたのかもしれない。

「しがない喫茶店ですが、
今のあなたに必要なものはご提供できるかと」

燕尾服の男はWEBライターの
腕をつかんで立ち上がらせたかと思うと、
そのまま扉の方へと彼を引っ張っていく。

WEBライターは当然抵抗しようとした。

が、耳に飛び込んできた言葉に思わず固まる。

「あなたが今の状況から成功を望むなら、
この機会は逃さないほうが賢明だと思いますよ。」

初対面の相手の言葉だ。

信憑性があるわけもない。

それでも、その言葉はWEBライターに重く響いた。

(怪しいことこの上ないが…ええい、なるようになれ!)

「携帯しか今持ってないんで、
携帯決済できるなら一杯だけ。
まあ、期待はしないでおきます」

男の言葉には小さな笑みが返ってきた。

「問題ございませんよ。
ご期待に添えなければお代は結構です」

そうして、燕尾服の男に招かれ、
WEBライターは警戒しつつも扉をくぐることにした。

燕尾服の男、執事は小さくつぶやく。

「今宵のお客様は少々荒れておいでですが、
さてどんな成功を望まれているのでしょうね」
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