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第二十三話 続・拠り所
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重くて不安定で、息苦しささえ覚えるような沈黙が、二人の間に深々と降り積もっていた。
言葉を探しても、何も見つからない。喉が強張り、口の中もひどく乾いていた。
僕とまりあさんは、並んで座りながら同じ方向を見つめている。二人の間には何もないはずだ。ただ流れる空気だけが静かにたゆたっているはずなのに、そこには暗くて底知れない影が居座っているような、妙な気配が壁を作っていた。
次第に、その気配が圧し掛かってくる。
まりあさんは僕の変化に気づいているのかもしれない。それでも何も言わず、ただ黙ったまま僕が口を開くのを待っているようで、じっと遠くの一点に視線を留めていた。
やがて、僕はその重圧に耐えきれなくなり、喉をひくつかせながらやっとの思いで口を開いた。
「……ごめんなさい」
絞り出した声は、か細く震えていた。だがその言葉に、まりあさんはすぐに首を振る。
「違う。私が聞いているのは、試合の結果。誰がどうとか、そういうことじゃないわ」
「……わからないんです」
思わずつぶやいた言葉に、まりあさんが静かに問いかける。
「どうして?」
「会場に……行っていないから……」
フッと消え入りそうな声で言う僕を、まりあさんはじっと見つめ、少し考えるように目を細める。
「何か、複雑な事情がありそうね」
僕は黙って頷いた。その頷きが、自分自身への小さな告白のようでもあった。
しばらくの間、まりあさんは何も言わず、ただその視線を優しく僕に向けていた。そして、意を決したように、柔らかな口調で問いかけてきた。
「ねえ、一つだけ教えてくれない?」
静かで、だけど心に響く声。まるで僕の迷いや葛藤を包み込むようなその言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「みっちゃんは、そのとき自分に嘘をついたの?」
「え?」
意味がわからなかった。僕が怪訝な顔をしていると、
「その、行かないという選択をしたとき、自分に嘘をついたのかってこと」
選択……。
ーー僕は、いったいどんなことを考えていた?
まりあさんは、穏やかな眼差しを僕に向け、まるで心の奥を照らすかのような柔らかな声で語り始めた。
「山を知るためには、その険しい道を一歩ずつ踏みしめて、頂上まで登りつめることが必要。海の真実を語りたければ、その青さの奥深く、深海にまで身を沈める覚悟がないと、その本質にはたどり着けない。そして人の心……その奥底に触れようとするなら、ただ表面をなぞるだけじゃなく、懐の奥深くに飛び込んで、相手の本音を受け止める勇気や強さが求められるの。みっちゃんもきっと、そうやってありさの懐に飛び込んでいったのね。そしてありさの中に何かを見つけて、自分もありさに語りたくなった……もっと深く、もっと近くにいたいと願った。それがきっと、ありさとの特別な関係の始まりで、その関係がみっちゃんの『選択』の理由でもあったはず。そしてさっき言った『ごめんなさい』という言葉も、そこから生まれたものなんじゃない?」
まりあさんの言葉に、僕はすべてを見透かされてしまった。けど、そのことに不安や羞恥は不思議と感じなかった。むしろ、まりあさんの真摯な瞳に引き込まれながら、清々しい心持ちでその視線を受け止めていた。
「生きていく中で、どうしても間違いはついて回るものよ。時には、どちらを選んでも不正解のように思えるときもある。でもそのときに大事なのは、どんな結果になろうとも、自分を信じて選ぶこと。言い訳なんて通用しない、たらればを語る余地もないくらいに、すべてを背負ってね。そうして選んだ先にこそ、道が続いていくものなの。もしその選択をせず、ありさに飛び込まなかったとしたら、キミは今どこにいたと思う?」
ーーなかったら……?
もし僕があの日、あの選択をしなかったなら……あの瞬間、ありさ先輩はきっと和志や玉津の手によって、取り返しのつかないものを奪われてしまっていたのかもしれない。その可能性が、どうしても許せなかった。たとえ大会で敗北という結果を迎えたとしても、僕にとっては勝利よりもありさ先輩への想いの方が、どうしようもないほど大きくて大切だった。
そう、僕はありさ先輩を守りたかった。自分自身と何度も向き合い、迷い、悩み、そして苦しみを飲み込みながら、そのたびに少しずつ決意を固めていった。あの車内での瞬間は決して長くないわずかな時間ではあったけど、無力感と罪悪感にも押しつぶされそうになりながら、それでも最後にたどり着いたひとつの答え。それが、ありさ先輩を守るために、会場に行かないという選択だったんだ。
「時に、人生には二つの選択肢よりも、さらに厳しい三つ目が顔を覗かせることがあるのよ。それは一見、無傷でいるための道のように思えるかもしれないけど、でもその道は往々にして、ただ逃げるためだけの選択肢なの。現実から目を逸らし、その第三の道に足を踏み入れてしまえば、後には大抵……ね、もっと重い代償が待っているもの」
まりあさんのその言葉は、まるで静かな湖面に小石を投げ入れたように、僕の心に波紋を広げた。
「でも、キミは違った。真正面からありさに向き合って、答えを探し抜いた。そして会場に行かないという決断をした。逃げたわけではなく、守るため……なのかな? まあ男の子だし、きっとそうね。その選択にたどり着くには、相当の葛藤が必要だったはず。けどその想いこそが、本当に大切なものを守る力になる。そしてきっと、今のあなたは自信をなくして後悔しているのね。まあこれは私の経験だけど、後悔をしない生き方なんて、きっと誰にとっても幻みたいなものよ。キミより年上な私だってまだ後悔しっぱなしなんだから。だから、肩の力を抜きなさい。そして自信を持って、ありさが元気になったら、また改めて向き合いなさい」
「はい……」
僕の声は小さく震えていた。まりあさんの優しい言葉が、心の奥底にまで届く。その言葉はまるで、羽でそっとなぞられているかのように柔らかくて、どこか懐かしい母性に包まれているようだった。気づけば、ずっと堪えていた涙がこぼれ落ちていた。今日、何度目だろう……つくづく僕は、こんなに泣き虫だったのかと、自嘲したくなるほどだった。
「じゃあここでもう一度質問です。あなたは、自分に嘘をつきましたか?」
まりあさんは、まるで記者会見でマイクを向けるように、僕に手を差し出しながら問いかけてきた。その仕草が少しおどけていて、けれど目は真剣だった。
僕は涙を拭った。そして、もう迷わなかった。その言葉は、自然と湧き上がるようにして出てきた。
「ついていません。僕は、自分の気持ちに正直に、自信を持って選択しました」
言い終えた瞬間、まりあさんの目が輝いた。それを見た僕は、不思議と誇らしい気持ちになった。
まりあさんは満足そうに、力強く頷いてから、今まで以上に優しい笑顔を見せてくれた。その表情には、母親らしい包容力があった。
「うん、よろしい! それでこそ男の子だ!」
そう言うと、まりあさんは僕の頭を撫でてくれた。その手の温もりに、僕の中の悩みや不安、恐怖やわだかまりが、静かに消え失せていった。なんだか、とても安心した気分だった。
そしてまりあさんは満足げに、両腕をグーッと天井に向かって伸ばして、息を大きく吐いた。
「さてさて……とりあえず、この話は終わり。ちょっと長々と、カッコつけすぎちゃったからね。あ、それと私の年齢のことは聞かないでね? こう見えても、まだ三十代なんだから」
まりあさんは、いたずらっぽく笑って言った。その笑顔には無邪気さと色気が交差していて、僕の心が微かにざわついた。
けれど、僕はその言葉に特に驚きもせず静かに頷いた。
ただ、まりあさんが最初に「母親」だと自己紹介していなかったなら、僕はおそらく二十代だと信じて疑わなかっただろう。それどころか、ありさ先輩の姉だと思い込んでいたかもしれない。それくらい、まりあさんは若々しく見えるのだ。だから、こう見えて、という言葉の意味は僕にはよくわからなかった。
それからまりあさんは、僕の心をそっと解きほぐすように、試合の結果そっちのけで、自身の家族や過去について色々話してくれた。
聞けば、この家に越してきたのは最近のことらしい。父親の気配がないのは、数年前に離婚しているからであって、それ以来ずっと先輩と二人で暮らしているそうだ。さらに、まりあさんの職業は社長秘書なのだとか。
それを聞いた瞬間、僕の胸が急にドキドキと高鳴り始めた。社長の隣で華やかに佇むまりあさんを想像すると、不意に色気を感じてしまい、内心妙な興奮に襲われた。心が浮つく自分が情けなくもあったが、その感情を抑えることはできなかった。
まりあさんはまた、ありさ先輩の幼い頃についても楽しそうに語ってくれた。ありさ先輩は幼少期から頑固一徹で、一度決めたことはテコでも動かない性格だという。その話を聞いて、僕は思わず笑ってしまった。
と、ふとした拍子に、まりあさんが思い出したように僕に問いかけてきた。
「そういえば、みっちゃんはここまでどうやって来たの?」
その言葉に、僕は一瞬戸惑いながらも答えた。
「その……実は、僕一人じゃなくて、助けてくれた人がいて。その人と一緒にタクシーでここまで来たんです。でも、その人はまりあさんが来る前に帰ってしまって……」
「えっ、タクシーを使ったの? ごめんなさい、大変だったのね。今、その人に電話できるかな? お礼も言いたいし、代金もお渡ししないといけないから」
まりあさんの口調は真剣だった。お礼と礼儀を忘れない、その細やかな人柄が垣間見えた。
「あっ、でも……ごめんなさい。番号は知らなくて……」
「なら、名前は?」
まりあさんの質問に、僕は一瞬言葉を飲み込んだ。名前を出すべきか、黙っていたほうがいいのか。その二つの間で葛藤が生まれ、心が押し黙る。洞野は確かに僕とありさ先輩をここまで連れてきてくれた、それは紛れもない事実だ。けれども、あの人物をそのまま伝えることには、どうしてもためらいがあった。
なぜなら、洞野が僕に向けて言った、「まりあのヌードを撮ってこい」という言葉。そんなぞっとするようなことを平然と言う洞野に、お礼が必要だろうか。まりあさんが感謝を示すべき相手なのだろうか。
しかもヤツは、ありさ先輩に対して決して許されない、猥褻な行為をしたんだぞ? そんなヤツのことなんて、教えるべきではないだろう。しかし、
「みっちゃん、教えなさい」
僕のためらいが長引くのを察したまりあさんが、少し強めの口調で言った。その決然とした眼差しに、僕は観念して名前を告げる。
「……洞野、です」
「洞野くんね。メモしておかないと」
そう言うと、まりあさんは立ち上がり、キッチンの方でメモ帳にさっとペンを走らせた。しかしその直後、不意に驚いたような声をあげる。
「大変、電車が止まってるみたい」
「え?」
思わぬ知らせに僕は目を見開いた。外で絶え間なく降り続く雨音が、どこか不穏に響いて耳に残る。
「雨の影響ね。……みっちゃんは、どこに住んでるの? 近くなの?」
「○○町です……。しばらくは、動かなさそうですか?」
まりあさんはスマホと窓の外を交互に見やりながら、小さく首を振った。
「そうねえ、この雨だし……無理かもしれないわね。しかも〇〇町か……少し遠いわね」
「そうですか……」
自然と肩が落ち、僕はため息をこぼした。帰り道が断たれてしまったことを、どこか受け入れられないままに。そんな僕を見て、まりあさんはふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「まあでも、心配することはないわ。今夜はうちに泊めてあげるから」
「え?」
まりあさんの申し出が一瞬、理解できなかった。
「当然じゃない。みっちゃんはありさの恩人だし、もう立派な私のお友達だもの」
「友達……ですか?」
僕は怪訝にまりあさんを見つめる。すると、意地悪そうに、
「そうよ、友達。なーに、それとも私と友達になるのがイヤなのかなあ?」
「い、いえ、そんな! イヤなわけがないです!」
僕は慌てて答えると、まりあさんは満足そうに頷いた。
「よし、なら遠慮しなくていいからね、今日はくつろいでって。さーてさて、今夜の晩御飯は何にしようかなあ、みっちゃんがいるから、私の自慢の腕を振るっちゃおうかなあ」
まりあさんは、まるで歌でも歌うかのように、愉快な声を出した。
僕は、胸がじんわりと温められた。久しぶりに感じる居場所のような感覚……ずっと探していたものが目の前にあるような気がして、僕はふと、その拠り所に微笑んだ。
言葉を探しても、何も見つからない。喉が強張り、口の中もひどく乾いていた。
僕とまりあさんは、並んで座りながら同じ方向を見つめている。二人の間には何もないはずだ。ただ流れる空気だけが静かにたゆたっているはずなのに、そこには暗くて底知れない影が居座っているような、妙な気配が壁を作っていた。
次第に、その気配が圧し掛かってくる。
まりあさんは僕の変化に気づいているのかもしれない。それでも何も言わず、ただ黙ったまま僕が口を開くのを待っているようで、じっと遠くの一点に視線を留めていた。
やがて、僕はその重圧に耐えきれなくなり、喉をひくつかせながらやっとの思いで口を開いた。
「……ごめんなさい」
絞り出した声は、か細く震えていた。だがその言葉に、まりあさんはすぐに首を振る。
「違う。私が聞いているのは、試合の結果。誰がどうとか、そういうことじゃないわ」
「……わからないんです」
思わずつぶやいた言葉に、まりあさんが静かに問いかける。
「どうして?」
「会場に……行っていないから……」
フッと消え入りそうな声で言う僕を、まりあさんはじっと見つめ、少し考えるように目を細める。
「何か、複雑な事情がありそうね」
僕は黙って頷いた。その頷きが、自分自身への小さな告白のようでもあった。
しばらくの間、まりあさんは何も言わず、ただその視線を優しく僕に向けていた。そして、意を決したように、柔らかな口調で問いかけてきた。
「ねえ、一つだけ教えてくれない?」
静かで、だけど心に響く声。まるで僕の迷いや葛藤を包み込むようなその言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「みっちゃんは、そのとき自分に嘘をついたの?」
「え?」
意味がわからなかった。僕が怪訝な顔をしていると、
「その、行かないという選択をしたとき、自分に嘘をついたのかってこと」
選択……。
ーー僕は、いったいどんなことを考えていた?
まりあさんは、穏やかな眼差しを僕に向け、まるで心の奥を照らすかのような柔らかな声で語り始めた。
「山を知るためには、その険しい道を一歩ずつ踏みしめて、頂上まで登りつめることが必要。海の真実を語りたければ、その青さの奥深く、深海にまで身を沈める覚悟がないと、その本質にはたどり着けない。そして人の心……その奥底に触れようとするなら、ただ表面をなぞるだけじゃなく、懐の奥深くに飛び込んで、相手の本音を受け止める勇気や強さが求められるの。みっちゃんもきっと、そうやってありさの懐に飛び込んでいったのね。そしてありさの中に何かを見つけて、自分もありさに語りたくなった……もっと深く、もっと近くにいたいと願った。それがきっと、ありさとの特別な関係の始まりで、その関係がみっちゃんの『選択』の理由でもあったはず。そしてさっき言った『ごめんなさい』という言葉も、そこから生まれたものなんじゃない?」
まりあさんの言葉に、僕はすべてを見透かされてしまった。けど、そのことに不安や羞恥は不思議と感じなかった。むしろ、まりあさんの真摯な瞳に引き込まれながら、清々しい心持ちでその視線を受け止めていた。
「生きていく中で、どうしても間違いはついて回るものよ。時には、どちらを選んでも不正解のように思えるときもある。でもそのときに大事なのは、どんな結果になろうとも、自分を信じて選ぶこと。言い訳なんて通用しない、たらればを語る余地もないくらいに、すべてを背負ってね。そうして選んだ先にこそ、道が続いていくものなの。もしその選択をせず、ありさに飛び込まなかったとしたら、キミは今どこにいたと思う?」
ーーなかったら……?
もし僕があの日、あの選択をしなかったなら……あの瞬間、ありさ先輩はきっと和志や玉津の手によって、取り返しのつかないものを奪われてしまっていたのかもしれない。その可能性が、どうしても許せなかった。たとえ大会で敗北という結果を迎えたとしても、僕にとっては勝利よりもありさ先輩への想いの方が、どうしようもないほど大きくて大切だった。
そう、僕はありさ先輩を守りたかった。自分自身と何度も向き合い、迷い、悩み、そして苦しみを飲み込みながら、そのたびに少しずつ決意を固めていった。あの車内での瞬間は決して長くないわずかな時間ではあったけど、無力感と罪悪感にも押しつぶされそうになりながら、それでも最後にたどり着いたひとつの答え。それが、ありさ先輩を守るために、会場に行かないという選択だったんだ。
「時に、人生には二つの選択肢よりも、さらに厳しい三つ目が顔を覗かせることがあるのよ。それは一見、無傷でいるための道のように思えるかもしれないけど、でもその道は往々にして、ただ逃げるためだけの選択肢なの。現実から目を逸らし、その第三の道に足を踏み入れてしまえば、後には大抵……ね、もっと重い代償が待っているもの」
まりあさんのその言葉は、まるで静かな湖面に小石を投げ入れたように、僕の心に波紋を広げた。
「でも、キミは違った。真正面からありさに向き合って、答えを探し抜いた。そして会場に行かないという決断をした。逃げたわけではなく、守るため……なのかな? まあ男の子だし、きっとそうね。その選択にたどり着くには、相当の葛藤が必要だったはず。けどその想いこそが、本当に大切なものを守る力になる。そしてきっと、今のあなたは自信をなくして後悔しているのね。まあこれは私の経験だけど、後悔をしない生き方なんて、きっと誰にとっても幻みたいなものよ。キミより年上な私だってまだ後悔しっぱなしなんだから。だから、肩の力を抜きなさい。そして自信を持って、ありさが元気になったら、また改めて向き合いなさい」
「はい……」
僕の声は小さく震えていた。まりあさんの優しい言葉が、心の奥底にまで届く。その言葉はまるで、羽でそっとなぞられているかのように柔らかくて、どこか懐かしい母性に包まれているようだった。気づけば、ずっと堪えていた涙がこぼれ落ちていた。今日、何度目だろう……つくづく僕は、こんなに泣き虫だったのかと、自嘲したくなるほどだった。
「じゃあここでもう一度質問です。あなたは、自分に嘘をつきましたか?」
まりあさんは、まるで記者会見でマイクを向けるように、僕に手を差し出しながら問いかけてきた。その仕草が少しおどけていて、けれど目は真剣だった。
僕は涙を拭った。そして、もう迷わなかった。その言葉は、自然と湧き上がるようにして出てきた。
「ついていません。僕は、自分の気持ちに正直に、自信を持って選択しました」
言い終えた瞬間、まりあさんの目が輝いた。それを見た僕は、不思議と誇らしい気持ちになった。
まりあさんは満足そうに、力強く頷いてから、今まで以上に優しい笑顔を見せてくれた。その表情には、母親らしい包容力があった。
「うん、よろしい! それでこそ男の子だ!」
そう言うと、まりあさんは僕の頭を撫でてくれた。その手の温もりに、僕の中の悩みや不安、恐怖やわだかまりが、静かに消え失せていった。なんだか、とても安心した気分だった。
そしてまりあさんは満足げに、両腕をグーッと天井に向かって伸ばして、息を大きく吐いた。
「さてさて……とりあえず、この話は終わり。ちょっと長々と、カッコつけすぎちゃったからね。あ、それと私の年齢のことは聞かないでね? こう見えても、まだ三十代なんだから」
まりあさんは、いたずらっぽく笑って言った。その笑顔には無邪気さと色気が交差していて、僕の心が微かにざわついた。
けれど、僕はその言葉に特に驚きもせず静かに頷いた。
ただ、まりあさんが最初に「母親」だと自己紹介していなかったなら、僕はおそらく二十代だと信じて疑わなかっただろう。それどころか、ありさ先輩の姉だと思い込んでいたかもしれない。それくらい、まりあさんは若々しく見えるのだ。だから、こう見えて、という言葉の意味は僕にはよくわからなかった。
それからまりあさんは、僕の心をそっと解きほぐすように、試合の結果そっちのけで、自身の家族や過去について色々話してくれた。
聞けば、この家に越してきたのは最近のことらしい。父親の気配がないのは、数年前に離婚しているからであって、それ以来ずっと先輩と二人で暮らしているそうだ。さらに、まりあさんの職業は社長秘書なのだとか。
それを聞いた瞬間、僕の胸が急にドキドキと高鳴り始めた。社長の隣で華やかに佇むまりあさんを想像すると、不意に色気を感じてしまい、内心妙な興奮に襲われた。心が浮つく自分が情けなくもあったが、その感情を抑えることはできなかった。
まりあさんはまた、ありさ先輩の幼い頃についても楽しそうに語ってくれた。ありさ先輩は幼少期から頑固一徹で、一度決めたことはテコでも動かない性格だという。その話を聞いて、僕は思わず笑ってしまった。
と、ふとした拍子に、まりあさんが思い出したように僕に問いかけてきた。
「そういえば、みっちゃんはここまでどうやって来たの?」
その言葉に、僕は一瞬戸惑いながらも答えた。
「その……実は、僕一人じゃなくて、助けてくれた人がいて。その人と一緒にタクシーでここまで来たんです。でも、その人はまりあさんが来る前に帰ってしまって……」
「えっ、タクシーを使ったの? ごめんなさい、大変だったのね。今、その人に電話できるかな? お礼も言いたいし、代金もお渡ししないといけないから」
まりあさんの口調は真剣だった。お礼と礼儀を忘れない、その細やかな人柄が垣間見えた。
「あっ、でも……ごめんなさい。番号は知らなくて……」
「なら、名前は?」
まりあさんの質問に、僕は一瞬言葉を飲み込んだ。名前を出すべきか、黙っていたほうがいいのか。その二つの間で葛藤が生まれ、心が押し黙る。洞野は確かに僕とありさ先輩をここまで連れてきてくれた、それは紛れもない事実だ。けれども、あの人物をそのまま伝えることには、どうしてもためらいがあった。
なぜなら、洞野が僕に向けて言った、「まりあのヌードを撮ってこい」という言葉。そんなぞっとするようなことを平然と言う洞野に、お礼が必要だろうか。まりあさんが感謝を示すべき相手なのだろうか。
しかもヤツは、ありさ先輩に対して決して許されない、猥褻な行為をしたんだぞ? そんなヤツのことなんて、教えるべきではないだろう。しかし、
「みっちゃん、教えなさい」
僕のためらいが長引くのを察したまりあさんが、少し強めの口調で言った。その決然とした眼差しに、僕は観念して名前を告げる。
「……洞野、です」
「洞野くんね。メモしておかないと」
そう言うと、まりあさんは立ち上がり、キッチンの方でメモ帳にさっとペンを走らせた。しかしその直後、不意に驚いたような声をあげる。
「大変、電車が止まってるみたい」
「え?」
思わぬ知らせに僕は目を見開いた。外で絶え間なく降り続く雨音が、どこか不穏に響いて耳に残る。
「雨の影響ね。……みっちゃんは、どこに住んでるの? 近くなの?」
「○○町です……。しばらくは、動かなさそうですか?」
まりあさんはスマホと窓の外を交互に見やりながら、小さく首を振った。
「そうねえ、この雨だし……無理かもしれないわね。しかも〇〇町か……少し遠いわね」
「そうですか……」
自然と肩が落ち、僕はため息をこぼした。帰り道が断たれてしまったことを、どこか受け入れられないままに。そんな僕を見て、まりあさんはふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「まあでも、心配することはないわ。今夜はうちに泊めてあげるから」
「え?」
まりあさんの申し出が一瞬、理解できなかった。
「当然じゃない。みっちゃんはありさの恩人だし、もう立派な私のお友達だもの」
「友達……ですか?」
僕は怪訝にまりあさんを見つめる。すると、意地悪そうに、
「そうよ、友達。なーに、それとも私と友達になるのがイヤなのかなあ?」
「い、いえ、そんな! イヤなわけがないです!」
僕は慌てて答えると、まりあさんは満足そうに頷いた。
「よし、なら遠慮しなくていいからね、今日はくつろいでって。さーてさて、今夜の晩御飯は何にしようかなあ、みっちゃんがいるから、私の自慢の腕を振るっちゃおうかなあ」
まりあさんは、まるで歌でも歌うかのように、愉快な声を出した。
僕は、胸がじんわりと温められた。久しぶりに感じる居場所のような感覚……ずっと探していたものが目の前にあるような気がして、僕はふと、その拠り所に微笑んだ。
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