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一話

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 美奈子は焦っていた。夕日が沈み、もうすぐ夫の友広が仕事から帰ってくる時間だ。
 その日はパートで残業をする事になってしまったために、普段ならもう晩御飯を作り終え、愛する夫の帰りを心待ちにしているはずだった。
 早くしないと帰って来てしまう。
 スーパーで買った晩御飯の材料を持ち、急ぎ足でマンションの階段を上っている時だった。
 目の前に八十歳くらいの老人だろうか、ほっそりとした猫背の白髪頭の男性が杖をつきながら、一畳ほどの踊り場で立っていたのだ。

 美奈子は不思議に思った。ここは三階。
 偏見かもしれないが、杖をついている老人がまさか階段を上るとは思えなかったし、それにこのマンションにはエレベーターがあるのに何故階段を......。
「すいません。お困りですか?」
 その姿にいたたまれなくなり、声をかけた。
「......」
 老人は四階への階段の先を見つめながら黙っていた。
 美奈子はさらに不思議に思い、もしかして耳が遠いのかしら?そんなふうにも思い始めた時だった。
 老人はこちらを見て、階段の先を指差した。
 その意味は多方面に渡っていた。何か見えるのか。連れて行ってほしいのか。誰かを待っているのか。それとも気にせず先にどうぞ、なのか。
 美奈子はその中で、親切心から一つ選んだ。
「お爺さん、もしよろしければ肩を貸しましょうか?」
 迷いなき選択だった。
「......」
 老人はまたこちらを見た。
 しかし今度は少し朗らかな気がしたので、美奈子は勝手ながら、自分より小柄な、おそらく百五十センチほどの体を、横から支えた。
 介護の経験などは無かったので、ぎこちない接し方だが仕方がない。少し開き直りながらもまず最初の一歩目を一緒に踏んだ。
 片手には袋を持っていたのでふらついてしまう。
 そしてもう片方の手は老人の腰に回して、さらに老人の左脇に首を入れた。
 比較的背の高い美奈子。昔はバレーボールをしていたので百七十センチでスラッとした体型、足も長く、さらりとした黒いロングヘアーは自慢だ。 結婚する前はよく街を歩けばナンパをされた。
 年齢は三十一歳になり、身体からフェロモンを漂わせるようになり夫の同僚からは色眼鏡で見られる事もあった。

 美奈子は中腰になっていたので、何か妙な痛みを腰に感じ始めた、さすがに体勢が......その時だった。
 老人の手の甲が、美奈子の左の乳房に触れたのだ。といっても本当にかすかに触れた程度。さすがにこの状況なのだ、多少なら仕方がない。
 さらに二歩目を上がった。そして三歩目、まただ。 また左胸に手が触れる。
 Eカップの大きく豊満な胸、服装も薄い白のトップスなのでその程度の触れであっても、体温やブラの感じが分かるだろう。
「あの......」
 弱々しく声を出した。その疑問を確認するために。
「......」
 無言。そしてまた無表情で目を合わせる。
 美奈子は少し後悔の念が生まれていた。もしかして、この親切心は必要なかったのでは?余計なお世話だったのではないか。
 四歩目、五歩目、六歩目、階段を上がっていく。
 もう少し、あと三歩。しばしの辛抱だ。そう言い聞かせながらも怪しげな、イヤらしいその手を我慢した。

 最後の一段を登り終えた所で、ゆっくり頭を引いて脇の下から抜け出した。恐る恐る、老人の顔を見た。
「部屋はどこなんですか?」
 何故かまたお節介を焼いてしまった。美奈子本人も理由がわからない。何となく、だ。
 しかし案の定無言だった。

 美奈子は帰って来ない返事に少し苛立ちを覚えながらも、この老人に少しでも力になれたという事で気持ちを紛らわせることにした。
「では、ここからは大丈夫ですね?私はこちらなので失礼します」
 美奈子はとりあえず笑顔で挨拶をした。

 たった数分の出来事だったが長い時間を感じた。将来は自分もあんなふうに......いや、もっとしっかりしないと。反対に心は前向きになれた。
 家に帰って来るとダイニングに入り、すぐ晩御飯の支度を始めた。

 時刻は十九時過ぎ。料理は昔から得意だったけど、今日は間に合わないから簡単にできる物を、メインのおかず以外に一品拵えた。
 すると、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ただいま」
 友広の疲れた声が聞こえてきた。
「お帰りなさい」
それに重ねるようにすぐ返事を返した。
 リビングに来ると。
「ん?今日の料理はどうした?少ないな」
 その日の友広の言葉は妙に心に刺さった。
「ごめんなさい。今日は残業だったのよ」
「そうか残念だな。明日は頼むぞ」
 正直、その残念という言葉は気にいらなかった。

 普段から亭主関白な所が玉に瑕で、美奈子も多少なり我慢している時があった。
 しかし、仕事で疲れて帰って来る夫のために、気持ちを押し殺して善き妻を演じていたのだ。

 それから、二人でテーブルを囲み、別々にお風呂に入り、夜も深まってきた頃、美奈子はベッドで夫を求めた。
「ねえ、今日はどう?やっぱり疲れてる?」
「今度にしてくれ」
 素っ気なく、さらに味気ない一言だった。結婚した当初、疲れて帰って来た時に求めた事はいくらかあった。でも、断り文句一つとっても魅力があったし、愛してるよって言ってくれた。
 いつからだろう、そのたった一言の愛情が無くなってしまったのは......。
 心に哀愁を漂わせたが、知らないふりをして、そっとまぶたを閉じた。
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