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8月10日 火曜日 『雨の寂しさ』

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8月10日 火曜日 天気:雨

 寝る前から降っていた雨は少しマシになっていたけれど、しとしととふり続けていた。空を眺めても薄暗いまま、晴れ間は見えない。傘をさして庭に出ると雨に濡れているにも関わらず、いつもと同じ場所で同じ笑顔で私の迎えを待っていた。ふわふわしていたはずの髪が顔に張り付いて、笑顔がどことなく寂しそうに見える。

「屋根のあるところで待てばいいのに」
「ここで待つって言ったからねぇ。それにそんなに長くいたわけじゃないよ」
「時間の問題じゃなくって、びしょ濡れじゃない!」
「まぁ夏だし寒くはないよぉ……」

気持ちよさそうに濡れ続けるマオの腕を引っ張り強引に傘に引き込んだ。思ったより冷えた体に、顔を顰める。

「ちょっと、傘にぶつかるんだけどぉ」

 ごつんごつんと傘を持った手に振動が伝わる。精一杯腕を伸ばすが、マオの頭上にはまだまだ届かないようだ。

「マオがおっきいから仕方ないじゃない」
「僕じゃなくて、依代ちゃんがちっちゃいんだよぉ」
「何か言った?」
「なんにもー。ほら、僕が持ってあげるよ」

 傘を取り上げられ、頭上にマオの腕が来る。雨は当たらないが、腕から落ちた滴が落ちてきた。

「マオ……」
「なにー?」
「帰ったらお風呂だよ」
「えー」
「雨の臭いするからダメ」
「入らなきゃだめ?」

「ダメったらダメ」

家に入り、どことなく嫌がるマオを問答無用で風呂場まで連行する。

「ちゃんと洗うまで出てきちゃダメだからね」

返事を聞かずに扉を閉め、私はタオルを持って廊下に戻った。ぽたぽたと落ちた雨を拭いていると、まるで野良猫が帰ってきたみたいだとふと思い笑ってしまった。


 片づけを終えリビングでのんびりしていると、マオが帰ってきた。

「気持ち良かったぁ」

 嫌がっていた割には満足そうな笑顔を浮かべている。そんなマオを見ていると物足りなかった気持ちが一気に満たされて、自然と笑顔が浮かんだ。慌ててそっぽを向いて、トースターからパンを取り出した。

「良かったね。ほら、ご飯も準備してあるよ」
「ありがとぉ。あれ、依代ちゃんのは?」
「さっきお母さんと食べちゃったから」
「そう? じゃあいただきます」

 見慣れた食事風景を眺めていると、マオは不満そうに見返してくる。

「なぁにー? とっても嬉しそうだねぇ」
「そ、そんなわけないじゃない!」
「そうかなぁ? 僕が知る限り依代ちゃんがそんなに機嫌が良さそうなのって、僕を言いくるめたときくらいじゃない?」
「マオの勘違い!」

 見透かされた気持ちを断固として否定するが、浮かんでくる笑顔は隠しきれていないらしく、対面に座るマオもご機嫌そう。食べ終わったお皿を早々に引き上げ、部屋へ戻ろうと促す。

「今日は何をするのかなぁ」
「宿題! あ、新しい本が買ってあったからそれ読んでていいよ」
「ありがとぉ。依代ちゃんのお父さんって趣味いいよねぇ」
「出張で帰ってこないからって、読みおわった本を送ってくるのはやめてほしいんだけど」
「そうだねぇ。結構床にも積んであるもんねぇ。片付けたくなっちゃうなぁ」

 私の部屋に戻る前に書斎によってから、本を回収する。それをもって私は今日の宿題、マオは読書。心地よい空間のせいか、苦手な算数にも集中できあっという間に終えた。

「んんー、おわったー!」
「お疲れ様ぁ。ちゃんと毎日決めた分だけやって偉いねぇ」

 床に座り込んで本を読んでいたマオが、手を伸ばして頭を撫でてくれる。最初は気恥ずかしかったこの行為も、段々と喜びに代わっていた。褒められると嬉しい。単純すぎると自分に呆れるところもあるけれど、この優しい手が私は好きだった。

「そうだ。今日は依代ちゃんにお土産があったんだぁ」
「お土産? どこかいったの?」
「ううん。ゲーセン! あげるよぉ」

 ポケットから出てきたのは私の好きなアライグマのキャラクターの人形。

「ありがとう!」 
人懐っこくてドジっ子な性格が好きでコレクションしているのを覚えていたらしい。手のひらサイズの人形はとても柔らかく、何度か力を籠めてふわふわな感触を楽しんだ。しばらく満喫してから棚のぬいぐるみたちの中に入れてあげると、その増えた仲間に満足した。そして思い出した。

「マオ、仕事だったんじゃないの?」

 隣に立っていたマオを見上げる。誤魔化すような笑みと共に再び頭を撫でられた。

「嫌だなぁ。ちょっとした息抜き。出先で見かけて好きそうだなぁっておもっただけだよぉ」
「そういうことにしてあげる」

 私のことを少しでも気にかけてくれていると喜んでしまったのを誤魔化したくて怒った風を装ってみたけれど、マオには筒抜けのようでますますご機嫌になっていく。

「喜んでくれたぁ?」
「うん! ありがと!」

 素直に答えるのも癪だったけど、嬉しい気持ちは確かで、今だけは素直に感情に身を委ねて抱き着いた。わぁっと驚いた声と共にほんの少しよろめいた体はすぐに安定し、頭上からは抗議の声。

「依代ちゃんってば勢い良すぎるよぉ」
「マオなら大丈夫」
「それって喜んでいいのかなぁ」

 複雑だと言わんばかりに口をとがらせるものの、私から離れようとはしない。代わりに私を呼んだのは電話の音だった。リビングで電話が鳴っているのに気づき、慌てて部屋を出た。幸い、コールはなり続け、受話器を取る。

「もしもし、依代?」
「お母さん? どうしたの?」
「今日帰れなくなっちゃったの。一人だけど、ちゃんと戸締りして寝るのよ」
「えっ、でも今日は帰ってくるって」 
「交代の人が急な休みだから仕方ないわ。それじゃ、あとはよろしくね」

 引き止める間もなく、受話器からはツーツーと音が響く。まただ、とため息をついて部屋に戻った。

「なんだったのぉ?」
「お母さん、夜勤だから帰ってこられないって」
「そっかぁ。寂しいね」
「もう慣れたから平気」

 とは言うものの、落ち込んでいない訳では無い。ベッドに仰向けに倒れ込むと、すぐ右で何かが沈む感覚があった。隣を見ると同じく仰向けに寝転がったマオの顔。

「そうは見えないけどぉ」
「いいの。大丈夫」

 子供っぽいと思われたくない。我儘な子供は好かれない。わかってる。
心配そうなマオに背を向けて、深呼吸を繰り返す。溢れそうな涙を我慢していると、マオの手がそっと背中に触れた。

「今日は泊まっていってもいいー?」
「……」

 後ろからぎゅっと抱きしめられて、困ったような声。

「だめかなぁ?」

 マオはずるい。体を反転させて後ろを向くと、その胸元に顔を埋めた。

「仕方ないから泊めてあげる」

 精一杯の強がりは、マオの笑い声で受け止められる。

「依代ちゃんってば素直じゃないんだからぁ」



夜になるとマオと一緒に、ご飯を食べテレビを見て本を読んだ。どれもお母さんとするはずのことだったけど、マオがいてくれたおかげで寂しくはなかった。

「ほら、もう寝る時間だよぉ」
「あとちょっとだけ」
「だーめ、電気消しちゃうんだからぁ」
「あっ、待って!」
「だめったらだめ」

 保護者モードとなったマオは容赦なく電気を消し、私は渋々ベッドに入った。いつまでも寝付けない私に、マオはベッドに腰かけて軽く布団を叩いた。そばにいてくれる人がいるだけで、自然と心が安らぐ。眠れない眠れないとマオに不満を漏らしていたけれど、気がつけば眠っていた。
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