上 下
35 / 36
エピローグ

母も参加して賑やかに

しおりを挟む
 試飲会に参加予定の人たちのうち半分以上が集まった。千帆は鍋に牛乳を入れて温め始める。

「今日は2種類をそれぞれ試飲していただこうと思ってるんです。1つはオレンジリキュールが入ったココア。こちらは成人した方とお仕事中じゃない方に味を見ていただいて。もう1つはミントの葉をたっぷり乗せた甘さ抑えめのココアです。ミントの方は、夏になったらアイスにしてもいいかな、と」

 メニューを紹介すると、5人から感嘆の声が響く。そろってカウンターの中をのぞこうとしてくるので、千帆は思わず身を引いてしまう。
 何かに気づいたように、那月が小さく声を上げた。

「ねえ、お仕事中じゃない人にココアのお酒を飲んでもらうって言ってたけど、お仕事中の人も試飲に来るの?」

 もっともな質問だ。平日の15時すぎに仕事をしている人がカフェに入ってくるというのは考えにくいだろう。千帆はココアを準備する手を止めずに、那月を見た。

「はい。常連の営業マンさんが取引先から別の取引先に移動する通り道に、この店があるらしくて、今日も15時半ごろ寄れるっておっしゃってて。次の取引先へ行く前に、ここで甘いものを飲んで気持ちを高めてくださってるんです」

 5人がそろって、「へえー」と声を漏らした。年齢も性別も違う5人が同じ反応をするのはおかしくて仕方がない。

「なので、その日によって滞在時間は違うんです。ココアを出したら勢いよく飲み干して出ていく日もあれば、ゆっくり書類を眺めながら飲んでいかれる日もあります」

「なるほどね~。私も営業先がこの近くなら、そうしたいわ」

 那月が腹の底から絞り出すようにつぶやいた。千帆は火を止め、カウンターに背を向けて棚からカップを出す。

「あとは隣の『らぶち』の唯人さんと大地さん、いらっしゃったらバイトの方にも飲んでもらうんです。主婦3人組さんが、今日はお稽古ごとの日だそうで来ていただけなかったのは残念でした」

 カップを手にして皆の方に向き直ると、角田が千帆に手招きしてきた。瞬きを繰り返しながら、千帆は角田に近づくと、彼は扉のほうを指さした。

「誰か女性の人がのぞいてるんだけど」

 千帆は首がもげそうな勢いで振り返る。
 予想に反しないというべきか、扉の格子窓からのぞいていたのは母だった。その姿を見て、千帆は大げさなほど肩を上げて下ろし、息を吐いた。

「母です」

 皆に聞こえるように言って、カウンターから出て扉を開ける。

「鍵は開いてるんだから、そんなところでのぞいてないで入ってきてよ」

 肩をすくめて入ってくる母は紙袋を下げていた。

「ごめん。なんか楽しそうな雰囲気だったから観察してようと思って……」

 千帆に続いてカウンターの中に入ってきた母が荷物を置いて、両手を体の前にそろえた。

「千帆の母です。いつも娘がお世話になりまして、ありがとうございます」

 深々と頭を下げる母に、角田、那月、優美は立っておじぎをする。女子高生2人は座ったまま頭を下げようとしていたが、大人たちが立ったのを見て、慌てて立ち上がって頭を下げた。

 千帆が大人3人にオレンジリキュール入りココアを、女子高生にミントたっぷりココアを出したところで、母が紙袋から焼き菓子を出してきた。

「趣味で焼いたものなんです。ココアと合うんじゃないかなって思って持ってきました。良かったら食べてください」

 持ってきたのはレモンケーキだった。母が作るそれはレモン果汁とレモンの皮が入った酸味が効いた爽やかな味をしている。口に残るココアには合うかもしれない。
 ただ今日は試飲会だ。ココアを味わってもらって率直な感想がほしい。

「あの、レモンケーキを食べるのはココアを半分以上飲んでからにしてもらえませんか。ココアの味の感想がほしいので……」

 レモンケーキにかぶりつきそうになっていた女子高生が口を開いたまま、止まった。袋を開けかけていた優美の手も止まる。
 千帆の隣で吹き出し笑いが聞こえた。

「ごめんなさい。私がケーキを出すタイミングを間違えたみたいで。持って帰ってもらっても大丈夫ですからね」

 また店内に笑い声が響く。

 千帆は母にもオレンジリキュール入りのココアを入れて手渡す。
 試飲に来た5人も、それぞれココアを飲んだり、香ったり、スプーンで混ぜてから飲みなおしたり、思い思いに味わい始めた。

 ココアの感想が飛び交い始めたとき、ドアベルが軽やかに鳴った。

「遅くなりました。千帆さん、ごめんなさい。今日は時間がなくて飲んだらすぐ出ます」

 店に入って第一声、大きな声で叫んだのは取引先へ向かう途中の営業マンだった。角田たちや母に向かって、あいさつ代わりに何度も頭を下げて席についた。千帆はすぐにミントたっぷりココアを営業マンの前に置く。同時に母がレモンケーキを置いたのを見て、千帆はケーキの上に手をかざした。

「この焼き菓子は仕事が終わってから食べてくださいね。今はココアだけで」

 営業マンが気を使って焼き菓子に手を出さないよう、ココアの試飲をメインにしてもらうよう、千帆は伝える。

「じゃ、私は『らぶち』にも試飲のココアを持って行ってくるね」

 トレイにミントが飾られたココアを乗せると、母がレモンケーキを3つ乗せてきた。苦笑いしつつ、千帆はカウンターから出る。店の扉を開く前に振り返った。

「お急ぎでしょうから、ココアの感想は後日でいいですよ。次の商談も頑張ってくださいね」

 営業マンに声をかけて、千帆は店を出た。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

さよならまでの六ヶ月

おてんば松尾
恋愛
余命半年の妻は、不倫をしている夫と最後まで添い遂げるつもりだった……【小春】 小春は人の寿命が分かる能力を持っている。 ある日突然自分に残された寿命があと半年だということを知る。 自分の家が社家で、神主として跡を継がなければならない小春。 そんな小春のことを好きになってくれた夫は浮気をしている。 残された半年を穏やかに生きたいと思う小春…… 他サイトでも公開中

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

バツイチ子持ちとカレーライス

Crosis
ライト文芸
「カレーライス、美味しいよね」そう言える幸せ。 あらすじ 幸せという日常を失った女性と、日常という幸せを失った男性。 そんな二人が同棲を始め、日常を過ごし始めるまでの話。 不倫がバレて離婚された女性のその後のストーリーです。

【完結】返してください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと我慢をしてきた。 私が愛されていない事は感じていた。 だけど、信じたくなかった。 いつかは私を見てくれると思っていた。 妹は私から全てを奪って行った。 なにもかも、、、、信じていたあの人まで、、、 母から信じられない事実を告げられ、遂に私は家から追い出された。 もういい。 もう諦めた。 貴方達は私の家族じゃない。 私が相応しくないとしても、大事な物を取り返したい。 だから、、、、 私に全てを、、、 返してください。

思い出を売った女

志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。 それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。 浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。 浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。 全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。 ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。 あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。 R15は保険です 他サイトでも公開しています 表紙は写真ACより引用しました

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

処理中です...