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1話『鬼嫁の那月』
溌剌とした那月
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雑居ビルの表側、オフィスビルの裏口側という本通りから一本入った路地。そこを千帆は自転車で走る。
定休日の今日は買い出しに出ていた。
午後4時という時間帯は、雑居ビルに入る夜の店が開くには早いし、会社員たちは勤務時間中だから、路地は人通りが少ない。空には晴れ間が見えていて、自転車を漕ぐには快適だ。少し遠回りしてサイクリングを楽しもうと、千帆は路地を抜けた先にある緑地公園へと入っていった。
ここはサイクリングロードも整備されていて、本格的にクロスバイクで走っている人もいるし、千帆のようにシティサイクルでのんびり走っている人もいる。
目に優しい木々を眺めながらサイクリングを楽しむ。千帆は対向するように自転車を走らせてくる一人に目を止めた。
那月だ。
彼女も千帆に気づいたようで手を振ってきた。
お互い自転車を降りてハンドルを押し近づく。
千帆はパンツスーツ姿の那月の全身に目を走らせた。先日の印象と変わらず、カッコいいキャリアウーマンだ。
「那月さん、こんにちは。営業回りですか」
自転車を押して道の端に寄りながら、那月は小さく首を横に振る。
「ううん。仕事が終わって、保育園に子どもを迎えに行くとこなの」
千帆は疑問が頭をよぎる。まだ午後4時だ。那月の終業時間は自分が知っている会社員よりも早いのだろうか。そのことを口にしようとしたとき、那月が先に言葉を発した。
「あ、この時間だと不思議に思うわよね。そんなに時間ないけど、少し報告させてもらおうかな。千帆さんは時間に余裕ありますか」
那月が夫に鬼嫁と言われて悩んでいるという話を聞いたのは5日前だ。
何か進展があったのだろうか。
角田は店に来ていたが、那月の話はしていなかった。
千帆はうなずく。
5日前の那月を思い出してから、あらためて目の前にいる彼女を見る。
どことなく晴れ晴れとしているように感じる。
2人で道の端に自転車を止め、近くにあったベンチに腰を下ろした。
那月は足を組み、その膝を両手で包む。
「まずね、あの日の翌日、会社の上司に言ったの。『時短勤務にしてください』って」
彼女の視線は空へと向けられる。
白い雲は淀みやくすみを感じない。
「私、仕事に復帰してからフルタイムで働いていたのよね。仕事好きだし。でも、そうすると夫との家事分担は必須でしょ。それがうまくいかなくて鬼嫁扱いされたんだから、じゃあ、仕事のほうを少し抑えようと思ったの。下の子はまだ1歳超えたばかりで3歳になるまで時短勤務できるからね。正当な権利を訴えたわけ」
サイクリングロードをすごく早いスピードでクロスバイクが2台走っていった。
「ただ正当な権利とはいえ、ちょっと抵抗されたのよ。自分で言うのもなんだけど、顧客には好かれてて、何かあると指名で電話がきたりするから。時短勤務で2時間早帰りするとなると、夕方にかかってくる電話には対応できなくなるのよ」
千帆は那月の横顔を見つめてうなずく。
会社勤務のない自分にわかりやすく丁寧に説明する姿は本当に仕事ができる人なんだなと感じさせられる。
那月がベンチの背にもたれた。
「でも、上司に言ってやったわ。『旦那に優しくしなよって言ったの、課長ですよね。フルタイムで働いて、家事も1人でやりきるなんて私にはできないですよ』って。上司はバツ悪そうに頭を掻いてたわ」
那月は思い出したのか可笑しそうに笑う。
「で、お願いした翌日には時短勤務を認めてもらったの」
満足げな那月に千帆は思ったことを口にする。
「会社の方はそれでいいとして、ご主人の方はどうなんですか。那月さんは家事を全部1人でやってもいいって割り切れたんですか」
眉間に少しシワを寄せた千帆の肩に衝撃が走った。
那月が叩いたらしい。笑いが止まらないといった顔をしている。
「それよ、肝心な話は。会社に時短勤務をお願いした夜、夫に宣言したの。『もう家事をあなたにお願いしません。 ただし、私がやる家事は自分の分と子どもの分だけです。自分のことは自分でやってください』って。夫は最初、面食らってたけど、これで文句を言われなくなるって喜んだみたいね」
那月は組んでいた足を下ろして体をひねり、千帆に正対するようにしてきた。
「千帆さんと角田さんのおかげ。『鬼嫁って自立してる人』そう言われてハッとしたの。時短勤務を申し出ても、自分のこれまでの実績を考えると会社に切られるとは思えない。認められてる権利だしね。それに、給料もしっかりもらってるんだから、家事をしっかりやらなきゃって夫の機嫌を取る必要ないよねって」
耳の後ろあたりを掻く。
「まあ、機嫌を取ってたつもりは元々ないんだけど」
那月は拳をあげた。ガッツポーズをするのかと思いきや、大きく伸びをしていた。
「それでね、夫のことは何もしてないの。料理も洗濯も」
少しだけ目を見開いた千帆の肩を、那月はまた叩いてきた。
「そう、夫は自分で食事も洗濯もしないといけないの。しなくてもいいのよ。でも困るのは夫自身でしょ。だから仕方なくやってる。会社でも愚痴ってたみたいだけどさ、周りから言われたらしいよ。『奥さんは仕事もして、家事もして、育児もしてるんだよ。君は自分のことだけで済むんだから、そのくらいしなよ』って。上司が教えてくれた。今のところ、夫は頑張ってるわ」
5日前、店で「鬼嫁って言われる」と鬱々と話していた姿と打って変わって、那月は溌剌としている。
「あ、お迎えの時間。またお店に行くわね」
そう言って立ち上がった。自転車にまたがった彼女は、シティサイクルにもかかわらず、競技選手と見間違うスピードで走り去っていった。
その後ろ姿を目で追う。
鬼嫁って、パワフルなんだな。
千帆は吹き出してしまった。
定休日の今日は買い出しに出ていた。
午後4時という時間帯は、雑居ビルに入る夜の店が開くには早いし、会社員たちは勤務時間中だから、路地は人通りが少ない。空には晴れ間が見えていて、自転車を漕ぐには快適だ。少し遠回りしてサイクリングを楽しもうと、千帆は路地を抜けた先にある緑地公園へと入っていった。
ここはサイクリングロードも整備されていて、本格的にクロスバイクで走っている人もいるし、千帆のようにシティサイクルでのんびり走っている人もいる。
目に優しい木々を眺めながらサイクリングを楽しむ。千帆は対向するように自転車を走らせてくる一人に目を止めた。
那月だ。
彼女も千帆に気づいたようで手を振ってきた。
お互い自転車を降りてハンドルを押し近づく。
千帆はパンツスーツ姿の那月の全身に目を走らせた。先日の印象と変わらず、カッコいいキャリアウーマンだ。
「那月さん、こんにちは。営業回りですか」
自転車を押して道の端に寄りながら、那月は小さく首を横に振る。
「ううん。仕事が終わって、保育園に子どもを迎えに行くとこなの」
千帆は疑問が頭をよぎる。まだ午後4時だ。那月の終業時間は自分が知っている会社員よりも早いのだろうか。そのことを口にしようとしたとき、那月が先に言葉を発した。
「あ、この時間だと不思議に思うわよね。そんなに時間ないけど、少し報告させてもらおうかな。千帆さんは時間に余裕ありますか」
那月が夫に鬼嫁と言われて悩んでいるという話を聞いたのは5日前だ。
何か進展があったのだろうか。
角田は店に来ていたが、那月の話はしていなかった。
千帆はうなずく。
5日前の那月を思い出してから、あらためて目の前にいる彼女を見る。
どことなく晴れ晴れとしているように感じる。
2人で道の端に自転車を止め、近くにあったベンチに腰を下ろした。
那月は足を組み、その膝を両手で包む。
「まずね、あの日の翌日、会社の上司に言ったの。『時短勤務にしてください』って」
彼女の視線は空へと向けられる。
白い雲は淀みやくすみを感じない。
「私、仕事に復帰してからフルタイムで働いていたのよね。仕事好きだし。でも、そうすると夫との家事分担は必須でしょ。それがうまくいかなくて鬼嫁扱いされたんだから、じゃあ、仕事のほうを少し抑えようと思ったの。下の子はまだ1歳超えたばかりで3歳になるまで時短勤務できるからね。正当な権利を訴えたわけ」
サイクリングロードをすごく早いスピードでクロスバイクが2台走っていった。
「ただ正当な権利とはいえ、ちょっと抵抗されたのよ。自分で言うのもなんだけど、顧客には好かれてて、何かあると指名で電話がきたりするから。時短勤務で2時間早帰りするとなると、夕方にかかってくる電話には対応できなくなるのよ」
千帆は那月の横顔を見つめてうなずく。
会社勤務のない自分にわかりやすく丁寧に説明する姿は本当に仕事ができる人なんだなと感じさせられる。
那月がベンチの背にもたれた。
「でも、上司に言ってやったわ。『旦那に優しくしなよって言ったの、課長ですよね。フルタイムで働いて、家事も1人でやりきるなんて私にはできないですよ』って。上司はバツ悪そうに頭を掻いてたわ」
那月は思い出したのか可笑しそうに笑う。
「で、お願いした翌日には時短勤務を認めてもらったの」
満足げな那月に千帆は思ったことを口にする。
「会社の方はそれでいいとして、ご主人の方はどうなんですか。那月さんは家事を全部1人でやってもいいって割り切れたんですか」
眉間に少しシワを寄せた千帆の肩に衝撃が走った。
那月が叩いたらしい。笑いが止まらないといった顔をしている。
「それよ、肝心な話は。会社に時短勤務をお願いした夜、夫に宣言したの。『もう家事をあなたにお願いしません。 ただし、私がやる家事は自分の分と子どもの分だけです。自分のことは自分でやってください』って。夫は最初、面食らってたけど、これで文句を言われなくなるって喜んだみたいね」
那月は組んでいた足を下ろして体をひねり、千帆に正対するようにしてきた。
「千帆さんと角田さんのおかげ。『鬼嫁って自立してる人』そう言われてハッとしたの。時短勤務を申し出ても、自分のこれまでの実績を考えると会社に切られるとは思えない。認められてる権利だしね。それに、給料もしっかりもらってるんだから、家事をしっかりやらなきゃって夫の機嫌を取る必要ないよねって」
耳の後ろあたりを掻く。
「まあ、機嫌を取ってたつもりは元々ないんだけど」
那月は拳をあげた。ガッツポーズをするのかと思いきや、大きく伸びをしていた。
「それでね、夫のことは何もしてないの。料理も洗濯も」
少しだけ目を見開いた千帆の肩を、那月はまた叩いてきた。
「そう、夫は自分で食事も洗濯もしないといけないの。しなくてもいいのよ。でも困るのは夫自身でしょ。だから仕方なくやってる。会社でも愚痴ってたみたいだけどさ、周りから言われたらしいよ。『奥さんは仕事もして、家事もして、育児もしてるんだよ。君は自分のことだけで済むんだから、そのくらいしなよ』って。上司が教えてくれた。今のところ、夫は頑張ってるわ」
5日前、店で「鬼嫁って言われる」と鬱々と話していた姿と打って変わって、那月は溌剌としている。
「あ、お迎えの時間。またお店に行くわね」
そう言って立ち上がった。自転車にまたがった彼女は、シティサイクルにもかかわらず、競技選手と見間違うスピードで走り去っていった。
その後ろ姿を目で追う。
鬼嫁って、パワフルなんだな。
千帆は吹き出してしまった。
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