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18.恋愛成就(桜庭視点)

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例の夢を見始めてからというもの、俺は習慣にしていたランニングをサボりがちになった。
少しでも睡眠時間を確保したい、というのもあるが、1番の原因は情報共有と称して山吹と飲みに行くことが増えたからだ。

今日は土曜だというのに珍しく5時には目が覚めてしまい、二度寝する気も起きなかったため久しぶりに朝から走ることにした。
「はあ、はあ、」
早朝にも関わらず、意外と犬の散歩をしている人が多いようだ。

早朝とはいえ、7月にもなるとさすがに暑い。
流れる汗を拭いながら黙々と走り続ける。
普段はあまり意識しないが、こうして走っていると改めて自分が運動不足であることを実感する。

「あちー」

すれ違う人々と挨拶を交わしながら、通い慣れた道を走っていると、休憩地点の河川敷が見えてきた。

「……あれ」
俺の記憶ではこのあたりの河川敷は背の高い草が生い茂ってかなり歩きにくいはずだったが、目の前に広がるのは綺麗に手入れされた芝だった。
伸び放題だった雑草は全て取り除かれ、でこぼこだった石段も綺麗に整備されている。

ついに市が管理し始めたのか。
なんて考えながら俺は土手の芝生に腰掛け、先ほど自販機で買ったミネラルウォーターを口に含んだ。

やはり体を動かすのは気持ちいいな。
最後にこのあたりまで来たのは何ヶ月も前だったか。
そういえば以前このあたりで悪ガキがお地蔵様にイタズラしていた現場に出くわしたことがあったっけ。
もし次に同じことがあったら容赦なく学校に通報しようと心に決めていたのだが、例の夢や社員旅行やらでバタバタしている間にすっかり忘れてしまっていた。

何気なくあたりを見渡してみたが、あのお地蔵様も見当たらない。
整備の際に撤去されてしまったのかもしれない。
俺は記憶を頼りに、お地蔵様が居た場所へと向かった。
「確かこのあたりだっけ……」

お地蔵様があったと思われる場所は芝生が禿げており、そこだけ地面が剥き出しになっていた。
やはりお地蔵様の姿はどこにも見当たらない。
苦労して落書きを落としただけに少し残念な気もするが、これでもうイタズラ被害にあうことはないだろうと思うと少しホッとする。

「なにか探し物ですか?」

突然背後から声をかけられ振り返ると、そこには上品な雰囲気を纏ったお婆さんが立っていた。
足元には首輪に大きなリボンをつけたチワワが行儀良く座っている。

「あ、いえ。以前来た時はこのあたりにお地蔵さんが居たのになーと思って」
つい正直に答えてしまったが、彼女は「ああ」と小さく声を漏らした。
「それなら整備のついでに撤去されてしまったらしいですよ。雨風にさらされてずいぶん古くなっていましたから」
「ああ。やっぱり……」

あんな場所に埋もれていても、近所の人はその存在を認識していたようだ。

「もしかして、お兄さんもお地蔵様のご利益にあやかりにいらしてたんですか?」
なら残念でしたねぇ、と眉を八の字にして微笑んだ。
「ご利益?」
「あら、ご存知ない?ここのお地蔵様には恋愛成就のご利益があるんですよ」

婆さんの話によると、俺が落書きを落としたあのお地蔵様はこのあたりではちょっとしたパワースポットとして有名だったらしい。
なんでも、お地蔵様の前で『ある儀式』を行うと、意中の相手と結ばれるという噂が女子中高生を中心に流行りみんなこぞってお参りに来ていたのだとか。

正直この手の話題には全く興味が湧かない。
婆さんには悪いが、さっさと話を切り上げてランニングを再開しようそう思った矢先。
彼女の次の言葉が俺の足をその場に縫いつけた。

「誰が言い出したのかわからないけれど、あのお地蔵様にお祈りをすると『夢を通じて好きな人と結ばれる』という言い伝えがあってね」

また夢。
社員旅行の『夢ノ湯』といい、どうしてこうも非現実的な言葉が立て続けに出てきてしまうのだろうか。
「夢を通じて……ですか」
「相手と夢の共有ができる、とでも言いましょうか。夢の中で会うなんてなんだかロマンチックで素敵でしょう?」
夢の共有。
ずいぶんとタイムリーというか、俺と山吹が今まさに直面している問題と酷似したワードが出てきたことに俺は動揺を隠せなかった。

俺の返事を待たずして、婆さんは話を続ける。
「夢の中で逢瀬を重ねれば重ねるほど、2人の距離は縮まるの。そしてやがては現実でも相手と心が繋がる……当時はそう言われていたわ」

婆さんはそこまで言ってからハッとしたように口元に手を当てた。
「ああ、ごめんなさいね。なんだか話し込んでしまったみたい」
「あ、いえ……」
「私も若い頃、実際に体験したんですよ。だからつい熱くなっちゃって」
「え……」

彼女も夢の共有を体験した、というのか。
以前の俺ならそんな話絶対に信じないが、あんな非現実的な夢を見せられている今となっては否定しきれない。

「あの、もしよかったらその話詳しく教えてもらえませんか」
俺がそう言うと、婆さんはパァッと表情を輝かせて「もちろん!」と大きく頷いた。

土手のなだらかな斜面に2人で腰をかける。
足元でお行儀良く座っていたチワワは婆さんの膝に飛び乗り、まるでそこが定位置だと言わんばかりにゆったりと横たわった。

それを合図と言わんばかりに婆さんは語り始める。

彼女が初めて『夢の共有』を体験したのは中学生の頃。
『松竹町の河川敷にいるお地蔵様にとある儀式をすると、夢を介して恋が実る』
当時同級生の間で流行っていた噂を聞きつけた彼女は、興味本位でそのお地蔵様に願いをかけたらしい。
お地蔵様の額を白いハンカチで時計回りに8回、反時計回りに6回、縦に15回撫でる。
たったこれだけの儀式で本当に効果があるのか疑わしかったが、他に当てもなかった彼女は藁にもすがる思いでお地蔵様に祈りを捧げた。

そしてその日の晩、夢の中に現れた相手は片想い中の同級生だった。

最初はただ、好きな相手がたまたま夢に現れただけだと思っていたが、その日を境に何度も同じ夢を繰り返し見るようになった彼女は「これは偶然ではない」と感じたそうだ。
そしてついに、現実世界で片想い相手本人から奇妙な夢について言及された。
曰く、「夢の中で話した内容をなぜ現実の君が知っているのか」と。
それをきっかけに2人は互いの夢を共有していることを確信したという。

そんな奇妙な交流を続けるうちに現実の2人の距離も急速に縮まったが、それはあくまで友人関係としてのものだった。

奇妙な夢を見始めてから一年ほど経ったある日。
突然、彼が家庭の事情で海外へ引っ越すことが決まった。
どんなに離れても夢の中なら会える。
そう思ったものの、やはり現実で彼に会えない寂しさはぬぐいきれなかった。

そして引越しの1週間前、彼女は最後の賭けに出た。
夢の中でついに想いを告げる決心をしたのだ。

「……でも、あっさり振られちゃったのよねぇ」
カラカラと笑いながら、婆さんはチワワの背中を撫でた。
「え、でも恋愛成就のご利益があるって話じゃ……」
お地蔵様に本当に恋愛成就の効果があるなら、告白が断られる事はなかったはずだ。

「たぶんそれは嘘ね。実際、あのお地蔵様にお願いしても告白が上手くいかなかった子を私は何人も見たし。きっと、恋が実った子の話だけが広まってしまったんじゃないかしら」

つまり、地蔵に祈ったあと実際に告白に成功した何割かの人間がそれを『地蔵のご利益のおかげ』だと思いこんでしまったということか。
そうやって都合のいい噂だけが独り歩きして、『恋愛成就』のパワースポットとして定着するようになったのだろう。

「……私はね、あのお地蔵様のご利益はあくまで『夢を通じて距離を縮める手助けをする事』までだと思っているの。そこから先は、運や自分の努力次第なんじゃないかって……」
婆さんは膝の上で寝息を立てるチワワの背中を優しく撫でながら微笑んだ。

婆さんの話によると、儀式をしても人によっては告白成功どころか夢での交流すら叶わず、不発に終わることもあるということだ。
信仰心の差なのか、それともなにか他に必要な条件があるのか、はたまたお地蔵様の気まぐれなのか。

「だって、『確実に好きな人と結ばれる』なんてご利益があったら今頃この一帯は観光地にでもなってるはずでしょ?」
婆さんは冗談めかして笑った。
たしかに。
当時はメールやインターネットが普及していなかったとは言え、そんな大層なご利益を与えられるならとっくに話題になっているはずだ。
そもそもこんな与太話をまともに信じる大人はそう多くないという理由もあるだろうが。

「……その後も夢の共有は続いたんですか?」
俺がそう尋ねると、婆さんは静かに首を横に振った。
「告白した日を境に2度と……」

それに気付いたのは彼が海外へ旅立ってからずいぶん経ってからのことだったと彼女は続けた。

「でもね、それよりももっとショックなこともあったの」

彼女は膝の上で寝息を立てるチワワを見つめながら呟いた。
「告白をした次の日、現実の彼に最後のお別れを言おうと思って会いに行ったのね。そしたら、彼は夢に関する記憶だけが綺麗に抜け落ちてしまっていたのよ。私が告白をしてことも全て」
「え……」
「最初は照れ隠しだと思ったけれど、でも彼の口から出るのは『そんなことは知らない』の一点張りで……。結局そのまま引っ越してしまって、それっきり」

甘い夢を見せてもらった代償かしらね、と寂しそうに呟く。
今の話が婆さんの妄想や作り話ではなく、真実だとしたらとんでもないことだ。
世の中には科学では説明できない現象もあると聞くが、こんな身近にそんな摩訶不思議なスポットがあったとは。

「ちなみになんですけど、当時は彼とどんな夢を見たんですか」
「あら、興味があるの?ふふ」

俺と山吹が見ている夢とは無関係だとは思うが、念の為参考までに聞いておきたい。
しかし次の彼女の言葉によって、俺は自分の運命を思い知ることになる。

「白い部屋」
ぽつり、と。
目の前の婆さんは確かにそう言ったのだ。
「気づくと2人で白い部屋にいるの。こーんな大きな、お姫様が眠るようなベッドだけが置いてある部屋でね」

俺はその白い部屋に心当たりがあった。
いや、まさかそんな。
「毎回必ず一つ“お題”があってね。それを2人で達成しないと夢から目覚められないの」
「お題……?」
俺の中に芽生えた疑惑が、少しずつ確信に近づいていく。
「そう。例えば『ケーキをお腹いっぱい食べろ』とか『試験の勉強をしろ』とか。私はそれがとても楽しくて、彼と2人で過ごす時間は本当に幸せだった」
「ケーキ……って、食べ物も出てくるってことですか」
「ええ。私が念じればね。しかもちゃんと本物と同じ食感と味も感じられるのよ。それでいていくら食べても太らないんだもの。夢って素敵よね」

うっとりとした表情で語る彼女とは対照的に俺の中に渦巻くのは、底知れぬ恐怖と焦りだった。
だいたい、俺はただガキ共にイタズラされていたお地蔵様の汚れを落としてやっただけだし、恋愛成就のご利益自体今日初めて知ったのだぞ。

そこまで考えてハッとする。

『お地蔵様の額を白いハンカチで時計回りに8回、反時計回りに6回、縦に15回撫でる』
婆さんは確かそう言った。

その動作には身に覚えがあった。
俺はあの時、お地蔵様の額に書かれた「肉」という落書きを落とすためにウェットティッシュで何度も何度も同じ場所を擦った。
回数までは覚えていないし、ハンカチでも無かったが。

まさかアレが恋愛成就祈願にカウントされていた、ということか?

『夢を通じて結ばれる』
そのご利益が真実だとしたら、これまでの夢の内容が「手を繋げ」だの「好きなところを言え」だの、やたら恋愛色強めだったことの説明がついてしまう。

俺の中でパズルのピースがひとつひとつはまっていく。
そして完成したそれは最悪な形で俺の前に立ち塞がった。
まじないやオカルトの類は一切信じていないが、現に非現実的な現象が俺と山吹に降りかかっている。

それでもまだひとつ大きな疑問が残る。
どうして相手がよりにもよってあの男なんだ。

山吹とはそれなりに長い付き合いだが、今まで恋愛対象として意識したことは1度もない。
あくまで仕事仲間、飲み友達としての関係しか築けていなかった。
第一、俺の恋愛対象は女だ。

情報量の多さに混乱していると、膝の上のチワワが短く鳴いた。
「ふふ、そろそろお散歩の続きに行かなくちゃね」
帰らないと」
スカートを軽く叩きながら立ち上がる婆さんに釣られて俺も腰を上げる。

「ごめんなさいね、長話に付き合わせてしまって」
「いえ……こちらこそありがとうございました。色々と貴重な話が聞けて嬉しかったです」
「こんな話、誰も信じてくれなかったから。あなたに聞いてもらえて嬉しかったわ」

それじゃあまたどこかで、と彼女はチワワと共に土手を登っていった。
その姿が見えなくなった瞬間、俺は脱力して地面にしゃがみこんだ。

「まじか……」

あの夢の原因は、俺が気まぐれにやったお地蔵様の掃除にある。
その事実が重くのしかかる。
「はは……」
もう笑うしかない。

白い部屋とは何なのか。
なぜ夢の相手が山吹なのか。

疑問は山ほどあるが、それよりも俺の頭の中を締めているのはただ1つ。
「……山吹になんて説明しよう」
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