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東京オリンピック

アメリカ合衆国の最期

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 昭和二十年七月四日、国際軍法裁判の結果アメリカ合衆国の解体が決まった。それはまさに、国に対しての死刑判決であった。無論、橿原条約で最終決定されるそれはあくまでアメリカ一国に対しての罪を罰しただけであった。少なくとも、当時はそれだけのはずだった。
 ……そう、そのはずだったのだ……。
 事情がにわかに変わり始めたのは昭和二十年も九月中旬に差し掛かった頃であった。その頃になると、アメリカ合衆国という国は消えてその所領は主に五つに分割されていた。まずはアラスカを含めたロッキー山脈より西と、テキサスの大油田などを大日本帝国が、東部十三州などをドイツ第三帝国が、ニューメキシコなどをメキシコが、カナダ近辺の所をイタリアが、残りの中西部をフィンランドが占領していた。
 何でも、「国際条約である以上戦勝国も遵守する必要があるだろう」ということであった。そう、「大陸独占禁止法」である。大日本帝国は元々日系人の国として独立させる予定であったが、ドイツ第三帝国は新しい生存圏として接取する気満々であった。そして、アメリカ白人も有色人種の手にかかるよりは、とユダヤ人以外のアメリカ白人はドイツ第三帝国への亡命を選んだ。無論、それは冥府魔道への片道切符であったのだが。
 一方で、先住民や黒人などの迫害されていた方々はこぞって大日本帝国領を目指した。無理もあるまい、彼らが生き残る道はそこしかなかったのだから。
 大東亜戦争とは、世にも希な、正義のための戦争であった。勝った以上、正義を標榜する大日本帝国は、それを守護する必要があったのだ。
 そしてこのアメリカ合衆国処刑会議で特筆すべきことが起きた、大日本帝国側の「ユダヤ人のための国家を西インド諸島に設置してみてはどうか」という破天荒な申し入れである。これにはドイツ第三帝国は難色を示したものの、ある国家が諸手を挙げて賛成する。大英帝国である。もはやその帝国制度を為し得ないほどズタボロに打ち砕かれたイギリスはどうせならドイツに吠え面をかかせてやれという気持ちが、あったかどうかまではわからないが民族自決の方針を逆手にとってドイツ第三帝国の領土に対して次々と独立を迫る。中でも一番滑稽だったのは「カルタゴ人の民族自決」として促されたフェニキア・チュニジア・そして旧ノイエ・カルタゴ地区とされるスペインの一部であった。いくら何でももう滅んでいるだろうという意見は列強の意思の元黙殺された。斯くしてノイエ・カルタゴという意味は新しく、新カルタゴ共和国という、アメリカ合衆国の存在と引き換えに彼らは歴史上から現代へと移籍を開始したのだ。
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