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第二段階、死守の外郭
ミイトキイナ作戦(前)
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「あのくそばかのどあほうが!! あれほど待てと言っただろうが!!
その「待て」すら出来ぬとは、ヤツは犬以下か!!」
~牟田口廉也が勝手に攻勢を仕掛けたと聞いた時の高松宮の怒号を抜粋~
マリアナ沖海戦より時は遡って1944年4月のことである、高松宮号令に従って日本軍にしてはかなり珍しいとされる計画的な後退戦術によるビルマ方面の守備部隊再配置計画が行われ始めた頃のことである。その後退戦術の最中にもかかわらず攻勢を仕掛けた愚物が存在した。……牟田口廉也である。彼は高松宮が督戦に来ると把握した途端に今までの戦場にもかかわらず行っていた豪遊を行っていないフリをして部下に攻勢を強要した。とはいえ、所詮愚物の攻勢である、下手の考え休むに似たりのことわざ通り呆気なくイギリス軍に跳ね返された結果、却ってその行為は高松宮の激昂を誘った。そして、上の怒号を聞いた将校達は我がことのように青ざめていたというのに、牟田口に至っては「なぜ攻勢を掛けたのに叱られたのだ」と反省の色すら見せていなかったという。
結果、牟田口は作戦失敗の責任を取ることとなり更迭、最後までぶうたれていたらしく、余計にそれが指導層の怒りを買って最終的には現地で行われていた失策失政などの責任を半ばいけにえの如く一人で取ることとなり帝国軍人としてはほぼ唯一の戦争犯罪人として処されたという。……死刑ではなかったのは、せめてもの情けか、あるいは生き恥をさらせという理由によるものか、それは今更知る事は無いが、生き恥を感じるような人間ではなかったのは確かである。
そして牟田口が更迭を受けた後任には飯田祥次郎という将軍が復帰した。復帰と記した通り、彼は元々、ビルマ戦域において日本軍が好調だった時代にそれを演出していた将軍だった。そして牟田口の影響で敗亡しつつあるビルマ戦域において復帰した飯田はまず現状を把握するとレド公路の遮断のみを念頭に置いた「ミイトキイナ作戦」(「エ」号)を発動。作戦要綱は以下の通りであった。
・敵の意図は国民党への援兵、つまり援蒋線の構築である。逆に言えばそれの構築が目的ならば此方から攻勢をかける必要はない。
・補給路の確立及びミイトキイナとマンダレー、そして腕町の三角域さえ維持していれば敵の作戦意図を挫くことができる。
・よって将兵はただ持ち場を離れずに、適時補給を受け取り守勢攻撃を行うだけでよい。焦れずに敵の攻勢限界を悟れ。
簡潔明瞭この上ない作戦であり、作戦とは本来そうあるべきものであるという見本のようなものと言えた。つまりはヒマラヤ山脈をあえて敵に越えさせて疲弊したところに各守備隊が連携して防衛に当たる。問題の補給は海軍が責任を持って輸送船団を組むという触れ込みを行っていた。陸海の仲の悪さを考えれば信用して良い物かと疑問に思う軍人もいたが、責任者が高松宮であるということを聞いた際に瞬時に納得したという。
……かくして、「「エ」号作戦」、通称「ミイトキイナ作戦」は始まった。
「エ」号作戦発令当初、「援蒋ルート構築の妨碍」が骨子であることを前提として飯田は「高松宮号令」の指示通りに後退命令を発令し、鞭声粛々とした撤退を開始した。牟田口が広げ過ぎた戦線を縮小し再整理するための撤退戦であったため連合軍は予想以上の行軍を可能とし、中には「勝ったと思った」輩すらいたほどであった。
……だが、連合軍が真に震撼し、恐慌に陥ったたのはその防衛線に触れた時であった。戦傷の結果後方に送られ、ゆえに辛うじて生き残ったあるイギリス第33軍団第2歩兵師団師団長付の老将校は後に「あれはまさに「ヒマラヤ山脈全ての山が噴火した情景」であった」と語る。
飯田中将が命じた攻勢行動は唯一つ、「防衛線に触れる敵兵全てを鏖殺せよ」。すなわち各部隊に任せた防衛線に敵軍が触れたときにそこへ射程距離圏内の部隊が全火力を一点集中するというものだ。無論、それが二点、三点と増えればその分火力の密度は弱まるのだが、飯田はどこからか「ある情報」を仕入れており、それによればイギリス軍が全面攻勢に出ることはできないという分析であった。また、イギリス軍の植民地部隊、特にインド人が多数を構成する師団にはチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が調略に当たった。
植民地で編成された部隊に所属するインド人の兵士たちは、チャンドラ・ボースの調略に、当たり前だが驚愕した。「なんで敵軍にインド人がいるんだよ!?」と。そして戦闘の結果捕まったインド人兵士にはある檄文と「カルカッタ上陸作戦の一部」を流してその場で釈放することにした。ある意味、ハンニバル戦略の焼き直しとも言えたが、ハンニバルが敵対したローマ共和国と違い、イギリスとインドの間に離間工作を仕掛ける意味は、確かに存在した。
問題は、なぜそんな軍事機密をバラすのかということだが、これには高松宮提督の秘策があった。それを語るのはまた後として、このミイトキイナ作戦の前に、高松宮はある人物に対談を申し込んでいた。その、人物の名は……。
その「待て」すら出来ぬとは、ヤツは犬以下か!!」
~牟田口廉也が勝手に攻勢を仕掛けたと聞いた時の高松宮の怒号を抜粋~
マリアナ沖海戦より時は遡って1944年4月のことである、高松宮号令に従って日本軍にしてはかなり珍しいとされる計画的な後退戦術によるビルマ方面の守備部隊再配置計画が行われ始めた頃のことである。その後退戦術の最中にもかかわらず攻勢を仕掛けた愚物が存在した。……牟田口廉也である。彼は高松宮が督戦に来ると把握した途端に今までの戦場にもかかわらず行っていた豪遊を行っていないフリをして部下に攻勢を強要した。とはいえ、所詮愚物の攻勢である、下手の考え休むに似たりのことわざ通り呆気なくイギリス軍に跳ね返された結果、却ってその行為は高松宮の激昂を誘った。そして、上の怒号を聞いた将校達は我がことのように青ざめていたというのに、牟田口に至っては「なぜ攻勢を掛けたのに叱られたのだ」と反省の色すら見せていなかったという。
結果、牟田口は作戦失敗の責任を取ることとなり更迭、最後までぶうたれていたらしく、余計にそれが指導層の怒りを買って最終的には現地で行われていた失策失政などの責任を半ばいけにえの如く一人で取ることとなり帝国軍人としてはほぼ唯一の戦争犯罪人として処されたという。……死刑ではなかったのは、せめてもの情けか、あるいは生き恥をさらせという理由によるものか、それは今更知る事は無いが、生き恥を感じるような人間ではなかったのは確かである。
そして牟田口が更迭を受けた後任には飯田祥次郎という将軍が復帰した。復帰と記した通り、彼は元々、ビルマ戦域において日本軍が好調だった時代にそれを演出していた将軍だった。そして牟田口の影響で敗亡しつつあるビルマ戦域において復帰した飯田はまず現状を把握するとレド公路の遮断のみを念頭に置いた「ミイトキイナ作戦」(「エ」号)を発動。作戦要綱は以下の通りであった。
・敵の意図は国民党への援兵、つまり援蒋線の構築である。逆に言えばそれの構築が目的ならば此方から攻勢をかける必要はない。
・補給路の確立及びミイトキイナとマンダレー、そして腕町の三角域さえ維持していれば敵の作戦意図を挫くことができる。
・よって将兵はただ持ち場を離れずに、適時補給を受け取り守勢攻撃を行うだけでよい。焦れずに敵の攻勢限界を悟れ。
簡潔明瞭この上ない作戦であり、作戦とは本来そうあるべきものであるという見本のようなものと言えた。つまりはヒマラヤ山脈をあえて敵に越えさせて疲弊したところに各守備隊が連携して防衛に当たる。問題の補給は海軍が責任を持って輸送船団を組むという触れ込みを行っていた。陸海の仲の悪さを考えれば信用して良い物かと疑問に思う軍人もいたが、責任者が高松宮であるということを聞いた際に瞬時に納得したという。
……かくして、「「エ」号作戦」、通称「ミイトキイナ作戦」は始まった。
「エ」号作戦発令当初、「援蒋ルート構築の妨碍」が骨子であることを前提として飯田は「高松宮号令」の指示通りに後退命令を発令し、鞭声粛々とした撤退を開始した。牟田口が広げ過ぎた戦線を縮小し再整理するための撤退戦であったため連合軍は予想以上の行軍を可能とし、中には「勝ったと思った」輩すらいたほどであった。
……だが、連合軍が真に震撼し、恐慌に陥ったたのはその防衛線に触れた時であった。戦傷の結果後方に送られ、ゆえに辛うじて生き残ったあるイギリス第33軍団第2歩兵師団師団長付の老将校は後に「あれはまさに「ヒマラヤ山脈全ての山が噴火した情景」であった」と語る。
飯田中将が命じた攻勢行動は唯一つ、「防衛線に触れる敵兵全てを鏖殺せよ」。すなわち各部隊に任せた防衛線に敵軍が触れたときにそこへ射程距離圏内の部隊が全火力を一点集中するというものだ。無論、それが二点、三点と増えればその分火力の密度は弱まるのだが、飯田はどこからか「ある情報」を仕入れており、それによればイギリス軍が全面攻勢に出ることはできないという分析であった。また、イギリス軍の植民地部隊、特にインド人が多数を構成する師団にはチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が調略に当たった。
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問題は、なぜそんな軍事機密をバラすのかということだが、これには高松宮提督の秘策があった。それを語るのはまた後として、このミイトキイナ作戦の前に、高松宮はある人物に対談を申し込んでいた。その、人物の名は……。
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