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愛知らぬ解剖鬼の「ハナミチ」
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我々は生まれさせられた直後に、嵐の絶えない苦しみの空へ放り投げられる。一面海で、進んでいる方向も、進むべき道もわからない。我々ができることは、理不尽にあらわれる暴風に飲まれながら、墜落するまでの間、飛び続けることだけだ。
家族も、友も、地位も、名誉も、愛する人も、いずれは手放さなければならない。最後には全てなくなる。人は生きている限りつねに、なにかが手に入らない苦しみ、失う苦しみに悩まされる。
では、人は何のために、苦しみの中で、生きるのか。
「~のために」という言葉は、現在行っている行動を、目的地となる他の行動や表現に関連付けるときに生まれる。
「ご飯を食べる」という行動に対して、「お腹を満たす」という目的、もしくは意味がある。「睡眠」には、「疲れをとる」という意味がある。「結婚」には、「夫婦になる」という目的がある。「仕事」するのは「金を稼ぐ」ためである……。その都度の行動を、その都度の意味や目的によってつなぎ合わせたものが、「人生全体」である。
では、行動と意味の構図を、そのまま人生全体に適用させるとどうなるのか。
残念ながら人は、人生全体の目的地が死であることを知ってしまっている。だからこうなる。
「生きる」のは「死ぬ」ためである。人生に意味などない。
人生に初めから意味や目的があると考えるのは、人類特有の錯覚である。
人は、人生との向き合い方を根本的に変えない限り、その苦しみからは解放されることはない。「人生の無意味さを語る無意味さ」に気づいた以上、「ならどうするか」を考えるのが建設的だ。
普通に考えるなら、人生の見方を変え、自分に納得できる生き方を貫くしかない。
しかし、例外がある。たった一つだけ……。
「さぁ、メスに触れるのだ。あなたの願いは、それで叶う」
深夜のとある病院、ベッドの上に老婆が横たわっていた。
髪の毛はねずみ色と、白色が混じっている。目をこらせば、地肌が透けてみえるほど、薄い。
顔のしわは数え切れないほど。手足の肌も、乾燥でウロコのようにめくれ上がっている。尻には床ずれがある。
「解剖鬼さん、待っていたわ」
自力で痰も吐き出せない。痰が絡んだときは、鼻からチューブを入れて、気管から直接吸い出すしかない。
食事もすりつぶしてドロドロになったものしか食べられない。それすら、食べている途中で気管に入り、むせ込んでしまう。食べ物を食べられなくなるのも、時間の問題だった。尿が止まる度に膀胱へ管を差し込み、便が出なければ下剤と指をつっこんで摘便、おむつを弄ればグローブをはめられ、暴れたらベルトでしばられる運命にある。
ベッドの脇に、何かが立っている。
黒のトレンチコートに黒い長髪。革製のペストマスク。色あせた焦げ茶のブーツ。その眼孔の奥には、淡い光りが揺らめいている。
その声は、重く、暗く、しかし優しさに満ちていた。
「私のメスに、あなたの指が触れた瞬間、薬液が血管内に注入される。あとは、目を瞑ればいいだけだ」
「そう、やっとね」
か細く、しゃがれた声で、老婆はつづけた。
「……悪いんだけど、もう一度説明してくれる?」
「いいとも」
もう、五度目の説明だったが、ペストマスクは一切気にせず話し始めた。
「私は、手術における全行程をメス一本で行える。それを利用し、薬液を塗ったメスで、あなたの体内に致死量の薬を注入する。もちろん、切開しつつ縫合するから痛みはない」
その後、今回の場合は老衰に偽装する。偽装さえ終えてしまえば、まずばれない。彼が、途方もない時間磨きつづけた技術は、芸術の域にまで達している。
「私が死んだあと、あなたはどうするの?」
「あなたが死んだときに放たれる『魂の力』をもらう。その力で、私はあなたと同じように苦しんでいる人を救う。例えば、対岸にいる患者のように」
と、解剖鬼は、奥のベッドを指さした。
ベッドに横たわった若い女の患者は、乾いた目で天井をじっと見つめている。口は半開きで、体は棒のようになって、一切うごかない。すでに、全身が拘縮してしまっているためだ。腹には栄養の管をつなぐための、穴が開いている。とこずれは老婆よりもひどく、左右の腰骨の出っ張り、両肩、右肘など、至る所にある。お尻の上に至っては、骨まで到達している大穴があいていた。
女にできることは、吸引とおむつ交換の度に、顔を痛そうにしかめることだけだった。
老婆は、首をかしげた。
「みえない」
「そうか」
「ごめんね、いろいろと。私の頭、ポンコツだから」
さしだされた各種書類を、解剖鬼は受け取った。不備のないことを確認して、うなずく。
「人間である以上しかたないさ。89年も生きてきたんだから。むしろ、よくがんばったと、ねぎらうくらいでちょうどいい」
「うふふふ、それもそうね。じゃあ、はじめて」
老婆が目を閉じたのを確認。
自らの手首をひねると、コートの袖から解剖用のメスが瞬時にとびだした。
「メスに自分の指で触れるんだ」
「わかったわ」
老婆は、人さし指を伸ばし、メスの先端に触った。動作に一切のためらいはない。
メスの表面から、致死薬が毛細血管に注がれていく。
目を閉じた老婆が、うわずった声で聞いてきた。
「あれれ? 何も、感じないわ」
二十秒後、ガガッ、ガガッと、下顎呼吸を五回。その後、動かなくなった。数分後、聴診器を当て、瞳孔を確認。
死因偽装処理を施した後、解剖鬼は消えた。
とある城の階段ホール。階段に足をかけたとき、上から力強い声がした。
「ばかな、解剖鬼!?」
「ご名答」
「姫様の部屋へは絶対に行かせん」
階段の踊り場で、鎧に身を包んだライオンの亜人が、こちらをにらんでいる。豪華な装飾が成されていたであろう鎧は、使い込まれて傷だらけになっていた。二メートルを超える身長を持つ解剖鬼よりも、さらに背が高く、迫力がある。
亜人は、手すりを乗りこえ、舞い降りた。
「自殺衝動の持続時間はせいぜい三十分と聞いた」
「その通りだ。よく勉強をしている」
「姫様が良からぬ輩と話していると聞いてな。自殺代行業について調べさせてもらった」
亜人はネコ科の脚力で一気に間合いを詰め、すさまじい速度で拳撃を浴びせてきた。だが、拳は全て宙を切る。ラッシュを止めたところで、解剖鬼が頭の上に立っていることに気づいた。
「くっ!?」
蜘蛛の巣を払うように、手をなぎ払った。
解剖鬼は、髪とコートをなびかせながら宙を舞う。
亜人は叫ぶ。
「死にたい思い――希死念慮とやらをを察知できるのなら、三十分話し相手になって、自殺を留めることもできるだろう。『じゃあ死のうか』ではなく、『じゃあどうしようか』と手を差し伸べる方が、建設的じゃないのか? 希死念慮を消せずとも、希死念慮と共存する手段もあるはずだ」
亜人はこちらが着地する瞬間を見計らい、両手の爪を振り下ろそうとしてきた……が、止めた。左右の人差し指で。
「ば、ばかな!?」
「共存までの道のりが果てしなく、辛すぎるから、原因の根底から消し去るのだ。不幸回避は人間の本質。生からの逃避に、何か問題があるのか?」
「多くの人に迷惑をかけるだろう」
「通常の自殺であればな。遺族が損害賠償を請求されたり差別を受ける。他にも、検死・行政解剖を行う医師や役人、葬儀派遣業者、遺品整理師……さまざまな人に迷惑をかける。だが、私がもたらすのは計画的病死。最低限の迷惑で全て解決だ」
「そういう意味ではない! 姫様が作り出してきた全ての人間関係が奪い去られてしまう。その上、無数の人が、姫様と接することで得られたはずの、自己変革や成長のきっかけを失う。こんなことが許されていいはずがない」
解剖鬼は平然と距離を詰める。
「お前たちの都合など知ったことか! つらさをかたがわりできるわけでもないのに、勝手なことを言わないでもらおうか」
解剖鬼は、亜人の蹴りを踏み台にして、相手を跳び越えた。
「俺は、姫様を子供のころから一緒に過ごした。この世界には、すばらしいものもたくさんあった。屋根裏部屋の探検、裏庭のピクニック、なぞなぞ……。なのになぜ、世界にもう望むものはないと、決めつけてしまうのだ!」
「あなたの言うとおり、この世はすばらしいのかもしれない。しかし生物は、『生きやすさ』を犠牲に『生き残りやすさ』を追求してきた。良いニュースよりも、悪いニュースに反応する。ポジティブな記憶よりも、ネガティブな記憶が脳に強く刻み込まれる。ネガティブにとらわれず、精神的に健康な人の方が、異常なのだ。自然界からすると不自然なんだよ」
「だからといって、0か100か、生か死かで物事を判断するのは、早計ではないのか!?」
このボディーガードが、彼女の父親だったら、こうはならなかったろうに。
解剖鬼の歩みを止めた。そして、ふり返る。
「自分、家族、社会、世界。複雑なものを複雑なまま受け入れる。白と黒のグレーを受け入れる。他者の『自分にとって都合の良い面』と『都合の悪い面』をそのまま受けとめる。物事の良いところも悪いところも、そのまま受ける。君の提案は正しい」
声色は、暗く、暗く、どこまでも落ち込んでいった。
亜人は追いかけるのも忘れて、立ち尽くすしかなかった。
「では、なぜ?」
「それができるんだったら、常時無限脳内反省会をし続けることはなない。脳がつらさの限界を超え、緊急回避手段として希死念慮を作り出す事もない。自分と他人に線引きできず、感情を混同することもない。仕事における自分の領分と相手の領分を間違えたり、物事の優先順位付けができなくなることもない。心のモヤモヤを無分別に『死にたい』へ変換することもない。誰にも相談できず、自分を消す方法を探し続けるなんてしない」
解剖鬼は、若い女性の声でさけんだ。
「誰も分かってはくれない」
「自分でどうにかしなくちゃいけない」
「死ぬほど頑張っているのに、もっともっともっともっと頑張らなくちゃいけない」
「私は自分は間違っていないはず!」
「みんな、みんな、私が消えれば満足なんでしょ!」
ライオンの亜人は絶句した。
「それが、姫様の本心なのか?」
「人の本心なんか、誰もわからない。たとえ、家族でも」
解剖鬼はトレンチコートのポケットから、縦長の缶をとりだした。ピンを抜くと地面に転がす。
階段ホールに充満する煙。それを吸った亜人は、膝をつき、眠たげな顔で頭を振った。
彼は『そんな馬鹿なことを考えるな』と、頭ごなしに否定しなかった。『死にたい』という気持ちを、真っ正面から受け入れようという、覚悟が感じられた。彼が姫の父親であったら、彼女の結末は変わったはずだ。
「なっ、嘆かわしい。その力があれば、より大きな事を成し遂げられるのに。その技術があれば、より多くを助けられるのに。その知識があれば、よりより社会を作れるのに。なぜ、それをしようとしない」
「私は、私にしかできないことをやる。それだけだ」
そして『社会』などという正体のつかめない怪物のために仕事する気はない。
倒れるライオンの亜人を後にし、ペストマスクはお姫様の部屋へとむかった。
事前面談はで、健全な判断能力があるかを確かめる。今の症状、自殺ほう助を考えはじめた時期やきっかけ、理由を徹底的に詰める。最低三時間が三コマ。この面談で『診断書を見る限り、自殺ほう助をすることに何の異論もない』と解剖鬼が判断した場合、実施に移る。
判断基準は二つ。
一つ目は現時点から、自分が死ぬまでの人生を、絶望の色で塗り固めていること。絶望の感じ方は人それぞれだ。ある人は、未来に残された時間が一気に圧縮されて見え、『自分は断崖に立たされており、生き続けても辛くなるだけ』と感じる。ある人は『自分の人生は、間延びした空白以外の何物でもない。無意味である』と感じる。
もう一つは、『自分が死んでも誰も困らない』と感じていること。居場所がない、誰かにも必要とされていない。自分はひとりぼっち。人はどこまでも社会的な動物であるから、人間関係に最大の幸福を感じるよう作られている。逆に言えば孤立感は、死に値する苦しみなのだ。
彼女が、今生きている理由は、『楽に死ぬ方法がない』からだった。
白いテーブルの上には、ティーセットが並べられている。どれも、最上級のものだ。テーブルの脇にある窓からは、地平線まで続く庭がひろがっている。シャンデリアの光は、壁一面をしめる名画を照らしていた。
彼女は、この国の女王候補だった。見る度に、顔の疲労感が増している気がする。毛皮のつやも、鈍い。身体は痩せ細り、骨張っている。
『何もできないやつに、食う資格も、美しくある資格もない』と、酒と薬以外を絶食している。また、絶食の物理的な苦しみで、精神的な苦痛をごまかす意味もあるようだった。
解剖鬼が促すと、彼女は一方的に自分の身の上を話し始めた。
「内向的で見知った人としか話しませんでした。しらない人と話すのは苦痛だったし、知っている人と話すのは楽でした。だから、極端に視野が狭く、自己客観視ができない。相手の立場に立って考えることもできないんです」
「では、話し相手の言葉の意図すら、見当がつかないのか」
「ええ、親や、ボディーガードである彼ですら……。当然、うまく意見を伝えることもできませんでした。そのせいで、人の言葉を深読みしすぎちゃうようになってしまいました。相手のことを詮索しすぎる、そんな自分も嫌いで仕方なくて」
友達は少なく、先生や父親によくなついた。『言うことを聞く良い子』とほめられつづけた結果、年長者の言うことは絶対と信じるようになった。年長者の顔色をうかがって、『年長者の望むこと』をする。自分の考えがうかんでも、押し殺す。それが習慣となり、いつしか自分で物事を考えなくなった。
「重要な選択は全て他人に委ねてきました。親や家庭教師、政治家など、年長者同士の意見が対立したときは、心が張り裂けそうになります。しかも、ちいさい頃から利権争いを見てきたために、信頼できる人がいないんです」
「それは、辛いな」
「ええ。私は、その度に『言いつけを守るのに失敗した。これは自分の努力不足』と、自分に言い聞かせました。でも、どんなに反省しても、同じミスを繰り返してしまうんです。おかげで今は『自信』という概念すら、わからなくなってしまって……」
レールに沿って、王位めざし、兄弟たちと必死に戦った。点数と協調性が重視され、個性は恥として晒された。上位の学校に入るために、夢や自分の大好きなことは全部諦めた。そこまでしても、人生はうまくいかなかった。酒に逃げた。向精神薬に逃げた。酔っている間だけ楽になれた。しかし、酔いから醒めれば、更なる苦しみにさらされる。日に日に不安は増幅され、酒も薬も増える一方。逃げても逃げても、苦痛は増すばかり。
家族に相談しようにも、できなかった。父親は仕事で家を空けることが多く、母親の愚痴の聞き役も彼女が兼ねていたからだ。
「母親に相談しても『おまえは自分のことしか考えていない』とか、『おまえも苦しいんだろうけど、私達はもっと苦しめられているんだ』と、つめたく言われました。反論しようとしても『そこまで言われる筋合いはない』とか言い換えされる」
どうしてこうなってしまったのだろう。
いつも、同じ問いかけをして、同じ結論にたどり着く。
「運悪く、生まれてしまったから!」
彼女はようやく、話し終えたようだった。完全に、語り終えたのを確認してから、ペストマスクは口を開いた。
「生まれてしまったのではない。『生まれさせられて』しまったのだろう?」
親によって生まれさせられた。しかし、親は子を選べない。その点に関しては、親を攻めることをできない。
もっとも、「不幸になる可能性のある存在」をこの世に生みだすという決断をしてしまったことに関しては、完全に親の責任だが。
「そうです! その通りです。私は生まれたんじゃない! 生まれさせられたんです。それでも私は、みんなに認められるために頑張って、頑張って、頑張って、頑張って……でも……でも……っ。どんなに頑張ってもうまくやれない。もう、迷惑かけてばかり。自分なんかいない方が、みんな幸せになるはずなんです」
ペストマスクは静かにうなずくと、優しい声でつぶやいた。
「人は、自分の意思に関係なく生まれさせられる。だが、その命の使い道は本人が決めるべきだ。人の死に方は、家族でも、環境でも、法律でもなく、本人が決めるべきなのだ。生きたい人は楽しく生き、死にたい人は安楽に死ぬ。それが私の理想だ。私は、君の手助けをしたい」
聞く力が弱いから、何を話しているのかわからない。
見る力が弱いから、表情や仕草から情報を読み取れない。
想像する力が弱いから、誤認情報を修正できない。相手の立場を想像することも難しい。未来のことも想像できないため、正しい努力もできない。
問題に直面した時、頭に浮かぶ解決案の数そのものが少なく、どの方法がいいのか吟味して選ぶのも苦手。
相手の反応を正しく認識できないため、自己を正しく評価できない。極端に自己評価が低くなってしまう。そのため自我が脆く、ちょっとしたことで傷つきやすい。ストレスを抱え込みやすく、不適切な行為で発散してしまう。
対人スキルにも乏しいから、嫌われたくないから頼みごとを断れない。辛い目に遭っても助けを求められない。
彼女は、人として詰んでいた。
「お願いします! 解剖鬼さま。私を、私を生の苦しみから救ってください。このクズを始末してください! 酒と抗うつ剤で、自分の記憶すらあやふやなんです。止めようとしても離脱症状という名の終わらない二日酔いが待ってるし……もう、いろいろと限界なんです。かといって、自殺は怖いのです。失敗するかもしれないし、痛いかもしれないし、他の人に迷惑をかけるかもしれないし」
「心配には及ばない。私は、全てを、完ぺきにやってのける。君は、誰にも迷惑をかけず、苦しまず、確実に、自然な形で、この世を去るのだ」
自殺に反対する人は言う。
人は、変われるかもしれない、と。
しかし、死を想う人は、愛を感じられない。強固な信念もない。
あのボディーガードのように心の底から助けになりたいと思っている人がいたとしても、人間不信ゆえに本人の心に届かない。
そんな絶望の中、あるかもわからぬ自分の可能生とやらにかけ、何十年も耐えつづける。それこそが地獄ではないか。
解剖鬼は、ゆっくりとメスを差し出した……。
築50年以上する借家の一室。そこに、男の声がこだました。
「ありがとうございます! ありがとうございます! ありがとうございます!」
虎の獣人は、ひたすら頭を床にこすりつけていた。畳には、涙のしみが散らばっている。 必死に頭を下げる彼の隣で、若い女性が微笑を浮かべて眠っている。数分前とは違い、寝息は静かだった。
解剖鬼は、振り下ろしたメスを手首にしまいながら答えた。
「私は、ただ手をうごかしただけだ。臓器を提供した人に、感謝するんだな」
「ええ、ええ! 感謝しますとも! もしよろしければ、彼女の名前だけでも……」
脳裏に、お姫様とのやりとりがよみがえった。
『もう一度確認したいのですが、本当に私が死ぬことで、誰かの命を助けられるのですよね』
『そうだ。君の心臓があれば、助かる命がある。君の腎臓があれば、より長生きできる子がいる。君の骨を移植すれば、歩けるようになる人がいる。君の死は、誰かの生の一部となるのだ』
『私は、誰かの役に立てる』
『もちろんだとも』
解剖鬼は、彼女の願いを叶えられたことに、小さな喜びを感じた。
「あなたの奥様の情報を他者に明かせないのと同じように、彼女の情報もあなたに明かすことはできない。しかし、気にすることはない。あなたの奥様が元気に生きてくれるだけで、彼女は幸福なのだから」
「あ、あの、お代は……」
「必要ない。患者の幸福が、私の報酬なのだ」
解剖鬼はそう言うと、黒い霧となって消え去った。
臓器移植センターの一室。
解剖鬼が呪文を唱えると、電子カルテが眼前に映し出された。診察予定を確認する。
「やけにキャンセルが多いな。理由は、『魔法具屋ミミコッテによって認知が変わったため』、『魔法具屋ミミコッテによってコミュニケーション障害が寛解したため』……」
仕事を妨害されるのには慣れていた。しかし、ここまで露骨に妨害されたことはない。もしかしたら、相手は同系統の能力者なのかもしれない。
「バカなことを」
患者は、考え方を変えたり、成長しようにも、勉強する時間も、体力も、金もない。何より心がそれを受け付けない。新しくなにかをしたり、知らない人と会うなどもってのほかだ。
チャンスがあっても狭い視野では見つけられない。見つけられたとしても失敗の恐怖から挑戦できない。
社会からの期待に応える力もないし、やりたいこともない。自己嫌悪に陥り、なんのために生きているかわからなくなる。
己の境遇に落胆し、他者に嫉妬し、殺したいほど己を憎みながら、不公平で不平等かつ理不尽で運次第な世界を嘆き、無意味で耐えがたい生の苦痛をしのぐ日々。社会復帰したとしても、彼らに待っているのは、他者の奴隷として尽くすだけの人生。
これを地獄と呼ばずしてなんという。
こんなに苦しい気持ちが続くのなら、いっそのこと、死んでしまった方が楽なのではないか。
ありとあらゆる選択肢が消えていく中、最後に残ったのが希死念慮。自殺願望。
必死に選び取った選択。考えに考え抜いた末にたどり着いた結論。
何一つ自由に出来るものがない中、唯一残された希望。最後の決断。
それが、自殺なのだ。
「生は苦しみ。死は救い。そんなこともわからないやつに、私は屈しない」
酒とタバコのにおいが充満した部屋。生活に必要な物は全部布団の近くにある。布団から手を伸ばしても届かない場所は、ゴミで埋めつくされていた。テーブルには睡眠薬の瓶が置かれている。
布団の上でじっとしていた彼女。エルフの女性だが、その美しさは見る影もなかった。緑の髪は黒ずんでおり、枝毛が目立つ。血色が悪い上、目の周りがくぼんでいる。パジャマはよれて、しわくちゃだった。彼女は、解剖鬼にかけよると、ナメクジのように這ってきた。
「私の人生は終わりです。何をしてもむなしい。かなえるはずだった夢、過ごすはずだった未来、それが一夜にして消え去ってしまいました。期待や不安、幸福と楽しみに満ちた高揚感と多幸感に包まれた、幸福の絶頂とも言える毎日。それが一瞬にして崩れ去ってしまったのです。そのうえ、問題は山積みで、不運が一斉にやってきた……」
ふらふらと、解剖鬼に倒れかかると、静かに涙を流しはじめた。
「人生なんてひどいものです。もはや、何をやってもうまくいきっこない……」
解剖鬼は、静かにうなずくと、話を引き継ぐように続けた。
「『自分にもっと能力があったら』という後悔。『どうして自分を置いて死ぬの』という怒り。『私の人生は終わりだ』という絶望。『何をしてもむなしい』という虚無感。『会いたい』という思慮。耐えた先に希望はない。『このままおかしくなるのか、今後の生活はどうなるのか、私も死ぬのか』という不安。自分の心の一部を失ったという孤独。恋人から解放されたという密かな安堵、そして、さらなる自己嫌悪と罪悪感。地獄よりも、地獄的!」
女性は、さけんだ。
「そうです! 私にとっての神は死にました。愛も信念も崩れ去りました。未来への希望は潰え、あらゆる価値観は過去となってしまいました。私に残された財産は、過去への後悔だけです。わたしには、わからない。彼のいない人生に意味なんて、あるわけがない」
まるで、すがるように、解剖鬼の身体をなでさすった。
「あの人との大切な記憶がよぎる度、『もう二度と戻れない』という現実を突きつけられるんです。仕事から帰って寝るまでのすき間時間が、もうさけびたくなるほど、辛いんです。もう、自分で自分の行動を制御することすら、できないんです。この苦しみから、どうか私をお救いください!」
「いいんだ。それで。人には『何もえらばない』という選択肢もあるのだ。私は絶望した人を、楽に、美しく、迷惑をかけず、病気を装って送りだす。君のような人に、死の救いをもたらすことこそ、私の使命なのだから! さあ、自らの意思で、つかみとるのだ――」
解剖鬼は、メスを差し出した。
「――死の、安楽を!」
仕事を終えると、解剖鬼は転移の呪文で立ち去ろうとした。……が、できなかった。
「転移阻害結界か」
目の前に、彼女と瓜二つのエルフが現れた。緑髪は同じだ。端正な顔つき。白のブラウスに緑の格子縞スカートを着ていた。
無表情で、両目をゆっくりとひらいたり、閉じたりしていた。大きくひらいた瞼から目玉がこぼれ落ちるのを防ぐかのように、彼女は目を覆った。
目の腫れる痛みで、ショック状態から現実に戻ったらしい。彼女は、ペストマスクを見て、絶叫。この世の者とは思えない大声で、彼女は泣きだした。
と、同時に、文字通り呪いの文言を……呪文を唱えはじめた。
「待て! この場で戦ったらこの家の大家に……」
無駄だった。とうとつにあらわれた、巨大な白い拳に、殴られた。窓をぶち抜き、空中へ放り投げられる。
エルフの家に何かがあらわれた。
白いドラゴンのような何かだった。背丈は建物二階分を優に超えている。人型に近いタイプで、無駄な筋肉のない格闘家のようなシルエット。全身鎧を彷彿とさせる、外骨格に覆われている。目つきを鋭くしたトカゲのような顔をしており、後頭からは六本の角が生えていた。翼とは別には生えた腕も、純白の骨格で覆われている。
コウモリベースの翼は、異様にゆっくりと羽ばたいている。肩の上に、先ほどのエルフが乗っていた。
明らかに彼女の力量を超えたものだった。どうやら彼女の怒りと、解剖鬼が蓄えた『魂の力』が、呼び寄せてしまったらしい。
ドラゴンの身体の節々から魔力があふれ出て、光の粒子となって空中に消える。暗い瞳孔が、静かにこちらをにらみつけている。
「君は誤解している。私が殺した訳ではない。当然、希死誘導したわけでもない。各種契約呪文をかけてある遺書がある」
テレパシーで呼びかけたが反応はなかった。
それどころか、ドラゴンがこちらへ飛行してきた。あまりの速度に、身体の輪郭が赤く燃え上がっている。速い。一秒と経たず、膝蹴りが食い込む。高度二十メートル……三十メートル……数えるのが嫌になった。
切り札である『魂の力』を解放すれば、街に尋常ではない被害が出る。
打つ手がない。
「やはり、私は、無能だ」
彼女の怒りの原因は、私の未熟さだ。自分のふがいなさに、憤怒を通り越してあきれてしまう。
いや、今は自己嫌悪におちいっている暇はない。
ドラゴンは先回りすると、大きく手をひらいて振りかぶり、爪をたたきつけてきた。はえたたきに打ち落とされたハエも同然。
ドラゴンは再び先回りし、思いっきりアッパーをくり出してきた。寸分の狂いもなく、腹に直撃。普通のサイズに見えていた住宅街が、一気にミニチュア大にまで縮む。
相手はさらに、身体を縮めて力をため、横回転しながらロケットのように突撃。ドガガガガっと、ドリルのように解剖鬼の身体をえぐらんとする。
その後も、先回りしては解剖鬼に強烈な打撃を浴びせ続けた。軌道が青色に光り、まるでペンライトのようできれいだ。しかし、行われているのは一方的な蹂躙である。全く反撃の隙がない。
「少しは人の話を……」
最後に、しっぽで解剖鬼の腹をつかむと、空へ思いっきり放り投げた。
視野の中に町全体が収まった。ここが展望台だったら最高だった。
ドラゴンが口を大きく開いた。そこへ、青白い光の粒子が集まる。粒子たちは一つの大きな光球と化した。ビリビリと大気がふるえ、地響きのような音が聞こえる。そのうえに、バイオリンが奏でる低音のような音が被さる。音階が急速に上がっていき、やがてキーィィイイイという聞くのも恐ろしい音になった。
エルフが叫んだ。
「消えろ!」
隙を見せた。
彼女を傷つけるのは不本意なのだが、仕方ない。
解剖鬼は、しぶしぶ申し上げた。
「姉を信頼していることを言い訳に、定期連絡を怠った君に、もの申す権利はない」
ドラゴンの動きが一瞬止まった。エルフは首を左右に振って、向き直る。しかし、時すでに遅し。
彼女の集中が途切れ、結界が弱まった瞬間。解剖鬼はエルフの背後に転移した。エルフの首に、メスをめり込ませる。頸動脈に薬液を流しつつ、瞬時に縫合。何事もなかったかのように、メスを引き抜く。
「なっ……!?」
「もっとも、仕方のない面の方が多いがな。閉鎖的な集落で築き上げられたライフサイクル、長寿種族故の時間感覚の長さ、森と外界の『変化』の速度の違いなどなど……。これらの相乗効果のせいで、森から出た独居エルフの孤独死は多い。必要以上に負い目を感じることはない」
麻痺して動けなくなった彼女の眼前に、遺書を突きつける。
瞳が右から左へと規則的に動く。
表情からみるみる血の気が引いていく。
「そ、……そんな」
「何回治療を受けても、双極性障害や統合失調症、うつ病が寛解しなかった。たくさんの人の助言を受けても、なお生きる気力がわかなかった。そうなったらもう、激痛を伴う不治の病と何ら変わりはない。精神疾患が不治の病であれば、身体的な不治の病同様、死の権利が受け入れられるべきだとは、思わないか」
「……エルフが他の種族と婚約したら、いずれこうなるって覚悟していたはず。他のみんな当然のこととして受けとめているのに」
「風邪と同じだ。同じウイルスに感染しても、無症状の人もいれば、40度近くの熱が出る人もいる。同じ状況でも、たいしたことないと感じる人がいれば、死にたくなる人もいる。彼女は、後者だった。君は悪くない。彼女も悪くない。誰も悪くない。遺伝と環境に、努力は勝てない」
ドラゴンは、肩から二人を下ろすと、消滅した。
よろけるエルフに手を貸そうととしたが、払いのけられた。少し、心が痛む。
「せめて、最後の一言だけでも、聞きたかった……」
「病院に入院している患者ですらそうだ。本人はもちろん、『今夜が山場でしょう』と言った医者ですら、患者が今死ぬか、明日死ぬか、来週死ぬかはわからない。人は死ぬ。すぐ死ぬ。とうとつに死ぬ。あっけなく死ぬ。とにかく死ぬ。大切な人の死に際に立ち会える人など、ごくわずかなのだ」
「ううぅ……ひっく……うえええん……」
「君は、彼女の死を察知して、即座にはせ参じた。こういう人もまた、ごくわずかだ。君は、君にできる最大限の努力をした。それだけで、十分だ」
泣き崩れる彼女。解剖鬼もしゃがみ込んで目線を合わせた。
「君はこの世界で、代替不能なただ一人の姉妹として、彼女を愛していた。本人には正しく伝わらなかったかもしれないが、それでも君はやれることはやったのだ。今こうして君が悲しんでいるだけで、彼女に生きた意味があったと断言できる」
首を振るばかりで、エルフは答えようとしなかった。
「君は、妹とは違う。君になら、大切な人を失ったという悲しみに、耐え抜くことができる。死に際、彼女から君に伝えるように言われた。『置き去りにしてごめんなさい。あなたは幸せに生きてくださいと』。君の姉は、最後まで君のことを信じていた」
「私……私は……」
彼女の魂の奥底から、湧き出る力を感じる。彼女は生き残ることができる。
解剖鬼は安堵しながら、彼女の記憶を消した。
正面一面が巨大ガラスになっている真っ白な部屋。さまざまな薬液が置かれた四段棚に、降り曲がる照明器具など、ものものしい物が多々置かれている。
部屋の中央にはストレッチャーが置かれており、誰かが横になっていた。
解剖鬼の隣にいたのは、狐耳の亜人だった。白い髪に白い肌、白い眼。白いファーコート。憂いをおびた艶やかな顔。
姿見が正反対とも言える彼女が、口を開いた。
「なぜ、臓器提供はもっと広まらないのかしら」
「脳死時、本人か家族の同意さえあれば臓器提供できる国もあれば、脳死を死としてカウントしない国すらある。そういう国では、救急救命術師が『臓器提供』と、言い出すことができない。『癒術師が患者を見捨てるのか!』と反論するのが、目に見えているからだ」
「めんどうね」
「そう言うな、シモバシラ。私たちとちがって、彼らには彼らなりの倫理観がある」
巨大なガラス越しに、冷凍室内の様子がみえる。シモバシラが作り出した永久凍結結晶により稼働している保管庫。中には、ブロック加工された遺体や、骨、皮膚、靱帯、血管、結合組織、神経、軟骨、心膜、弁などが、利用しやすいように加工された上で、出荷を待っている。
「死んでからも誰かの助けになるなんて、すてきなことだと思うのだけれど」
シモバシラは、うっとりとした表情でぼやいた。どうやらご自慢の芸術品たちに思いを馳せているらしかった。
「生前にも問題があるんだ。提供登録者は、脳死の可能性が認められた瞬間、『まだ生きる尊厳のある人』から『早く死んで臓器を提供すべき人に』格下げされるからな。本人はともかく、遺族は耐えられるものではない。若い場合は、特にな。『他人の身体で生き続ける』程度の救いでは、慰めにもならん」
「でも醜い姿で、苦痛を伴う延命をされるのは、イヤ」
「医療人が保険証に、延命拒否を書く時代だからな。見た目はともかく、苦しいのは遠慮したい」
なんにせよ、臓器提供者の数は少ない。臓器提供のシステムそのものにひずみがあるのは必然だ。だから、臓器提供を意思表示すると、救急救命措置が手抜きされるなどという事案が発生する。
臓器提供においては、提供者と移植待機者の適応率あげることが至上命題。なのでまず、待機者を多く確保する。
その結果、臓器提供をむなしい待機時間が長くなる。しかも、成功率を上げるためには当然、状態のよい患者を選ぶ傾向があり、移植して生存率が向上したといえるのか、疑わしいものがある。
だからこそ、提供者を増やすことが至上命題なのだ。より多く、より新鮮な臓器が必要だ。
臓器は、使いたい人が、使うべきだ。
「でも、人をブロックで保管するなんて、美しくない。人を物扱いするのは、賛同しかねるわ」
「皮一枚剥げばみんな同じようなもの。人に美醜はない。霊的価値もない。水と、タンパク質と、脂の塊に過ぎない。ただ生き、ただ死ぬ。それだけだ」
「あなたとはわかりあえそうにないわ。……ねぇ、一つ聞かせ――」
シモバシラの声を、タイマーの音がかき消した。
解剖鬼は毛布をめくる。緑の布の引かれたテーブル上に置かれた、刃を手にする。持ち手は木製。刃は先端に書けてなめらかな曲線を描いている。解剖鬼は、片刃大切断刀の側面で、遺体を軽くなでた。
「すばらしい! 一日以上長持ちするとは」
「通常の氷での冷却は、正味9時間が限界だった。この過冷却を使えば、27時間持つわ。私が関わらずとも、より多くの患者に、臓器を移植できるはず」
「採用だ。運用に関しては我々に任せてくれ。後報酬は後ほど」
「わかったわ」
シモバシラの言葉と同時に、白衣の男女がぞろぞろと部屋に入ってきた。彼らは、ストレッチャーを押し、遺体を運んでいった。
二人は、真っ白な廊下を歩きながら、言葉を交わしつづける。
「今日は何人仕事をしたの?」
「10体」
「相変わらず働き者ね」
「一人でも多くを救うのが私の使命だからな」
「意識憑依薬の効果は?」
「良好だ。面談も、事務作業も、滞りなく行われている」
意識憑依薬は、解剖鬼の精神の一部を抽出した液体だ。死体に解剖鬼の精神を埋め込み、コピーを作る革新的魔法薬。妖狐であるシモバシラの憑依能力を応用した、二人の共作だった。
同一精神を持つ関係上、コピーと本体の意識は共有される。おかげで解剖鬼は『安楽死は、本当に患者の意思なのか?』、『自殺誘導したのではないか?』と、仲間へ問う必要がない。『魂の力』は本体しか持たないため、自殺ほう助そのものはできない。が、医療その他の技術レベルは高い。先ほど遺体を連れていった作業員も、みな解剖鬼のコピーだ。
もちろん、自分の精神を切り分け、死体に埋め込むという所業は、普通なら発狂するのだろう。
しかし、もはや人の精神をしていない解剖鬼には、メリットしかない。
「君のところに送った美女たちは?」
「彼女たちを一緒くたにしないで。私の恋人なんだから」
「悪かった」
「今は、氷結陵墓にいるわ」
臓器ごと氷像にしたのか!? なんてもったいない。臓器の持ち腐れじゃないか。
解剖鬼は言いかけて、口をつぐんだ。
「そうか」
二人の考えは、妙なところで一致していた。『今より悪くなるなら、いっそのこと人生を終わらせた方がいい』という点で。
だから、共犯関係になった。お互いの理念を尊重するが、賛同はできない。しかし、常軌を逸した考えと、力と、行動力をもつ者同士、気が会うのだった。
「ねえ、一つ聞いて良い?」
「なんだ?」
「社会がもしあなたを許せば『社会に適応できない人間は安楽死させればいい』ということになりかねない。民を、選別することになってしまう」
「今だってそうだろう」
「社会は建前を重視するものよ」
「そうかい」
「よりよき社会のため、あなたの存在を、社会は許させない。あなたの行いはいずれ、社会の全てを敵に回すわ。その覚悟があなたにはあるの?」
「もちろんだ。私はいつだって、誰か一人のために戦う」
「あなたの考え方が、人類社会を崩壊させるとしても?」
「今日まで社会が存続しているからといって、社会の存続が正しい選択とは限らない。君だって、社会から強要されたからといって、氷像を手放すことはあるまい」
「もちろん。人類と美、どちらを残すべきかと聞かれたら、答えるまでもないわ」
体育館に校長の声が響く。解剖鬼は二階のラウンジで聞いていた。
「『ホームレスだから、国は私に家を提供しなければならない』。そんな言葉は、もう通用しません。本来努力できるのにも関わらず、努力を怠って『社会』に助けてもらおうとする人が大勢います。生活援助を受けている人が、一般の方よりも贅沢な生活を送っていることも珍しくありません。ですが、社会の実態は一人一人の人間です。甘えた人間を助けたいと思う人などいません。君たちが、どれほど自分自身の責任を引き受ける自己責任感を持ち、自らの努力によって不幸な人を助ける覚悟があるのかにかかっています」
社会保障を縮小することで、国民は若いころから資産運用せざるを得なくなる。結果として市場は活性化し続ける。
しかし、国民が怠ければ、縮小された社会保障はすぐにパンクする。
社会保障は必要な人に用いられるべきで、怠惰で失敗した人に用いる余裕はない。
「自己責任を果たし、切磋琢磨しつつ、一定の役割を果たすためには、基礎的・基本的な知識、技能の習得やそれらを生かして課題を見つけ、解決るための、思考力・判断力・表現力などが必要。生涯に渡り学ぶ必要があります。その場が学校なのです。皆さん、必死に勉強してください。自らの怠慢で、みんなが稼いだ税金を浪費することは、最も恥ずべき悪徳なのですから」
その結果、『子の困窮、親の責任』で教育費が削減され、家庭の経済状況が子供たちの学生生活に反映されるようになった。容姿やコミュ力に加え、いい塾に通い、いい成績を取ることが子供たちの関係の中で重要な意味を持つようになった。頭の悪い子供は、自己責任感が低いと排他される。
しかし、子供は生まれる家庭は選べない。親のツケが子の責任として問われるのだ。
「国の援助を受けている人は、生きていても社会の足を引っ張るだけ。貧困層は死んだ方がマシ、か」
教壇に立った解剖鬼は、たった一人の生徒に語りかけた。
人間の少年だ。短い髪の毛はボサボサで、表情は硬い。久しく笑っていないのか、表情筋が死んでいるように見える。
彼は極端な自己卑下が特徴的だった。学校に自分の居場所が全くない感じがする。自分はずっと不自然に振る舞ってしまい、周囲に不愉快な思いをさせ続けている。『あなたは変わっている』、『あなたのような子はみたことがない』という教師の言葉が忘れられず、周囲から独自の目で注視されているという意識が頭の片隅から離れない。教室では、自分ひとりだけ檻に入れられた動物なのではないか、と思うことすらある。
勉強に打ち込めず、不眠がちで、体重も低い。当然将来に明るい展望も持てない。
努力を怠ると自分がますます堕落するように感じ、能率が上がらないのに勉強とジョギングに打ち込んでいた。『勉強している間だけは、不安をまぎらわせられる』と、一種の自傷も兼ねているようだった。
「では、命の授業をはじめよう」
「はい、先生」
解剖鬼は、早口で一気にまくし立てた。
「君が生まれるためには、たくさんの人が関わってきた。二十世代前で104万8576人、三十世代前まで含めると10億73474万1824人だ。一人でも命を引き継いでくれる人がいなかったら、一組でも組み合わせが違ったら、君は生まれなかった。ゆえに、生きていること自体が奇跡なのだ。君の脳は君の細胞だけでできているわけではない。2000年以上にわたって、先祖たちが引き継いできた記憶と体験の集積。先祖に感謝するべきだ。先祖に感謝できない人間は、自分の業績は全て自分の力のおかげだと思い込み、自己中になる。自己中が他人を大切にできるはずがない。だから、感謝するんだ。先祖に! 生かされていることに! 自分が生まれてきたという事実に!」
「それじゃあ、なんで父がぼくを殴るんですか? 命は大切じゃないんですか?」
彼の声には悔しさがにじみ出ていた。
上げた手首には、白い線の束が刻まれていた。競争社会、学内のいじめ、親の虐待などと、一人で格闘してきた跡だった。
親がアルコールやギャンブル依存、精神疾患などのメンタルの問題を抱えていたり、DV、借金などの生活の問題を抱えていると、子どもは家族にすら『助けて』を言えない。『親に余計な心配をかけたくない』『親から嫌われたくない』と、気づかう心が勝ってしまうからだ。
さらに始末の悪いことに、子もまた遺伝によって何らかしらの不都合を抱えている可能性が高い。家族の人間関係はこじれにこじれ、自宅そのものが危険な場所になってしまう。
解剖鬼の場合もそうだった。
夜中中、両親がけんかする。苛ついた父親が箸やアイロンを投げてくる。子どもだった彼は押し入れに入って、恐ろしい声が聞こえないよう歯ぎしりし続ける。キレ狂って大声で笑っている母親に恐怖し、『おかあさん来ないで』と祈りながら布団にくるまって寝る。翌日、母親の憂さ晴らしの買い物につれられ何時間も待たされる。リンスを使ったら頭を流すことすら教えてもらえず、ふけだらけで学校に通って笑われたり、歯磨きを毎日することを、学校の先生から習ったりする。その上、今のお前の性格は私が育てただの、言ってくる。
それが親と言うものなのだ。
学校にも相談相手はいない。したところでうまくいかない。自傷を明かせば批難される。恥辱にまみれた家庭問題を明かすなどとてもできない。問題は、自力で解決しなければならない。
そんな子どもに、一般的な常識など、通用しない。
「すばらしい質問だ。『牧場の牛』という、たとえ話をしよう。牧場の牛は、牛そのものには全く関係のない、牧場という外部から与えられた価値観によって『乳量の多い牛が善い』と思い込まされている。彼らは『牛の本質、生きる意味は、乳量で決まる』と思い込み、寿命や受胎能力すら犠牲にして、ひたすら乳量を増やすことに明け暮れる」
「では、ぼくは社会という名の牧場で生かされる乳牛ですか?」
普通、当然、常識。乳牛は決まってそういう言葉を使う。希死を抱く人を、『普通にすればいい』、『考えすぎ』と抽象的な言葉で追い詰める。自分の思うようにいかなくなると『社会からお前は必要とされていない』と、とどめを刺す。
自分は正常、あなたは異常。
そういう人たちが、解剖鬼は嫌いだった。だから、必ず相手の価値観は尊重するし、相手が対話を求める限り、できる限り答えようとする。
「その通り。君は、牧場から逃げだそうとしている乳牛なのだ。しかし、牧場から逃れる術を、他の乳牛は知らない。そもそも牧場の外という概念そのものがない。当然、君は助言や提案を聞いても受け入れられないか、実行できない。そんな自分にますます嫌気がさしていく。乳牛たちは乳牛たちで『私たちは正しい』という『安心』を得るため、君という異端を排除しようとする」
解剖鬼は、『牧場』という言葉を、怒りのこもった声で強調した。
牧場――すなわち社会。たくさんの人々の理性と感情が混ざり合い形成される、混沌とした何か。
解剖鬼が『敵』と断じる、数少ないものの一つだった。
「そのうえ、君は親から裏切られ続けている。だから『人はいつか裏切るもの』と考えているね」
「ええ。実際ぼくの人生はその通りのことが起こり続けました。最初はリスカを心配してくれた先生も、今では『切りたければ、切ればいいでしょ』って。最初は歩み寄ってくれた友達も、最後はみんな離れていきました。僕の先祖たちも、とっくの昔にぼくのことなんか見捨てていることでしょう」
ここだ。
孤独感を強めれば、未練が弱まる。
孤独感は人を、致死に至らしめる。
本当に孤立しているかどうかは、関係ない。ただ、本人に『自分は孤独である』と自覚させればいい。
そうすれば、自分の選択に、心の底から納得して逝くことができる。
救われるのだ。
「人には慣れという物がある。自傷は見た人を深く傷つける行為だ。繰り返される自傷を見せつけられた物は、理不尽な攻撃を受けていると感じるようになる。だから反撃するようになるのだ。その結果、君はますます追い詰められることになる」
「でも、切れば楽になります。切らないと、辛くて辛くて生きていけないんです。でも……もうわからないんです。こうまでして生きている意味が。死ねば、苦しみから解放されるんですよね。地獄に落とされたりしないですよね?」
男子生徒は、奥歯を噛みしめて、顔をしかめた。
解剖鬼は、ゆっくりと、床を滑るかのように、生徒へ歩み寄る。そして、どこまでも優しくささやいた。
「もちろんだとも。死後に罰されるというのも、乳牛の言葉だ。弱者が自分の身を守りつつ、他者への優越感に浸りたいという願いが生みだした、宗教という名の牧場。そこでのうのうと草を食って暮らす、乳牛の言葉だ。死ねば、確実に、苦しみから解放される」
「……お願いします」
「では、メスにふれたまえ。君の願いは、それで叶う」
そして、君の自殺は、他の誰かを救うのだ。
窓ガラスをぶち破って、何物かが教室へ侵入してきた。
「一つ、忘れていることがあるんじゃないかい?」
竜人だ。白ベースにうすピンクの体毛。背中から生えた翼と、しっぽ。すべすべの太ももに、ほっそりとした足首。
窓枠を蹴り、空中で足先を調整すると、こちらへ蹴りかかってきた。
「――人は成長するってことをねぇ!」
解剖鬼はメスをしまうと、両腕で顔面をガードした。が、受けとめきれない。背中で机の群れをかき分けながら、壁までふっとんだ。
馬鹿な。竜人だと!?
「どうしてこんなところに」
「知り合いが教えてくれたのさ」
「種族差別と迫害の嵐に心を病み、山に引きこもったお前が、なぜ人の味方をする?」
「そんなアタシに寄り添ってくれた人がいたからさ」
「ふん、運が良かったな。それより、マフマフよ。その少年に、成長を強要する気か? 周囲と自分を比較し、承認欲求に飢え、社会の生き残るためには『成長しなければならない』。すでに死ぬほど頑張っている彼に、さらに頑張りを強要するというのか?」
知り合い……白いドラゴンか。やっかいなまねをしてくれる。
「『成長しろ』っていってるわけじゃない。この子が『すでに成長し続けている』という事実に、目を向けろって言っているんだ。人が変わらないように見えるのは、ゆっくりと少しずつ成長しているからだ。そして、小さなゆっくりとした変化でも、積み重なれば大きな成長につながる」
「か、買いかぶりです」
小さい声で、少年が反論した。
マフマフはにやりと笑うと、言い返した。
「牧場と乳牛のたとえ話を思い出しな。自分の思い込みに気づいて、生きづらさの原因のうち一つを自覚して、新しい価値観に上書きしていたじゃないか。あれは、立派な成長だよ」
少年が、はっとした表情でマフマフを見た
「人生のどん底で、打つ手がないように思えることもある。それでも『人生に対する態度を変えれば苦痛を弱めることができる』って、自ら証明しているじゃないか」
マフマフは優しくうなずくなり、解剖鬼へ向けて牙をむき出しにして吠えた。
「それなのにてめぇは……この子を多くの問題で圧倒して『自殺しか解決法がない』と追い詰めた。心の視野狭窄を意図的に起こし、自殺へと誘導する。そんなの、自由意志でもなんでもない。ただの強制だッ!」
「お前の視点から見ればそうだろう。だが、状況に救いがないのもまた、事実なのだ」
「『てめぇが発見するまでは』な。発見したからには、公共機関に働きかけるとか、いろいろやりようがあっただろうが!」
解剖鬼は、「自己責任を強要する社会に、何が期待できる!」と返したくなったが、言葉を飲み込んだ。確かに法的な機関に通報すれば、彼を取り巻く環境は変わった可能性が高い。かといって、『彼が生き延びることによって生じる、不幸が生まれる土壌そのものを断つべきなのだ』と述べたところで、現実的楽観主義の彼女は納得しないだろう。
解剖鬼は、マフマフの『人は変われる』という点を攻撃することにした。
「成長に関してもそうだ、マフマフよ。脳の可逆性には限度がある。それに、恵まれた環境で育った子どもと、どん底の環境で育った子ども、成長難度の差は一目瞭然だ」
「わっちは、脳ミソについてはよく知らないけど……」
マフマフは自分の頭をトントン叩きながら、解剖鬼をにらんだ。
「脳の限界を知る術はないし、脳のちょっとした変化で人生が激変する可能性もあるだろう。あんたは、人の成長に関して悲観的すぎるんだよ」
そして、少年へ向き直ると、しゃがんで目線を合わせた。うなずきかけると、小さな声で語る。
「あんたは、やつれきって、もう生きていても仕方のない子だ。なのに、あんたは今立派に生きてる。すごい忍耐力と、向上心だ。その頑張り、その努力、誰にでもできるもんじゃない。どんなに優れたやつだって、もしあんたの同じ環境で生きていたら、刑務所に行っていたか、病院か、さもなくばもうこの世にいないだろう」
解剖鬼は、マフマフの背中へ声を浴びせる。
「しかし、彼は引き換えに、周囲の人と環境に対して、すさまじい憎しみを抱えている。憎しみにとらわれている限り、どんなに努力しても人は変わらない」
現に私もそうだった。
「『なんで自分だけがこんなにひどい目にあわなければならないんだ!』と、人を呪い、運命を呪い、神を呪い、全てを呪いながら死んでいくしかない。憂鬱で、八方塞がりで、息をするのも辛くて、希望もない。楽しそうな人を恨み、人の何十倍もの悩みに苦しむ。地獄で生まれた人は地獄で生まれる定めだ。今生き延びても後悔するだけだ。この不自由な世界で、生きる価値なんかない!」
マフマフがふり返った。表情こそ穏やかだが、握りしめた拳に力が入っていた。
「自由とは、自分の内なる憎しみの方向へ進むのか、愛の方向へ進むのか、一瞬一瞬選択することだ。生きるためのたくましい決断ができることを、人は、自由と言う。彼には、自分の憎しみを乗りこえるだけの、強さがある。過去の被害者や囚人になることはない」
マフマフは少年をかばうように立つと、拳を解剖鬼へ向けた。
「許しがたい相手を許すには、激しい怒りを解き放つ必要があるだろう。でも、この子は、相手を許し、自分を許し、成長できる力を持っているとわっちは信じている」
「何を根拠に?」
「根拠なんかない。自分がどこまで成長するか『わかる』ことなんかありえない。『わかりえぬ存在』としての自分を信じること、それが自信。『わかりえぬ存在』としての他者を信じること、それが信頼なのさ。あんたには、その両方が足りない」
「無条件に信頼すれば裏切られるだけだろう」
「裏切るか裏切らないか決めるのはわっちじゃない。だから、わっちがどうするかとは関係ない。わっちは、懐疑から前向きな関係が築けるはずがないと思っている。自分とも、他者とも。そして、わっちらは、相手とも自分自身とも前向きな関係を築くことをめざしてる。信じることと、疑うこと、どっちを選ぶべきかは、言うまでもないだろう?」
自分が傷つくことを覚悟してでも、相手を信じろというのか?
「『お前は河川敷で拾った』と言われ続けて育った苦悩。誰からも愛されないという絶望。胸を焦がす渇愛の衝動。誰も信頼できないという不安。貴様にはわかるまい。この子は、貴様とは違う」
解剖鬼は、コートのホコリを払うと、腰の鞘から片刃大切断刀を引き抜いた。大きくわん曲した刃が、ギラリと光る。
「確かなものが何一つないこの世界で、何を信じろというのだ!」
「確かなものが何一つないこの世界だからこそ、まず自分が信じるんだ!」
刃を大きく振りかざすと、マフマフに突撃した。マフマフも拳を腰まで引き、向かってきた。激突する寸前、解剖鬼の全身から力が抜けた。
少年の、希死衝動が、消えたのだ。
「なっ……」
「彼の、勝ちだね」
マフマフはこちらの両腕を掴み、巴投げしてきた。
教室の天井と床が交互に視界に入った。背中に薄い膜のようなものが当たって、くだけた。視界に入ってきたガラス片で、教室の窓ガラスだったことに気づく。
床に倒れたマフマフが、こちらを見ている。口が淡くかがやいていた。
次の瞬間、視界が灼熱に包まれた。
どこからか、声が聞こえてくる。
「あなたの期待に添えずごめんなさい。でも、あなたやマフマフさんのように、見知らぬ自分へここまで尽くしてくれる人がいる世界なら、もう少し生きてみようって思ったんです」
皮肉なものだった。自分が、彼に、成長のきっかけを与えたのだった。
それもよかろう。環境がそうさせたのだ。私にはどうすることもできない。あとは、マフマフをはじめ、彼の周囲の人に全託するしかない。良くも悪くも、彼を取り巻く環境は変わるだろう。
またしても自分の仕事を完ぺきにこなせなかった。自分があまりに無能・無力すぎて、生きるのが辛い。
解剖鬼は、あえて魔力による防御を弱めた。
「……皮膚が……溶ける……熱い……苦しい……」
現実の痛みは、不安や孤独、怒りや絶望感を断ち切ってくれる。傷ついた自分の肉体を見ると、現実感が戻ってくる。肉体の痛みの方が、精神的苦痛の何百倍も扱いやすい。生きているのが辛くても、自傷があれば楽になる。
校庭のグランドにころがった解剖鬼は、すがさず転移の呪文を唱えた。
「現実が変わらない以上、不快感を減らすしかない。痛みに逃げるのは仕方のないことなんだ」
臓器移植センターの一室で、ずる剥けた皮膚に、新たな皮膚を移植しながら、解剖鬼はつぶやいた。
削除予定
極限環境では、例外的に面談を介さず、即処置に移るようにしていた。面談している間に、患者がむごたらしく死ぬ確率の方が、高いからである。
小高い丘の頂上から、川のほとりにある町をながめていた。町中の戦略上の拠点には検問所が設置されていた。どの拠点も、もぬけの殻。軍人も、冒険者もいない。川から攻めてくる反乱軍のために設置されていたはずの、砲台も撤去されていた。
「数で負けると分かって、撤退したか」
一発の爆発音。しばらくして、立て続けに数回の破裂音。その十五分後、バババンと先ほどよりも大きな爆発音が鳴り響いた。川とは反対側。反乱軍所属の魔術師の軍隊が、偶然見かけた町人に、呪文をぶっ放したのだ。
誰か一人が悲鳴を上げたかと思えば、町全体に広がった。あらゆる建物から人々が走り出し、前にいる人を強引に押しこみ、転んだ人を踏みつけながら、散っていく。とある母親は息子を見失い、別の父親は娘の名前をさけんでいた。町中の人々の大切なものが、何もかも引き裂かれていく。
半円形の隊列を組んだ、魔術師の群れが町へ侵入していった。村の内陸側からだ。空へ向けて火炎を放ちながら。
町の人々は、駐屯地に積まれた土嚢の前で、茫然自失としていた。いまさら、軍が撤退したことに気づいたらしい。
「行くか」
町の人々は一斉に、爆発音と反対方向へと逃げ出した。川の水がしみ出して生まれた泥沼を、必死に渡る。もたついている人々は、容赦なく踏みつけられ、泥の中に沈む。包囲網が完成する前に、村を脱出する。それが、彼らに残された唯一の生存方法だった。
本当の地獄はここからだった。町から人を逃すまいとする魔術師たちが、人へ向けて呪文を放ったのだ。赤い光線が、横殴りの雨のように、人の群れへ突きささる。魔術師たちの目的は、町の女子どもを人質にとり、敵軍の介入を少しでも遅らせることだろう。
解剖鬼は、愛用の片刃大切断刀を片手に、まず沼地で脚をとられた人々を処置していく。
人は命が危険にさらされると、本能的に生存を望む。解剖鬼が狙うのは、生存欲求を絶望が上回った人々。自分がもう助からないと、理解してしまった人たちだった。
沼地を越えた先の草原へ向けて、魔術師たちが火球を、はじめとする範囲攻撃魔法をぶっ放している。黒焦げになった遺体や、炎で彩られた木の狭間を、人々が駆けている。
目が見えない、と全身水ぶくれでさけんでいる男。動かなくなった赤子を抱える血まみれの母親。しゃがんで父母の名を泣き叫んでいる少年、卒倒したり、吐いたりしている人々。
絶望した人を、片っ端から切っていく。
魔術師たちのうち何人かが、解剖鬼に気づいた。が、無視した。何をしようが無駄だと、理解しているのだ。
魔術師たちは、生き残った人々を町の中心に寄せ集めた。反乱軍の文様を刻印するつもりなのだ。刻印は住民たちにとって、死を意味する。反乱軍の刻印があれば、政府軍は容赦なく彼らを殺す。過激な一般人も同じ事をする。刻印をされたが最後、二度と反乱軍から逃げられなくなってしまうのだ。
解剖鬼はその間に、まだ町にかくれている人を探して処理。最後に、刻印された捕虜のうち、生存欲を希死念慮が上回った人々を処置した。
戦場のまっただ中で安楽死させる人数は、少ない。
今まさに自分が射撃されているとき、今まさに暴風に呑まれているとき、強制収容所に従事しているとき。一日三百グラム以下のパンと、ごくわずかの水のようなスープで生活しているとき。こういった、露骨に生命の維持に集中せざるを得ない状況では、精神生活全般が幼稚なレベルへ落ち込む。食べ物、ベッド、気持ちの良い風呂……素朴な願望しか抱けなくなる。
感情は喪失し、知人の遺体を見ても、何も感じなくなる。自分と仲間の生命を維持することに全力を注ぐため、それ以外に極端に淡泊になるのだ。どんなに辛いことがあろうが『やれやれ、また一日が終わったか』程度にしか感じない。
また、そういう『遅かれ早かれガス室に入れられる』ような状況では、人は希死念慮を抱かない。『近々死ぬのに、自殺する必要があるのか? めんどうではないか』。逆に絶望した人は、絶望に肉体が耐えきれず、病気への抵抗力が急激に低下し、病死する。年末から年始までの週に、強制収容所で原因不明の大量死が発生するのも、『年始までには家にかえれるだろう』という素朴な希望が打ち砕かれる事による。
そういう場合、自身に出番はない。
しかし、絶望的な状況を耐え抜き、ある程度安全な寝床と食料を手にしたときは、話が別だ。
一息ついたとき、人は、はじめて失った物を数える。その時はじめて、痛みと絶望を感じられるようになる。暇は苦悩を生む。苦悩は『生きる意味』を問う。生きる意味を感じられないとき、人は死を望む。ゆえに解剖鬼は、被災の現場ではなく避難所を、収容所ではなく収容所から解放された人々を襲う。
人は、死に意味を見いださなければ、希死念慮を抱かない。『死にたい』と思う人は『自殺』に対して、何らかの意味を見いだしている。彼らに死を与えることは、当人にとっての救いになる。生きる意味や価値を感じられなかった彼らへ、逆説的に意味をもたらすからだ。
そして、それを真の意味で実行に移せるのは、解剖鬼しかいない。
だから、殺す。殺して、その人の人生に意味があったと、証明するために。殺して、殺して、殺し尽くすのだ。
なんで、今、怒られているんだっけ。まったくあたまがまわらない。
なんで、この話になったのか、発端が思いだせない。
でも、とにかく、なにか重大なミスをしたのだ。そうだったはずうだ。そうでなければ、個室によびだされて、説教など、されはしない。
いつもかぶっているお面も、おきにいりのコートも、どこかにいってしまった。
「何かあったら相談しろと、言ったでしょう。どうして、素直にそうしないの!」
「すみません」
「いや、あやまるんじゃなくて……」
「じゃあ、どうしてほしいんですか?」
個室にいらだった声がひびく。相手は、眉間にしわをよせ「その程度のことすらわからないの……」と、ぼやいた。
わからないものは、わからないのだからしかたない。空気を読むどころか、まともに会話するのすらむずしいんだから。
頭の中に、さまざまな記憶がフラッシュバックする。
相づちのしすぎでいやがられ、相手の目を直視しつづけてこわがられ、何のまえぶれもなく話題をかえてしてしまって困惑され……コミュニケーション上のミスは、一通りしたのではないか、というほどのぼうだいな量の記憶。
「おい! 何ぼーっとしているの! あなたはいっつもそう。人の話を聞かない」
「すみません」
金切り声で現実にもどった。
頭が、もうそうと、心の声で埋めつくされ、相手の言葉の文脈すらわからない。
「あいづちはしないし、目はあさっての方向を向いている。口は固く閉じられ、対話するという気持ちが伝わってこない。私の、小学生の息子以下よ。まったく」
「すみません……あっ、ええっと、ところで何の話をしていましたっけ」
「もういい」
相手は、手をひたいに当てて、首を横にふった。
「すいません、察しが悪くて。今後は――」
なんとかとりつくおうとした。
しかし相手は、うんざりした様子で、手をかざしてきた。
「話を元に戻すよ。なんで、わたしに対して、自分の気持ちを言わないの。不満や悩みがあっても相談しない。『わたしに質問があったら聞くぞ』と何度伝えたと思ってるの!」
わからないからだ。何を自分がわかっていて、何がわからないのか。同じミスをくりかえす理由も。心の中を満たしている言葉にならないモヤモヤも。どうやって伝えればいい。
しかも、伝えたところでわかってくれるとは思えない。
「自分にも、よくわかりません。定期的にメモを見なおして、気をつけているんですが」
「でも、実際できていない。メモをとっても実戦できなければ、何の意味もない。まじめに解決する気があるのか」
「そう思われても、仕方ありませんね……」
相手は大きくため息をついた。
「何度も頭で台詞を考えて、伝えようとするんです。でも、いざ言おうとすると、緊張して、怖くなって、頭が真っ白になって、訳が分からなくなって」
「で、結局、我慢する方が楽だと、だまりこむの? 逃げるの? それとも何? 傷つくのが怖いの? あんた社会人よね。そんなわがままが仕事で通用すると思ってんの?」
「すみません、本当に、すみません」
勝手に自分の気持ちを決めつけられ、ひどく不快な気分になった。でも、まったくの正論なので、何も言えなかった。言ったところで、火に油を注ぐだけだ。
黙りこくっていると、相手はもう一度ため息をついた。さっきよりも長く、深い。
「また、だんまり? なぜ改善しなければならないか話した。反省ノートもやってる。ここまでやってるのに、同じミスは繰り返す。なんでなの? ちゃんと自分で考えてる? 正直、こんなタイプの人間ははじめてよ。これ以上、何をどうすればいいのか、私にもわからない。本当に、仕事続ける気ある?」
「とんでもありません。精一杯、頑張っているつもりです」
本音だった。こっちだって、相手にきらわれたくない一心でがんばっている。何とか期待にこたえようと、もがいている。少しでも気にさわらないよう、つねに全力で空気を読もうとしている。なのにできない。だから困っているし、悩んでいる。
「こんなことは言いたくないけど、今のままだと、どこいっても通用しないよ?」
「ええ。うすうす気づいています。前の職場でも、その前の職場でも、そうでした」
目の前が暗くなっていく。暗い暗い闇の奥底へ、落ちていくような気分だった。自分よりもはるかに上回る実力を持つ人が、『打つ手がない』と断言したのだ。人付き合いそのものを、あきらめた方がいいかもしれない。親に相談してもいつもどおり「仕事止めなさい」か「考えすぎ」としか言われないのだろう。
くやしいが、自分に才能がないなら、受け入れるしかない。
もはや、自分とかかわらない方が、相手も幸せなのではないか。
以上削除予定
個室にヒステリックな声が響く。
「私は、あなたのこと思って言ってるんだからね。あなたも本気で改善に取り組んで欲しいの。しかる方もつらいのよ?……分かってると思うけど、言われているうちが華だからね。無視されはじめたら、終わりよ? くりかえし言うけど、私は、本気で、あなたのことを心配しているんだからね?」
目に涙を浮かべて、相手は訴えてきた。
こんな自分でも見捨てないでくれている。どうにか、どうにか期待に応えなければ。
「わかり……、ました。そうならないよう……気をつけ……ます」
もう、どうすればいいかわからない。今も全力でがんばってるけど、さらにがんばるしかない。無理でも、やるしかない。
「頼むから、これ以上、私を悲しませないで? わかったならいい。今日はもう、帰って」
「あの、改めて、すみませんでした」
十数回目の謝罪をしたあと、職場である診療所をでた。
転職したところで、性格上また同じような問題をかかえるにきまっている。いや、そもそも就職先がきまるとも思えない。ほかで通用するはずがない。看護学校にかようためにした借金が、まだ残ってる。こんなところでくじけちゃいけない。今回が最後のチャンスなのだ。止めるわけにはいかない。
自分が、あまりにも、クズすぎる。
道行く人は、みんな自分よりも優秀だ。普通に生きるなんて、自分には無理だ。生きているだけで他者に迷惑をかけてしまう。だから自分は、他人よりも劣っている分、人の倍頑張らなければらなければならない。
しかし同時に、いくら頑張ってもどうにもならないことを、私はすでに知っている。
親におもわず同情してしまう。こんな子どもを産まされるとは、なんて不幸な両親だろう。50~80兆分の一の悲劇。
生まれて、すいません。本当に、すいません。
これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
死にたい、けれど死ぬと迷惑がかかる。失敗すれば、ばくだいな医療費が発生してしまう。成功しても、引いてしまった人は一生のトラウマになるだろう。でも死にたい。死ねば明日職場に行かなくて済む。吐き気とたたかいながら出社して、心が出血性ショックになるくらいボコボコにされずに済む。
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい……。
死にたいという言葉で頭が埋めつくす。死にたい死にたい死にたい……誰か助けて……。
自殺を決行したことに後悔はなかった。はじめて、自分の意思を貫き通したとさえ思えた。前後の記憶は消えていた。
顔を真っ赤に泣き腫らして激怒してくれた家族。自分のために働いてくれる先生や看護師、看護ヘルパーさん。病室を掃除してくれるクリーナーさんに、リハビリの先生。
私のことで泣いてくれる人がいる。私を生かそうとしてくれる人がいる。
皮肉なものだ。私は、昨日までの自分と決別できる強さと、支えてくれる人がいるということを、自殺を通して学んだのだった。
自殺は家族の心も、家族そのものも木っ端みじんになると、説明された。
生かしてくれたのは、家族の心だったのしれない。いや、自殺したこと、死ななかったこと、それは全て定められていたのかもしれない。
手足はおろか、声すらまともに出せない。二十四時間暇で、ときおり痰をチューブで吸引したり、おむつ交換をされたりする。
結局私は、みんなに迷惑をかけただけだった。家族に深い傷跡を残しただけだった。皮肉だった。家族へ迷惑をかけないのも、自殺を実行した理由の一つなのに。
私は自殺を美化していたのか。若くして死ぬ憧れがあったのか。それとも、悩み続けるのがめんどうになっただけなのか。
家族が自殺しようとしていたら、私は確実に止めていただろう。どんな手を使ってでも。
自分のこととなると、抱える苦しみで頭がいっぱいで、命を粗末にすべきでないという考え自体が、浮かばなかった。
「治療が辛すぎる。いっそ楽に殺して」
「そこを助けるのが、私たちの仕事なの」
希死衝動というのは、五体満足で何の障害もなかったからこそ抱けた、贅沢だったのかもしれない。そう思えるほど、治療はつらかった。
病院の人たちは、ありとあらゆる手を使い、全力で生かそうとしてくる。
ボロボロな私の身心を、手術と処置とリハビリとカウンセリングで、なんとか回復させてくれた。
『私のことなんか、みんなどうでもいい。死んでも悲しむ人なんかいない』。それは、私自身が生みだした妄想だった。お見舞いに来てくれた友人もいた。カウンセラーの先生は、どうでもいい話でも、目をあわせて真剣に聞いてくれる。
「私は、なんて視野が狭かったのだろう」
あのとき自分を追い詰めていたのは、両親含めてたった三人程度だった。その程度で、自分は自殺しようとしていた。
他の人にとっては、他愛のない出来事に思えるのだろう。実際、患者のカルテと比較しても、私の悩みは軽かった。頼りないとはいえ両親は、味方。仕事も逃げだそうと思えばいつでも逃げ出せる状況。少々当たりの強かった上司も、プライベートで偶然再会した時は、普通にいい人だった。
ほんの少し視野を広げれば、解決する問題だった──。
──そう思えたのは、退院するまでのことだった。
三ヶ月経ち、自殺による一時的なカタルシスが収まると、以前よりもさらに陰惨な心持ちになった。
ちゃんと生きている普通の人を見るたび、仕事や人生に正対する人を見るたび、脳裏に響く、呪いの言葉。
「お前の生きる場所はない」
「誰もお前を愛さない」
確かに、肉体は回復した。しかし、状況は変わらない。ごまかして生きられるほど、現実は優しくない。
「私なんて見捨てられて当然だ」
「今度もまた、みじめに捨てられるのだ」
両親とは再び絶縁。就職先で鬱を再発。
「一人で生きることもできない軟弱者」
「私は、お前が、大嫌いだ」
結局、自殺は何の役にも立たなかった。
大橋の上から、十数メートル下を流れる川を眺めながら、ため息をつく。
くるしい、くるしい。死ぬしかない。
ここから飛び降りれば、確実に死ねる。
実際、そのつもりでここまできた。
しかし、もう自殺する気にすらなれなかった。
「自殺未遂したあの時、眠ったまま目覚めなければ、私は死んでいた。死ぬということは、何も知らないでよく寝ている時と同じだ。地球上に生きている人間は、毎晩死んで、毎晩生き返っていると言っていい。死ぬという事は『命が生きていない眠り』で、眠るということは『命が生きている眠り』というだけの相違だったのだ。しかも、寝ている本人は、自分が生きていることも生きていないことも知らない。なのに、一方は楽しみ、一方は恐れる。おかしな話だ」
自分がおろかすぎて、笑えてきた。
死の感覚と、日々の眠りに、何の差もなかった。
死を、神聖なものとしてまつり上げていた自分が、馬鹿みたいだ。
なんということだろう。
死がいかなるものかを具体的に知ってしまった今、死ぬ理由すらなくなってしまった。
人は『生まれさせられた』という究極の理不尽にさらされ、『いずれ死ぬ』という究極の理不尽を課される、人生の奴隷だ。
人に生きる意味はない。同じように、人に死ぬ意味もない。
ただ生き、ただ死ぬ。そうして最終的にはみんな死ぬ。それだけだ。
人類は、徹頭徹尾、意味がない。
だから自分には、自殺する意味すらない。
あるのは、底なしの虚無のみ。
「だったらなぜ、自殺が許されない。苦しみの度合いは、当人の感じ方次第。当人が『死ぬほど辛い』と感じているのなら、文字通り『死ぬほどの苦痛』なのだ。生きることに意味がないように、死ぬことにも意味がないのであれば、死によって苦痛を取り去ることの、何が悪い?」
空っぽの胸中を、どろどろとした怒りの塊が埋め尽くしていく。
理不尽すぎるこの世界に対して、叫びだしたくなった。
「他人に迷惑をかけるからといって、自殺を断念せざるをえないのは、おかしい。こんな世界、間違っている。この世界に生きる一人一人が、安心かつ平等に、自殺できる機会が必要なのだ。誰にもできないのであれば、私がやる! 自分の命の使い道は、本人が決めるべきなのだから!」
では、何が自殺を止めるのか。不確実だからだ。苦痛を伴うからだ。周囲の人に多大な負担を強いるからだ。
「だったら! 周囲の人への迷惑を最小限に抑え、確実かつ安楽に死ぬ方法! その手段を見つけることこそ、私が成すべき使命なのだ! 何百年、何千年かかろうが、私はやり遂げてみせる!」
目頭に衝撃を受け、目を覚ました。ペストマスクの先端が、読み途中の本にふれていた。どうやら、臓器移植センターの書斎で眠ってしまったらしい。
時計と、診療予定表を見る。次の診療は午前三時半なので、まだ三十分以上もある。
懐かしい夢だった。生まれつき所持していた臓器を使っていた頃。看護師時代。死霊魔術師や妖狐といった、日陰の存在と接触する前。他人の臓器をつぎはぎして延命する以前。
あの頃の私には何もなかった。
今の私には全てがある。
死に値する患者とそうでない患者を見分ける知識。周囲の人への迷惑を最小限に抑え、確実かつ安楽に人を殺す薬とスキル。自殺者の臓器で人命を救う、技術と組織。魂尽きぬ限り動き続ける、不死の肉体。患者が希死を望む限り、誰にも負けない戦闘力。
狂気ともいえる執念の果て、ついに誰にもたどり着けない高みへと至った。
なのになぜ、こんなにもむなしいのだろうか。
息抜きに、深夜の街をあるく。昼間は騒がしい商店街も、ほとんど人がいない。かろうじて酔っ払いがいる程度だった。
街を歩いていると、光るものが目に入った。近づいてよく見てみる。定規だ。誰かが落としたのだろうか。
少し先に進むと、薬袋が落ちていた。一瞬、何の薬か気になったが、放っておいた。もし、違法薬物などで会った場合、やっかいなことになる。
次は錠前が落ちていた。その次は、乗り物の乗車券。丸まった新聞が前を横切ってきたりもした。さらには、道のど真ん中に、畳が置かれていることもあった。雨が降っていないのに水たまりもあったりした。
何か妙だ。
どこからか、女性のすすり声が聞こえてきた。
「死にたい……死にたい……」
解剖鬼は、その声の主を探した。しばらく道を進んだところで、一人のお嬢さんが顔を伏せいた。両手を顔に当てていて、表情はよく見えない。
「仕事ひとつこなせないなんて……死にたい」
解剖鬼はしゃがみこんで、彼女の顔をのぞき込もうとする。
「どうしたんだ。どれ、悩みがあったら話してごらん」
「ええ……」
お嬢さんは、ゆっくりと顔をあげた。
泣きはらした顔が……なかった。
「なっ……」
目があるべき場所、鼻があるべき場所、口があるべき場所。全てつるつるだった。かわりに、文字が書いてある。
<果たし嬢:決闘を申し込む。果たし場へ案内する。しばし待たれよ。イデアリスタより>
お嬢の顔の文字のインクがにじみ、顔全体を真っ黒に覆った。
「伸び縮む!? 身体がッ! 歪んで!?」
解剖鬼は、何の抵抗もできないまま、お嬢さんの顔に吸い込まれてしまった。
荒野にぽつんと打ち立てられた、夕暮れの街。赤土の日干しレンガで作られた廃墟群。
中央の広場につくと、上空から声がした。
「『果たし定規』、『果たし錠』、『果たし錠前』、『果たし乗車券』、『果たし定石』、『果たし浄水』……まさか全て回避されるとは」
「私は、好奇心よりも警戒心の方がずっと強くてね」
現れたのは、解剖鬼の十倍以上の背丈を持つ、人型のドラゴン。全身を、鎧を彷彿とさせる外骨格に覆われている。以前戦った個体とは違い、外骨格の色は黒だった。絞られた身体から発せられる威圧感は、神々しさすら感じられる。
「宇宙は生成発展を繰り返し、生命を作り上げた。素粒子や原子のままで留まらなかったのは、宇宙には森羅万象を進化向上させようとする意志が働いているからだ。宇宙の意識に逆らえば、必ず因果応報が下る」
「下らんな。私は私の真善美を実践しているだけだ」
腕や翼をおおう骨格も黒く染まっていたが、唯一眼光だけが白かった。
暁が黒い鎧に反射し、輪郭を赤く染め上げる。
「私はイデアリスタ。解剖鬼君。今からでも遅くない。考えを改める気はないか?」
相手の一言一言に、呪文でもかかっているかのような重圧を感じる。歴戦の戦士であっても、屈してしまうにちがいない。
しかし、解剖鬼には全く響かない。
「ない。生こそが苦しみで、死こそが救いなのだ。苦痛に満ちたこの世界で、理由もなく生きる必要はない」
「人生にはいくらでも、取り戻せる失敗がある。そこから何かを学ぶことが出来れば、失敗とさえも言えないかもしれない。しかし、自殺は違う。実行されてしまったら、そこからもう二度と戻ってくることはできない。苦痛回避の手段として、安易に自殺を用いることは肯定できない」
解剖鬼は首をかしげながら、肩にかかった黒髪を払った。
「だからといって、絶望的なまでに自殺願望が強い人に対し、何が出来る? 私は見た。戦争での心の傷を誤魔化すため、酒と薬を食らい、家族や友人との絆も失った男を。彼に社会での居場所はなく、生きる意味も見いだせない。生き地獄の中で、自殺未遂を繰り返していた。私が相手にしているのは、そういう人たちなのだ」
「我々にできるのは、自殺しようとしている人をせいぜい数日、数週間、数ヶ月間引き延ばすことだけかもしれない。しかし、希望を捨ててはならない。人間は、いつまでも成長を続けられる。同じように、人類もまた成長を続けられる存在。世界がいつまでも苦痛に満ちているとは限らない」
竜の外骨格に暁が反射して、キラリと光り輝いた。
「お前の言うとおり、世界は成長していると仮定しよう。しかし、それが実現されるのはいつだ? 期限の決められていない希望など、役不足にもほどがある。未来への希望は、寿命が迫るにつれ失望へと変わる。眼前の不幸から、目を背けないでもらおうか」
「現状の不幸は、理想を捨てる理由にはなり得ない。大切なのはまず、目の前の人に信頼を寄せること。その人の成長を、世界の成長を、信じることだ。お互いが信じ合えば、社会は、世界は、よりよく変化するはずなのだ」
またこれか。ドラゴンの社会は、信頼を基盤とする、共同体至上主義者の集まりなのだろうか。
「社会……世界……そんなのは私に関係ない。私はいつだって、誰か一人のために仕事をする」
「いや、大いにある。人がより他者を信頼し、思いやりを持つようになれば、貴様の言う『社会の病』は着実に減るはずだからだ。世界にはびこる病に対抗するには、目の前のことからはじめるしかない。まずは君自身が病から解放されなければ、どうにもならないだろう」
解剖鬼は、落胆のため息をつきながら言った。
「私達の過去を知りもせず、よくそんなことが言えるな。信じたいものを信じる選択肢は与えられなかった。遺伝子が……環境が……そうさせてくれなかった。身体にも環境にも恵まれたお前に、私達の気持ちなど分かるまい」
「私は数多くのいさかいを目にしてきた。貴様が語る理不尽は、確かに実在する。しかし、不条理を前にしながら、死に逃げるのは、起きてしまった悲劇を肯定しているも同じだ。ゆえに『可能な限り、自分自身の生を充足させるために、これからできることは何か』を考えるべきだ。そして、君が医療人なのであれば、『患者の尊厳とは何か。患者の生の充実とは何か』をつねに問い告げる義務がある」
「お前の語る言葉は、理想論ばかりだ。まるで現実を見ていない」
解剖鬼は、いらだちを隠さずに言い放った。
イデアリスタは全く動じずに、遠くに目をやった。
「そうかもしれない。山の頂への道は、はるかに遠い。私も未だ道半ばであり、未熟なまま人生を終えるのだろうとも思っている。しかし、道を求め歩くその姿こそ、道を得ている姿。生涯をかけて、人間を磨こうと歩み続けるその姿こそ、人のあるべき姿なのではないではないか。理想を目指して、眼前の課題に挑み続ける。それこそが人としての到達点」
「それは、お前の価値観だろうが」
「そうだ。私は自分の世界観を語ることで、君に変化をもたらしたかったのだ。私は、私にできることをしたつもりだ。私の働きかけに君が答えるかどうかは、私は関与できない。しかし、私は君のことを信頼している。君は、『変わることができる』と。だから語った」
「そうかい」
解剖鬼は、驚きを通り越して、あきれた。
「私はべつに、だいそれたことを要求しているわけではない。話を聞くだけでもいい。傷口を消毒して、薬を塗るだけでもいい。ただ、患者の生の充実のためにできることをしろと、言っているのだ」
「傷が起こりうる土壌自体が、私達には許せない」
「……君とは、話し合いで分かり合えると、信じている。頼む」
解剖鬼は、久方ぶりに力を解放する。何十年、何百年にわたってため込んだ魂の力――何千何万という怨念――を解放。
「では、最後に一つだけ言っておく」
「なんだ?」
「き さ ま で は 、 わ た し に か て な い」
致命一撃。
イデアリスタの左肩から右外腹斜筋にかけて、深々と傷が刻まれた。蒼い泡沫が吹きだし、天へ昇っていく。蒼泡は、見た目こそ違えど、人の血液と意味合いはそう変わらない。
手応えはあった。小手先の手段で防御できるような威力でもない。策を弄する暇もなかったはずだ。
「想定通り、想像……以上……ッ!」
イデアリスタは地面に落下し、膝をついた。
解剖鬼は、振り下ろした切断刀を鞘に収めた。
「人生、そんなものだ」
「ま、まだ……だ……」
「生まれさせられたという超理不尽にくらべれば、それくらいの理不尽、どうということはない」
解剖鬼は、獲物が死ぬのを待つハイエナのように、じっとイデアリスタを見つめる。
イデアリスタの外骨格のすき間から、赤い粒子が吹き出しはじめた。ゆらりと立ち上がると、咆哮。
「ヌォォォオ゛オ゛オ゛!」
イデアリスタの体から、幾本もの雷が放たれた。周囲の荒れ地にクレーターを作っていく。胸の傷がもりあがり、きれいに塞がった。
「……捨身の秘儀か。なぜ、そこまで私にこだわる」
「君の思想の行き着く先。それは全体主義、反出生主義といった、人類の活動を極端に狭める思想ほかならない。それを実現しうる力がある以上、野放しにするわけにはいかない。自由は他者への危害を加えない限りで、保障されるべきなのだから」
「その思想のどこが悪い。道徳とは『幸福を生み出す慈善と、不幸を減らす義務』。不幸の土壌を生み出す出生は、道徳的に見て超越悪。不幸の土壌を減らす自殺幇助は、どう考えても善だ。親の身勝手で産み出された我々を見ろ。こんな自由、認められていいはずがない」
「穏やかとはいえ、人類を滅ぼすつもりか?」
「昨日まで人類が存在していたからといって、存続させ続けることが正しいとは思わん」
イデアリスタは、神速で解剖鬼へ突進。
「交渉決裂。これも天の采配か」
飛行するだけで、超高熱を放出。あらゆる物質が溶解。金色の液体と化す。続く衝撃波で、霧散する。
打撃を打つ度に核魔法が発動、大爆発と共にあらゆる生物を即死させる不可視の毒が拡散する。
なのに死なない。
全力の正拳を、みぞおちに叩きつけた。余波で解剖鬼の後方が、真っ赤に染まったあげく消滅。
何もなくなった地平、小さく何かが立っている。暁を浴び、鈍く光るペストマスク。
死なない。たった一人で万を越える文明を殲滅してきた、イデアリスタの攻撃を受けて、死なない。
イデアリスタは口の中に限界まで魔力をためた。臨界点に達すると同時に発射、相手の真横へ転送。
不意を突かれた解剖鬼は、光の束の中へと消えた。
原子レベルで崩壊、消滅させる光線の直撃を確認。なのに、消えない。
覚悟を決めたイデアリスタは、祈りの言葉を口にする。
「――何が起こったかが、人生を分けるのではない。どう解釈するかが、人生を分ける。私は、おおいなる宇宙が私を育てようと、この逆境を与えたと解釈する」
イデアリスタは連射する。しかし、何度攻撃しようが、暁に立つ影が消えない。
「――成功は保証されずとも成長は確約されている。故に、不運不幸も私に大切な事を教えてくれる出来事であり、成長の糧」
逆に、最強の光線は、解剖鬼の一振りでかき消された。
余波で胸に傷を負ったイデアリスタは、口から赤い泡を吐いた。
「――私は、生命が尽きるその瞬間まで、成長し続ける。高き……」
最後まで言うことができなかった。一瞬にして全身の鎧をズタズダに引き裂かれた。超高濃度の魔力を伴った刃による斬撃は、再生能力をはるかに超えている。
イデアリスタは距離をとった。
「……高き頂を目指し登り続けるときこそ、最高の一瞬を生きているのだから!」
解剖鬼が無意識に使っている力。
『理不尽返し』。理不尽への憎しみが産んだ、絶対報復能力。受けた理不尽を、さらなる理不尽でやり返すという、シンプルな技。
「クックック……」
焦る相手に対して、解剖鬼は半ば勝利を確信していた。
さすがにちょっとばかし傷ついたが、たいしたことはない。熱も打撃も、見た目が派手なだけのこけおどし。
イデアリスタは空へと飛び上がった。
「何度打とうが、私は倒せんぞ?」
黒竜が呪文を唱えると、敵の気配が増える。その数、10。何もいなかったはずの空間が揺らぎ、何かが実体化した。
それは、本体と全く同じ姿だった。
「は?」
召喚された分身たちが口を大きく開いた。魔力が青白い光の粒となって可視化。粒子たちが集まり、光の球となる。球は粒子をため込み続け、どんどん光を増していく。
「まてまてまてまて……」
ビリビリと大気がふるえ、地響きのような音が聞こえた。そのうえに、バイオリンが奏でる低音のような音が被さる。音階が急速に上がっていき、やがてキーィィイイイという聞くのも恐ろしい音になった。
イデアリスタ本体も、大きく翼を伸ばした。翼が淡く光ったかと思えば、口を開いた。どこからかあらわれた光の帯が、口元に集中。魔力が高まるにつれ、稲妻が周囲を駆け巡った。周囲の大気中の魔力濃度が閾値を超え可視化、ドラゴンを中心に半径数百メートルが淡くかがやく。それでもなお、光帯を吸収し続ける。
「時間を稼げ、分身たちよ!」
分身たちが放った光線が、シャワーのように降り注いだ。最初の一発目が地面に直撃。まるで小規模な火山の噴火のように、炎と、赤熱した石や岩が混じり合った柱が、立ちのぼった。遅れて黒い煙が立ちのぼる。耳に響く爆発音と、衝撃波が肌を打つ。
「熱は防げたが、これは!?」
一発一発が街を消し飛ばすレベルの砲撃であり、それが絶え間なくぶっ放された。廃墟たちは一撃で破壊され、雲の上まで打ち上げられた破片が、次の砲撃で消滅していく。
解剖鬼は空へ打ち上げられた。見下ろすと、大地が裂けマグマが吹き出していた。
「ぐぉおおおお!?」
全身を襲う衝撃は、もはや痛みとしてすら認識されない。
意識が自分の肉体を離れ、見下ろしているかのように錯覚する。壊れた人形のように、ぶらぶら揺れる自分の体が、目に浮かんだ。起きているのに夢の中にいるようなふわふわした感じになる。身体が自動的に動き、感情や感覚が自分の事じゃないように感じられた。
「この程度の理不尽ッ!」
イデアリスタはこの星ごと、解剖鬼を消すつもりだ。
さすがの解剖鬼も、この砲撃を耐えきる自信はない。しかも、この砲撃は最終攻撃力上限までの時間稼ぎでしかない。
攻撃を中断させようにも、飛べない解剖鬼には手を出せない。
「せめて、足場さえあれば……。そうだ!」
解剖鬼はブーツに魔力を込めると、光線の爆発を利用して跳躍。光線が消える前に足場にし、大きく跳躍。また次の光線を見つけ、足場にしてさらに跳躍。それを繰り返し、イデアリスタ本体の目と鼻の先に到達。
イデアリスタの口の中で育った光帯の塊は、もう一つの太陽がごとく、強烈な光をまき散らしていた。周囲の景色は陽炎のように揺れ、空気そのものが振動している。
解剖鬼は、解剖刀を手に、真っ正面から挑んだ。全身に『魂の力』をみなぎらせ、衝撃に備える。
「さらばだ、解剖鬼君!」
イデアリスタが放った光は即消滅してしまった。
「なっ!?」
かわりに黒球が現れた。すさまじい引力で吸引してくる。
「戦闘を避け続けたがための経験不足。それが君の敗因だ」
解剖鬼は、渦に巻き込まれた小舟のように、クルクルと回転する。抵抗しようともがいたが、イデアリスタの分身たちが羽交い締めしてきた。
「は、放せっ!?」
「飛べない。射程の長い攻撃手段を持たない。傷つかないが、衝撃までは軽減できない。強制転移系の呪文に弱い。これまでの戦いで全て、分析させてもらった」
わけのわからない場所から、わけのわからない場所へ転移させられたら、さすがの解剖鬼も帰ってこれる保証はない。
「希望に添えず申し訳ない。お互いにとって最良の別れを目指し、不断の努力を傾けたが、どうやらこれが私の限界のようだ」
「バカな、善意だったのか……!?」
「善意も悪意もない。私はやるべき事、成すべきことを、一つずつ実行してきただけだ。……あと、私にできることは、祈ることだけだ。『君に幸あれ』と!」
「せめて、私を……憎んでくれぇぇえええ!!!」
「ああ、素晴らしい人生であった……」
解剖鬼の姿が消えると同時に、イデアリスタも帰霊した。
真っ暗な空間の中に、魔女のコスプレをした子猫の獣人、ミミコッテがいた。
「いよいよね」
決戦前ミミコッテは、遥か昔を思い出していた。
とある建物の屋上。
「あなたのなやみを言ってごらんなさい。ニャニャンと願いをかなえる、ふしぎ魔法具をおゆずりするわ! お値段はもちろんタダ!」
「行きたい場所がある」
「そんなときは<テレボード>! 乗って念じれば好きな場所へ行ける、魔法のボードよ! じゃあいくわよ――あなたのラッキーくださいニャン♡」
ミミコッテが中指をパチンを鳴らすと、女性客の体が淡い光に包まれた。光は人差し指と、親指のあいだに収束。金色に輝く、タネのようなものに変化した。
「では、お品ものをどうぞ! ご購入ありがとうございました! えっ……!?」
<テレボード>に乗った女性客は、空中に瞬間移動したかと思えば、自由落下していった。
「嫌ぁぁああああ!!!?」
「今でも覚える。あなたはアタシの魔法具を使って、自殺した。『生きることに意味はない』って言い残して。アタシったら、何が起きたかもわからず、呆然としてたっけ」
全てを受け入れる覚悟がない限り、絶望している人に寄り添ってはならない。
半端な善意は、結果的に当事者を傷つけることになるから。
客との出会い自体をなかったことにしたのは、最初で最後だった。
「頭からピンク色の物を垂れ流すあなたを見た。身も凍る絶望の中、気づいた。アタシたちは、ほかのいつでもない今、この世界、この時代、この時、この国の子の場所に、気づいた時には選択の余地なく定め置かれていた。恣意的な『意味』があるとしか思えない。この理不尽な苦しみにも」
三角帽子に手を突っ込めば、『幸運の種』を一粒取り出した。
目の前に撒くと、あっという間に花が咲き乱れた。種を撒きつつ、光る花を頼りに、虚空を歩む。
「アタシたちひとりひとりには『意味』、言い換えるなら『為すべきこと』『果たすべき何か』が待っている。息を引き取るその時まで。瞬間瞬間の『意味』を発見して、答え続けることへ没頭すれば、一瞬一瞬が充実して、生きる意味なんて問う必要すらなくなるはず」
これを信念にして、ミミコッテは数多の人を救ってきた。
「アタシたちの人生は一度きりで、一日一日が、一瞬一瞬が、この世界で一度きりの機会。アタシたちが唯一無二である以上、どんなに優れた人であろうと、代わりになることはできない。一度きりの機会が実現しなかったら、その機会は永久に失われてしまう。自殺と、自殺ほう助だけは、絶対に認められない」
真っ暗な空間に、解剖鬼はただよっていた。上も下も右も左も分からない。
解剖鬼のコピーは、本体が死ぬか、本体と交信できなくなって一週間以上経った場合、事業を撤収するよう設定されている。社会への影響を極力抑えつつ、臓器移植センターはじめ、関連施設をたたみ、任務終了次第カタンコブへ帰投しているはずだ。
「いつの時代、どこの国でも、希死念慮は存在する。私を求める患者たちの『魂の声』が、道なき道を照らす光となる。私を待つ者がいる限り、私は不滅だ。何度でもよみがえる」
クックックと虚空で一人笑っていると、何物かの気配がした。
奥から、蛇のように何かが近づいてきた。いろんな色が混じっているようだ。光源がないのにも関わらず、とても明るい。
「あれは、花?」
正体は、花で出来た道だった。次々新しい花が伸びて、こちらに迫ってくる。
解剖鬼の元へたどり着いた。すると今度は、解剖鬼を中心に、円上に花畑が作られていった。
花は色とりどりで、種類もバラバラのようだった。視界に入る花たちだけでも、解剖鬼が知る全ての花が収まっているように思える。
そして、花道をたどって、一人の御仁が歩いてきた。背がひくく、子どものようだ。三角帽の後ろ側を貫くように、猫耳が生えていた。
「ずいぶんお疲れのようだが」
「あなたの願いを叶えるふしぎ魔法具屋、ミミコッテよ! ふぁ~。さすがの私もこの距離を移動するのはきつかったわ。<ハナミチ>を作るのに、ずいぶん幸福のエネルギーを使っちゃったわ」
魔女服に身を包んだ、子猫の亜人だった。
「ミミコッテだと? まさか、私にとどめを刺しに来たのか?」
「違うわ。願いを叶えに来たの」
ミミコッテは、帽子の中をガサゴソとあさると、何かをとりだした。ミニチュアのベンチだった。ミミコッテが放り投げると、一瞬で実寸大に変化した。
「さ、すわってお話でもしましょ」
ミミコッテはベンチに座ると、隣をポンポンした。
「<果たし状>シリーズはお前の商品だろう。何が目的だ」
「あなたの、本当の願いを叶えるためよ」
「私の願いは、一人でも多くの患者を処置することだ。それ以上でも、それ以下でもない。願いを叶えたいのなら、さっさと私を元の場所へ返してくれ」
「アタシの花を最後まで聞いてくれたら、考えないこともないわ」
「……わかった」
今は彼女が唯一の生命線だ。ここはおとなしく相手の指示に従うしかない。
「まず、あなたは何で『遺伝と環境が全て』って断言するの?」
解剖鬼は、立ったまま想起する。
「早回しの時計を見ながら、スイッチを押す実験をした。被験者には自由意志でボタンを押そうと思った瞬間、時計の針がどの位置にあったかを正確に覚えておくよう依頼した。脳波を測定した結果、本人が意思を持った瞬間よりも、0.35秒脳波の方が早く反応した」
コピーに観測させ、本体が被験者役を担当。論文の結果が、あまりにも気に食わなかったので、自分で実験したのだ。
しかし、結果は同じだった。
「脳が無意識に動き出し、その後、動かそうとする意思が形成され、最後に手が動く。意思が形成されるよりも先に、脳は動いている。人間の行動は環境との相互作用で、自動的に反応行動をとっているだけだ。意思には行動を変えるだけの力はない。遺伝と環境で人生は決定するのだ」
納得できなかった解剖鬼は、さらに別の論文を探した。が、目につくのは目を覆いたくなるようなタブーばかりだった。
「他の研究結果を挙げようか? 才能は遺伝する。音楽の才能に至っては九割だ。IQは七割。勉強をはじめ、努力できるかも遺伝で六割決まる。努力は環境で三割決まるともされるから、本人にどうにかできるのは一割程度だ。ありとあらゆる努力は遺伝に勝てない」
ミミコッテは、適度にうなずいたり相づちをうったりしていた。さすがは営業なだけあり、聞き上手だ。
化けの皮を剥いでやる。
「次に、実際にあった、具体例を挙げよう。私の患者の一人で、猫を虐待するクセのある男がいた。彼に大人のエロティックな画像を見せて絵も、外側前頭前皮質と海馬の活動レベルが低かった。脳の活動レベルで、彼は大人の女性に興味を閉めさない、興奮しない。しかし、猫を虐待するときに脳は活発化する」
猫のパーツが敷き詰められた瓶詰めを見たときは、さすがの解剖鬼もおどろきを隠せなかった。
顔が少し引きつったが、ミミコッテは傾聴の姿勢を崩さなかった。
「これでは、本人の意思で興奮しようとしても無理だ。遺伝子レベルの欲求で、猫を殺したがるのだから」
「悲惨ね」
「そうだな。残念ながら、更生に要求される脳の変化のレベルは、本人に実行可能なレベルのはるか上を行っていた」
解剖鬼は、犯罪者の例を他に数例上げてから、まとめに入った。
「多くの人はたまたま『普通』だったから社会に適応できただけだ。彼らは偶然『異常』だったから、自殺を選んだ」
更生しようにも、先天的な才能がないために、更生の努力をすることすら出来ない者たちもいた。できない努力を強制され、理想と現実の差に悶絶し、潰れていった人は、一人や二人ではない。
「遺伝子はより多くの遺伝子を残せるようプログラムされている。一人一人の幸福より、多様性を望む。人はみな、幸福をめざすが、幸福になるよう作られてはいない。不幸が生まれるのは必然だ」
だからこそ、自分のような存在が必要なのだ。
解剖鬼は、自分がいつの間にか、ミミコッテの隣に座っていることに気づいた。
「たまたま社会に適応できない脳みそに生まれたり、環境に恵まれなかった人にとって、この世は理不尽で、不条理で、地獄だ」
解剖鬼は、さらに語った。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦……。これまで他の患者や、敵対した者たちに語ったように。
自分でもおどろくくらい、饒舌だった。
その間、ミミコッテは目を背けなかった。
解剖鬼の語りが調子に乗っているときも、調子が悪いときもあっさりとうなずちを返した。一喜一憂せず、同情しないが突き放しもしない。ダメなことはダメだと譲らず、安易な受容も共感もしなかった。
こちらの心理的な揺さぶりにも一切応じない。傷を告白して関心を引こうとしたり、気持ちを試すためにあえて困らせるような物言いをすると、それとなく話を遮った。
解剖鬼と対面する者のほとんどは、正気を失う。しかし、ミミコッテは例外だった。どこまでも冷静に、一貫性をもって接してくる。
そんな彼女に、解剖鬼は強く惹かれた。
「私は、こんな世界で、自殺したいと感じるのは、至極まともであると思う。自殺することの何が悪なのか、私には分からない」
全部聞き終えたミミコッテは、ニコッと笑った。
「あなたは、とても頑張っていろいろ考えたんだと思う。尊敬するわ! ってことで、はい! サンドイッチ!」
「あ、ありがとう」
困惑しながら解剖鬼は受け取った。顔を背けるとマスクをづらし、バクバクとサンドイッチを食らう。
「そのうえでね、あなたの言葉の根底を突き詰めていくと『人生に意味はない』、『人は変われない』、『自分は誰からも愛されない』という根拠のない願いのようなものに着地すると思うの。無意識に、これらが正しいということを前提として動いている。そのうえで、意思が後付けで、理由を探したように思えるわ」
サンドイッチの味はほとんど感じることができなかった。
それでも、腹がふくれて、少し気分が落ち着いた。
礼を告げてから、反論する。
「根拠はあるさ。私の患者は、相応の絶望的な環境で、相応の挫折体験をしている真っ最中だ。自分には欠点ばかりで、過去にしてきたことは失敗だらけだと思っている。そのうえ他人も信用できない。そんな状況で、未来に希望が持てるはずがないだろう。解決できない問題、耐えがたい苦痛から逃げるのに、自殺という選択肢は実に合理的だ」
「未来っていうのは、今の状態の次に起きる確率が高い変化を、脳が『予期』したものでしょう」
「予期?」
聞き慣れない言葉に、解剖鬼は首をかしげた。
「あなたに合わせて、科学的な説明をするわね。地面に落ちたリンゴを見て、脳はまず『似たようなリンゴの記憶はないか』と検索を開始。引き出された記憶を元に確率の計算を行って、『このリンゴは木から落ちたのだろう』といった過去をまず『想起』するわ。さらに、脳は過去を元にして、次に起きそうな出来事の確率を計算しはじめるの。そして、最後に『いずれ、このリンゴは腐るだろう』というような未来を作り出すの。これが『予期』ね」
「待て、それでは過去も未来も脳内で作り出された妄想ということになってしまうではないか」
ミミコッテは、『理解が早くて助かるわ!』といわんばかりに、激しくうなずいた。
「人が本来認識できるのは、今の変化だけで、そこにあなたが『時間』の概念を後から当てはめただけなの。あなたの言う『過去のトラウマ』や『不幸な未来』っていうのは、脳内で作られた妄想に過ぎないわ。だから、根拠がないっていったの」
想起は誤っている可能性がある。リンゴは木から落ちたのではなく、誰かの手で置かれたのかもしれない。あるいは動物が運んできたか。呪文で作られた幻影の可能性すらある。
予期も誤っている可能性がある。リンゴは腐る前に動物に食べられるかもしれない。踏みつぶされるかもしれない。人が拾い上げて調理されるかもしれない。
遺伝子と環境による無能を叫びながら、無能であるはずの己の脳の演算を絶対視している。
これでは、矛盾の塊ではないか。
解剖鬼は、デザートのリンゴを食べながらブツブツとぼやく。
「過去は、今の状態の前に発生した確率が高い変化を脳が、演算した結果。未来も、脳が未来に起きる可能性が高い変化を、脳が演算した結果。未来も過去も、実在するわけではない。今だけが存在する……」
考えこむ解剖鬼に、ミミコッテはどこまでも優しい口調でささやいた。
「そう。人は過去に関係なく、どう生きるかを選べるの。過酷な現場に出入りするあなただからこそわかるはず。人間は、ありとあらゆる自己実現の道がたたれたとしても、人生に意味を見いだす人がいる。人には、絶望のどん底からでも、這い上がる力がある。一見、ひ弱な人ですら、ね」
収容所でひたすら耐え抜いた人々や、戦地を逃げ回りそれでも希望を捨てなかった人々を、思い出した。彼らの中には極限環境に晒される前よりも、晒された後の方が、むしろ心の状態がしっかりしていることもあった。死ぬ間際、高次の納得にたどり着いた人さえいた。
強制収容所での生活を『生きていることにもうなんにも期待がもてない』と意味づけして狂死した人もいた。反対に、『運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんだもの。以前、何不自由なく暮らしていたとき、わたしは甘やかされて精神がどうこうなんて、考えたことがありませんでした』と語り、安楽死を拒否した人もいた。祈りを捧げながらガス室へむかった姿は、今でも脳裏に焼き付いている。
先天性疾患で、一週間も生きられない幼児もいた。彼らは、それでも、必死に生きようとする。
ミミコッテの言葉を、否定できない。
「あなたは生きていく中で多くの不幸を感じたから、世界にはびこる不幸の存在をリアルに感じ取れる。だから、未来に希望はない、と信じてる。アタシは、幸福な体験を積んできたから、世界を包む幸福の存在をリアルに感じ取れる。だから、未来に希望はある、と信じてる。そしてお互い、世界は、幸福だけでも、不幸だけでもないと、知っている」
互いが信じる未来とは、お互いの脳で作られた虚構でしかない。本人の脳の中にしか存在しないために、比較することすらできない
「もしあなたが『人生に意味はある』、『人は誰もが自らを変える力を持っている』、『誰からも愛されないことはない』ということを前提に理由を探し求めたら、全く違う結論になったはず。どちらが真実かは、アタシたちにはわかりっこないけれど……どうせならアタシは、楽しく生きられそうな考え方を信じたい。あなたの言うとおり、人間の性質が『幸福の追求』と『不幸の回避』――言い換えるなら『自分自身の生の充足』であるなら、そっちの方が、合理的だとアタシは思うの」
それでは、私は『絶望すること』を無意識に選び、絶望するための理由を後付けしたのか? 絶望的であることを、自らが望んだというのか?
幼少期、病で死にかけて、親が頼りにならないと知った。学生時代に三度経験したいじめで、大人でも解決できないことがあると悟った。自殺ほう助を試みたが、殺人罪で起訴され、社会という名の化け物に屈した。
今となっては、何がきっかけだったかはわからない。幼年期に感じざるを得なかった無力感。それを無知ゆえに絶対視し、無意識のうちに人生全体へと適用した。その結果、『人生は絶望的である』という、根拠のない前提が生まれた。
この仮説は、とても説得力のあるものに聞こえた。
「結局お互い、『理屈抜きの感情』で、『自分はどうすべきか』を考えてるの。……言葉のやりとりが限界に達するところに来たわね。もう、議論は意味をなさないわ。あるのは行動だけね」
自分が今、とても追い詰められていることに気づいた。
幼少の頃、無意識のうちに、根拠もなく信じた絶望が、人生に対するむなしさの原因。
ならば、今この場で、意識的に、根拠もなく希望を信じると、決断すればいいだけだ。
それだけで、全てが解決してしまう。
「クックック。……そうか。それができないから、私は、私なのだ」
久しぶりに、心の底から笑った気がした。
「君の考えは正しい。私が、君と同じ人生を送ったら、同じ結論に至るだろう。結局のところ、どちらが思想として正しかろうが、それを日々の生活でどこまで実行し、人生をどう生きるかは、脳と環境の相互作用で決定される。そして……私は君ではない。君の正しさは、私の正しさではない」
「あなたの正しさも、アタシの正しさではない」
「どちらが正しいかは、戦いで決めよう。私たちには、それが必要だ」
「え、なんで?」
ミミコッテは、首を伸ばして、目を見ひらいていた。演技には見えなかった。
「……本当に私を殺しに来たのではないのか?」
「何でアタシがあなたを殺すの?」
<ドッペル・ミラー>のように、こちらの分身を生みだすような魔法具を出せば、一瞬で勝負は決まる。
解剖鬼自身の希死願望も、患者に負けないくらい強大だ。作り出された分身は、間違いなく自分を安楽死させようとするだろう。解剖鬼の力は、殺害対象の希死念慮に比例する。本体と分身が戦った場合、まず本体は負ける。
「信念が揺らぎ、弱体化した。今の私には、お前の魔法具を無効化出来ない。二度とないチャンスだぞ?」
「あなたを殺すチャンスじゃないわ。あなたが変わるチャンスよ」
「てっきり、『患者に散々寿命を語っておいて、今更自分だけ逃れようとはしないわよね』とか言って、とどめを刺すのかと思っていた。私は、社会に存在してはいけないのだからな」
「遺伝子と環境が悪いのなら、あなた自身はべつに悪くないでしょう?」
「し、しかし……」
「あなたのしたことは社会的に見れば確かに重罪よ。償う必要もあるかもしれない。でもね、他の人だって貴方と同じ状況ならそうするかもしれないし、もっとひどいことをしたかもしれない」
「う、うぅむ……」
「いいじゃない。あなたは誰かの役に立とうと、人の何十倍も悩み続けた。他人の苦痛を少しでも減らすために、一生懸命働き続けた。それもまた事実でしょう?」
今まで、こんなことは言われたことがなかった。
解剖鬼は、おもわず腕を組み、震える手を隠した。
「でも、たくさんの人が私のことを悪人だと断言してきた」
「人から何を言われても気にしちゃダメよ。アタシは一生、貴方の味方だから、気にしないで」
一生なんて言葉を軽々しく言うな! と反論しようとした。できなかった。彼女は本気だ。百人以上の人の生の死亡現場を見てきた解剖鬼の経験が、そう告げていた。
「だったら、この場所から私を出してくれ。大勢の患者が待っているんだ。一人でも多くを助けるために、私は行かなければならない。自殺ほう助は、唯一許された自己表現であり、無意味な人生に見いだした意味であり、存在意義なのだ。行かせてくれ」
「……残念だけど行かせられない」
立とうとした解剖鬼を、ミミコッテは制止した。
「なぜだ」
「今のあなた、とても辛そうだもの」
解剖鬼は、自分が涙していることに気づいた。
「そうか。私自身は、やりたくなかったのか……」
「ここなら、誰からも襲撃されないわ。仕事も一区切りついたんでしょう? 少しくらいここでゆっくりしていても、いいじゃない。もう十分、貴方は頑張った。ちょっとくらい休んでも、誰も責めはしないわ」
あれ、休むって何だったっけ?
首を傾げる解剖鬼に、ミミコッテは続けた。
「目的を持たず、だらだらしてても、いいじゃない。今日一日、こうして生きているだけで、十分だと思わない? 生きるのがどんなに大変かって、あなたが一番よくわかっているでしょう? あなたと同じ人生を他の人がたどったら、ほとんどの人はここまでこれなかったと思う。あなたは、ここに立っているだけで、たいそうなことなのよ」
「そうだな、生きるのは、辛い。生きるのは、大変だ」
「そうそう! だから、あなたはエラい! エラいから、休んでもいーの!」
「そういうものなのか?」
「細かいことは気にしない」
どんなに考えても、解剖鬼は休むという概念が思い出せなかった。
「……すまない。その、休むって、何だったかな。……私は、何をすればいい? どうすればいい?」
「口で説明するより、実際にやってみましょう! じゃあ、アタシの言うとおりにして。まず、上着を脱いで」
ミミコッテは、自分の太ももをポンポンした。
解剖鬼はボタンをはずし、コートを脱いだ。白いワイシャツとグレーのスラックスがあらわになる。
「ベンチに横たわって、ここに頭を乗せるの」
「こうか?」
「そうそう、そんな感じ」
マスクの先端が当たらないように、解剖鬼は横たわった。ミミコッテの太ももは柔らかく、むにゅっとしていた。血の通った暖かさが、そこにはあった。
「アタシの顔マネできる? マスクの中でいいから」
目を細めている。目尻にはややしわが寄っていた。眉毛は緩やかなハの字。口角はやや上がっており、八重歯がチラリと見える。
記憶をたどっていくと、どうやら母親が子どもへ向ける笑みに似ていた。
「一応、マネしたが……」
「その調子! じゃあ、全身の力を抜いてみて。筋肉一カ所ずつに意識を向けて、順に力を抜いていくの。身体がイメージで」
「こうか?」
「うん、ゆっくり呼吸して。呼吸に集中して」
深呼吸する。5秒吸って5秒吐く。この繰り返しだ。
「アタシに身をゆだねて。気をつかわなくて良いから」
ニコニコしながら、ミミコッテはペストマスクの額に手を当てた。
身をゆだねる? さらに力を抜けと言うことか? とりあえず、頭がずーんと沈むようなイメージを浮かべる。
「そう、力を抜いててね」
ミミコッテは、マスクに乗せた手をそーっと、後頭に動かしてきた。
「ごめん、おどろかせちゃった?」
「い、いや。大丈夫だ」
再び力を抜く。すると、ミミコッテは、頭の上から後頭にかけて、ゆっくりナデナデを始めた。くすぐったい。長年ふれられたことがない場所を触られているので、妙な気分になる。
「すまいる、すまいる!」
「おっと、そうだった」
ミミコッテは、なでながら「どう? 気持ちいい?」、「かゆいところ、ある?」と聞いてきた。まるで美容院じゃないか、とぼやくと、ひまわりのような笑みを浮かべた。
しばらくして、ミミコッテがつぶやいた。
「いいじゃない。今のあなた、リラックスしてて、とってもステキよ!」
「そうか?」
「うん。だから、もっとアタシに甘えて?」
「……わかった」
お世辞でも、悪い気はしなかった。
ミミコッテは、帽子の中から白いストールをとりだした。こちらの体にかけ、「にゃはっ!」と笑った。
「いつまで、こうしていればいい?」
「心の底から、満足するまで」
「長くかかるぞ?」
「時間はたっぷりあるから安心して!」
ミミコッテは、そう言いながら大きくあくびした。
「すまな――」
「ありがとう!」
言い切る前に、訂正された。解剖鬼は、ふっと吹きだしてから、言葉を言い直した。
「――ありがとうな、ミミコッテ。こんなところまで来て、こんなにめんどう見てくれて」
「お構いなく。アタシが好きでやっているだけだから気にしないで。貴方の安らぎが、アタシの報酬よ! だからね、何も気にせず、休んで」
「では、お言葉に甘えてそうするとしよう。もし、私が寝入ってしまったら、帰ってしまってかまわない」
「いいえ。アタシは最後まで貴方のそばにいるわ」
「そうか。重ね重ねありがとう、ミミコッテ。じゃあな」
解剖鬼は目を閉じた。
お腹はいっぱいだし、見守ってくれる人がいる。足を伸ばし、だらしない格好で寝ても怒られない。
ミミコッテは本気で私を「気持ちよくしてあげたい」、「居心地をよくしてあげたい」と願っている。
嫌みを言っても、文句一つ言わない。何もしなくても、いいこいいこしてくれる。
彼女だったら、信じてもいいかもしれない。
そう思った瞬間、脳裏にさまざまな言葉が響いた。
『この世界には、すばらしいものもたくさんある。0か100か、生か死かで物事を判断するのは、早計ではないのか?』
『確かなものが何一つないこの世界だからこそ、まず自分が信じるんだ!』
『見知らぬ自分へここまで尽くしてくれる人がいる世界なら、もう少し生きてみようって思ったんです』
『私はお前のことを信頼している。お前は、変わることができる、と』
彼らには「自分を無条件で信頼してくれる人」がいた。「根拠もなく自分を信じてくれる人」がいた。「利益にならないのに自分を助けてくれる人」がいた。
それはきっと、母親であったり、師だったり、友だったりするのだろう。
私にはいなかった。今、この瞬間までいなかった。
だから、彼らの言葉を理解できなかった。
でも、今ならわかる。
ミミコッテの、無償の愛が教えてくれたのだ。
彼らもまた、正しかったと。
「ああ、そうか。わたしに必要だったのは、子どものように、愛されることだったのか……」
ミミコッテの膝の上で、解剖鬼は光の粒子となって消滅した。衣類も急速に劣化して、塵となった。後に残ったのは、ミミコッテが被せた白いストールと、茶色いペストマスクだけだった。
「お疲れ様、解剖鬼さん」
「執念」だけで動く亡霊のような存在だった解剖鬼。
そんな彼女が「信じたい」と、ほんの少しでも思ってしまった。愛を知り、ミミコッテを信頼してしまったことで、自分自身が「執念」に終止符を打ってしまったのだ。
「執念」が弱まったことで、肉体を維持していた「魂の力」を制御できなくなった。その結果がこれだった。尻尾を切られた涙ガラスのように、一瞬で散ってしまった。
「あなたは、十分頑張ったわ」
彼女は最後まで「自分はかつて人間だった」と思い込んでいた。
それは、赤の他人の記憶であって、彼女自身のものではないのに。
本来、彼は人ですらない。大勢の人の希死念慮が生み出した、名も無き怪物。実体はなく、「魂の力」が動力。死体へ乗り移り、機械的に活動し続ける、自然現象に近い存在だった。
ある日怪物は、取り込んだ、とある女性の「魂の力」に宿った記憶を、自分の記憶と思い込んだ。その瞬間、解剖鬼は生まれてしまった。
解剖鬼が、愛や信頼、変化や成長、命や社会の大切さを理解できなかったのは、もともと彼にそういう概念がないから。ありもしないものを信じさせられたから、彼女は発狂したのだ。
そのとある女性、解剖鬼の元となった女性こそ、ミミコッテの初めてのお客さんだった。
「あの時、助けちゃったお詫び、ちゃんとできたかしら……」
解剖鬼の過去を見終えると、ふしぎ魔法具<パストール>を持ち上げた。光の塵が、さらさらと宙を舞う。
「さようなら、解剖鬼さん。あなたと過ごした十年間、アタシは決して忘れない」
ミミコッテはストールを帽子の中へしまい、歩きだす。
ハナミチの先に何が待つのか。それは、彼女にしかわからない。
家族も、友も、地位も、名誉も、愛する人も、いずれは手放さなければならない。最後には全てなくなる。人は生きている限りつねに、なにかが手に入らない苦しみ、失う苦しみに悩まされる。
では、人は何のために、苦しみの中で、生きるのか。
「~のために」という言葉は、現在行っている行動を、目的地となる他の行動や表現に関連付けるときに生まれる。
「ご飯を食べる」という行動に対して、「お腹を満たす」という目的、もしくは意味がある。「睡眠」には、「疲れをとる」という意味がある。「結婚」には、「夫婦になる」という目的がある。「仕事」するのは「金を稼ぐ」ためである……。その都度の行動を、その都度の意味や目的によってつなぎ合わせたものが、「人生全体」である。
では、行動と意味の構図を、そのまま人生全体に適用させるとどうなるのか。
残念ながら人は、人生全体の目的地が死であることを知ってしまっている。だからこうなる。
「生きる」のは「死ぬ」ためである。人生に意味などない。
人生に初めから意味や目的があると考えるのは、人類特有の錯覚である。
人は、人生との向き合い方を根本的に変えない限り、その苦しみからは解放されることはない。「人生の無意味さを語る無意味さ」に気づいた以上、「ならどうするか」を考えるのが建設的だ。
普通に考えるなら、人生の見方を変え、自分に納得できる生き方を貫くしかない。
しかし、例外がある。たった一つだけ……。
「さぁ、メスに触れるのだ。あなたの願いは、それで叶う」
深夜のとある病院、ベッドの上に老婆が横たわっていた。
髪の毛はねずみ色と、白色が混じっている。目をこらせば、地肌が透けてみえるほど、薄い。
顔のしわは数え切れないほど。手足の肌も、乾燥でウロコのようにめくれ上がっている。尻には床ずれがある。
「解剖鬼さん、待っていたわ」
自力で痰も吐き出せない。痰が絡んだときは、鼻からチューブを入れて、気管から直接吸い出すしかない。
食事もすりつぶしてドロドロになったものしか食べられない。それすら、食べている途中で気管に入り、むせ込んでしまう。食べ物を食べられなくなるのも、時間の問題だった。尿が止まる度に膀胱へ管を差し込み、便が出なければ下剤と指をつっこんで摘便、おむつを弄ればグローブをはめられ、暴れたらベルトでしばられる運命にある。
ベッドの脇に、何かが立っている。
黒のトレンチコートに黒い長髪。革製のペストマスク。色あせた焦げ茶のブーツ。その眼孔の奥には、淡い光りが揺らめいている。
その声は、重く、暗く、しかし優しさに満ちていた。
「私のメスに、あなたの指が触れた瞬間、薬液が血管内に注入される。あとは、目を瞑ればいいだけだ」
「そう、やっとね」
か細く、しゃがれた声で、老婆はつづけた。
「……悪いんだけど、もう一度説明してくれる?」
「いいとも」
もう、五度目の説明だったが、ペストマスクは一切気にせず話し始めた。
「私は、手術における全行程をメス一本で行える。それを利用し、薬液を塗ったメスで、あなたの体内に致死量の薬を注入する。もちろん、切開しつつ縫合するから痛みはない」
その後、今回の場合は老衰に偽装する。偽装さえ終えてしまえば、まずばれない。彼が、途方もない時間磨きつづけた技術は、芸術の域にまで達している。
「私が死んだあと、あなたはどうするの?」
「あなたが死んだときに放たれる『魂の力』をもらう。その力で、私はあなたと同じように苦しんでいる人を救う。例えば、対岸にいる患者のように」
と、解剖鬼は、奥のベッドを指さした。
ベッドに横たわった若い女の患者は、乾いた目で天井をじっと見つめている。口は半開きで、体は棒のようになって、一切うごかない。すでに、全身が拘縮してしまっているためだ。腹には栄養の管をつなぐための、穴が開いている。とこずれは老婆よりもひどく、左右の腰骨の出っ張り、両肩、右肘など、至る所にある。お尻の上に至っては、骨まで到達している大穴があいていた。
女にできることは、吸引とおむつ交換の度に、顔を痛そうにしかめることだけだった。
老婆は、首をかしげた。
「みえない」
「そうか」
「ごめんね、いろいろと。私の頭、ポンコツだから」
さしだされた各種書類を、解剖鬼は受け取った。不備のないことを確認して、うなずく。
「人間である以上しかたないさ。89年も生きてきたんだから。むしろ、よくがんばったと、ねぎらうくらいでちょうどいい」
「うふふふ、それもそうね。じゃあ、はじめて」
老婆が目を閉じたのを確認。
自らの手首をひねると、コートの袖から解剖用のメスが瞬時にとびだした。
「メスに自分の指で触れるんだ」
「わかったわ」
老婆は、人さし指を伸ばし、メスの先端に触った。動作に一切のためらいはない。
メスの表面から、致死薬が毛細血管に注がれていく。
目を閉じた老婆が、うわずった声で聞いてきた。
「あれれ? 何も、感じないわ」
二十秒後、ガガッ、ガガッと、下顎呼吸を五回。その後、動かなくなった。数分後、聴診器を当て、瞳孔を確認。
死因偽装処理を施した後、解剖鬼は消えた。
とある城の階段ホール。階段に足をかけたとき、上から力強い声がした。
「ばかな、解剖鬼!?」
「ご名答」
「姫様の部屋へは絶対に行かせん」
階段の踊り場で、鎧に身を包んだライオンの亜人が、こちらをにらんでいる。豪華な装飾が成されていたであろう鎧は、使い込まれて傷だらけになっていた。二メートルを超える身長を持つ解剖鬼よりも、さらに背が高く、迫力がある。
亜人は、手すりを乗りこえ、舞い降りた。
「自殺衝動の持続時間はせいぜい三十分と聞いた」
「その通りだ。よく勉強をしている」
「姫様が良からぬ輩と話していると聞いてな。自殺代行業について調べさせてもらった」
亜人はネコ科の脚力で一気に間合いを詰め、すさまじい速度で拳撃を浴びせてきた。だが、拳は全て宙を切る。ラッシュを止めたところで、解剖鬼が頭の上に立っていることに気づいた。
「くっ!?」
蜘蛛の巣を払うように、手をなぎ払った。
解剖鬼は、髪とコートをなびかせながら宙を舞う。
亜人は叫ぶ。
「死にたい思い――希死念慮とやらをを察知できるのなら、三十分話し相手になって、自殺を留めることもできるだろう。『じゃあ死のうか』ではなく、『じゃあどうしようか』と手を差し伸べる方が、建設的じゃないのか? 希死念慮を消せずとも、希死念慮と共存する手段もあるはずだ」
亜人はこちらが着地する瞬間を見計らい、両手の爪を振り下ろそうとしてきた……が、止めた。左右の人差し指で。
「ば、ばかな!?」
「共存までの道のりが果てしなく、辛すぎるから、原因の根底から消し去るのだ。不幸回避は人間の本質。生からの逃避に、何か問題があるのか?」
「多くの人に迷惑をかけるだろう」
「通常の自殺であればな。遺族が損害賠償を請求されたり差別を受ける。他にも、検死・行政解剖を行う医師や役人、葬儀派遣業者、遺品整理師……さまざまな人に迷惑をかける。だが、私がもたらすのは計画的病死。最低限の迷惑で全て解決だ」
「そういう意味ではない! 姫様が作り出してきた全ての人間関係が奪い去られてしまう。その上、無数の人が、姫様と接することで得られたはずの、自己変革や成長のきっかけを失う。こんなことが許されていいはずがない」
解剖鬼は平然と距離を詰める。
「お前たちの都合など知ったことか! つらさをかたがわりできるわけでもないのに、勝手なことを言わないでもらおうか」
解剖鬼は、亜人の蹴りを踏み台にして、相手を跳び越えた。
「俺は、姫様を子供のころから一緒に過ごした。この世界には、すばらしいものもたくさんあった。屋根裏部屋の探検、裏庭のピクニック、なぞなぞ……。なのになぜ、世界にもう望むものはないと、決めつけてしまうのだ!」
「あなたの言うとおり、この世はすばらしいのかもしれない。しかし生物は、『生きやすさ』を犠牲に『生き残りやすさ』を追求してきた。良いニュースよりも、悪いニュースに反応する。ポジティブな記憶よりも、ネガティブな記憶が脳に強く刻み込まれる。ネガティブにとらわれず、精神的に健康な人の方が、異常なのだ。自然界からすると不自然なんだよ」
「だからといって、0か100か、生か死かで物事を判断するのは、早計ではないのか!?」
このボディーガードが、彼女の父親だったら、こうはならなかったろうに。
解剖鬼の歩みを止めた。そして、ふり返る。
「自分、家族、社会、世界。複雑なものを複雑なまま受け入れる。白と黒のグレーを受け入れる。他者の『自分にとって都合の良い面』と『都合の悪い面』をそのまま受けとめる。物事の良いところも悪いところも、そのまま受ける。君の提案は正しい」
声色は、暗く、暗く、どこまでも落ち込んでいった。
亜人は追いかけるのも忘れて、立ち尽くすしかなかった。
「では、なぜ?」
「それができるんだったら、常時無限脳内反省会をし続けることはなない。脳がつらさの限界を超え、緊急回避手段として希死念慮を作り出す事もない。自分と他人に線引きできず、感情を混同することもない。仕事における自分の領分と相手の領分を間違えたり、物事の優先順位付けができなくなることもない。心のモヤモヤを無分別に『死にたい』へ変換することもない。誰にも相談できず、自分を消す方法を探し続けるなんてしない」
解剖鬼は、若い女性の声でさけんだ。
「誰も分かってはくれない」
「自分でどうにかしなくちゃいけない」
「死ぬほど頑張っているのに、もっともっともっともっと頑張らなくちゃいけない」
「私は自分は間違っていないはず!」
「みんな、みんな、私が消えれば満足なんでしょ!」
ライオンの亜人は絶句した。
「それが、姫様の本心なのか?」
「人の本心なんか、誰もわからない。たとえ、家族でも」
解剖鬼はトレンチコートのポケットから、縦長の缶をとりだした。ピンを抜くと地面に転がす。
階段ホールに充満する煙。それを吸った亜人は、膝をつき、眠たげな顔で頭を振った。
彼は『そんな馬鹿なことを考えるな』と、頭ごなしに否定しなかった。『死にたい』という気持ちを、真っ正面から受け入れようという、覚悟が感じられた。彼が姫の父親であったら、彼女の結末は変わったはずだ。
「なっ、嘆かわしい。その力があれば、より大きな事を成し遂げられるのに。その技術があれば、より多くを助けられるのに。その知識があれば、よりより社会を作れるのに。なぜ、それをしようとしない」
「私は、私にしかできないことをやる。それだけだ」
そして『社会』などという正体のつかめない怪物のために仕事する気はない。
倒れるライオンの亜人を後にし、ペストマスクはお姫様の部屋へとむかった。
事前面談はで、健全な判断能力があるかを確かめる。今の症状、自殺ほう助を考えはじめた時期やきっかけ、理由を徹底的に詰める。最低三時間が三コマ。この面談で『診断書を見る限り、自殺ほう助をすることに何の異論もない』と解剖鬼が判断した場合、実施に移る。
判断基準は二つ。
一つ目は現時点から、自分が死ぬまでの人生を、絶望の色で塗り固めていること。絶望の感じ方は人それぞれだ。ある人は、未来に残された時間が一気に圧縮されて見え、『自分は断崖に立たされており、生き続けても辛くなるだけ』と感じる。ある人は『自分の人生は、間延びした空白以外の何物でもない。無意味である』と感じる。
もう一つは、『自分が死んでも誰も困らない』と感じていること。居場所がない、誰かにも必要とされていない。自分はひとりぼっち。人はどこまでも社会的な動物であるから、人間関係に最大の幸福を感じるよう作られている。逆に言えば孤立感は、死に値する苦しみなのだ。
彼女が、今生きている理由は、『楽に死ぬ方法がない』からだった。
白いテーブルの上には、ティーセットが並べられている。どれも、最上級のものだ。テーブルの脇にある窓からは、地平線まで続く庭がひろがっている。シャンデリアの光は、壁一面をしめる名画を照らしていた。
彼女は、この国の女王候補だった。見る度に、顔の疲労感が増している気がする。毛皮のつやも、鈍い。身体は痩せ細り、骨張っている。
『何もできないやつに、食う資格も、美しくある資格もない』と、酒と薬以外を絶食している。また、絶食の物理的な苦しみで、精神的な苦痛をごまかす意味もあるようだった。
解剖鬼が促すと、彼女は一方的に自分の身の上を話し始めた。
「内向的で見知った人としか話しませんでした。しらない人と話すのは苦痛だったし、知っている人と話すのは楽でした。だから、極端に視野が狭く、自己客観視ができない。相手の立場に立って考えることもできないんです」
「では、話し相手の言葉の意図すら、見当がつかないのか」
「ええ、親や、ボディーガードである彼ですら……。当然、うまく意見を伝えることもできませんでした。そのせいで、人の言葉を深読みしすぎちゃうようになってしまいました。相手のことを詮索しすぎる、そんな自分も嫌いで仕方なくて」
友達は少なく、先生や父親によくなついた。『言うことを聞く良い子』とほめられつづけた結果、年長者の言うことは絶対と信じるようになった。年長者の顔色をうかがって、『年長者の望むこと』をする。自分の考えがうかんでも、押し殺す。それが習慣となり、いつしか自分で物事を考えなくなった。
「重要な選択は全て他人に委ねてきました。親や家庭教師、政治家など、年長者同士の意見が対立したときは、心が張り裂けそうになります。しかも、ちいさい頃から利権争いを見てきたために、信頼できる人がいないんです」
「それは、辛いな」
「ええ。私は、その度に『言いつけを守るのに失敗した。これは自分の努力不足』と、自分に言い聞かせました。でも、どんなに反省しても、同じミスを繰り返してしまうんです。おかげで今は『自信』という概念すら、わからなくなってしまって……」
レールに沿って、王位めざし、兄弟たちと必死に戦った。点数と協調性が重視され、個性は恥として晒された。上位の学校に入るために、夢や自分の大好きなことは全部諦めた。そこまでしても、人生はうまくいかなかった。酒に逃げた。向精神薬に逃げた。酔っている間だけ楽になれた。しかし、酔いから醒めれば、更なる苦しみにさらされる。日に日に不安は増幅され、酒も薬も増える一方。逃げても逃げても、苦痛は増すばかり。
家族に相談しようにも、できなかった。父親は仕事で家を空けることが多く、母親の愚痴の聞き役も彼女が兼ねていたからだ。
「母親に相談しても『おまえは自分のことしか考えていない』とか、『おまえも苦しいんだろうけど、私達はもっと苦しめられているんだ』と、つめたく言われました。反論しようとしても『そこまで言われる筋合いはない』とか言い換えされる」
どうしてこうなってしまったのだろう。
いつも、同じ問いかけをして、同じ結論にたどり着く。
「運悪く、生まれてしまったから!」
彼女はようやく、話し終えたようだった。完全に、語り終えたのを確認してから、ペストマスクは口を開いた。
「生まれてしまったのではない。『生まれさせられて』しまったのだろう?」
親によって生まれさせられた。しかし、親は子を選べない。その点に関しては、親を攻めることをできない。
もっとも、「不幸になる可能性のある存在」をこの世に生みだすという決断をしてしまったことに関しては、完全に親の責任だが。
「そうです! その通りです。私は生まれたんじゃない! 生まれさせられたんです。それでも私は、みんなに認められるために頑張って、頑張って、頑張って、頑張って……でも……でも……っ。どんなに頑張ってもうまくやれない。もう、迷惑かけてばかり。自分なんかいない方が、みんな幸せになるはずなんです」
ペストマスクは静かにうなずくと、優しい声でつぶやいた。
「人は、自分の意思に関係なく生まれさせられる。だが、その命の使い道は本人が決めるべきだ。人の死に方は、家族でも、環境でも、法律でもなく、本人が決めるべきなのだ。生きたい人は楽しく生き、死にたい人は安楽に死ぬ。それが私の理想だ。私は、君の手助けをしたい」
聞く力が弱いから、何を話しているのかわからない。
見る力が弱いから、表情や仕草から情報を読み取れない。
想像する力が弱いから、誤認情報を修正できない。相手の立場を想像することも難しい。未来のことも想像できないため、正しい努力もできない。
問題に直面した時、頭に浮かぶ解決案の数そのものが少なく、どの方法がいいのか吟味して選ぶのも苦手。
相手の反応を正しく認識できないため、自己を正しく評価できない。極端に自己評価が低くなってしまう。そのため自我が脆く、ちょっとしたことで傷つきやすい。ストレスを抱え込みやすく、不適切な行為で発散してしまう。
対人スキルにも乏しいから、嫌われたくないから頼みごとを断れない。辛い目に遭っても助けを求められない。
彼女は、人として詰んでいた。
「お願いします! 解剖鬼さま。私を、私を生の苦しみから救ってください。このクズを始末してください! 酒と抗うつ剤で、自分の記憶すらあやふやなんです。止めようとしても離脱症状という名の終わらない二日酔いが待ってるし……もう、いろいろと限界なんです。かといって、自殺は怖いのです。失敗するかもしれないし、痛いかもしれないし、他の人に迷惑をかけるかもしれないし」
「心配には及ばない。私は、全てを、完ぺきにやってのける。君は、誰にも迷惑をかけず、苦しまず、確実に、自然な形で、この世を去るのだ」
自殺に反対する人は言う。
人は、変われるかもしれない、と。
しかし、死を想う人は、愛を感じられない。強固な信念もない。
あのボディーガードのように心の底から助けになりたいと思っている人がいたとしても、人間不信ゆえに本人の心に届かない。
そんな絶望の中、あるかもわからぬ自分の可能生とやらにかけ、何十年も耐えつづける。それこそが地獄ではないか。
解剖鬼は、ゆっくりとメスを差し出した……。
築50年以上する借家の一室。そこに、男の声がこだました。
「ありがとうございます! ありがとうございます! ありがとうございます!」
虎の獣人は、ひたすら頭を床にこすりつけていた。畳には、涙のしみが散らばっている。 必死に頭を下げる彼の隣で、若い女性が微笑を浮かべて眠っている。数分前とは違い、寝息は静かだった。
解剖鬼は、振り下ろしたメスを手首にしまいながら答えた。
「私は、ただ手をうごかしただけだ。臓器を提供した人に、感謝するんだな」
「ええ、ええ! 感謝しますとも! もしよろしければ、彼女の名前だけでも……」
脳裏に、お姫様とのやりとりがよみがえった。
『もう一度確認したいのですが、本当に私が死ぬことで、誰かの命を助けられるのですよね』
『そうだ。君の心臓があれば、助かる命がある。君の腎臓があれば、より長生きできる子がいる。君の骨を移植すれば、歩けるようになる人がいる。君の死は、誰かの生の一部となるのだ』
『私は、誰かの役に立てる』
『もちろんだとも』
解剖鬼は、彼女の願いを叶えられたことに、小さな喜びを感じた。
「あなたの奥様の情報を他者に明かせないのと同じように、彼女の情報もあなたに明かすことはできない。しかし、気にすることはない。あなたの奥様が元気に生きてくれるだけで、彼女は幸福なのだから」
「あ、あの、お代は……」
「必要ない。患者の幸福が、私の報酬なのだ」
解剖鬼はそう言うと、黒い霧となって消え去った。
臓器移植センターの一室。
解剖鬼が呪文を唱えると、電子カルテが眼前に映し出された。診察予定を確認する。
「やけにキャンセルが多いな。理由は、『魔法具屋ミミコッテによって認知が変わったため』、『魔法具屋ミミコッテによってコミュニケーション障害が寛解したため』……」
仕事を妨害されるのには慣れていた。しかし、ここまで露骨に妨害されたことはない。もしかしたら、相手は同系統の能力者なのかもしれない。
「バカなことを」
患者は、考え方を変えたり、成長しようにも、勉強する時間も、体力も、金もない。何より心がそれを受け付けない。新しくなにかをしたり、知らない人と会うなどもってのほかだ。
チャンスがあっても狭い視野では見つけられない。見つけられたとしても失敗の恐怖から挑戦できない。
社会からの期待に応える力もないし、やりたいこともない。自己嫌悪に陥り、なんのために生きているかわからなくなる。
己の境遇に落胆し、他者に嫉妬し、殺したいほど己を憎みながら、不公平で不平等かつ理不尽で運次第な世界を嘆き、無意味で耐えがたい生の苦痛をしのぐ日々。社会復帰したとしても、彼らに待っているのは、他者の奴隷として尽くすだけの人生。
これを地獄と呼ばずしてなんという。
こんなに苦しい気持ちが続くのなら、いっそのこと、死んでしまった方が楽なのではないか。
ありとあらゆる選択肢が消えていく中、最後に残ったのが希死念慮。自殺願望。
必死に選び取った選択。考えに考え抜いた末にたどり着いた結論。
何一つ自由に出来るものがない中、唯一残された希望。最後の決断。
それが、自殺なのだ。
「生は苦しみ。死は救い。そんなこともわからないやつに、私は屈しない」
酒とタバコのにおいが充満した部屋。生活に必要な物は全部布団の近くにある。布団から手を伸ばしても届かない場所は、ゴミで埋めつくされていた。テーブルには睡眠薬の瓶が置かれている。
布団の上でじっとしていた彼女。エルフの女性だが、その美しさは見る影もなかった。緑の髪は黒ずんでおり、枝毛が目立つ。血色が悪い上、目の周りがくぼんでいる。パジャマはよれて、しわくちゃだった。彼女は、解剖鬼にかけよると、ナメクジのように這ってきた。
「私の人生は終わりです。何をしてもむなしい。かなえるはずだった夢、過ごすはずだった未来、それが一夜にして消え去ってしまいました。期待や不安、幸福と楽しみに満ちた高揚感と多幸感に包まれた、幸福の絶頂とも言える毎日。それが一瞬にして崩れ去ってしまったのです。そのうえ、問題は山積みで、不運が一斉にやってきた……」
ふらふらと、解剖鬼に倒れかかると、静かに涙を流しはじめた。
「人生なんてひどいものです。もはや、何をやってもうまくいきっこない……」
解剖鬼は、静かにうなずくと、話を引き継ぐように続けた。
「『自分にもっと能力があったら』という後悔。『どうして自分を置いて死ぬの』という怒り。『私の人生は終わりだ』という絶望。『何をしてもむなしい』という虚無感。『会いたい』という思慮。耐えた先に希望はない。『このままおかしくなるのか、今後の生活はどうなるのか、私も死ぬのか』という不安。自分の心の一部を失ったという孤独。恋人から解放されたという密かな安堵、そして、さらなる自己嫌悪と罪悪感。地獄よりも、地獄的!」
女性は、さけんだ。
「そうです! 私にとっての神は死にました。愛も信念も崩れ去りました。未来への希望は潰え、あらゆる価値観は過去となってしまいました。私に残された財産は、過去への後悔だけです。わたしには、わからない。彼のいない人生に意味なんて、あるわけがない」
まるで、すがるように、解剖鬼の身体をなでさすった。
「あの人との大切な記憶がよぎる度、『もう二度と戻れない』という現実を突きつけられるんです。仕事から帰って寝るまでのすき間時間が、もうさけびたくなるほど、辛いんです。もう、自分で自分の行動を制御することすら、できないんです。この苦しみから、どうか私をお救いください!」
「いいんだ。それで。人には『何もえらばない』という選択肢もあるのだ。私は絶望した人を、楽に、美しく、迷惑をかけず、病気を装って送りだす。君のような人に、死の救いをもたらすことこそ、私の使命なのだから! さあ、自らの意思で、つかみとるのだ――」
解剖鬼は、メスを差し出した。
「――死の、安楽を!」
仕事を終えると、解剖鬼は転移の呪文で立ち去ろうとした。……が、できなかった。
「転移阻害結界か」
目の前に、彼女と瓜二つのエルフが現れた。緑髪は同じだ。端正な顔つき。白のブラウスに緑の格子縞スカートを着ていた。
無表情で、両目をゆっくりとひらいたり、閉じたりしていた。大きくひらいた瞼から目玉がこぼれ落ちるのを防ぐかのように、彼女は目を覆った。
目の腫れる痛みで、ショック状態から現実に戻ったらしい。彼女は、ペストマスクを見て、絶叫。この世の者とは思えない大声で、彼女は泣きだした。
と、同時に、文字通り呪いの文言を……呪文を唱えはじめた。
「待て! この場で戦ったらこの家の大家に……」
無駄だった。とうとつにあらわれた、巨大な白い拳に、殴られた。窓をぶち抜き、空中へ放り投げられる。
エルフの家に何かがあらわれた。
白いドラゴンのような何かだった。背丈は建物二階分を優に超えている。人型に近いタイプで、無駄な筋肉のない格闘家のようなシルエット。全身鎧を彷彿とさせる、外骨格に覆われている。目つきを鋭くしたトカゲのような顔をしており、後頭からは六本の角が生えていた。翼とは別には生えた腕も、純白の骨格で覆われている。
コウモリベースの翼は、異様にゆっくりと羽ばたいている。肩の上に、先ほどのエルフが乗っていた。
明らかに彼女の力量を超えたものだった。どうやら彼女の怒りと、解剖鬼が蓄えた『魂の力』が、呼び寄せてしまったらしい。
ドラゴンの身体の節々から魔力があふれ出て、光の粒子となって空中に消える。暗い瞳孔が、静かにこちらをにらみつけている。
「君は誤解している。私が殺した訳ではない。当然、希死誘導したわけでもない。各種契約呪文をかけてある遺書がある」
テレパシーで呼びかけたが反応はなかった。
それどころか、ドラゴンがこちらへ飛行してきた。あまりの速度に、身体の輪郭が赤く燃え上がっている。速い。一秒と経たず、膝蹴りが食い込む。高度二十メートル……三十メートル……数えるのが嫌になった。
切り札である『魂の力』を解放すれば、街に尋常ではない被害が出る。
打つ手がない。
「やはり、私は、無能だ」
彼女の怒りの原因は、私の未熟さだ。自分のふがいなさに、憤怒を通り越してあきれてしまう。
いや、今は自己嫌悪におちいっている暇はない。
ドラゴンは先回りすると、大きく手をひらいて振りかぶり、爪をたたきつけてきた。はえたたきに打ち落とされたハエも同然。
ドラゴンは再び先回りし、思いっきりアッパーをくり出してきた。寸分の狂いもなく、腹に直撃。普通のサイズに見えていた住宅街が、一気にミニチュア大にまで縮む。
相手はさらに、身体を縮めて力をため、横回転しながらロケットのように突撃。ドガガガガっと、ドリルのように解剖鬼の身体をえぐらんとする。
その後も、先回りしては解剖鬼に強烈な打撃を浴びせ続けた。軌道が青色に光り、まるでペンライトのようできれいだ。しかし、行われているのは一方的な蹂躙である。全く反撃の隙がない。
「少しは人の話を……」
最後に、しっぽで解剖鬼の腹をつかむと、空へ思いっきり放り投げた。
視野の中に町全体が収まった。ここが展望台だったら最高だった。
ドラゴンが口を大きく開いた。そこへ、青白い光の粒子が集まる。粒子たちは一つの大きな光球と化した。ビリビリと大気がふるえ、地響きのような音が聞こえる。そのうえに、バイオリンが奏でる低音のような音が被さる。音階が急速に上がっていき、やがてキーィィイイイという聞くのも恐ろしい音になった。
エルフが叫んだ。
「消えろ!」
隙を見せた。
彼女を傷つけるのは不本意なのだが、仕方ない。
解剖鬼は、しぶしぶ申し上げた。
「姉を信頼していることを言い訳に、定期連絡を怠った君に、もの申す権利はない」
ドラゴンの動きが一瞬止まった。エルフは首を左右に振って、向き直る。しかし、時すでに遅し。
彼女の集中が途切れ、結界が弱まった瞬間。解剖鬼はエルフの背後に転移した。エルフの首に、メスをめり込ませる。頸動脈に薬液を流しつつ、瞬時に縫合。何事もなかったかのように、メスを引き抜く。
「なっ……!?」
「もっとも、仕方のない面の方が多いがな。閉鎖的な集落で築き上げられたライフサイクル、長寿種族故の時間感覚の長さ、森と外界の『変化』の速度の違いなどなど……。これらの相乗効果のせいで、森から出た独居エルフの孤独死は多い。必要以上に負い目を感じることはない」
麻痺して動けなくなった彼女の眼前に、遺書を突きつける。
瞳が右から左へと規則的に動く。
表情からみるみる血の気が引いていく。
「そ、……そんな」
「何回治療を受けても、双極性障害や統合失調症、うつ病が寛解しなかった。たくさんの人の助言を受けても、なお生きる気力がわかなかった。そうなったらもう、激痛を伴う不治の病と何ら変わりはない。精神疾患が不治の病であれば、身体的な不治の病同様、死の権利が受け入れられるべきだとは、思わないか」
「……エルフが他の種族と婚約したら、いずれこうなるって覚悟していたはず。他のみんな当然のこととして受けとめているのに」
「風邪と同じだ。同じウイルスに感染しても、無症状の人もいれば、40度近くの熱が出る人もいる。同じ状況でも、たいしたことないと感じる人がいれば、死にたくなる人もいる。彼女は、後者だった。君は悪くない。彼女も悪くない。誰も悪くない。遺伝と環境に、努力は勝てない」
ドラゴンは、肩から二人を下ろすと、消滅した。
よろけるエルフに手を貸そうととしたが、払いのけられた。少し、心が痛む。
「せめて、最後の一言だけでも、聞きたかった……」
「病院に入院している患者ですらそうだ。本人はもちろん、『今夜が山場でしょう』と言った医者ですら、患者が今死ぬか、明日死ぬか、来週死ぬかはわからない。人は死ぬ。すぐ死ぬ。とうとつに死ぬ。あっけなく死ぬ。とにかく死ぬ。大切な人の死に際に立ち会える人など、ごくわずかなのだ」
「ううぅ……ひっく……うえええん……」
「君は、彼女の死を察知して、即座にはせ参じた。こういう人もまた、ごくわずかだ。君は、君にできる最大限の努力をした。それだけで、十分だ」
泣き崩れる彼女。解剖鬼もしゃがみ込んで目線を合わせた。
「君はこの世界で、代替不能なただ一人の姉妹として、彼女を愛していた。本人には正しく伝わらなかったかもしれないが、それでも君はやれることはやったのだ。今こうして君が悲しんでいるだけで、彼女に生きた意味があったと断言できる」
首を振るばかりで、エルフは答えようとしなかった。
「君は、妹とは違う。君になら、大切な人を失ったという悲しみに、耐え抜くことができる。死に際、彼女から君に伝えるように言われた。『置き去りにしてごめんなさい。あなたは幸せに生きてくださいと』。君の姉は、最後まで君のことを信じていた」
「私……私は……」
彼女の魂の奥底から、湧き出る力を感じる。彼女は生き残ることができる。
解剖鬼は安堵しながら、彼女の記憶を消した。
正面一面が巨大ガラスになっている真っ白な部屋。さまざまな薬液が置かれた四段棚に、降り曲がる照明器具など、ものものしい物が多々置かれている。
部屋の中央にはストレッチャーが置かれており、誰かが横になっていた。
解剖鬼の隣にいたのは、狐耳の亜人だった。白い髪に白い肌、白い眼。白いファーコート。憂いをおびた艶やかな顔。
姿見が正反対とも言える彼女が、口を開いた。
「なぜ、臓器提供はもっと広まらないのかしら」
「脳死時、本人か家族の同意さえあれば臓器提供できる国もあれば、脳死を死としてカウントしない国すらある。そういう国では、救急救命術師が『臓器提供』と、言い出すことができない。『癒術師が患者を見捨てるのか!』と反論するのが、目に見えているからだ」
「めんどうね」
「そう言うな、シモバシラ。私たちとちがって、彼らには彼らなりの倫理観がある」
巨大なガラス越しに、冷凍室内の様子がみえる。シモバシラが作り出した永久凍結結晶により稼働している保管庫。中には、ブロック加工された遺体や、骨、皮膚、靱帯、血管、結合組織、神経、軟骨、心膜、弁などが、利用しやすいように加工された上で、出荷を待っている。
「死んでからも誰かの助けになるなんて、すてきなことだと思うのだけれど」
シモバシラは、うっとりとした表情でぼやいた。どうやらご自慢の芸術品たちに思いを馳せているらしかった。
「生前にも問題があるんだ。提供登録者は、脳死の可能性が認められた瞬間、『まだ生きる尊厳のある人』から『早く死んで臓器を提供すべき人に』格下げされるからな。本人はともかく、遺族は耐えられるものではない。若い場合は、特にな。『他人の身体で生き続ける』程度の救いでは、慰めにもならん」
「でも醜い姿で、苦痛を伴う延命をされるのは、イヤ」
「医療人が保険証に、延命拒否を書く時代だからな。見た目はともかく、苦しいのは遠慮したい」
なんにせよ、臓器提供者の数は少ない。臓器提供のシステムそのものにひずみがあるのは必然だ。だから、臓器提供を意思表示すると、救急救命措置が手抜きされるなどという事案が発生する。
臓器提供においては、提供者と移植待機者の適応率あげることが至上命題。なのでまず、待機者を多く確保する。
その結果、臓器提供をむなしい待機時間が長くなる。しかも、成功率を上げるためには当然、状態のよい患者を選ぶ傾向があり、移植して生存率が向上したといえるのか、疑わしいものがある。
だからこそ、提供者を増やすことが至上命題なのだ。より多く、より新鮮な臓器が必要だ。
臓器は、使いたい人が、使うべきだ。
「でも、人をブロックで保管するなんて、美しくない。人を物扱いするのは、賛同しかねるわ」
「皮一枚剥げばみんな同じようなもの。人に美醜はない。霊的価値もない。水と、タンパク質と、脂の塊に過ぎない。ただ生き、ただ死ぬ。それだけだ」
「あなたとはわかりあえそうにないわ。……ねぇ、一つ聞かせ――」
シモバシラの声を、タイマーの音がかき消した。
解剖鬼は毛布をめくる。緑の布の引かれたテーブル上に置かれた、刃を手にする。持ち手は木製。刃は先端に書けてなめらかな曲線を描いている。解剖鬼は、片刃大切断刀の側面で、遺体を軽くなでた。
「すばらしい! 一日以上長持ちするとは」
「通常の氷での冷却は、正味9時間が限界だった。この過冷却を使えば、27時間持つわ。私が関わらずとも、より多くの患者に、臓器を移植できるはず」
「採用だ。運用に関しては我々に任せてくれ。後報酬は後ほど」
「わかったわ」
シモバシラの言葉と同時に、白衣の男女がぞろぞろと部屋に入ってきた。彼らは、ストレッチャーを押し、遺体を運んでいった。
二人は、真っ白な廊下を歩きながら、言葉を交わしつづける。
「今日は何人仕事をしたの?」
「10体」
「相変わらず働き者ね」
「一人でも多くを救うのが私の使命だからな」
「意識憑依薬の効果は?」
「良好だ。面談も、事務作業も、滞りなく行われている」
意識憑依薬は、解剖鬼の精神の一部を抽出した液体だ。死体に解剖鬼の精神を埋め込み、コピーを作る革新的魔法薬。妖狐であるシモバシラの憑依能力を応用した、二人の共作だった。
同一精神を持つ関係上、コピーと本体の意識は共有される。おかげで解剖鬼は『安楽死は、本当に患者の意思なのか?』、『自殺誘導したのではないか?』と、仲間へ問う必要がない。『魂の力』は本体しか持たないため、自殺ほう助そのものはできない。が、医療その他の技術レベルは高い。先ほど遺体を連れていった作業員も、みな解剖鬼のコピーだ。
もちろん、自分の精神を切り分け、死体に埋め込むという所業は、普通なら発狂するのだろう。
しかし、もはや人の精神をしていない解剖鬼には、メリットしかない。
「君のところに送った美女たちは?」
「彼女たちを一緒くたにしないで。私の恋人なんだから」
「悪かった」
「今は、氷結陵墓にいるわ」
臓器ごと氷像にしたのか!? なんてもったいない。臓器の持ち腐れじゃないか。
解剖鬼は言いかけて、口をつぐんだ。
「そうか」
二人の考えは、妙なところで一致していた。『今より悪くなるなら、いっそのこと人生を終わらせた方がいい』という点で。
だから、共犯関係になった。お互いの理念を尊重するが、賛同はできない。しかし、常軌を逸した考えと、力と、行動力をもつ者同士、気が会うのだった。
「ねえ、一つ聞いて良い?」
「なんだ?」
「社会がもしあなたを許せば『社会に適応できない人間は安楽死させればいい』ということになりかねない。民を、選別することになってしまう」
「今だってそうだろう」
「社会は建前を重視するものよ」
「そうかい」
「よりよき社会のため、あなたの存在を、社会は許させない。あなたの行いはいずれ、社会の全てを敵に回すわ。その覚悟があなたにはあるの?」
「もちろんだ。私はいつだって、誰か一人のために戦う」
「あなたの考え方が、人類社会を崩壊させるとしても?」
「今日まで社会が存続しているからといって、社会の存続が正しい選択とは限らない。君だって、社会から強要されたからといって、氷像を手放すことはあるまい」
「もちろん。人類と美、どちらを残すべきかと聞かれたら、答えるまでもないわ」
体育館に校長の声が響く。解剖鬼は二階のラウンジで聞いていた。
「『ホームレスだから、国は私に家を提供しなければならない』。そんな言葉は、もう通用しません。本来努力できるのにも関わらず、努力を怠って『社会』に助けてもらおうとする人が大勢います。生活援助を受けている人が、一般の方よりも贅沢な生活を送っていることも珍しくありません。ですが、社会の実態は一人一人の人間です。甘えた人間を助けたいと思う人などいません。君たちが、どれほど自分自身の責任を引き受ける自己責任感を持ち、自らの努力によって不幸な人を助ける覚悟があるのかにかかっています」
社会保障を縮小することで、国民は若いころから資産運用せざるを得なくなる。結果として市場は活性化し続ける。
しかし、国民が怠ければ、縮小された社会保障はすぐにパンクする。
社会保障は必要な人に用いられるべきで、怠惰で失敗した人に用いる余裕はない。
「自己責任を果たし、切磋琢磨しつつ、一定の役割を果たすためには、基礎的・基本的な知識、技能の習得やそれらを生かして課題を見つけ、解決るための、思考力・判断力・表現力などが必要。生涯に渡り学ぶ必要があります。その場が学校なのです。皆さん、必死に勉強してください。自らの怠慢で、みんなが稼いだ税金を浪費することは、最も恥ずべき悪徳なのですから」
その結果、『子の困窮、親の責任』で教育費が削減され、家庭の経済状況が子供たちの学生生活に反映されるようになった。容姿やコミュ力に加え、いい塾に通い、いい成績を取ることが子供たちの関係の中で重要な意味を持つようになった。頭の悪い子供は、自己責任感が低いと排他される。
しかし、子供は生まれる家庭は選べない。親のツケが子の責任として問われるのだ。
「国の援助を受けている人は、生きていても社会の足を引っ張るだけ。貧困層は死んだ方がマシ、か」
教壇に立った解剖鬼は、たった一人の生徒に語りかけた。
人間の少年だ。短い髪の毛はボサボサで、表情は硬い。久しく笑っていないのか、表情筋が死んでいるように見える。
彼は極端な自己卑下が特徴的だった。学校に自分の居場所が全くない感じがする。自分はずっと不自然に振る舞ってしまい、周囲に不愉快な思いをさせ続けている。『あなたは変わっている』、『あなたのような子はみたことがない』という教師の言葉が忘れられず、周囲から独自の目で注視されているという意識が頭の片隅から離れない。教室では、自分ひとりだけ檻に入れられた動物なのではないか、と思うことすらある。
勉強に打ち込めず、不眠がちで、体重も低い。当然将来に明るい展望も持てない。
努力を怠ると自分がますます堕落するように感じ、能率が上がらないのに勉強とジョギングに打ち込んでいた。『勉強している間だけは、不安をまぎらわせられる』と、一種の自傷も兼ねているようだった。
「では、命の授業をはじめよう」
「はい、先生」
解剖鬼は、早口で一気にまくし立てた。
「君が生まれるためには、たくさんの人が関わってきた。二十世代前で104万8576人、三十世代前まで含めると10億73474万1824人だ。一人でも命を引き継いでくれる人がいなかったら、一組でも組み合わせが違ったら、君は生まれなかった。ゆえに、生きていること自体が奇跡なのだ。君の脳は君の細胞だけでできているわけではない。2000年以上にわたって、先祖たちが引き継いできた記憶と体験の集積。先祖に感謝するべきだ。先祖に感謝できない人間は、自分の業績は全て自分の力のおかげだと思い込み、自己中になる。自己中が他人を大切にできるはずがない。だから、感謝するんだ。先祖に! 生かされていることに! 自分が生まれてきたという事実に!」
「それじゃあ、なんで父がぼくを殴るんですか? 命は大切じゃないんですか?」
彼の声には悔しさがにじみ出ていた。
上げた手首には、白い線の束が刻まれていた。競争社会、学内のいじめ、親の虐待などと、一人で格闘してきた跡だった。
親がアルコールやギャンブル依存、精神疾患などのメンタルの問題を抱えていたり、DV、借金などの生活の問題を抱えていると、子どもは家族にすら『助けて』を言えない。『親に余計な心配をかけたくない』『親から嫌われたくない』と、気づかう心が勝ってしまうからだ。
さらに始末の悪いことに、子もまた遺伝によって何らかしらの不都合を抱えている可能性が高い。家族の人間関係はこじれにこじれ、自宅そのものが危険な場所になってしまう。
解剖鬼の場合もそうだった。
夜中中、両親がけんかする。苛ついた父親が箸やアイロンを投げてくる。子どもだった彼は押し入れに入って、恐ろしい声が聞こえないよう歯ぎしりし続ける。キレ狂って大声で笑っている母親に恐怖し、『おかあさん来ないで』と祈りながら布団にくるまって寝る。翌日、母親の憂さ晴らしの買い物につれられ何時間も待たされる。リンスを使ったら頭を流すことすら教えてもらえず、ふけだらけで学校に通って笑われたり、歯磨きを毎日することを、学校の先生から習ったりする。その上、今のお前の性格は私が育てただの、言ってくる。
それが親と言うものなのだ。
学校にも相談相手はいない。したところでうまくいかない。自傷を明かせば批難される。恥辱にまみれた家庭問題を明かすなどとてもできない。問題は、自力で解決しなければならない。
そんな子どもに、一般的な常識など、通用しない。
「すばらしい質問だ。『牧場の牛』という、たとえ話をしよう。牧場の牛は、牛そのものには全く関係のない、牧場という外部から与えられた価値観によって『乳量の多い牛が善い』と思い込まされている。彼らは『牛の本質、生きる意味は、乳量で決まる』と思い込み、寿命や受胎能力すら犠牲にして、ひたすら乳量を増やすことに明け暮れる」
「では、ぼくは社会という名の牧場で生かされる乳牛ですか?」
普通、当然、常識。乳牛は決まってそういう言葉を使う。希死を抱く人を、『普通にすればいい』、『考えすぎ』と抽象的な言葉で追い詰める。自分の思うようにいかなくなると『社会からお前は必要とされていない』と、とどめを刺す。
自分は正常、あなたは異常。
そういう人たちが、解剖鬼は嫌いだった。だから、必ず相手の価値観は尊重するし、相手が対話を求める限り、できる限り答えようとする。
「その通り。君は、牧場から逃げだそうとしている乳牛なのだ。しかし、牧場から逃れる術を、他の乳牛は知らない。そもそも牧場の外という概念そのものがない。当然、君は助言や提案を聞いても受け入れられないか、実行できない。そんな自分にますます嫌気がさしていく。乳牛たちは乳牛たちで『私たちは正しい』という『安心』を得るため、君という異端を排除しようとする」
解剖鬼は、『牧場』という言葉を、怒りのこもった声で強調した。
牧場――すなわち社会。たくさんの人々の理性と感情が混ざり合い形成される、混沌とした何か。
解剖鬼が『敵』と断じる、数少ないものの一つだった。
「そのうえ、君は親から裏切られ続けている。だから『人はいつか裏切るもの』と考えているね」
「ええ。実際ぼくの人生はその通りのことが起こり続けました。最初はリスカを心配してくれた先生も、今では『切りたければ、切ればいいでしょ』って。最初は歩み寄ってくれた友達も、最後はみんな離れていきました。僕の先祖たちも、とっくの昔にぼくのことなんか見捨てていることでしょう」
ここだ。
孤独感を強めれば、未練が弱まる。
孤独感は人を、致死に至らしめる。
本当に孤立しているかどうかは、関係ない。ただ、本人に『自分は孤独である』と自覚させればいい。
そうすれば、自分の選択に、心の底から納得して逝くことができる。
救われるのだ。
「人には慣れという物がある。自傷は見た人を深く傷つける行為だ。繰り返される自傷を見せつけられた物は、理不尽な攻撃を受けていると感じるようになる。だから反撃するようになるのだ。その結果、君はますます追い詰められることになる」
「でも、切れば楽になります。切らないと、辛くて辛くて生きていけないんです。でも……もうわからないんです。こうまでして生きている意味が。死ねば、苦しみから解放されるんですよね。地獄に落とされたりしないですよね?」
男子生徒は、奥歯を噛みしめて、顔をしかめた。
解剖鬼は、ゆっくりと、床を滑るかのように、生徒へ歩み寄る。そして、どこまでも優しくささやいた。
「もちろんだとも。死後に罰されるというのも、乳牛の言葉だ。弱者が自分の身を守りつつ、他者への優越感に浸りたいという願いが生みだした、宗教という名の牧場。そこでのうのうと草を食って暮らす、乳牛の言葉だ。死ねば、確実に、苦しみから解放される」
「……お願いします」
「では、メスにふれたまえ。君の願いは、それで叶う」
そして、君の自殺は、他の誰かを救うのだ。
窓ガラスをぶち破って、何物かが教室へ侵入してきた。
「一つ、忘れていることがあるんじゃないかい?」
竜人だ。白ベースにうすピンクの体毛。背中から生えた翼と、しっぽ。すべすべの太ももに、ほっそりとした足首。
窓枠を蹴り、空中で足先を調整すると、こちらへ蹴りかかってきた。
「――人は成長するってことをねぇ!」
解剖鬼はメスをしまうと、両腕で顔面をガードした。が、受けとめきれない。背中で机の群れをかき分けながら、壁までふっとんだ。
馬鹿な。竜人だと!?
「どうしてこんなところに」
「知り合いが教えてくれたのさ」
「種族差別と迫害の嵐に心を病み、山に引きこもったお前が、なぜ人の味方をする?」
「そんなアタシに寄り添ってくれた人がいたからさ」
「ふん、運が良かったな。それより、マフマフよ。その少年に、成長を強要する気か? 周囲と自分を比較し、承認欲求に飢え、社会の生き残るためには『成長しなければならない』。すでに死ぬほど頑張っている彼に、さらに頑張りを強要するというのか?」
知り合い……白いドラゴンか。やっかいなまねをしてくれる。
「『成長しろ』っていってるわけじゃない。この子が『すでに成長し続けている』という事実に、目を向けろって言っているんだ。人が変わらないように見えるのは、ゆっくりと少しずつ成長しているからだ。そして、小さなゆっくりとした変化でも、積み重なれば大きな成長につながる」
「か、買いかぶりです」
小さい声で、少年が反論した。
マフマフはにやりと笑うと、言い返した。
「牧場と乳牛のたとえ話を思い出しな。自分の思い込みに気づいて、生きづらさの原因のうち一つを自覚して、新しい価値観に上書きしていたじゃないか。あれは、立派な成長だよ」
少年が、はっとした表情でマフマフを見た
「人生のどん底で、打つ手がないように思えることもある。それでも『人生に対する態度を変えれば苦痛を弱めることができる』って、自ら証明しているじゃないか」
マフマフは優しくうなずくなり、解剖鬼へ向けて牙をむき出しにして吠えた。
「それなのにてめぇは……この子を多くの問題で圧倒して『自殺しか解決法がない』と追い詰めた。心の視野狭窄を意図的に起こし、自殺へと誘導する。そんなの、自由意志でもなんでもない。ただの強制だッ!」
「お前の視点から見ればそうだろう。だが、状況に救いがないのもまた、事実なのだ」
「『てめぇが発見するまでは』な。発見したからには、公共機関に働きかけるとか、いろいろやりようがあっただろうが!」
解剖鬼は、「自己責任を強要する社会に、何が期待できる!」と返したくなったが、言葉を飲み込んだ。確かに法的な機関に通報すれば、彼を取り巻く環境は変わった可能性が高い。かといって、『彼が生き延びることによって生じる、不幸が生まれる土壌そのものを断つべきなのだ』と述べたところで、現実的楽観主義の彼女は納得しないだろう。
解剖鬼は、マフマフの『人は変われる』という点を攻撃することにした。
「成長に関してもそうだ、マフマフよ。脳の可逆性には限度がある。それに、恵まれた環境で育った子どもと、どん底の環境で育った子ども、成長難度の差は一目瞭然だ」
「わっちは、脳ミソについてはよく知らないけど……」
マフマフは自分の頭をトントン叩きながら、解剖鬼をにらんだ。
「脳の限界を知る術はないし、脳のちょっとした変化で人生が激変する可能性もあるだろう。あんたは、人の成長に関して悲観的すぎるんだよ」
そして、少年へ向き直ると、しゃがんで目線を合わせた。うなずきかけると、小さな声で語る。
「あんたは、やつれきって、もう生きていても仕方のない子だ。なのに、あんたは今立派に生きてる。すごい忍耐力と、向上心だ。その頑張り、その努力、誰にでもできるもんじゃない。どんなに優れたやつだって、もしあんたの同じ環境で生きていたら、刑務所に行っていたか、病院か、さもなくばもうこの世にいないだろう」
解剖鬼は、マフマフの背中へ声を浴びせる。
「しかし、彼は引き換えに、周囲の人と環境に対して、すさまじい憎しみを抱えている。憎しみにとらわれている限り、どんなに努力しても人は変わらない」
現に私もそうだった。
「『なんで自分だけがこんなにひどい目にあわなければならないんだ!』と、人を呪い、運命を呪い、神を呪い、全てを呪いながら死んでいくしかない。憂鬱で、八方塞がりで、息をするのも辛くて、希望もない。楽しそうな人を恨み、人の何十倍もの悩みに苦しむ。地獄で生まれた人は地獄で生まれる定めだ。今生き延びても後悔するだけだ。この不自由な世界で、生きる価値なんかない!」
マフマフがふり返った。表情こそ穏やかだが、握りしめた拳に力が入っていた。
「自由とは、自分の内なる憎しみの方向へ進むのか、愛の方向へ進むのか、一瞬一瞬選択することだ。生きるためのたくましい決断ができることを、人は、自由と言う。彼には、自分の憎しみを乗りこえるだけの、強さがある。過去の被害者や囚人になることはない」
マフマフは少年をかばうように立つと、拳を解剖鬼へ向けた。
「許しがたい相手を許すには、激しい怒りを解き放つ必要があるだろう。でも、この子は、相手を許し、自分を許し、成長できる力を持っているとわっちは信じている」
「何を根拠に?」
「根拠なんかない。自分がどこまで成長するか『わかる』ことなんかありえない。『わかりえぬ存在』としての自分を信じること、それが自信。『わかりえぬ存在』としての他者を信じること、それが信頼なのさ。あんたには、その両方が足りない」
「無条件に信頼すれば裏切られるだけだろう」
「裏切るか裏切らないか決めるのはわっちじゃない。だから、わっちがどうするかとは関係ない。わっちは、懐疑から前向きな関係が築けるはずがないと思っている。自分とも、他者とも。そして、わっちらは、相手とも自分自身とも前向きな関係を築くことをめざしてる。信じることと、疑うこと、どっちを選ぶべきかは、言うまでもないだろう?」
自分が傷つくことを覚悟してでも、相手を信じろというのか?
「『お前は河川敷で拾った』と言われ続けて育った苦悩。誰からも愛されないという絶望。胸を焦がす渇愛の衝動。誰も信頼できないという不安。貴様にはわかるまい。この子は、貴様とは違う」
解剖鬼は、コートのホコリを払うと、腰の鞘から片刃大切断刀を引き抜いた。大きくわん曲した刃が、ギラリと光る。
「確かなものが何一つないこの世界で、何を信じろというのだ!」
「確かなものが何一つないこの世界だからこそ、まず自分が信じるんだ!」
刃を大きく振りかざすと、マフマフに突撃した。マフマフも拳を腰まで引き、向かってきた。激突する寸前、解剖鬼の全身から力が抜けた。
少年の、希死衝動が、消えたのだ。
「なっ……」
「彼の、勝ちだね」
マフマフはこちらの両腕を掴み、巴投げしてきた。
教室の天井と床が交互に視界に入った。背中に薄い膜のようなものが当たって、くだけた。視界に入ってきたガラス片で、教室の窓ガラスだったことに気づく。
床に倒れたマフマフが、こちらを見ている。口が淡くかがやいていた。
次の瞬間、視界が灼熱に包まれた。
どこからか、声が聞こえてくる。
「あなたの期待に添えずごめんなさい。でも、あなたやマフマフさんのように、見知らぬ自分へここまで尽くしてくれる人がいる世界なら、もう少し生きてみようって思ったんです」
皮肉なものだった。自分が、彼に、成長のきっかけを与えたのだった。
それもよかろう。環境がそうさせたのだ。私にはどうすることもできない。あとは、マフマフをはじめ、彼の周囲の人に全託するしかない。良くも悪くも、彼を取り巻く環境は変わるだろう。
またしても自分の仕事を完ぺきにこなせなかった。自分があまりに無能・無力すぎて、生きるのが辛い。
解剖鬼は、あえて魔力による防御を弱めた。
「……皮膚が……溶ける……熱い……苦しい……」
現実の痛みは、不安や孤独、怒りや絶望感を断ち切ってくれる。傷ついた自分の肉体を見ると、現実感が戻ってくる。肉体の痛みの方が、精神的苦痛の何百倍も扱いやすい。生きているのが辛くても、自傷があれば楽になる。
校庭のグランドにころがった解剖鬼は、すがさず転移の呪文を唱えた。
「現実が変わらない以上、不快感を減らすしかない。痛みに逃げるのは仕方のないことなんだ」
臓器移植センターの一室で、ずる剥けた皮膚に、新たな皮膚を移植しながら、解剖鬼はつぶやいた。
削除予定
極限環境では、例外的に面談を介さず、即処置に移るようにしていた。面談している間に、患者がむごたらしく死ぬ確率の方が、高いからである。
小高い丘の頂上から、川のほとりにある町をながめていた。町中の戦略上の拠点には検問所が設置されていた。どの拠点も、もぬけの殻。軍人も、冒険者もいない。川から攻めてくる反乱軍のために設置されていたはずの、砲台も撤去されていた。
「数で負けると分かって、撤退したか」
一発の爆発音。しばらくして、立て続けに数回の破裂音。その十五分後、バババンと先ほどよりも大きな爆発音が鳴り響いた。川とは反対側。反乱軍所属の魔術師の軍隊が、偶然見かけた町人に、呪文をぶっ放したのだ。
誰か一人が悲鳴を上げたかと思えば、町全体に広がった。あらゆる建物から人々が走り出し、前にいる人を強引に押しこみ、転んだ人を踏みつけながら、散っていく。とある母親は息子を見失い、別の父親は娘の名前をさけんでいた。町中の人々の大切なものが、何もかも引き裂かれていく。
半円形の隊列を組んだ、魔術師の群れが町へ侵入していった。村の内陸側からだ。空へ向けて火炎を放ちながら。
町の人々は、駐屯地に積まれた土嚢の前で、茫然自失としていた。いまさら、軍が撤退したことに気づいたらしい。
「行くか」
町の人々は一斉に、爆発音と反対方向へと逃げ出した。川の水がしみ出して生まれた泥沼を、必死に渡る。もたついている人々は、容赦なく踏みつけられ、泥の中に沈む。包囲網が完成する前に、村を脱出する。それが、彼らに残された唯一の生存方法だった。
本当の地獄はここからだった。町から人を逃すまいとする魔術師たちが、人へ向けて呪文を放ったのだ。赤い光線が、横殴りの雨のように、人の群れへ突きささる。魔術師たちの目的は、町の女子どもを人質にとり、敵軍の介入を少しでも遅らせることだろう。
解剖鬼は、愛用の片刃大切断刀を片手に、まず沼地で脚をとられた人々を処置していく。
人は命が危険にさらされると、本能的に生存を望む。解剖鬼が狙うのは、生存欲求を絶望が上回った人々。自分がもう助からないと、理解してしまった人たちだった。
沼地を越えた先の草原へ向けて、魔術師たちが火球を、はじめとする範囲攻撃魔法をぶっ放している。黒焦げになった遺体や、炎で彩られた木の狭間を、人々が駆けている。
目が見えない、と全身水ぶくれでさけんでいる男。動かなくなった赤子を抱える血まみれの母親。しゃがんで父母の名を泣き叫んでいる少年、卒倒したり、吐いたりしている人々。
絶望した人を、片っ端から切っていく。
魔術師たちのうち何人かが、解剖鬼に気づいた。が、無視した。何をしようが無駄だと、理解しているのだ。
魔術師たちは、生き残った人々を町の中心に寄せ集めた。反乱軍の文様を刻印するつもりなのだ。刻印は住民たちにとって、死を意味する。反乱軍の刻印があれば、政府軍は容赦なく彼らを殺す。過激な一般人も同じ事をする。刻印をされたが最後、二度と反乱軍から逃げられなくなってしまうのだ。
解剖鬼はその間に、まだ町にかくれている人を探して処理。最後に、刻印された捕虜のうち、生存欲を希死念慮が上回った人々を処置した。
戦場のまっただ中で安楽死させる人数は、少ない。
今まさに自分が射撃されているとき、今まさに暴風に呑まれているとき、強制収容所に従事しているとき。一日三百グラム以下のパンと、ごくわずかの水のようなスープで生活しているとき。こういった、露骨に生命の維持に集中せざるを得ない状況では、精神生活全般が幼稚なレベルへ落ち込む。食べ物、ベッド、気持ちの良い風呂……素朴な願望しか抱けなくなる。
感情は喪失し、知人の遺体を見ても、何も感じなくなる。自分と仲間の生命を維持することに全力を注ぐため、それ以外に極端に淡泊になるのだ。どんなに辛いことがあろうが『やれやれ、また一日が終わったか』程度にしか感じない。
また、そういう『遅かれ早かれガス室に入れられる』ような状況では、人は希死念慮を抱かない。『近々死ぬのに、自殺する必要があるのか? めんどうではないか』。逆に絶望した人は、絶望に肉体が耐えきれず、病気への抵抗力が急激に低下し、病死する。年末から年始までの週に、強制収容所で原因不明の大量死が発生するのも、『年始までには家にかえれるだろう』という素朴な希望が打ち砕かれる事による。
そういう場合、自身に出番はない。
しかし、絶望的な状況を耐え抜き、ある程度安全な寝床と食料を手にしたときは、話が別だ。
一息ついたとき、人は、はじめて失った物を数える。その時はじめて、痛みと絶望を感じられるようになる。暇は苦悩を生む。苦悩は『生きる意味』を問う。生きる意味を感じられないとき、人は死を望む。ゆえに解剖鬼は、被災の現場ではなく避難所を、収容所ではなく収容所から解放された人々を襲う。
人は、死に意味を見いださなければ、希死念慮を抱かない。『死にたい』と思う人は『自殺』に対して、何らかの意味を見いだしている。彼らに死を与えることは、当人にとっての救いになる。生きる意味や価値を感じられなかった彼らへ、逆説的に意味をもたらすからだ。
そして、それを真の意味で実行に移せるのは、解剖鬼しかいない。
だから、殺す。殺して、その人の人生に意味があったと、証明するために。殺して、殺して、殺し尽くすのだ。
なんで、今、怒られているんだっけ。まったくあたまがまわらない。
なんで、この話になったのか、発端が思いだせない。
でも、とにかく、なにか重大なミスをしたのだ。そうだったはずうだ。そうでなければ、個室によびだされて、説教など、されはしない。
いつもかぶっているお面も、おきにいりのコートも、どこかにいってしまった。
「何かあったら相談しろと、言ったでしょう。どうして、素直にそうしないの!」
「すみません」
「いや、あやまるんじゃなくて……」
「じゃあ、どうしてほしいんですか?」
個室にいらだった声がひびく。相手は、眉間にしわをよせ「その程度のことすらわからないの……」と、ぼやいた。
わからないものは、わからないのだからしかたない。空気を読むどころか、まともに会話するのすらむずしいんだから。
頭の中に、さまざまな記憶がフラッシュバックする。
相づちのしすぎでいやがられ、相手の目を直視しつづけてこわがられ、何のまえぶれもなく話題をかえてしてしまって困惑され……コミュニケーション上のミスは、一通りしたのではないか、というほどのぼうだいな量の記憶。
「おい! 何ぼーっとしているの! あなたはいっつもそう。人の話を聞かない」
「すみません」
金切り声で現実にもどった。
頭が、もうそうと、心の声で埋めつくされ、相手の言葉の文脈すらわからない。
「あいづちはしないし、目はあさっての方向を向いている。口は固く閉じられ、対話するという気持ちが伝わってこない。私の、小学生の息子以下よ。まったく」
「すみません……あっ、ええっと、ところで何の話をしていましたっけ」
「もういい」
相手は、手をひたいに当てて、首を横にふった。
「すいません、察しが悪くて。今後は――」
なんとかとりつくおうとした。
しかし相手は、うんざりした様子で、手をかざしてきた。
「話を元に戻すよ。なんで、わたしに対して、自分の気持ちを言わないの。不満や悩みがあっても相談しない。『わたしに質問があったら聞くぞ』と何度伝えたと思ってるの!」
わからないからだ。何を自分がわかっていて、何がわからないのか。同じミスをくりかえす理由も。心の中を満たしている言葉にならないモヤモヤも。どうやって伝えればいい。
しかも、伝えたところでわかってくれるとは思えない。
「自分にも、よくわかりません。定期的にメモを見なおして、気をつけているんですが」
「でも、実際できていない。メモをとっても実戦できなければ、何の意味もない。まじめに解決する気があるのか」
「そう思われても、仕方ありませんね……」
相手は大きくため息をついた。
「何度も頭で台詞を考えて、伝えようとするんです。でも、いざ言おうとすると、緊張して、怖くなって、頭が真っ白になって、訳が分からなくなって」
「で、結局、我慢する方が楽だと、だまりこむの? 逃げるの? それとも何? 傷つくのが怖いの? あんた社会人よね。そんなわがままが仕事で通用すると思ってんの?」
「すみません、本当に、すみません」
勝手に自分の気持ちを決めつけられ、ひどく不快な気分になった。でも、まったくの正論なので、何も言えなかった。言ったところで、火に油を注ぐだけだ。
黙りこくっていると、相手はもう一度ため息をついた。さっきよりも長く、深い。
「また、だんまり? なぜ改善しなければならないか話した。反省ノートもやってる。ここまでやってるのに、同じミスは繰り返す。なんでなの? ちゃんと自分で考えてる? 正直、こんなタイプの人間ははじめてよ。これ以上、何をどうすればいいのか、私にもわからない。本当に、仕事続ける気ある?」
「とんでもありません。精一杯、頑張っているつもりです」
本音だった。こっちだって、相手にきらわれたくない一心でがんばっている。何とか期待にこたえようと、もがいている。少しでも気にさわらないよう、つねに全力で空気を読もうとしている。なのにできない。だから困っているし、悩んでいる。
「こんなことは言いたくないけど、今のままだと、どこいっても通用しないよ?」
「ええ。うすうす気づいています。前の職場でも、その前の職場でも、そうでした」
目の前が暗くなっていく。暗い暗い闇の奥底へ、落ちていくような気分だった。自分よりもはるかに上回る実力を持つ人が、『打つ手がない』と断言したのだ。人付き合いそのものを、あきらめた方がいいかもしれない。親に相談してもいつもどおり「仕事止めなさい」か「考えすぎ」としか言われないのだろう。
くやしいが、自分に才能がないなら、受け入れるしかない。
もはや、自分とかかわらない方が、相手も幸せなのではないか。
以上削除予定
個室にヒステリックな声が響く。
「私は、あなたのこと思って言ってるんだからね。あなたも本気で改善に取り組んで欲しいの。しかる方もつらいのよ?……分かってると思うけど、言われているうちが華だからね。無視されはじめたら、終わりよ? くりかえし言うけど、私は、本気で、あなたのことを心配しているんだからね?」
目に涙を浮かべて、相手は訴えてきた。
こんな自分でも見捨てないでくれている。どうにか、どうにか期待に応えなければ。
「わかり……、ました。そうならないよう……気をつけ……ます」
もう、どうすればいいかわからない。今も全力でがんばってるけど、さらにがんばるしかない。無理でも、やるしかない。
「頼むから、これ以上、私を悲しませないで? わかったならいい。今日はもう、帰って」
「あの、改めて、すみませんでした」
十数回目の謝罪をしたあと、職場である診療所をでた。
転職したところで、性格上また同じような問題をかかえるにきまっている。いや、そもそも就職先がきまるとも思えない。ほかで通用するはずがない。看護学校にかようためにした借金が、まだ残ってる。こんなところでくじけちゃいけない。今回が最後のチャンスなのだ。止めるわけにはいかない。
自分が、あまりにも、クズすぎる。
道行く人は、みんな自分よりも優秀だ。普通に生きるなんて、自分には無理だ。生きているだけで他者に迷惑をかけてしまう。だから自分は、他人よりも劣っている分、人の倍頑張らなければらなければならない。
しかし同時に、いくら頑張ってもどうにもならないことを、私はすでに知っている。
親におもわず同情してしまう。こんな子どもを産まされるとは、なんて不幸な両親だろう。50~80兆分の一の悲劇。
生まれて、すいません。本当に、すいません。
これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
死にたい、けれど死ぬと迷惑がかかる。失敗すれば、ばくだいな医療費が発生してしまう。成功しても、引いてしまった人は一生のトラウマになるだろう。でも死にたい。死ねば明日職場に行かなくて済む。吐き気とたたかいながら出社して、心が出血性ショックになるくらいボコボコにされずに済む。
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい……。
死にたいという言葉で頭が埋めつくす。死にたい死にたい死にたい……誰か助けて……。
自殺を決行したことに後悔はなかった。はじめて、自分の意思を貫き通したとさえ思えた。前後の記憶は消えていた。
顔を真っ赤に泣き腫らして激怒してくれた家族。自分のために働いてくれる先生や看護師、看護ヘルパーさん。病室を掃除してくれるクリーナーさんに、リハビリの先生。
私のことで泣いてくれる人がいる。私を生かそうとしてくれる人がいる。
皮肉なものだ。私は、昨日までの自分と決別できる強さと、支えてくれる人がいるということを、自殺を通して学んだのだった。
自殺は家族の心も、家族そのものも木っ端みじんになると、説明された。
生かしてくれたのは、家族の心だったのしれない。いや、自殺したこと、死ななかったこと、それは全て定められていたのかもしれない。
手足はおろか、声すらまともに出せない。二十四時間暇で、ときおり痰をチューブで吸引したり、おむつ交換をされたりする。
結局私は、みんなに迷惑をかけただけだった。家族に深い傷跡を残しただけだった。皮肉だった。家族へ迷惑をかけないのも、自殺を実行した理由の一つなのに。
私は自殺を美化していたのか。若くして死ぬ憧れがあったのか。それとも、悩み続けるのがめんどうになっただけなのか。
家族が自殺しようとしていたら、私は確実に止めていただろう。どんな手を使ってでも。
自分のこととなると、抱える苦しみで頭がいっぱいで、命を粗末にすべきでないという考え自体が、浮かばなかった。
「治療が辛すぎる。いっそ楽に殺して」
「そこを助けるのが、私たちの仕事なの」
希死衝動というのは、五体満足で何の障害もなかったからこそ抱けた、贅沢だったのかもしれない。そう思えるほど、治療はつらかった。
病院の人たちは、ありとあらゆる手を使い、全力で生かそうとしてくる。
ボロボロな私の身心を、手術と処置とリハビリとカウンセリングで、なんとか回復させてくれた。
『私のことなんか、みんなどうでもいい。死んでも悲しむ人なんかいない』。それは、私自身が生みだした妄想だった。お見舞いに来てくれた友人もいた。カウンセラーの先生は、どうでもいい話でも、目をあわせて真剣に聞いてくれる。
「私は、なんて視野が狭かったのだろう」
あのとき自分を追い詰めていたのは、両親含めてたった三人程度だった。その程度で、自分は自殺しようとしていた。
他の人にとっては、他愛のない出来事に思えるのだろう。実際、患者のカルテと比較しても、私の悩みは軽かった。頼りないとはいえ両親は、味方。仕事も逃げだそうと思えばいつでも逃げ出せる状況。少々当たりの強かった上司も、プライベートで偶然再会した時は、普通にいい人だった。
ほんの少し視野を広げれば、解決する問題だった──。
──そう思えたのは、退院するまでのことだった。
三ヶ月経ち、自殺による一時的なカタルシスが収まると、以前よりもさらに陰惨な心持ちになった。
ちゃんと生きている普通の人を見るたび、仕事や人生に正対する人を見るたび、脳裏に響く、呪いの言葉。
「お前の生きる場所はない」
「誰もお前を愛さない」
確かに、肉体は回復した。しかし、状況は変わらない。ごまかして生きられるほど、現実は優しくない。
「私なんて見捨てられて当然だ」
「今度もまた、みじめに捨てられるのだ」
両親とは再び絶縁。就職先で鬱を再発。
「一人で生きることもできない軟弱者」
「私は、お前が、大嫌いだ」
結局、自殺は何の役にも立たなかった。
大橋の上から、十数メートル下を流れる川を眺めながら、ため息をつく。
くるしい、くるしい。死ぬしかない。
ここから飛び降りれば、確実に死ねる。
実際、そのつもりでここまできた。
しかし、もう自殺する気にすらなれなかった。
「自殺未遂したあの時、眠ったまま目覚めなければ、私は死んでいた。死ぬということは、何も知らないでよく寝ている時と同じだ。地球上に生きている人間は、毎晩死んで、毎晩生き返っていると言っていい。死ぬという事は『命が生きていない眠り』で、眠るということは『命が生きている眠り』というだけの相違だったのだ。しかも、寝ている本人は、自分が生きていることも生きていないことも知らない。なのに、一方は楽しみ、一方は恐れる。おかしな話だ」
自分がおろかすぎて、笑えてきた。
死の感覚と、日々の眠りに、何の差もなかった。
死を、神聖なものとしてまつり上げていた自分が、馬鹿みたいだ。
なんということだろう。
死がいかなるものかを具体的に知ってしまった今、死ぬ理由すらなくなってしまった。
人は『生まれさせられた』という究極の理不尽にさらされ、『いずれ死ぬ』という究極の理不尽を課される、人生の奴隷だ。
人に生きる意味はない。同じように、人に死ぬ意味もない。
ただ生き、ただ死ぬ。そうして最終的にはみんな死ぬ。それだけだ。
人類は、徹頭徹尾、意味がない。
だから自分には、自殺する意味すらない。
あるのは、底なしの虚無のみ。
「だったらなぜ、自殺が許されない。苦しみの度合いは、当人の感じ方次第。当人が『死ぬほど辛い』と感じているのなら、文字通り『死ぬほどの苦痛』なのだ。生きることに意味がないように、死ぬことにも意味がないのであれば、死によって苦痛を取り去ることの、何が悪い?」
空っぽの胸中を、どろどろとした怒りの塊が埋め尽くしていく。
理不尽すぎるこの世界に対して、叫びだしたくなった。
「他人に迷惑をかけるからといって、自殺を断念せざるをえないのは、おかしい。こんな世界、間違っている。この世界に生きる一人一人が、安心かつ平等に、自殺できる機会が必要なのだ。誰にもできないのであれば、私がやる! 自分の命の使い道は、本人が決めるべきなのだから!」
では、何が自殺を止めるのか。不確実だからだ。苦痛を伴うからだ。周囲の人に多大な負担を強いるからだ。
「だったら! 周囲の人への迷惑を最小限に抑え、確実かつ安楽に死ぬ方法! その手段を見つけることこそ、私が成すべき使命なのだ! 何百年、何千年かかろうが、私はやり遂げてみせる!」
目頭に衝撃を受け、目を覚ました。ペストマスクの先端が、読み途中の本にふれていた。どうやら、臓器移植センターの書斎で眠ってしまったらしい。
時計と、診療予定表を見る。次の診療は午前三時半なので、まだ三十分以上もある。
懐かしい夢だった。生まれつき所持していた臓器を使っていた頃。看護師時代。死霊魔術師や妖狐といった、日陰の存在と接触する前。他人の臓器をつぎはぎして延命する以前。
あの頃の私には何もなかった。
今の私には全てがある。
死に値する患者とそうでない患者を見分ける知識。周囲の人への迷惑を最小限に抑え、確実かつ安楽に人を殺す薬とスキル。自殺者の臓器で人命を救う、技術と組織。魂尽きぬ限り動き続ける、不死の肉体。患者が希死を望む限り、誰にも負けない戦闘力。
狂気ともいえる執念の果て、ついに誰にもたどり着けない高みへと至った。
なのになぜ、こんなにもむなしいのだろうか。
息抜きに、深夜の街をあるく。昼間は騒がしい商店街も、ほとんど人がいない。かろうじて酔っ払いがいる程度だった。
街を歩いていると、光るものが目に入った。近づいてよく見てみる。定規だ。誰かが落としたのだろうか。
少し先に進むと、薬袋が落ちていた。一瞬、何の薬か気になったが、放っておいた。もし、違法薬物などで会った場合、やっかいなことになる。
次は錠前が落ちていた。その次は、乗り物の乗車券。丸まった新聞が前を横切ってきたりもした。さらには、道のど真ん中に、畳が置かれていることもあった。雨が降っていないのに水たまりもあったりした。
何か妙だ。
どこからか、女性のすすり声が聞こえてきた。
「死にたい……死にたい……」
解剖鬼は、その声の主を探した。しばらく道を進んだところで、一人のお嬢さんが顔を伏せいた。両手を顔に当てていて、表情はよく見えない。
「仕事ひとつこなせないなんて……死にたい」
解剖鬼はしゃがみこんで、彼女の顔をのぞき込もうとする。
「どうしたんだ。どれ、悩みがあったら話してごらん」
「ええ……」
お嬢さんは、ゆっくりと顔をあげた。
泣きはらした顔が……なかった。
「なっ……」
目があるべき場所、鼻があるべき場所、口があるべき場所。全てつるつるだった。かわりに、文字が書いてある。
<果たし嬢:決闘を申し込む。果たし場へ案内する。しばし待たれよ。イデアリスタより>
お嬢の顔の文字のインクがにじみ、顔全体を真っ黒に覆った。
「伸び縮む!? 身体がッ! 歪んで!?」
解剖鬼は、何の抵抗もできないまま、お嬢さんの顔に吸い込まれてしまった。
荒野にぽつんと打ち立てられた、夕暮れの街。赤土の日干しレンガで作られた廃墟群。
中央の広場につくと、上空から声がした。
「『果たし定規』、『果たし錠』、『果たし錠前』、『果たし乗車券』、『果たし定石』、『果たし浄水』……まさか全て回避されるとは」
「私は、好奇心よりも警戒心の方がずっと強くてね」
現れたのは、解剖鬼の十倍以上の背丈を持つ、人型のドラゴン。全身を、鎧を彷彿とさせる外骨格に覆われている。以前戦った個体とは違い、外骨格の色は黒だった。絞られた身体から発せられる威圧感は、神々しさすら感じられる。
「宇宙は生成発展を繰り返し、生命を作り上げた。素粒子や原子のままで留まらなかったのは、宇宙には森羅万象を進化向上させようとする意志が働いているからだ。宇宙の意識に逆らえば、必ず因果応報が下る」
「下らんな。私は私の真善美を実践しているだけだ」
腕や翼をおおう骨格も黒く染まっていたが、唯一眼光だけが白かった。
暁が黒い鎧に反射し、輪郭を赤く染め上げる。
「私はイデアリスタ。解剖鬼君。今からでも遅くない。考えを改める気はないか?」
相手の一言一言に、呪文でもかかっているかのような重圧を感じる。歴戦の戦士であっても、屈してしまうにちがいない。
しかし、解剖鬼には全く響かない。
「ない。生こそが苦しみで、死こそが救いなのだ。苦痛に満ちたこの世界で、理由もなく生きる必要はない」
「人生にはいくらでも、取り戻せる失敗がある。そこから何かを学ぶことが出来れば、失敗とさえも言えないかもしれない。しかし、自殺は違う。実行されてしまったら、そこからもう二度と戻ってくることはできない。苦痛回避の手段として、安易に自殺を用いることは肯定できない」
解剖鬼は首をかしげながら、肩にかかった黒髪を払った。
「だからといって、絶望的なまでに自殺願望が強い人に対し、何が出来る? 私は見た。戦争での心の傷を誤魔化すため、酒と薬を食らい、家族や友人との絆も失った男を。彼に社会での居場所はなく、生きる意味も見いだせない。生き地獄の中で、自殺未遂を繰り返していた。私が相手にしているのは、そういう人たちなのだ」
「我々にできるのは、自殺しようとしている人をせいぜい数日、数週間、数ヶ月間引き延ばすことだけかもしれない。しかし、希望を捨ててはならない。人間は、いつまでも成長を続けられる。同じように、人類もまた成長を続けられる存在。世界がいつまでも苦痛に満ちているとは限らない」
竜の外骨格に暁が反射して、キラリと光り輝いた。
「お前の言うとおり、世界は成長していると仮定しよう。しかし、それが実現されるのはいつだ? 期限の決められていない希望など、役不足にもほどがある。未来への希望は、寿命が迫るにつれ失望へと変わる。眼前の不幸から、目を背けないでもらおうか」
「現状の不幸は、理想を捨てる理由にはなり得ない。大切なのはまず、目の前の人に信頼を寄せること。その人の成長を、世界の成長を、信じることだ。お互いが信じ合えば、社会は、世界は、よりよく変化するはずなのだ」
またこれか。ドラゴンの社会は、信頼を基盤とする、共同体至上主義者の集まりなのだろうか。
「社会……世界……そんなのは私に関係ない。私はいつだって、誰か一人のために仕事をする」
「いや、大いにある。人がより他者を信頼し、思いやりを持つようになれば、貴様の言う『社会の病』は着実に減るはずだからだ。世界にはびこる病に対抗するには、目の前のことからはじめるしかない。まずは君自身が病から解放されなければ、どうにもならないだろう」
解剖鬼は、落胆のため息をつきながら言った。
「私達の過去を知りもせず、よくそんなことが言えるな。信じたいものを信じる選択肢は与えられなかった。遺伝子が……環境が……そうさせてくれなかった。身体にも環境にも恵まれたお前に、私達の気持ちなど分かるまい」
「私は数多くのいさかいを目にしてきた。貴様が語る理不尽は、確かに実在する。しかし、不条理を前にしながら、死に逃げるのは、起きてしまった悲劇を肯定しているも同じだ。ゆえに『可能な限り、自分自身の生を充足させるために、これからできることは何か』を考えるべきだ。そして、君が医療人なのであれば、『患者の尊厳とは何か。患者の生の充実とは何か』をつねに問い告げる義務がある」
「お前の語る言葉は、理想論ばかりだ。まるで現実を見ていない」
解剖鬼は、いらだちを隠さずに言い放った。
イデアリスタは全く動じずに、遠くに目をやった。
「そうかもしれない。山の頂への道は、はるかに遠い。私も未だ道半ばであり、未熟なまま人生を終えるのだろうとも思っている。しかし、道を求め歩くその姿こそ、道を得ている姿。生涯をかけて、人間を磨こうと歩み続けるその姿こそ、人のあるべき姿なのではないではないか。理想を目指して、眼前の課題に挑み続ける。それこそが人としての到達点」
「それは、お前の価値観だろうが」
「そうだ。私は自分の世界観を語ることで、君に変化をもたらしたかったのだ。私は、私にできることをしたつもりだ。私の働きかけに君が答えるかどうかは、私は関与できない。しかし、私は君のことを信頼している。君は、『変わることができる』と。だから語った」
「そうかい」
解剖鬼は、驚きを通り越して、あきれた。
「私はべつに、だいそれたことを要求しているわけではない。話を聞くだけでもいい。傷口を消毒して、薬を塗るだけでもいい。ただ、患者の生の充実のためにできることをしろと、言っているのだ」
「傷が起こりうる土壌自体が、私達には許せない」
「……君とは、話し合いで分かり合えると、信じている。頼む」
解剖鬼は、久方ぶりに力を解放する。何十年、何百年にわたってため込んだ魂の力――何千何万という怨念――を解放。
「では、最後に一つだけ言っておく」
「なんだ?」
「き さ ま で は 、 わ た し に か て な い」
致命一撃。
イデアリスタの左肩から右外腹斜筋にかけて、深々と傷が刻まれた。蒼い泡沫が吹きだし、天へ昇っていく。蒼泡は、見た目こそ違えど、人の血液と意味合いはそう変わらない。
手応えはあった。小手先の手段で防御できるような威力でもない。策を弄する暇もなかったはずだ。
「想定通り、想像……以上……ッ!」
イデアリスタは地面に落下し、膝をついた。
解剖鬼は、振り下ろした切断刀を鞘に収めた。
「人生、そんなものだ」
「ま、まだ……だ……」
「生まれさせられたという超理不尽にくらべれば、それくらいの理不尽、どうということはない」
解剖鬼は、獲物が死ぬのを待つハイエナのように、じっとイデアリスタを見つめる。
イデアリスタの外骨格のすき間から、赤い粒子が吹き出しはじめた。ゆらりと立ち上がると、咆哮。
「ヌォォォオ゛オ゛オ゛!」
イデアリスタの体から、幾本もの雷が放たれた。周囲の荒れ地にクレーターを作っていく。胸の傷がもりあがり、きれいに塞がった。
「……捨身の秘儀か。なぜ、そこまで私にこだわる」
「君の思想の行き着く先。それは全体主義、反出生主義といった、人類の活動を極端に狭める思想ほかならない。それを実現しうる力がある以上、野放しにするわけにはいかない。自由は他者への危害を加えない限りで、保障されるべきなのだから」
「その思想のどこが悪い。道徳とは『幸福を生み出す慈善と、不幸を減らす義務』。不幸の土壌を生み出す出生は、道徳的に見て超越悪。不幸の土壌を減らす自殺幇助は、どう考えても善だ。親の身勝手で産み出された我々を見ろ。こんな自由、認められていいはずがない」
「穏やかとはいえ、人類を滅ぼすつもりか?」
「昨日まで人類が存在していたからといって、存続させ続けることが正しいとは思わん」
イデアリスタは、神速で解剖鬼へ突進。
「交渉決裂。これも天の采配か」
飛行するだけで、超高熱を放出。あらゆる物質が溶解。金色の液体と化す。続く衝撃波で、霧散する。
打撃を打つ度に核魔法が発動、大爆発と共にあらゆる生物を即死させる不可視の毒が拡散する。
なのに死なない。
全力の正拳を、みぞおちに叩きつけた。余波で解剖鬼の後方が、真っ赤に染まったあげく消滅。
何もなくなった地平、小さく何かが立っている。暁を浴び、鈍く光るペストマスク。
死なない。たった一人で万を越える文明を殲滅してきた、イデアリスタの攻撃を受けて、死なない。
イデアリスタは口の中に限界まで魔力をためた。臨界点に達すると同時に発射、相手の真横へ転送。
不意を突かれた解剖鬼は、光の束の中へと消えた。
原子レベルで崩壊、消滅させる光線の直撃を確認。なのに、消えない。
覚悟を決めたイデアリスタは、祈りの言葉を口にする。
「――何が起こったかが、人生を分けるのではない。どう解釈するかが、人生を分ける。私は、おおいなる宇宙が私を育てようと、この逆境を与えたと解釈する」
イデアリスタは連射する。しかし、何度攻撃しようが、暁に立つ影が消えない。
「――成功は保証されずとも成長は確約されている。故に、不運不幸も私に大切な事を教えてくれる出来事であり、成長の糧」
逆に、最強の光線は、解剖鬼の一振りでかき消された。
余波で胸に傷を負ったイデアリスタは、口から赤い泡を吐いた。
「――私は、生命が尽きるその瞬間まで、成長し続ける。高き……」
最後まで言うことができなかった。一瞬にして全身の鎧をズタズダに引き裂かれた。超高濃度の魔力を伴った刃による斬撃は、再生能力をはるかに超えている。
イデアリスタは距離をとった。
「……高き頂を目指し登り続けるときこそ、最高の一瞬を生きているのだから!」
解剖鬼が無意識に使っている力。
『理不尽返し』。理不尽への憎しみが産んだ、絶対報復能力。受けた理不尽を、さらなる理不尽でやり返すという、シンプルな技。
「クックック……」
焦る相手に対して、解剖鬼は半ば勝利を確信していた。
さすがにちょっとばかし傷ついたが、たいしたことはない。熱も打撃も、見た目が派手なだけのこけおどし。
イデアリスタは空へと飛び上がった。
「何度打とうが、私は倒せんぞ?」
黒竜が呪文を唱えると、敵の気配が増える。その数、10。何もいなかったはずの空間が揺らぎ、何かが実体化した。
それは、本体と全く同じ姿だった。
「は?」
召喚された分身たちが口を大きく開いた。魔力が青白い光の粒となって可視化。粒子たちが集まり、光の球となる。球は粒子をため込み続け、どんどん光を増していく。
「まてまてまてまて……」
ビリビリと大気がふるえ、地響きのような音が聞こえた。そのうえに、バイオリンが奏でる低音のような音が被さる。音階が急速に上がっていき、やがてキーィィイイイという聞くのも恐ろしい音になった。
イデアリスタ本体も、大きく翼を伸ばした。翼が淡く光ったかと思えば、口を開いた。どこからかあらわれた光の帯が、口元に集中。魔力が高まるにつれ、稲妻が周囲を駆け巡った。周囲の大気中の魔力濃度が閾値を超え可視化、ドラゴンを中心に半径数百メートルが淡くかがやく。それでもなお、光帯を吸収し続ける。
「時間を稼げ、分身たちよ!」
分身たちが放った光線が、シャワーのように降り注いだ。最初の一発目が地面に直撃。まるで小規模な火山の噴火のように、炎と、赤熱した石や岩が混じり合った柱が、立ちのぼった。遅れて黒い煙が立ちのぼる。耳に響く爆発音と、衝撃波が肌を打つ。
「熱は防げたが、これは!?」
一発一発が街を消し飛ばすレベルの砲撃であり、それが絶え間なくぶっ放された。廃墟たちは一撃で破壊され、雲の上まで打ち上げられた破片が、次の砲撃で消滅していく。
解剖鬼は空へ打ち上げられた。見下ろすと、大地が裂けマグマが吹き出していた。
「ぐぉおおおお!?」
全身を襲う衝撃は、もはや痛みとしてすら認識されない。
意識が自分の肉体を離れ、見下ろしているかのように錯覚する。壊れた人形のように、ぶらぶら揺れる自分の体が、目に浮かんだ。起きているのに夢の中にいるようなふわふわした感じになる。身体が自動的に動き、感情や感覚が自分の事じゃないように感じられた。
「この程度の理不尽ッ!」
イデアリスタはこの星ごと、解剖鬼を消すつもりだ。
さすがの解剖鬼も、この砲撃を耐えきる自信はない。しかも、この砲撃は最終攻撃力上限までの時間稼ぎでしかない。
攻撃を中断させようにも、飛べない解剖鬼には手を出せない。
「せめて、足場さえあれば……。そうだ!」
解剖鬼はブーツに魔力を込めると、光線の爆発を利用して跳躍。光線が消える前に足場にし、大きく跳躍。また次の光線を見つけ、足場にしてさらに跳躍。それを繰り返し、イデアリスタ本体の目と鼻の先に到達。
イデアリスタの口の中で育った光帯の塊は、もう一つの太陽がごとく、強烈な光をまき散らしていた。周囲の景色は陽炎のように揺れ、空気そのものが振動している。
解剖鬼は、解剖刀を手に、真っ正面から挑んだ。全身に『魂の力』をみなぎらせ、衝撃に備える。
「さらばだ、解剖鬼君!」
イデアリスタが放った光は即消滅してしまった。
「なっ!?」
かわりに黒球が現れた。すさまじい引力で吸引してくる。
「戦闘を避け続けたがための経験不足。それが君の敗因だ」
解剖鬼は、渦に巻き込まれた小舟のように、クルクルと回転する。抵抗しようともがいたが、イデアリスタの分身たちが羽交い締めしてきた。
「は、放せっ!?」
「飛べない。射程の長い攻撃手段を持たない。傷つかないが、衝撃までは軽減できない。強制転移系の呪文に弱い。これまでの戦いで全て、分析させてもらった」
わけのわからない場所から、わけのわからない場所へ転移させられたら、さすがの解剖鬼も帰ってこれる保証はない。
「希望に添えず申し訳ない。お互いにとって最良の別れを目指し、不断の努力を傾けたが、どうやらこれが私の限界のようだ」
「バカな、善意だったのか……!?」
「善意も悪意もない。私はやるべき事、成すべきことを、一つずつ実行してきただけだ。……あと、私にできることは、祈ることだけだ。『君に幸あれ』と!」
「せめて、私を……憎んでくれぇぇえええ!!!」
「ああ、素晴らしい人生であった……」
解剖鬼の姿が消えると同時に、イデアリスタも帰霊した。
真っ暗な空間の中に、魔女のコスプレをした子猫の獣人、ミミコッテがいた。
「いよいよね」
決戦前ミミコッテは、遥か昔を思い出していた。
とある建物の屋上。
「あなたのなやみを言ってごらんなさい。ニャニャンと願いをかなえる、ふしぎ魔法具をおゆずりするわ! お値段はもちろんタダ!」
「行きたい場所がある」
「そんなときは<テレボード>! 乗って念じれば好きな場所へ行ける、魔法のボードよ! じゃあいくわよ――あなたのラッキーくださいニャン♡」
ミミコッテが中指をパチンを鳴らすと、女性客の体が淡い光に包まれた。光は人差し指と、親指のあいだに収束。金色に輝く、タネのようなものに変化した。
「では、お品ものをどうぞ! ご購入ありがとうございました! えっ……!?」
<テレボード>に乗った女性客は、空中に瞬間移動したかと思えば、自由落下していった。
「嫌ぁぁああああ!!!?」
「今でも覚える。あなたはアタシの魔法具を使って、自殺した。『生きることに意味はない』って言い残して。アタシったら、何が起きたかもわからず、呆然としてたっけ」
全てを受け入れる覚悟がない限り、絶望している人に寄り添ってはならない。
半端な善意は、結果的に当事者を傷つけることになるから。
客との出会い自体をなかったことにしたのは、最初で最後だった。
「頭からピンク色の物を垂れ流すあなたを見た。身も凍る絶望の中、気づいた。アタシたちは、ほかのいつでもない今、この世界、この時代、この時、この国の子の場所に、気づいた時には選択の余地なく定め置かれていた。恣意的な『意味』があるとしか思えない。この理不尽な苦しみにも」
三角帽子に手を突っ込めば、『幸運の種』を一粒取り出した。
目の前に撒くと、あっという間に花が咲き乱れた。種を撒きつつ、光る花を頼りに、虚空を歩む。
「アタシたちひとりひとりには『意味』、言い換えるなら『為すべきこと』『果たすべき何か』が待っている。息を引き取るその時まで。瞬間瞬間の『意味』を発見して、答え続けることへ没頭すれば、一瞬一瞬が充実して、生きる意味なんて問う必要すらなくなるはず」
これを信念にして、ミミコッテは数多の人を救ってきた。
「アタシたちの人生は一度きりで、一日一日が、一瞬一瞬が、この世界で一度きりの機会。アタシたちが唯一無二である以上、どんなに優れた人であろうと、代わりになることはできない。一度きりの機会が実現しなかったら、その機会は永久に失われてしまう。自殺と、自殺ほう助だけは、絶対に認められない」
真っ暗な空間に、解剖鬼はただよっていた。上も下も右も左も分からない。
解剖鬼のコピーは、本体が死ぬか、本体と交信できなくなって一週間以上経った場合、事業を撤収するよう設定されている。社会への影響を極力抑えつつ、臓器移植センターはじめ、関連施設をたたみ、任務終了次第カタンコブへ帰投しているはずだ。
「いつの時代、どこの国でも、希死念慮は存在する。私を求める患者たちの『魂の声』が、道なき道を照らす光となる。私を待つ者がいる限り、私は不滅だ。何度でもよみがえる」
クックックと虚空で一人笑っていると、何物かの気配がした。
奥から、蛇のように何かが近づいてきた。いろんな色が混じっているようだ。光源がないのにも関わらず、とても明るい。
「あれは、花?」
正体は、花で出来た道だった。次々新しい花が伸びて、こちらに迫ってくる。
解剖鬼の元へたどり着いた。すると今度は、解剖鬼を中心に、円上に花畑が作られていった。
花は色とりどりで、種類もバラバラのようだった。視界に入る花たちだけでも、解剖鬼が知る全ての花が収まっているように思える。
そして、花道をたどって、一人の御仁が歩いてきた。背がひくく、子どものようだ。三角帽の後ろ側を貫くように、猫耳が生えていた。
「ずいぶんお疲れのようだが」
「あなたの願いを叶えるふしぎ魔法具屋、ミミコッテよ! ふぁ~。さすがの私もこの距離を移動するのはきつかったわ。<ハナミチ>を作るのに、ずいぶん幸福のエネルギーを使っちゃったわ」
魔女服に身を包んだ、子猫の亜人だった。
「ミミコッテだと? まさか、私にとどめを刺しに来たのか?」
「違うわ。願いを叶えに来たの」
ミミコッテは、帽子の中をガサゴソとあさると、何かをとりだした。ミニチュアのベンチだった。ミミコッテが放り投げると、一瞬で実寸大に変化した。
「さ、すわってお話でもしましょ」
ミミコッテはベンチに座ると、隣をポンポンした。
「<果たし状>シリーズはお前の商品だろう。何が目的だ」
「あなたの、本当の願いを叶えるためよ」
「私の願いは、一人でも多くの患者を処置することだ。それ以上でも、それ以下でもない。願いを叶えたいのなら、さっさと私を元の場所へ返してくれ」
「アタシの花を最後まで聞いてくれたら、考えないこともないわ」
「……わかった」
今は彼女が唯一の生命線だ。ここはおとなしく相手の指示に従うしかない。
「まず、あなたは何で『遺伝と環境が全て』って断言するの?」
解剖鬼は、立ったまま想起する。
「早回しの時計を見ながら、スイッチを押す実験をした。被験者には自由意志でボタンを押そうと思った瞬間、時計の針がどの位置にあったかを正確に覚えておくよう依頼した。脳波を測定した結果、本人が意思を持った瞬間よりも、0.35秒脳波の方が早く反応した」
コピーに観測させ、本体が被験者役を担当。論文の結果が、あまりにも気に食わなかったので、自分で実験したのだ。
しかし、結果は同じだった。
「脳が無意識に動き出し、その後、動かそうとする意思が形成され、最後に手が動く。意思が形成されるよりも先に、脳は動いている。人間の行動は環境との相互作用で、自動的に反応行動をとっているだけだ。意思には行動を変えるだけの力はない。遺伝と環境で人生は決定するのだ」
納得できなかった解剖鬼は、さらに別の論文を探した。が、目につくのは目を覆いたくなるようなタブーばかりだった。
「他の研究結果を挙げようか? 才能は遺伝する。音楽の才能に至っては九割だ。IQは七割。勉強をはじめ、努力できるかも遺伝で六割決まる。努力は環境で三割決まるともされるから、本人にどうにかできるのは一割程度だ。ありとあらゆる努力は遺伝に勝てない」
ミミコッテは、適度にうなずいたり相づちをうったりしていた。さすがは営業なだけあり、聞き上手だ。
化けの皮を剥いでやる。
「次に、実際にあった、具体例を挙げよう。私の患者の一人で、猫を虐待するクセのある男がいた。彼に大人のエロティックな画像を見せて絵も、外側前頭前皮質と海馬の活動レベルが低かった。脳の活動レベルで、彼は大人の女性に興味を閉めさない、興奮しない。しかし、猫を虐待するときに脳は活発化する」
猫のパーツが敷き詰められた瓶詰めを見たときは、さすがの解剖鬼もおどろきを隠せなかった。
顔が少し引きつったが、ミミコッテは傾聴の姿勢を崩さなかった。
「これでは、本人の意思で興奮しようとしても無理だ。遺伝子レベルの欲求で、猫を殺したがるのだから」
「悲惨ね」
「そうだな。残念ながら、更生に要求される脳の変化のレベルは、本人に実行可能なレベルのはるか上を行っていた」
解剖鬼は、犯罪者の例を他に数例上げてから、まとめに入った。
「多くの人はたまたま『普通』だったから社会に適応できただけだ。彼らは偶然『異常』だったから、自殺を選んだ」
更生しようにも、先天的な才能がないために、更生の努力をすることすら出来ない者たちもいた。できない努力を強制され、理想と現実の差に悶絶し、潰れていった人は、一人や二人ではない。
「遺伝子はより多くの遺伝子を残せるようプログラムされている。一人一人の幸福より、多様性を望む。人はみな、幸福をめざすが、幸福になるよう作られてはいない。不幸が生まれるのは必然だ」
だからこそ、自分のような存在が必要なのだ。
解剖鬼は、自分がいつの間にか、ミミコッテの隣に座っていることに気づいた。
「たまたま社会に適応できない脳みそに生まれたり、環境に恵まれなかった人にとって、この世は理不尽で、不条理で、地獄だ」
解剖鬼は、さらに語った。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦……。これまで他の患者や、敵対した者たちに語ったように。
自分でもおどろくくらい、饒舌だった。
その間、ミミコッテは目を背けなかった。
解剖鬼の語りが調子に乗っているときも、調子が悪いときもあっさりとうなずちを返した。一喜一憂せず、同情しないが突き放しもしない。ダメなことはダメだと譲らず、安易な受容も共感もしなかった。
こちらの心理的な揺さぶりにも一切応じない。傷を告白して関心を引こうとしたり、気持ちを試すためにあえて困らせるような物言いをすると、それとなく話を遮った。
解剖鬼と対面する者のほとんどは、正気を失う。しかし、ミミコッテは例外だった。どこまでも冷静に、一貫性をもって接してくる。
そんな彼女に、解剖鬼は強く惹かれた。
「私は、こんな世界で、自殺したいと感じるのは、至極まともであると思う。自殺することの何が悪なのか、私には分からない」
全部聞き終えたミミコッテは、ニコッと笑った。
「あなたは、とても頑張っていろいろ考えたんだと思う。尊敬するわ! ってことで、はい! サンドイッチ!」
「あ、ありがとう」
困惑しながら解剖鬼は受け取った。顔を背けるとマスクをづらし、バクバクとサンドイッチを食らう。
「そのうえでね、あなたの言葉の根底を突き詰めていくと『人生に意味はない』、『人は変われない』、『自分は誰からも愛されない』という根拠のない願いのようなものに着地すると思うの。無意識に、これらが正しいということを前提として動いている。そのうえで、意思が後付けで、理由を探したように思えるわ」
サンドイッチの味はほとんど感じることができなかった。
それでも、腹がふくれて、少し気分が落ち着いた。
礼を告げてから、反論する。
「根拠はあるさ。私の患者は、相応の絶望的な環境で、相応の挫折体験をしている真っ最中だ。自分には欠点ばかりで、過去にしてきたことは失敗だらけだと思っている。そのうえ他人も信用できない。そんな状況で、未来に希望が持てるはずがないだろう。解決できない問題、耐えがたい苦痛から逃げるのに、自殺という選択肢は実に合理的だ」
「未来っていうのは、今の状態の次に起きる確率が高い変化を、脳が『予期』したものでしょう」
「予期?」
聞き慣れない言葉に、解剖鬼は首をかしげた。
「あなたに合わせて、科学的な説明をするわね。地面に落ちたリンゴを見て、脳はまず『似たようなリンゴの記憶はないか』と検索を開始。引き出された記憶を元に確率の計算を行って、『このリンゴは木から落ちたのだろう』といった過去をまず『想起』するわ。さらに、脳は過去を元にして、次に起きそうな出来事の確率を計算しはじめるの。そして、最後に『いずれ、このリンゴは腐るだろう』というような未来を作り出すの。これが『予期』ね」
「待て、それでは過去も未来も脳内で作り出された妄想ということになってしまうではないか」
ミミコッテは、『理解が早くて助かるわ!』といわんばかりに、激しくうなずいた。
「人が本来認識できるのは、今の変化だけで、そこにあなたが『時間』の概念を後から当てはめただけなの。あなたの言う『過去のトラウマ』や『不幸な未来』っていうのは、脳内で作られた妄想に過ぎないわ。だから、根拠がないっていったの」
想起は誤っている可能性がある。リンゴは木から落ちたのではなく、誰かの手で置かれたのかもしれない。あるいは動物が運んできたか。呪文で作られた幻影の可能性すらある。
予期も誤っている可能性がある。リンゴは腐る前に動物に食べられるかもしれない。踏みつぶされるかもしれない。人が拾い上げて調理されるかもしれない。
遺伝子と環境による無能を叫びながら、無能であるはずの己の脳の演算を絶対視している。
これでは、矛盾の塊ではないか。
解剖鬼は、デザートのリンゴを食べながらブツブツとぼやく。
「過去は、今の状態の前に発生した確率が高い変化を脳が、演算した結果。未来も、脳が未来に起きる可能性が高い変化を、脳が演算した結果。未来も過去も、実在するわけではない。今だけが存在する……」
考えこむ解剖鬼に、ミミコッテはどこまでも優しい口調でささやいた。
「そう。人は過去に関係なく、どう生きるかを選べるの。過酷な現場に出入りするあなただからこそわかるはず。人間は、ありとあらゆる自己実現の道がたたれたとしても、人生に意味を見いだす人がいる。人には、絶望のどん底からでも、這い上がる力がある。一見、ひ弱な人ですら、ね」
収容所でひたすら耐え抜いた人々や、戦地を逃げ回りそれでも希望を捨てなかった人々を、思い出した。彼らの中には極限環境に晒される前よりも、晒された後の方が、むしろ心の状態がしっかりしていることもあった。死ぬ間際、高次の納得にたどり着いた人さえいた。
強制収容所での生活を『生きていることにもうなんにも期待がもてない』と意味づけして狂死した人もいた。反対に、『運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんだもの。以前、何不自由なく暮らしていたとき、わたしは甘やかされて精神がどうこうなんて、考えたことがありませんでした』と語り、安楽死を拒否した人もいた。祈りを捧げながらガス室へむかった姿は、今でも脳裏に焼き付いている。
先天性疾患で、一週間も生きられない幼児もいた。彼らは、それでも、必死に生きようとする。
ミミコッテの言葉を、否定できない。
「あなたは生きていく中で多くの不幸を感じたから、世界にはびこる不幸の存在をリアルに感じ取れる。だから、未来に希望はない、と信じてる。アタシは、幸福な体験を積んできたから、世界を包む幸福の存在をリアルに感じ取れる。だから、未来に希望はある、と信じてる。そしてお互い、世界は、幸福だけでも、不幸だけでもないと、知っている」
互いが信じる未来とは、お互いの脳で作られた虚構でしかない。本人の脳の中にしか存在しないために、比較することすらできない
「もしあなたが『人生に意味はある』、『人は誰もが自らを変える力を持っている』、『誰からも愛されないことはない』ということを前提に理由を探し求めたら、全く違う結論になったはず。どちらが真実かは、アタシたちにはわかりっこないけれど……どうせならアタシは、楽しく生きられそうな考え方を信じたい。あなたの言うとおり、人間の性質が『幸福の追求』と『不幸の回避』――言い換えるなら『自分自身の生の充足』であるなら、そっちの方が、合理的だとアタシは思うの」
それでは、私は『絶望すること』を無意識に選び、絶望するための理由を後付けしたのか? 絶望的であることを、自らが望んだというのか?
幼少期、病で死にかけて、親が頼りにならないと知った。学生時代に三度経験したいじめで、大人でも解決できないことがあると悟った。自殺ほう助を試みたが、殺人罪で起訴され、社会という名の化け物に屈した。
今となっては、何がきっかけだったかはわからない。幼年期に感じざるを得なかった無力感。それを無知ゆえに絶対視し、無意識のうちに人生全体へと適用した。その結果、『人生は絶望的である』という、根拠のない前提が生まれた。
この仮説は、とても説得力のあるものに聞こえた。
「結局お互い、『理屈抜きの感情』で、『自分はどうすべきか』を考えてるの。……言葉のやりとりが限界に達するところに来たわね。もう、議論は意味をなさないわ。あるのは行動だけね」
自分が今、とても追い詰められていることに気づいた。
幼少の頃、無意識のうちに、根拠もなく信じた絶望が、人生に対するむなしさの原因。
ならば、今この場で、意識的に、根拠もなく希望を信じると、決断すればいいだけだ。
それだけで、全てが解決してしまう。
「クックック。……そうか。それができないから、私は、私なのだ」
久しぶりに、心の底から笑った気がした。
「君の考えは正しい。私が、君と同じ人生を送ったら、同じ結論に至るだろう。結局のところ、どちらが思想として正しかろうが、それを日々の生活でどこまで実行し、人生をどう生きるかは、脳と環境の相互作用で決定される。そして……私は君ではない。君の正しさは、私の正しさではない」
「あなたの正しさも、アタシの正しさではない」
「どちらが正しいかは、戦いで決めよう。私たちには、それが必要だ」
「え、なんで?」
ミミコッテは、首を伸ばして、目を見ひらいていた。演技には見えなかった。
「……本当に私を殺しに来たのではないのか?」
「何でアタシがあなたを殺すの?」
<ドッペル・ミラー>のように、こちらの分身を生みだすような魔法具を出せば、一瞬で勝負は決まる。
解剖鬼自身の希死願望も、患者に負けないくらい強大だ。作り出された分身は、間違いなく自分を安楽死させようとするだろう。解剖鬼の力は、殺害対象の希死念慮に比例する。本体と分身が戦った場合、まず本体は負ける。
「信念が揺らぎ、弱体化した。今の私には、お前の魔法具を無効化出来ない。二度とないチャンスだぞ?」
「あなたを殺すチャンスじゃないわ。あなたが変わるチャンスよ」
「てっきり、『患者に散々寿命を語っておいて、今更自分だけ逃れようとはしないわよね』とか言って、とどめを刺すのかと思っていた。私は、社会に存在してはいけないのだからな」
「遺伝子と環境が悪いのなら、あなた自身はべつに悪くないでしょう?」
「し、しかし……」
「あなたのしたことは社会的に見れば確かに重罪よ。償う必要もあるかもしれない。でもね、他の人だって貴方と同じ状況ならそうするかもしれないし、もっとひどいことをしたかもしれない」
「う、うぅむ……」
「いいじゃない。あなたは誰かの役に立とうと、人の何十倍も悩み続けた。他人の苦痛を少しでも減らすために、一生懸命働き続けた。それもまた事実でしょう?」
今まで、こんなことは言われたことがなかった。
解剖鬼は、おもわず腕を組み、震える手を隠した。
「でも、たくさんの人が私のことを悪人だと断言してきた」
「人から何を言われても気にしちゃダメよ。アタシは一生、貴方の味方だから、気にしないで」
一生なんて言葉を軽々しく言うな! と反論しようとした。できなかった。彼女は本気だ。百人以上の人の生の死亡現場を見てきた解剖鬼の経験が、そう告げていた。
「だったら、この場所から私を出してくれ。大勢の患者が待っているんだ。一人でも多くを助けるために、私は行かなければならない。自殺ほう助は、唯一許された自己表現であり、無意味な人生に見いだした意味であり、存在意義なのだ。行かせてくれ」
「……残念だけど行かせられない」
立とうとした解剖鬼を、ミミコッテは制止した。
「なぜだ」
「今のあなた、とても辛そうだもの」
解剖鬼は、自分が涙していることに気づいた。
「そうか。私自身は、やりたくなかったのか……」
「ここなら、誰からも襲撃されないわ。仕事も一区切りついたんでしょう? 少しくらいここでゆっくりしていても、いいじゃない。もう十分、貴方は頑張った。ちょっとくらい休んでも、誰も責めはしないわ」
あれ、休むって何だったっけ?
首を傾げる解剖鬼に、ミミコッテは続けた。
「目的を持たず、だらだらしてても、いいじゃない。今日一日、こうして生きているだけで、十分だと思わない? 生きるのがどんなに大変かって、あなたが一番よくわかっているでしょう? あなたと同じ人生を他の人がたどったら、ほとんどの人はここまでこれなかったと思う。あなたは、ここに立っているだけで、たいそうなことなのよ」
「そうだな、生きるのは、辛い。生きるのは、大変だ」
「そうそう! だから、あなたはエラい! エラいから、休んでもいーの!」
「そういうものなのか?」
「細かいことは気にしない」
どんなに考えても、解剖鬼は休むという概念が思い出せなかった。
「……すまない。その、休むって、何だったかな。……私は、何をすればいい? どうすればいい?」
「口で説明するより、実際にやってみましょう! じゃあ、アタシの言うとおりにして。まず、上着を脱いで」
ミミコッテは、自分の太ももをポンポンした。
解剖鬼はボタンをはずし、コートを脱いだ。白いワイシャツとグレーのスラックスがあらわになる。
「ベンチに横たわって、ここに頭を乗せるの」
「こうか?」
「そうそう、そんな感じ」
マスクの先端が当たらないように、解剖鬼は横たわった。ミミコッテの太ももは柔らかく、むにゅっとしていた。血の通った暖かさが、そこにはあった。
「アタシの顔マネできる? マスクの中でいいから」
目を細めている。目尻にはややしわが寄っていた。眉毛は緩やかなハの字。口角はやや上がっており、八重歯がチラリと見える。
記憶をたどっていくと、どうやら母親が子どもへ向ける笑みに似ていた。
「一応、マネしたが……」
「その調子! じゃあ、全身の力を抜いてみて。筋肉一カ所ずつに意識を向けて、順に力を抜いていくの。身体がイメージで」
「こうか?」
「うん、ゆっくり呼吸して。呼吸に集中して」
深呼吸する。5秒吸って5秒吐く。この繰り返しだ。
「アタシに身をゆだねて。気をつかわなくて良いから」
ニコニコしながら、ミミコッテはペストマスクの額に手を当てた。
身をゆだねる? さらに力を抜けと言うことか? とりあえず、頭がずーんと沈むようなイメージを浮かべる。
「そう、力を抜いててね」
ミミコッテは、マスクに乗せた手をそーっと、後頭に動かしてきた。
「ごめん、おどろかせちゃった?」
「い、いや。大丈夫だ」
再び力を抜く。すると、ミミコッテは、頭の上から後頭にかけて、ゆっくりナデナデを始めた。くすぐったい。長年ふれられたことがない場所を触られているので、妙な気分になる。
「すまいる、すまいる!」
「おっと、そうだった」
ミミコッテは、なでながら「どう? 気持ちいい?」、「かゆいところ、ある?」と聞いてきた。まるで美容院じゃないか、とぼやくと、ひまわりのような笑みを浮かべた。
しばらくして、ミミコッテがつぶやいた。
「いいじゃない。今のあなた、リラックスしてて、とってもステキよ!」
「そうか?」
「うん。だから、もっとアタシに甘えて?」
「……わかった」
お世辞でも、悪い気はしなかった。
ミミコッテは、帽子の中から白いストールをとりだした。こちらの体にかけ、「にゃはっ!」と笑った。
「いつまで、こうしていればいい?」
「心の底から、満足するまで」
「長くかかるぞ?」
「時間はたっぷりあるから安心して!」
ミミコッテは、そう言いながら大きくあくびした。
「すまな――」
「ありがとう!」
言い切る前に、訂正された。解剖鬼は、ふっと吹きだしてから、言葉を言い直した。
「――ありがとうな、ミミコッテ。こんなところまで来て、こんなにめんどう見てくれて」
「お構いなく。アタシが好きでやっているだけだから気にしないで。貴方の安らぎが、アタシの報酬よ! だからね、何も気にせず、休んで」
「では、お言葉に甘えてそうするとしよう。もし、私が寝入ってしまったら、帰ってしまってかまわない」
「いいえ。アタシは最後まで貴方のそばにいるわ」
「そうか。重ね重ねありがとう、ミミコッテ。じゃあな」
解剖鬼は目を閉じた。
お腹はいっぱいだし、見守ってくれる人がいる。足を伸ばし、だらしない格好で寝ても怒られない。
ミミコッテは本気で私を「気持ちよくしてあげたい」、「居心地をよくしてあげたい」と願っている。
嫌みを言っても、文句一つ言わない。何もしなくても、いいこいいこしてくれる。
彼女だったら、信じてもいいかもしれない。
そう思った瞬間、脳裏にさまざまな言葉が響いた。
『この世界には、すばらしいものもたくさんある。0か100か、生か死かで物事を判断するのは、早計ではないのか?』
『確かなものが何一つないこの世界だからこそ、まず自分が信じるんだ!』
『見知らぬ自分へここまで尽くしてくれる人がいる世界なら、もう少し生きてみようって思ったんです』
『私はお前のことを信頼している。お前は、変わることができる、と』
彼らには「自分を無条件で信頼してくれる人」がいた。「根拠もなく自分を信じてくれる人」がいた。「利益にならないのに自分を助けてくれる人」がいた。
それはきっと、母親であったり、師だったり、友だったりするのだろう。
私にはいなかった。今、この瞬間までいなかった。
だから、彼らの言葉を理解できなかった。
でも、今ならわかる。
ミミコッテの、無償の愛が教えてくれたのだ。
彼らもまた、正しかったと。
「ああ、そうか。わたしに必要だったのは、子どものように、愛されることだったのか……」
ミミコッテの膝の上で、解剖鬼は光の粒子となって消滅した。衣類も急速に劣化して、塵となった。後に残ったのは、ミミコッテが被せた白いストールと、茶色いペストマスクだけだった。
「お疲れ様、解剖鬼さん」
「執念」だけで動く亡霊のような存在だった解剖鬼。
そんな彼女が「信じたい」と、ほんの少しでも思ってしまった。愛を知り、ミミコッテを信頼してしまったことで、自分自身が「執念」に終止符を打ってしまったのだ。
「執念」が弱まったことで、肉体を維持していた「魂の力」を制御できなくなった。その結果がこれだった。尻尾を切られた涙ガラスのように、一瞬で散ってしまった。
「あなたは、十分頑張ったわ」
彼女は最後まで「自分はかつて人間だった」と思い込んでいた。
それは、赤の他人の記憶であって、彼女自身のものではないのに。
本来、彼は人ですらない。大勢の人の希死念慮が生み出した、名も無き怪物。実体はなく、「魂の力」が動力。死体へ乗り移り、機械的に活動し続ける、自然現象に近い存在だった。
ある日怪物は、取り込んだ、とある女性の「魂の力」に宿った記憶を、自分の記憶と思い込んだ。その瞬間、解剖鬼は生まれてしまった。
解剖鬼が、愛や信頼、変化や成長、命や社会の大切さを理解できなかったのは、もともと彼にそういう概念がないから。ありもしないものを信じさせられたから、彼女は発狂したのだ。
そのとある女性、解剖鬼の元となった女性こそ、ミミコッテの初めてのお客さんだった。
「あの時、助けちゃったお詫び、ちゃんとできたかしら……」
解剖鬼の過去を見終えると、ふしぎ魔法具<パストール>を持ち上げた。光の塵が、さらさらと宙を舞う。
「さようなら、解剖鬼さん。あなたと過ごした十年間、アタシは決して忘れない」
ミミコッテはストールを帽子の中へしまい、歩きだす。
ハナミチの先に何が待つのか。それは、彼女にしかわからない。
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