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休日のミミコッテと「油揚げの人」

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 油揚げのおいしさは、油揚げそのものの味のよさをさすだけではない。料理の品質・サービス・清潔感の統合だ。客は料理自体がほしくて来店するわけではない。空腹をみたしたいなら、いくらでも選択肢がある。その中であえて、客が油揚げをえらぶには、メニュー以外の目的が必要だった。
 この店のウリは「狐が運営する和風屋台」だった。油揚げというわかりやすく誰もが好む食材で、和風×狐がいかにも油揚げらしく、ビジュアル的も印象深い。
 より強烈なインパクトを与えるため、店主の服装も徹底していた。濃い灰色の和服に、白い狐面。長い黒髪は、後ろでたばねている。
 狐面のつり目は、中ほどがたれ下がっているため、にっこりしてみえる。口元も、ゆるいW字。少し笑ったかのような、ほがらかな表情。マズルの両側と、両目の上に三本線が入っており、体毛を表していた。おでこには、花びらのような赤い筋が三本、えがかれている。変化下手をかくすため、気合いを入れて作った小道具だが、いつしかこれがアイコンになっていた。
 190センチという身長も、「美女に変化し人を化かし、食べ物をかすめ取る」妖狐生活の足かせだった。しかし、商売をするとなれば、話は別。他人より目立つことは、それだけで集客になる。

 太陽を始点に赤、橙、黄色、白に近い空色の四層。ところどころただよう雲は、朝日が反射して白く光っている。ようやく山麓のふちも、くっきりしてきた。ねぼけている鳥が二羽、東から西へと空をよこ切っていっていく。あふれ出た日光が、深緑の草原に、陰影を生み出す。
 長身和服狐面は、早朝の草原のど真ん中で、リアカーを止めた。
 木製の移動式屋台。食事用のカウンターはなく、純粋な料理スペースである。
 リヤカーの左側面。料理スペースのまん中には長方形の鉄の箱――フライヤーが設置されている。
 スペースの左隣、作業スペースには、油切り用の網をのせてある皿がおかれている。他には、サランラップや、お茶と水の入ったペットボトル、箸やストロー・使い捨てナイフのささったケース、薬味の容器などがおかれていた。薬味は、とろろ、大根おろし、ウニ、ショウガなどが、一通りそろっている。
 スペースの右側には、漆ぬりの四段だな。中には、この屋台でもっとも価値あるものが入っている。

 開店準備を終えたところで、猫の亜人が寄ってきた。
「こんにちは。何を売っているのかしら! この香りは大豆? 菜種油?」
 甲高く、かわいらしい声だ。
 大きなつり目に、小さな鼻。ほほ笑みはようえんで、小悪魔じみている。三角帽子に開けてある穴から、猫耳がとびだしている。金髪があまりにもなめらかで、ファッション用の、カツラかと思った。が、どうやら地毛らしい。
 体毛の色は茶白で、魔女服がよく似合っている。
 狐面はしゃがんで目をあわせようとした。しかし、しゃがんでもなお、狐面の背が上回っていた。
「いらっしゃい。ここで売っているのは……」
 狐面はゆらりと立ち上がった。左袖に右手をつっこむと、バッと引き抜く。その手には五枚の油揚げ。右手を前につき出し、謎のポーズをとる。
「上手い、安い、しかしてヘルシー! 豆腐の薄揚げ、油揚げ!」
 うららかなハスキーボイス。面にさえぎられているとは思えない、朗々とした声。ここが祭りの会場であったなら、人目を引くに、ちがいない。
 ミミコッテはきょとんとした顔で、わずかに首をかしげた。 
「油揚げ?」
「もしきょうみがあるならこちらへどうぞ」
「もちろん!」
 狐面は、袖に油揚げをしまいつつ、客をリヤカーの後ろへ案内した。
 屋台背面には、赤地に黒字でデカデカと「油揚げ」の文字。その下には、油揚げの絵が描かれていた。凹凸の一つ一つに至るまでていねいにかきこまれている。絵の中に手をつっこめば、そのまま食べれてしまいそうなほどの、迫力があった。
「とても、おいしそうね! こだわりとかあるの?」
「もちろん大ありだ。もしお時間があるなら、汝にプロモーションVRをお見せしようか?」
「喜んで!」
 狐面は、和服の右袖に手をつっこむ。引きぬいた油揚げを、空中にほうりなげた。油揚げが消滅すると同時に、景色が一変した。

 クリーム色の部屋に、山づみになった茶色の袋。側面には「フクホウジョウ」の文字。部屋上部にはエアコンが設置されている。工場からもれるゴーッというノイズが、わずかに聞こえていた。
「油揚げは大豆からできている。これは、うちで使っている大豆だ。有機栽培の大豆。最高級の豆を何種類かブレンドしている」
 ぐるんと景色が一回転。
 今度は昼の海岸だった。粒子の細かい砂の上を、白い波がなでている。おくへ行くにつれて色がエメラルドグリーンに変化し、やがて深青色になる。その奥には、小さな島がうかんでいた。
「海が油揚げの原料?」
「うむ」
 狐面は砂浜に手をつっこむと、何かを引っこ抜いた。
 無色透明の液体がゆれる、ビーカーだった。
「この六島灘海岸でくみ上げた海水を加工した、にがりだ。にがりとは、海水から塩を結晶させた残りのことで、大豆を固めるのに使う。ここのは海流が激しく水質がよく、純度が高い。価格は通常のにがりの40倍以上だがな」
「高いわね」
「ああ、だが味や食感にかかわる以上、妥協はできない」
 次は山奥。こけむした岩壁の前だった。鳥や動物の鳴き声、虫の羽の音が聞こえる。
 岩のすき間のあちこちらか、透明な水がわき出てきて、ちょろちょろと音を立てている。
 斜面に立つ長身の木々に囲まれており、うす暗い。地面は腐葉土色。木々や飛び出た石ころで、足のふみ場もない。もっとも、二人とも地面からういているので、問題ないのだが。
「赤岩山脈の湧き水。生地をふやかし、煮るとき、ここの天然水を、地下からくみ上げて使っている」
「そのまま使っているの?」
「いや。試みたが、何度やってもふくらまなかった」
 あのときはあせった。今まで通り油揚げをつくっていたのに、急にふくらまなくなったからだ。
 機械や大豆、にがり、搬入経路から輸送手段、調理手技まで全部洗いだして、最後にたどりついたのが、水質だった。
「実は、この水の中には、生地のぼう張をじゃまする物質が入っているのだ。今では、軟水にしてから使用している」
「試行錯誤の連続だったのね」
「その通り。今も試行錯誤の連続だ。どんな食べ物でも、三回食べれば飽きる。つねにいい物を作り続けること。千の試みを鍛とし、万の試みを錬とする。朝夕鍛錬。それが、料理人に与えられた使命であり、業だ。そしてここが――」
 さまざまな調理器具でうめつくされた一室。大豆をゆでるための圧力鍋、鍋と連結された大型豆ひき装置、大豆とにがりを混ぜ合わせるための大きな桶、木綿がかぶせられた長方形の型などがひしめきあう。通路のところどころに、大豆の破片がちらばっていた。
「――調理場だ。ここで生地を作っている。次は、フライヤーで使っている油菜種について。もちろん圧搾法で抽出している。胃もたれしないし、手に塗っても……っと、危ない」
「あら、どうしたの?」
「悪い癖だ。油揚げに対する思いが重すぎて、つい語りすぎてしまう」

 ようやく、屋台の前に戻った。
 猫少女は、キラキラした目で油揚げのイラストをながめている。
 妖術を利用したプロモーションには、ご満足いただけたようだ。
「私は油揚げに熱狂している。それこそ、寝食を忘れるほどに。このおいしさを一人でも多くの人に知ってもらうこと。それこそが天から与えられし、私の使命なのだ」
 狐面は、再び猫少女と目線を合わせると、やけどで固くなった手をさし出した。
「ありがとう、話を最後まで聞いてくれて。もしよければ名前をうかがいたい」
 猫少女は手をとり、にこりと笑った。
「こちらこそ、楽しいひとときをありがとう。アタシはふしぎ魔法具屋のミミコッテよ。ぜひとも、あなたの油揚げをいただきたいわ」
 狐面は、待っていましたと言わんばかりにはげしくうなずいた。立ち上がると、むねに手を置き、高笑いをひびかせる。
「かっかっか! ミミコッテ殿。ご注文、うけたまわった。もしよろしければ、汝に揚げるところをお見せしよう!」
 調理スペースの反対側へ、ミミコッテを案内する。狐のイラストが描かれたカバーを外すと、上半分が透明になっていた。
「椅子は……」
「必要ないわ!」
 少女の体が、透明な台座にのっているかのように浮かび上がった。ちょうど、狐面の顔面近くで、彼女の体は静止した。
 詠唱なし。動作もなし。やはり、ただものではない。
 もっとも、客の正体が文字通り神様であろうが、今出せる最高の料理を提供するだけだ。
「では、お見せしよう。油揚げの神髄をッ!」
 鉄箱のフタを開ける。まん中に仕切りが入っており、金色の菜種油で満たされていた。右が90以上100度未満の低音、左が180度前後の高温だ。狐火を用いて毎秒リアルタイムで温度を調整しているため、正確な温度は決まっていない。
 右側にある引き戸を開けて、豆腐をうす切り「したような」正方形の生地を持つ。厳密には、「豆腐の十倍以上の濃度の豆乳」に、にがりを入れ「空気を含ませるためによくかき混ぜてながら」、薄く固め、それを水切りし、「水分を85%程度に」調整したものだ。
 もちろん、大豆を煮る温度、水のふくみ具合、にがりを入れるタイミングや豆乳の量など、各工程はミリ・秒単位で、調整している。屋台ゆえに一定しない環境条件は、技量でおぎなう。
 リアカーという悪条件でも最高品質の油揚げを揚げられるのは、人外の絶技だ。多くの弟子をとったが、今のところ自分以外、再現できていない。
「気温よし、湿度よし、油温、よし」
 真っ白な生地を投入する。
 同時に、ばちゅばちゅばちゅばちゅ! と、油のはねる音がひびきはじめた。
 狐面は箸を取りだした。生地を傷つけないために、太めだ。
 入れた直後から、白い生地が黄色がかっていく。四辺が熱変性で縮み、中心へ寄っていく。油の音が弱まり、ある程度表面が固まった段階で、生地を、つっつき、ひっくり返し、大きく伸ばす。熱が均一にひろがるよう、頻繁に箸で調整していく。箸でつくたび、生地は数ミリ沈んでは、ぷかぷかゆれる。
 衣の色、水蒸気の臭気、箸から伝わってくる感触、油の揺らぎや泡の形状、立ちのぼる熱気の温度に、全神経を集中。一切無駄な動きはゆされない2~3分間。
 投入した生地は、先ほどとは逆に、膨張し丸みをおびてきた。きつね色の表面が、ぶつぶつとふくらんでいる。一気に蒸発した水蒸気によって、生地が押し広げられたのだ。油の音も、先ほどの荒々しい音から、ぶくぶくとおとなしくなってきた。
 豆乳中の水蒸気はリアルタイムで減少していき、生地の伸び率は低下していく。最適伸ばし温度は88度前後。加温が足りないとふくらまない。逆に加温しすぎると、生地を水蒸気が突き破り、しぼむ。あるいはタンパク質が凝固しすぎてしまい、伸びない。油揚げ職人に必要なのは、この見極めである。
 生地の伸展にはタンパク質の熱変性が不可欠だが、タンパク質が熱変性するほど伸び率は悪くなる。科学的矛盾を乗りこえた先に、味の極点は存在する。
「右左上上下右右左……」
 つぶやきながら、箸を次々動かしていく。
 額から吹き出た汗が、顎から服へとしたたる。目がかわき、充血する。
 しかし、彼はそんなこと意識すらしない。眼前に存在する食材が、全てだ。
「ふぅ……ふぅ……」
 油の熱を均一に伝え、ふくらませなければ、品質に差が出てしまう。生地表面に残った水分が蒸発することによる気化熱も、考慮しなければならない。まして、生地が油を吸いすぎるなぞ論外である。
「よし」
 ふくらみきった生地から順に、高温の油へ移動する。ジュゥーッ! という、急激に水が蒸発する音がする。裏で鳴り響くタイマーの音に、目もくれず、生地を移していく。
 高温で揚げる理由は二つある。一つは、表面の水分を完全に蒸散させ、つやと張りを持たせるため。もう一つは、熱変性したタンパク質による、焼き縮みを防ぐためだ。速効で表面を揚げ固めてしまえば、縮もうにも縮めなくなる。
 食感に直接かかわるため、妥協はゆるされない。
 外はカリッ、中はじゅわ。ハリのある外側と、柔らかい内側。そのギャップこそが至高。
 水蒸気の音が弱まっていく。料理が終わりへ近づいていく。パンパンにふくらんだ生地はいまにもはち切れんばかりだった。
「2分57……2分58……2分59……!」
 三分達したものから順に、箸でつまみ上げる。油がしたたり、たぷたぷ揺れる生地。ざるに乗せ、余計な油を切る。
 その間に、木目柄の容器を手にとった。器は、大きな正方形の脇に、小さな正方形二つが合わさった長方形。小さなスペースの片方に塩を振った。もう片方に、大根おろしを入れ、ネギをふりかけると、ポン酢とタレを調合。
 最後に、ざるから油揚げを移し、完成だ。
「はい、ミミコッテ殿用の油揚げだ」
「アタシ用?」
「食べる人にあわせて、揚げ方を変えているんだ」
 狐面は、代金と引き換えに、油揚げを渡した。
 一見一律きつね色に見える。しかし、よく見ると、皮が浮き上がり薄くなっている部分は白く、みぞになっている部分は狐色に焼き上がっている。表面は、油をおびて、キラキラとかがやいていた。
 熱をおびた白い湯気がゆらいでは、空へと消えていく。大豆のふくよかな香りが、辺りに満ちる。
「でッッかいわね! 重みもすごい! これで、薄揚げ?」
「本来は厚さ一センチ弱。焼き料理に吸い物、野菜に魚、さまざまな料理によりそう、奥ゆかしい食べ物。炭水化物と置き換わり、糖質やカロリーカットに貢献する、体に優しい食べ物。それが油揚げだ。しかし、私はあえて、メインに据えた。その結果が、これだ!」
 縦横十センチ以上。厚さは三センチ程度。重さも小粒のリンゴほどもある。
「ん~いい香り! おすすめの食べ方はある?」
「まずは、何もかけずに大豆本来の甘みを感じる。次に、白い生地の部分に越後塩をかけて食べる。最後に、薬味をつけてしめる。これが王道だ」
 ミミコッテは、フォークで油揚げの皮を押した。
「すごい、押し返してくる! 一センチ以上フォークが沈んでるのに、一瞬でで元のかたちにもどる! すごい、何て弾力なの!」
 使い捨てナイフで角を切り取った。
「内側は白いシフォンケーキみたい!」
 フォークでさすと、クンクン匂いを嗅ぐ。
「アッツアツね!」
 大きく口を開けた。四本の犬歯に、とげとげしたベロ。目を閉じながら、狭間に、油揚げをつっこんだ。ぱくんと、口を閉じると、キュッとナイフを抜く。口元をんむんむ。ごくんと飲み込めば、みるみる瞳孔が開いていった。ぞわぞわと身を震わせて、両足がピンと伸びる。
「ん♡ んんぉ♡ おっ、おおぉ!?♡」
 一呼吸おいて、ミミコッテがさけんだ。
「おいしい! 何これ♡ かむと、皮がバリバリっと切れるわ。中はジューシーだけど、ふわっとまろやか。舌触りも、つるつるの皮と、ざらざらした内側の対比がたまらないわね。中菜種の口溶けのあとに、大豆のふくよかな甘みが脳みそをぶんなぐってくるわ!」
 両手両足、ついでにしっぽをぶんぶん振って、興奮をアピール。目はキラキラとかがやいて、頬もほんのり赤く染まっていた。
 ナイフで切っては、フォークに持ちかえ、口に運んでいく。
「まさに、汝の言うとおりだ。まさに! このおいしさを! 汝に知ってもらいたかったのだミミコッテ!」
 ミミコッテは、首をぶんぶん振ると、フォークで油揚げを刺した。皮を破ったとたん、生地の弾力によって、勝手にフォークがめり込む。
「お塩はぁ~」
 ミミコッテは、生地の内側に塩をつけこむと、豪快にしゃぶった。
「んふ~! おほほほほ~! 味が引きしまっておいし~。コクが出るわね。塩と油揚げ単品が合うって、意外ね」
 目をほそめて、舌をなめずるミミコッテ。心の底から、堪能しているようすだった。
「油揚げは万能食材。あわないものは、あんまりない!」
 全て食べきったミミコッテは、まくし立てるように語りはじめた。
「ごちそうさま! 大根おろしとタレの組み合わせが一番キタわ! 熱々なジュージューな油揚げと、つめたくサッパリした大根おろし。醤油とゆずの風味も相まって、めっちゃグッドよ!」
 狐面は、容器を受け取ると、作業台の下にある桶に放り込む。
「かっかっか! すばらしい食べっぷりだったぞ。手間ひまかけて料理したかいがあったものだ」
 しばらく、熱が冷めるのを待ってから、狐面は言った。
「さて、今度は汝の番だ。ふしぎ魔法具屋ミミコッテ。営業しに来たのだろう?」
「いや今日は休日のつもり!」
「おっと。それは、すまな――」
「でも、チャンスは逃さないわ!」
「商魂たくましい!」
 ミミコッテは、ややのけ反ると、左手を胸に置き、右手を前につき出した。
「じゃあ、単刀直入に言うわね。あなたの悩みを言ってごらんなさい。あなたの願いをニャニャンと叶える、ふしぎ魔法具をおゆずりするわ。値段はもちろんタダね!」
 油揚げの人は、いくどとなく奇妙な客を相手にしてきた。だからわかる。ミミコッテの言葉は冗談ではない。おそらく本当に、タダ同然で願いを叶えてくれるのだろう。
「悩み……悩みか」
 今思えば、人生悩んでばかりだった。
 美女に化けて誘惑することも、幻術を用いて化かすことも、呪術を用いて人を呪うことも、他者にもぐり込み狐憑きすることも、計略を用いて人を墜とす才もない。妖狐としてありとあらゆる才能がなかった。
 才能に恵まれた他の妖狐とくらべ、自分には一切の才がなかった。以前の自分であれば「他人にある才を、そのように自分にもお与えください」とねがったと思う。
 社会に適応できずうつをわずらった。いつも餓死寸前、意識もうろう。捕食者すら見向きもしないありさま。そうしているうちに、五感のほとんどが効かなくなった。
 死に場所を探し、さまよっていたところ、何かにみちびかれるように、「それ」を食べた。
 瞬間、五臓六腑に染みわたる大豆の味が、我が魂を蹂躙。身も心も、何もかも「それ」が埋めつくした。
 目を開き、鼻を動かし、その正体を探った。「それ」は、神社にみつがれた油揚げだった。
 そして妖狐は、神に感謝するのではなく、油揚げを神とした。
 その時、全ての悩みは、なくなってしまった。問題も障害も山積みだったが、考えることは必要でも、悩む必要はないと悟ったのだ。
「かっかっか! 簡単なことではないか」
 マーケティングに関しては、心強いなかまたちのおかげで、問題ない。弟子も十分な人数、巣立っている。店員を増やす必要もない。他者評価やアンチに関しても、全く気にならない。油揚げの味も、道具でどうにかなる次元を超越してしまっている。そもそも、超常の力に依存して、長期にわたる油揚げ布教ができるとは思えない。
 不老不死? 自衛力? 労働力? 店舗拡張? 画期的な輸送手段? いや、身のたけ以上のねがいをしたところで、破滅するに決まっている。満ちたりているのに、なぜそれ以上を求める必要がある。
 否、今抱えている最大の問題。それは――
「食器洗いが、めんどう」
「ずいぶん、つつましい結論に至ったわね」
「いや、本当にめんどうなんだ。切実に。消毒も含めて。虚無。マジで虚無。この作業だけは、本当に好きになれない。延々洗い物してると、何のために生きているのかわからなくなる。ほとんど油揚げ関係ないからな!……かといって使い捨て容器はゴミが出て、お客さんに迷惑かかるし、捨てるのめんどいし、環境にも悪影響だし、他人に頼むほどでもないし――」
 狐面はその後も、数分間洗い物に関してのグチを語った。 
「――あとはまぁ、この程度の妥協であれば、油揚げに許される気がした。……あ、すまん
。聞きたくもないことを長々と」
「いいのよ! 苦労してるのね、あなたも」
「人並みに、な」
 ミミコッテは、ひまわりのような笑みを浮かべてうなずいた。帽子を外し、短い左腕を中へつっこむ。ごそごそと中をあさると、腕を引き抜いた。
 手に握られていたのは、桶だ。見た目は青いプラスチック製のタライだが、ただならぬオーラを感じる。
「じゃじゃーん! <アラウノカッタライ>よ!」
「おお! これは、まさか!」
 狐面はそれが、たまらなくほしくなった。テレビの通販で、みりょく的な商品を紹介された、奥様のような反応だった。
「じゃあいくわよ――」
 ミミコッテは右手を空に掲げると、親指の先っぽに中指を乗せた。
「あなたのラッキーくださいニャン♡」
 ミミコッテが中指をパチンを鳴らすと、狐面の体が淡い光に包まれた。光がタライに注がれていく。
「では、お品者をどうぞ。これでふしぎ魔法具はあなたのもの!」
 狐面はタライを受け取ると、頭上にかかげた。そして、「かっかっか」と、天まで届かん勢いの大笑いを響かせる。
「ご購入、ありがとうございました!」
「ありがとう、ミミコッテ殿。またのご来店、お待ちしているぞ」
「ええ。そのタライの効力がなくなる頃、また来るわ。じゃあね! 油揚げの人!」
「商売上手め」
 二人の商売人は、笑顔で別れた。
「さぁて、お次はどんなお客が来るかな」
 狐面は、そうつぶやきながら、古い桶から魔法のタライへ、水を移しかえるのだった。

 このタライには、「食器洗いしない分、空いた時間で接客をすると、迷惑客か異形客しかこなくなる」という嫌がらせのようなデメリットがあることを、狐面はまだ知らない。
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