世界は万華鏡でできている

兎杜唯人

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実験その一:細胞の形

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「教授、サンプル届きましたー」

実験室をノックしてセリーニがやってくる。
顕微鏡から顔を上げればセリーニが納品書らしきものをひらひらさせていた。

「すでに細胞サンプルはすべてラベリング済み、男女Ω、α別で並べてあります。で、すぐに実験します?」
「…そうだな。十人分ほどを分けてくれ。細胞の攻撃に規則性があるか確かめる」
「了解です」

セリーニは準備のために実験室を出ていった。
研究助手としても動いてくれるΩを何人かそろえてくれるだろう。
αの細胞はなぜΩの細胞を攻撃するのか、病気にかかるΩとかからないΩの差は何か。
もし完全にランダムで発病が決まるのならばα細胞の動きを抑える物質を見つけ出すべきである。

「…クロエ」

警察に捕まった男の発した言葉が頭の中をぐるぐると回る。自分が抱く前にすでにクロエはあのαに抱かれていたというのか。もしそれが本当ならばクロエはいかなる思いで自分に身を任せたのだろうか。
あの時自分が抱かなければクロエは発症しなかっただろうか。否、いずれきっと自分はクロエを抱いていた。
甘く香る体臭と自分の名を呼ぶ熱を帯びた声、欲に濡れた瞳を考えるだけで頭の芯が熱を持つ。
余計な考えはいまは邪魔だろう。頭を振って考えを振り払うと実験室を出ていく。
出勤してきたΩの研究員たちとあいさつを交わす。
自室に入ればカレンダーを見る。レナータが発情休暇に入ってから数日経過している。あと少しで彼女も戻るだろう。
数人、発情休暇が必要になりかけているΩもいたはずだ。できる限り人数のいるときに実験は進めておきたい。

「セリーニいるか」
「はいはーい。もうちょっとで準備終わるんですけど待ちきれませんか」
「…まとめてこのあと発情休暇に入るΩがいる。しばらく研究室は休みにしようと思うんだが」
「まじっすか」
「まじだ」

振り向いたセリーニの瞳はきらきらとしている。
何を考えているのか丸わかりである。

「どこに行くにも勝手だが迷子にはなってくるなよ」
「大丈夫です。俺のかわいい番はそのへんしっかりしてるんで」

どこに行こうかなぁと楽しそうにしながらセリーニは実験のために手早くサンプルをより分けていく。
それを窺いつつ自分は必要と思わしき薬液を何種類か手にしていた。
αの攻撃性を少しでも抑えるために抑制剤がある。それが普段αに効くのならばそれを薬へと変更できないだろうか。
常に抑制剤のサンプルとして何種類かストックしている。Ω用の抑制剤とは使っている薬品が異なるがこれでも細胞は落ち着くだろうか。
手を止めて思案し、Ωの発情抑制剤も手にした。

「教授、実験室に運べばいいですか」
「あぁ、そうしてくれ」

セリーニはより分けたサンプルを実験室へと運んでいく。ついでに抑制剤も運んでもらった。

「教授、今日どうします?昨日はαとΩの細胞核の形の照合を何人分か行ったんですけど」
「形はどうだった」
「やはり本当にわずかではありますが個人で形が異なります。中には鏡のように瓜二つな核もあって、同じ性のものを見てしまったんだろうかと二度見してしまったぐらいです」
「そうか…」
「教授…私たち自分と番の細胞も見ていたんです。それで」

一人のΩの言葉に驚いた。
研究員として雇っているΩたちには最初本当に簡単な実験から手伝ってもらっていた。
時間をかけて実験の手順や調べ方、結果の記入方法について覚えてもらったあと各々にできそうな範囲での仕事を振り分けていったのだ。
危険な薬品を伴う実験では自分もついていたし、同じ実験を使う薬品を変えて行ってもいたから長くこの研究室にいたものほど自分で考えて次々に実験を行っているのを知っていた。
必ずしもその実験が自分の目指すものにつながらなくとも結果が出たときの喜びからどんどん難しい実験へと各々が進んでいった。

「番になったΩとαの細胞が結合しあえることがわかったんです」
「…結果は」
「記入してあります。私だけでなくこの研究所のΩ全員で行っています。結果はいずれも同じでした。ただ、私たちは番になる前の細胞の形は知らないので、たまたまなのか、αかΩが変異したのかまではわからなくて…」
「いや、十分だ。ありがとう」

研究結果を記したものを受け取り実験室へと向かって行く。
道中ぱらぱらと簡単にページをめくりながら少し考えた。
αはΩに噛みつくことでΩを自分にしか発情しないように変異させる。それと細胞が変異していくのと関係があるのは明白である。
世の中の番になったαとΩで"たまたま"細胞の形が同じである、とは思えないのだ。
うなじを噛まれたΩが番以外のαに拒絶反応を示す理由がおそらくこれが原因なのだろう。

「…形のあわない細胞が入るからか……やはりこの病、アレルギー反応が強力になったものと考えていいのか」

実験室に入ればきれいにラベリングされた細胞のサンプルが並んでいた。
セリーニはいない。ほかのところへの手伝いに行ったか、自分の仕事をしに行ったのだろう。
抑制剤も並んでいる。
実験のための器具を棚から出して並べる。細胞のサンプルをいくつか選び組み合わせ記録する。
αとΩの血液を混ぜ攻撃反応が見られたものとそうでないものに分ける。
攻撃反応が見られたものに対してはαの抑制剤、Ωの発情抑制剤、加えて通常の風邪薬などの試薬を投入する。
攻撃反応がなかったものについては細胞がどのような形になっているかを記録していった。
すべての組み合わせをひとりで行うには時間がかかりすぎるが集中もできる。
試薬を投入したものについても投入した試薬の種類別に記録をとっていく。
半分を終えた段階で一息つけばすでに外は暗い。実験室内の時計の針は頂上付近をさしていた。

「…みなは帰ったか…」

静かな研究室である。実験室から出て執務室へと歩んでいけば端末を見る。
メールが届いていた。
母からである。三日後にパーティが開催されるからそこにくるように、とあった。
場所は郊外にある実家であった。完全に泊りがけだな、とため息をついた。そばにはホテルもあるし、客間もあるからリューイを連れて行ったところで問題はないだろう。
ピータにしばらく泊まりになること、リューイもつれていくためまた泊まりがけでの仕事を頼んでおいた。

「子供たちにリューイを借りてしまう詫びに何か買うべきだろうか…お菓子がいいのだろうか…本か…」

少し悶々としながらインスタントのコーヒーを入れた。
砂糖もミルクもなしでそれを飲み干すと先ほどまでの実験結果をパソコンへと入力していった。
やはり、細胞の形は個人によって異なるらしい。その形が異なったもの同士が触れてしまうと互いに拒絶を見せる。
αやΩの抑制剤ではα細胞の攻撃性は失われなかった。Ωの抑制剤がΩに効くようにαの抑制剤もαに合わせて基本的には作られているがなぜ効果がないのだろうか。
打ち込む手を止めて思案する。
進まぬ研究にやきもきしていた。
ファイルを保存すると組んだ腕に額を乗せた。今も苦しむものがいるのだ。研究をし始めてから救えなかったものがいったいどれだけいただろうか。誰も何も言わないが、自分への失望の視線を感じることがあった。
この研究室に所属しているものたちは何も言わないし、フォローをしてくれる。それもまた歯がゆかった。
大きなため息をついてコーヒーを飲み干す。少しソファで仮眠をとってから続きをしよう。
明日実験を終えたら帰ってリューイにパーティに一緒に来てもらいたいと伝えねばならない。次いで子供たちに何か欲しいものはないか尋ねたほうがいいだろう。
ソファに横になり目を閉じれば研究結果でいっぱいいっぱいの頭はすぐに眠ってしまった。
仮眠のつもりであったのだが目を覚ましたのはすでに朝だった。
朝とはいってもまだ八時で誰も出勤してこない時間ではある。

「寝すぎたな…」

ぽつりと独り言を漏らして眠気覚ましにコーヒーを淹れる。
息を吹きかけて冷ましピータからの連絡が入っていることを確認すればその文面に目を通す。
問題ありません、とのことだった。
ほっと息をついてからコーヒーカップをテーブルに置いた。
今日はひたすらに昨日の残りの実験を行うつもりである。

「おはよーご…って、教授またここに泊ったんですか」
「…早いな、セリーニ」
「かわいい俺の番が今日はお弁当作るね、って張り切って早起きしたんで俺も合わせたんです。仕事をめちゃくちゃ頑張ればかわいい伴侶のお弁当もおいしくいただけるなぁって思って」
「いいことだな。お前の番の給料はアップしたほうがよさそうだ」
「俺の伴侶だけじゃなくてみんなの給料アップしてくださいよ」
「検討しておく」

軽口をたたきあいつつセリーニから届いていた手紙を受け取る。
急ぎのものはないようだと判断した。
手紙以外に届いていたメールでこちらの確認が必要だとセリーニが判断したものもプリントアウトされている。
返信に必要性があるものだけはその返信内容をプリントアウトされた紙に記入してセリーニへ返る。返信不要と判断したものはそばのシュレッダーへと入れた。

「教授、朝ごはん買ってくるので実験室こもらないでくださいね~??」
「お前は俺の親か」
「年下の親とか意味わからないんでそうじゃないですって言っておきます。レナータから教授が泊った日にはちゃんと朝ご飯買ってこないと丸一日何も食べないと思いますって常日頃言われてるんです」

思わぬ言葉にコーヒーに伸ばしかけた手が止まった。
いいですね、と念を押すようにして返信しなければならないメールの文面をもってセリーニは部屋を出ていく。
そんな引継ぎが秘書二人の間でされているとは思いもしなかった。これは冗談抜きで働く者たちの給料を上げるべきだろうかと思案する。
食べなくても生きていける。確かに少し認知能力が下がるな、とは思っているが問題があるとは考えていなかった。
セリーニにそれ以上文句を言われたくもないためおとなしく彼の戻りを待つことにした。
コーヒーを飲んで届いた手紙を読む。なんてことのない、こちらが特許を持っている抑制剤の件での話のようであった。
好きに使えばよいものを、と思っている。誰かのためになるのならばそれにこしたことはない。
主成分を変えなければ別にゼリー状にしようが錠剤にしようがクリームにしようがこちらは関与するつもりはないのだ。

「教授、戻りました~ひとまずサンドイッチとおにぎりとサラダ、それからスープただし冷製、を買ってきたのでこれをちゃんと平らげてから実験室にこもってくださいね」
「これを全部食えと?」
「サンドイッチ二つ、おにぎり二つ、サラダは一番小さいサイズ、スープもカップスープ…そんなに量としては多くないはずでしょう」
「せめてサンドイッチかおにぎりか、だろう」
「教授は気づくと昼食すらとってないんだから食べられるときに食べてもらわないと」
「それもレナータからの引継ぎか」
「研究所職員の総意です」

言葉に詰まってしまった。
そうまで言われてしまっては仕方ない。
セリーニの監視の下でもぐもぐと朝食をとった。朝は小食なのだがなんとかすべて食べきった。
セリーニは満足そうにうなずいてゴミを片付けた。
朝からなぜかぐったりとしてしまう。

「教授、一応昼食も用意はしてあるのでちゃんと実験室から出てきてくださいね」
「わかった…」
「俺の、伴侶の、手作り、弁当、なので」

強調しながらセリーニは出ていった。
どうやら二人分の弁当ついでに自分の分の食事も用意してくれたらしい。
目をぱちくりしつつそれでは必ず昼食はとらねばならないな、と思い直す。
腕時計のタイマーを昼にセットし、実験室へと足を向けた。
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