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第一章 二年四組地獄変

第8話 佐村家のほのぼの団らん風景

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 佐村美芙柚の家は、三木島力也の家よりも三倍以上はデカかった。
 ここまで来るともはや御殿、あるいは城。
 そう呼ぶに相応しい。

 だが、それだけ広い割に、住んでいるのは佐村親子の三人だけ。
 父のいさおと、母の美遥みはる。そして娘の美芙柚のみ。

 使用人やお手伝いさんのたぐいは一人もいない。
 これだけデカい家だと、その事実はむしろ奇異にしか思えない。

 現在、午後9時過ぎ。半を過ぎて、10時にもほど近い。
 父親の勲はまだ帰ってきていないようで、家には母と娘の二人だけ。
 しかも、まだ夕飯も食べていない。

「ねぇ、ママ?」

 自室から出てきた美芙柚が、リビングでソファに座る母親の美遥に話しかける。
 美遥は、美芙柚の親だけあって容姿がよく似ていた。
 小柄で線も細くて、年齢を考えると随分と童顔でやや幼さが見える気がした。

「おなかすいたわ。ご飯まだ?」
「うるさいわね」

 時間帯を考えれば至極当然のことを尋ねる美芙柚に、美遥の対応は冷たい。
 美遥は、ソファに座っているだけだった。

 対面側にある大型テレビをつけるでもなし、雑誌を読んでいるでもなし。
 ただソファに座って、ジッと何かを待ち続けている。

「そんなにお腹減ったなら、お菓子でも食べればいいじゃない」
「え、でも、夕飯前にお菓子はダメって、パパが……」

 美芙柚が言いかけると、美遥がギロリと娘を睨みつける。

「何、それ?」
「え……」

「自分は勲さんに気にかけてもらってるとでも言いたいの? お母さんに自慢?」
「ち、違うよ! わたしはただ、おなかが空いただけで……」

「いつも言ってるでしょ。勲さんが帰ったらご飯にするって。何回言わせる気?」
「う、ご、ごめんなさい……」

 突き刺すような物言いをする美遥に、美芙柚は完全に怯えていた。

「何度言ってもわからない。どうしてそんなに聞き分けがないのかしら、あんたは」
「ごめんなさい。謝るからそんなこと言わないで、ママ……」

 先述したが、時間帯を考えれば美芙柚の言い分は正当だ。
 むしろ美遥の言い分こそ常識を弁えていない。半ば育児放棄にも等しい気がする。

「……ママ」

 美遥がソファから立っただけで、美芙柚がその身をビクリと震わせた。
 学校ではあれだけ居丈高だった『ふゆちゃん』は、ここでは完全に弱者側らしい。

 母親が、立ち尽くすしかない娘の前に立って、感情のない瞳で見下ろす。
 小ぶりで形のよい唇が、憎々しげに歪んだ。

「あんたなんか……」
「ご、ごめんなさい。ママ、あの、ご、ごめ……」

 玄関が開く音がする。

「勲さん!」

 美遥が、弾けるような勢いで玄関の方を向いて、足早にそちらへ向かった。
 残された美芙柚は、瞳を揺らしながら俯いて静かに拳を握り締める。

「ママ……」

 やっと、佐村家の夕飯の時間が訪れようとしていた。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 午後10時過ぎ、佐村家の広々としたダイニングで、ようやく晩餐が始まる。
 家族三人、水入らずの食事風景。
 しかし、あまりに広いダイニングでのそれは、やや寒々しくもあった。

「今日も疲れたなぁ」

 と言って父親の勲が高そうなワインをグラスに注ぐ。
 勲はかなり若々しい男性だった。銀縁の眼鏡が、柔和で知的な印象を強めている。
 だが大企業をまとめているだけあって、若く見えながらも風格があった。

 食卓に並ぶ料理はいずれも美遥の手作りで、品数も多く、見た目も鮮やか。
 一目で腹が鳴り、二目でよだれが出ること請け合いの、食欲をそそる出来栄え。

 だだっ広いとはいえ、家の中の掃除が行き届いている。
 そのことからも、美遥の家事万能っぷりが窺える。

 父親の勲に、母親の美遥。
 絵に描いたような美男美女の両親に、娘の美芙柚も美少女だ。
 金銭的にも恵まれ、何一つ不自由がないように見える、佐村家の三人家族。

 ――だが、その団らん風景は『異常』の一言に尽きた。

「美芙柚、今日の学校はどうだったんだい? お友達とは仲良くできてるかい?」

 ワインを一口飲んで、勲が美芙柚に尋ねる。
 だが、美芙柚はそれをまるっきり無視して出された料理を黙々と食べ続けていた。

「学校のお友達は大事にするんだよ。パパの部下にも付き合いが長い人がね――」

 勲は、娘の反応を意に介すこともなく、得意げに話し続けていた。
 美芙柚はやはり聞く耳を持たず、料理を口にする。

「ねぇ、勲さん。今日の料理、どうかしら? いいお魚を買えたの。だから……」

 美遥が、夫の顔色を窺いながら話しかける。
 だが、勲はそれをまるっきり無視して相変わらず美芙柚に向かって語り続けた。

「勲さん、あの、今日ね、美容院に行ってきたの。髪型を変えてみたの、どう?」
「ああ、うん」

 しつこく食い下がる美遥に、勲が見せた反応は淡白そのものだった。
 答えるその顔に感情は浮かんでおらず、そもそも妻を見ようともしていない。

「ママ、今日のお料理、すごく美味しいよ。こんなの、食べたことない。美味しい」

 それまで口を閉ざしていた美芙柚が、愛想笑いを浮かべて料理の感想を言う。
 だが、美遥はそれをまるっきり無視して熱心に勲へアピールを続けている。

「これ何のお魚? とっても身が柔らかくて、分厚くて、ねぇ、ママ? ママ?」
「うるさいわね」

 母親の関心を買おうとする美芙柚だが、返ってくるのはそんな一声。冷たい一瞥。

「食べたらさっさとお風呂に入ってきなさい」
「……はい」

 高圧的に命じられて、美芙柚はまた顔を下に向けて、食事を再開する。
 本来であれば、父親がたしなめるべき場面だろう。
 しかし、あろうことか勲は母子のやり取りを目の当たりにしながらニヤけていた。

「美芙柚は困った子だなぁ。食事中はあんまりお話ししちゃダメだよ?」
「勲さん……」

 勲が関心を向けているのは、娘の美芙柚だけ。
 それを見せつけられて、美遥が美芙柚をまた睨んで、娘は肩を震わせる。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ママ。ごめんなさい……」

 顔を青くして、美芙柚は限界まで縮こまって最後のひとかけを口に入れた。
 いかに美味しい料理でも、あんな状態じゃ味などわかるまい。
 そして、夕飯も終わりかけた頃、勲が美芙柚を見てこんなことを言い出す。

「それじゃあ、美芙柚。パパと一緒にお風呂に入ろうか」

 告げる勲の顔には満面の笑みが浮かび、その頬は軽く紅潮していた。
 美遥が、目を剥いてそんな彼を見つめる。

「あ、あの、勲さん? 美芙柚なら、もう一人でお風呂に……」
「君には言ってないけど、美遥」
「え、ぁ、ごめんなさい……」

 今度は美遥が、先刻の美芙柚のような状態になる。
 そして、言われた美芙柚の方は、顔にありありと嫌悪感を浮かべていた。

「いや、わたし、パパとお風呂に入りたくない」
「そんなことを言ったらだめだよ、美芙柚。ちゃんとパパが洗ってあげるから」

「いや、いや。ママ、わたし、ママと一緒に入りたい。ママ……!」
「うるさい。さっさとパパと入ってきたら?」

 助けを求める娘に冷酷に吐き捨てて、美遥は皿の片づけを始めた。
 勲は優しい笑顔を浮かべたまま、嫌がる美芙柚の腕をつかんで引っ張っていく。

「それじゃあ行こう、美芙柚。学校での話を、いっぱい聞かせておくれ」
「やだ、やだよ、ママ! ぃやァ!」

 涙ぐんで叫ぶ美芙柚の方を、美遥は一度も見ようとはしなかった。

「勲さんを誘惑する、小汚い売女め……」

 そう呟く佐村美遥に、母親の資格などあるはずがなかった。


  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 午後11時を大きく回り、そろそろ日付が変わろうとしている。
 ここまで、十分異常さを見せつけてきた佐村家。
 だが、佐村美芙柚にとっての本当の痛苦は、この時間から始まるのだった。

「さぁ、美芙柚」

 ここは勲の寝室。
 おそらく夫婦用に用意された大型のダブルベッドに、彼は腰かけている。

 薄暗いながらも明かりがついていて、そこに、パジャマ姿の美芙柚もいた。
 美芙柚は、完全に怯え切った顔で、部屋の片隅に逃げている。

「ぃ、ぃや……」
「そんなことを言わないでくれ、美芙柚。僕は君の話が聞きたいんだ」

 震える美芙柚に、勲は心底楽しげに笑いかけている。
 その笑みに父性はかけらも見られない。完全に男が獲物を見定めたときのそれ。

「やだ、や、近づかないで。わたし、パパが嫌い。大っ嫌い!」
「そんなことを言わないでくれ、美芙柚。――ママがどうなってもいいのかい?」

 勲がそう言うと、美芙柚がピクリと身じろぎする。

「僕は、この家の大黒柱だよ? ママなんて、どうにでもできるんだよ?」
「ず、ずるい……!」
「当然だよ。ビジネスマンなんて、ずるくなきゃやってられないさ」

 己を唾棄すべきものとして見てくる娘にも、勲は怯みもせずに開き直る。

「それにね、パパはお仕事で、とても疲れているんだ。その疲れを癒せるのは、美芙柚との親子のひとときだけなんだよ。ママじゃ無理なんだよ、あの女じゃね」
「ぉ、親子なんかじゃない。パパは、わたしに変なことをするじゃない!」
「君が心配なんだ。パパは美芙柚を愛してるんだ。だから『点検』が必要なんだよ」

 勲がベッドから立ち上がり、ゆっくり美芙柚に近づいていく。

「さぁ、美芙柚。今日も君を『点検』させてくれ」

 近づきながら、上着を脱ぎ捨てて上半身裸になる勲。

「逆らったら、ママはどうなっちゃうかな? 美芙柚のせいで、いなくなるかも」
「マ、ママ……」

 恐怖を顔に張りつかせ、美芙柚は奥歯を噛みしめる。

「お願い、ママにひどいこと、しないで……」
「君がいい子でいるなら、そんなことしないさ。だから美芙柚、ね?」

 部屋の隅に追いやられた美芙柚が、泣きながらうなずき、パジャマを脱ぎ始める。
 一方で、美遥は二人がそんなやり取りをしている寝室のドアの前に立っていた。

「…………ゃ」

 ドアの向こうから、か細い美芙柚の声が漏れ聞こえる。
 美遥は下を向いたまま、ダイニングへと向かって何かを手にする。
 それは、アイスピックだった。

「勲さん……」

 ガランとした広いダイニングで、美遥は隠し場所からボロボロの人形を持ち出す。
 人形の胸の辺りに、歪んだ字で『みふゆ』と書かれている。

「あの女が、勲さんを奪った……!」

 美遥が、みふゆ人形にアイスピックを突き立てた。

「あの女が、あの女が、あの女が、あの淫乱な小娘が、売女が、私から勲さんを!」

 何度も、何度も、美遥は人形にアイスピックを突き立てる。
 その顔は憎悪にまみれ、開ききった目はまばたきすらせずに人形を凝視し続ける。

 ――これが、誰もが羨む佐村家の日常。

 娘に性愛を向け、母親を顧みない父親。
 父親を愛し続け、娘に嫉妬と憎悪を燃やす母親。
 母親に愛を求め、父親の餌食にされるしかない娘。

 これが『ふゆちゃん』のご家庭。
 何と、何といびつで愛に溢れた家族であることか。笑うわ。

「……ブチ壊してぇぇぇぇぇぇ~」

 全てを眺めていた俺は、このほのぼの家族を今から地獄に突き墜とすことにした。
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