笑顔の花は孤高の断崖にこそ咲き誇る

はんぺん千代丸

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9 断崖の君

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 ……いっそ、死んでしまおうか。

 ふと、思いついたのです。
 ここで私が死ねば、王家とデュッセル家の体面に泥を塗れるのではないか、と。

 これは、実行すればきっと上手くいくでしょう。
 遺書でもつければ完璧ですね。
 常にゴシップに飢えている宮廷の皆様に、最高の話題を提供できます。

 今さら、サミュエル殿下とシルティアの婚姻を壊すことはできないでしょう。
 けれど私の命を対価に、デュッセル家を失脚に追い込めるかもしれません。
 行き詰まった現状、それは魅力的なアイディアに思えました。

「――思いつくのが、遅いのですけどね」

 大きな扉を前にし、私は嘆息と共にそう零します。
 実行するなら、屋敷を出る前が最善でした。今は無理です。もう無理です。

 だって、この扉の向こうに殿下がいらっしゃられるのですから。
 そうです、ここはラングリフ殿下のお屋敷なのです。

 デュッセル家のものよりもさらに立派な、今後の私の居場所となるお屋敷です。
 そして、侍女長に案内されて到着したのが、この扉の前なのでした。

「殿下、リリエッタ様をお連れいたしました」

 私を案内してくれた四十代ほどの侍女長が、扉をノックしてそう告げます。

「入ってくれ」

 扉の向こうから、落ち着きのある声が返されます。
 侍女長が扉を開けて、深々と一礼しました。

「失礼いたします」

 当然、私も深く頭を下げます。

「殿下、こちらがリリエッタ様となります」
「ラングリフ殿下、ご機嫌麗しゅうございます。本日よりこちらでお世話になることとなりました、リリエッタ・ミラ・デュッセルと申します」

 ガシャン。

 ――という、足音が聞こえました。……ガシャン?

「そうか、わかった。顔をあげてくれ」
「は、はい……」

 今の音は何だろうと思いながら、私は言われた通りに顔をあげます。
 広い部屋の真ん中に、銀色に煌めく全身甲冑が立っていました。

「…………ぇ?」

 私は、固まってしまいます。
 屋内だというのに、腰に立派な剣を差した、壮麗な装飾が施された甲冑でした。

 頭から指先、爪先まで完全武装をしています。
 え、あれ、え? わ、私、来るところを間違てしまったのでしょうか?

「――殿下?」

 と、侍女長が、頬をヒクリとさせて呟きます。え、殿下!?

「どうした、マリセア?」
「その格好は、一体何事ですか?」
「ん? リリエッタは今日が初めてだろう? だから緊張していると思ってな」

 緊張はしています。当然です。でも、それがどうして全身、甲冑……?

「まずはインパクトのある登場で肩の力を抜けるようにしてやろうと思ったんだが、ダメだったか……? 俺としては、かなり会心の出来だと思っているんだが」
「最初の対面でその格好で出てこられたら、感じるのは死の恐怖だけですよ」
「何ッ!?」

 ガチャガチャと音を立てて、全身甲冑の人が激しい狼狽を見せます。
 会話を聞く限りこの方が『断崖の君』――、ラングリフ殿下、なのですよね?

「とにかく、せめて兜くらいは脱いでください。屋内でフルフェイスとか……」
「むぅ……」

 侍女長――、マリセアさんの呆れ声に不満げに呻いて、殿下は兜を脱ぎました。
 すると、現れたのは黒髪黒目の、雄々しく精悍な顔立ちをした男性でした。

 背丈はサミュエル殿下と同じほどで、武装もあって物々しい雰囲気です。
 ただ、甲冑を帯びたその姿に違和感はありません。
 むしろその立ち姿は洗練されていて、英雄という言葉を形にしたかのよう。

 サミュエル殿下は周りから『金色の獅子』と呼ばれています。
 それに対して、ラングリフ殿下は『黒き大鷲』のような印象の方でした。
 そんなラングリフ殿下ですが、一言、呟かれました。

「……これは、滑ったか?」
「ええ、これ以上なく」
「これ以上なくか。相変わらずマリセアは容赦がないな」

 近くにある机に兜を置いて、殿下は表情を変えることなく肩を落とします。
 その際も、纏われている甲冑がいちいちガチャリと金属音を立てているのです。

 この方が『断崖の君』?
 武装していることもあり、見た目は確かに威圧感があります。

 けれども、聞いていたお話とはイメージが違うような……。
 他人に心を開くことのない、単身で断崖に立つ孤高なるお方、ですか……?

「――で、そちらが、例の」

 ラングリフ殿下の黒い瞳が、今度は私に向けられます。
 そのときにはもう、私の顔にはいつもの笑みが浮かんでいました。反射的に。

「リリエッタ・ミラ・デュッセルでございます」

 殿下に対して、私は改めて御挨拶をしました。
 サミュエル殿下にできなかったことを、ラングリフ殿下に行なったのです。

 何を今さら、という想いが私の胸を深く衝きます。
 この挨拶のやり方も、私を捨てたお父様から学んだことではありませんか。

 今となっては、その記憶の全てが唾棄すべきもののはず。
 なのに、私はこうして学んだことを学んだ通りに行なっています。愚かしくも。

 本当に空っぽな自分。嫌気が差します。
 今の私に残されているのは、『花の令嬢』としての笑顔の仮面だけで――、

「リリエッタ」
「はい、ラングリフ殿下。何でございましょうか?」

「もしや、何か不満などあったりするか? 俺は何かしてしまったかな?」
「……はい?」

 急に、何を言われるのでしょうか。
 私は意味が理解できず、殿下のお顔を見返しますが全く表情が読めません。

 ラングリフ殿下はその端正なお顔をきつく引き締めておられます。
 そこには、確かに威圧的なものが感じられました。
 きっとこれも殿下が『断崖の君』と呼ばれる原因の一端だろうと思いました。

「いや、君のことは笑顔が美しい『花の令嬢』であると聞き及んでいたのだが」
「は、はい。ありがたき幸せに……」
「しかし、どうにも笑顔がぎこちないのでな。無理矢理作っている笑みのように思えてしまったのだ。だから、もしや俺がやらかしてしまったのか、とな……」

 無理矢理、作っているような笑顔……?

「あの……」
「それでは、殿下。リリエッタ様をお連れ致しましたので、私はこれで」
「ああ、ご苦労だった。マリセア」

 戸惑う私をよそに、殿下はマリセアさんを見送りました。
 そして、広い部屋の中に、私と殿下だけが残される形となったのです。

「さて……」
「はい」

 殿下が再びこちらへと視線を向けられます。
 私は、変わらず笑顔を保ったまま、ラングリフ殿下の次の言葉を待ちます。

「あのな、リリエッタ」
「はい、殿下」

「俺は兄貴とは違って口が上手くない。政治やら、貴族の駆け引きやらにも疎い無骨なだけの男だ。だから礼を失していることは承知で言わせてもらうのだが」
「は、はい……」

 殿下の鋭いまなざしが、私を射貫きます。

「そんなに笑いたくないなら、笑うのをやめたらどうなんだ?」
「…………」

 私は、何も返すことができませんでした。
 殿下のお言葉に、心の奥の最も深い部分を突き刺されてしまったからです。
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