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5 或外れ者の音楽家
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ヴァイオリンの旋律がひばりを夢から現実へと引き戻した。
夢が本当に夢でしかなかったかなど、ひばりには知る術は無かったが、兎にも角にもひばりは目を覚ましたのである。ヴァイオリンの旋律は情緒的にフィルターの内部を包んで居た。身体を起こすが其処にエリアーデの姿は無い。日はとうに上がっているらしく、半分開かれた戸の向こうからは光が差して居る。エリアーデの名を呼ぶが答えは無い。どうやらフィルターの中には居ないらしい。
欠伸を一つ。ひばりは春を待つ冬の空へと足を踏み入れた。日差しがきらきらと雪の表面をなぞって光を反射させて居る。桜の咲かないのは冬のせいではなかった。もう随分前から、地球に桃色の花は咲いて居なかった。
旋律の元はすぐに辿る事が出来た。
其処には一台の戦車が在って、―とうに動く事を止め、他の自家用車と同じ様に情けなく雪の中に埋もれていた、その上部の丸い入り戸の上で一人の男が躍る様に弓を引いて居た。そのヴァイオリニストの観客は唯一人。それがエリアーデであったのである。
ひばりは音楽をあまり知らなかったが、それでもこのヴァイオリニストが天才と言われる一人である事ははっきりとわかった。彼の鳴らす音楽は熱気に満ち満ちて居た。音の一つ一つがまるでそれぞれ呼吸をしているかのように凍てつく早朝の空気を走って来る。この寒空に在って、彼の音楽だけが冬を溶かして居られるようであった。彼のヴァイオリンはひばりの心に直接語り掛けているようだった。
ひばりは気が付けばエリアーデの隣に立ち観客の一人に加わって居た。生きている。ひばりはその事を深く感じ入らずには居られなかった。エリアーデはこちらに気が付くと哀しそうににこりと笑った。彼女がひばりを見たのはこれきりで、それから先はずっとヴァイオリニストの方を向いていた。
一時間、もしかしたらもっと立って居たのかも知れない。そのヴァイオリンが止んでしまうまで、ずっと二人はその音楽に身を委ね続けた。
彼の名前はパガニーニと言うらしい。
彼は「疲れたよ」と笑って弓から弦を逃がしてやると、二人に一礼をして名乗ったのであった。音楽が止んでしまうと、彼も唯普通の青年であるらしかった。背が高くてウエーブの掛かった長髪を額の真ん中から垂らして居る。年は二十歳前後であっただろう。
「名前は?」パガニーニが問う。
「ひばり」「エリアーデ」それぞれ応えた。
「君、オートマタだね?」彼は弓に手を入れながら何でも無いというように言った。
「そうよ。」
「そうか。僕の音楽を聞いていてどう思った?」
エリアーデは少し考えるようにして「音がとてもずれていたわ」と言った。パガニーニは少し驚いたようにエリアーデの方を向いて「No goodとは言わないんだな」と言った。
「だって、芸術としてはとても優れて居たんだもの。」
「君みたいなオートマタは珍しいよ。大抵のやつは僕の音楽を嫌うんだ。知ってるかい? 今、この世界では理性と本能が戦争をして居る。僕みたいなやつは理性からは随分縁が遠いから、機械仕掛けの奴らの気に入らないらしい。何処へ行っても、僕の音楽は命からがらさ。」彼はやれやれと身ぶりを付けて言った。
「戦争をしているの?」ひばりは聞いた。
「君は…?」そう言いながら彼は尋ねるようにエリアーデを見た。
「そうか、君は知らないんだな。まさに世界は戦争の只中なんだ。僕は絶賛逃亡中。」
「本当に何も知らなくて…君は誰から逃げているの?」
「言っただろう。」彼は笑って見せた。
「理性ってやつからさ。あまり言いにくいんだけど、彼女のような機械仕掛けの人たちが僕を捕えようとしてるんだ。理性はどうしても僕を赦さないのさ、秩序を乱す反乱者だとか言って。でも、芸術家が理性的でなど居られるものか。」
「おかしいよ。理性と本能は対立するけれど、両立が出来ない訳じゃないのに。」
「戦争って、そういうものだよ。考えて見てよ。アメリカとロシアだってやろうと思えば共存出来たはずじゃないか?」
そう聞かれてもひばりには何も答える事が出来なかった。理想と現実。どの時代に在っても人間の悩む事は大抵同じ事であるらしい。
「でも、良かったよ。君たちがそのどちらにも所属する人間じゃなくてさ。」
「私も?」エリアーデが笑って聞いた。
「そうだよ。だって、他のオートマタたちは聞く耳を持った試しが無い。僕がヴァイオリンを持つだけですぐに機関銃を構えるんだ。」
「それはひどいわね。でも、そもそも私機関銃なんて持って居ないのよ。」
「そうかい?」パガニーニは少し考えるようにしてエリアーデの右腕を見た。
「その窪みは何の為にあると思う?」
「窪み?」見ると彼女の腕の内側には切れ込みがあって扉のようになって居た。エリアーデはそれを観察してみて、身体をびくりと震わせたかと思うと腕をかばうように身体に寄せた。ひばりはその動作を見て、彼女がオートマタであった事を再確認した。
「冗談だよ。」彼は笑った。
彼が笑ったと同時に遠くの方で何やら銃声がした。彼はやれやれと口に出して言ってから「さっきの音楽を聞きつけて来たらしい」と言った。
「ほらね、すぐに機関銃を撃って来るんだ。あの距離からだと余程運が悪く無いとまず当たらないけどね。君らもすぐに逃げた方が良い。」
遠くからは何やら甲高いサイレンと油の差していないような軋む機械音が聞えている。ひばりは心臓の奥の方を不安に荒立てながらエリアーデの方を見た。エリアーデは、大丈夫とでも言うように微笑んで居る。
パガニーニは「またな」と言って颯爽と駆けて行った。姿が見えなくなる最後に鳴らした彼のヴァイオリンは確かに自由を歌っていた。そうした出来事がものの数秒の内に起こって、ひばりは初めて向けられた銃口に気を動顚させながらも何とか直立して居た。
夢が本当に夢でしかなかったかなど、ひばりには知る術は無かったが、兎にも角にもひばりは目を覚ましたのである。ヴァイオリンの旋律は情緒的にフィルターの内部を包んで居た。身体を起こすが其処にエリアーデの姿は無い。日はとうに上がっているらしく、半分開かれた戸の向こうからは光が差して居る。エリアーデの名を呼ぶが答えは無い。どうやらフィルターの中には居ないらしい。
欠伸を一つ。ひばりは春を待つ冬の空へと足を踏み入れた。日差しがきらきらと雪の表面をなぞって光を反射させて居る。桜の咲かないのは冬のせいではなかった。もう随分前から、地球に桃色の花は咲いて居なかった。
旋律の元はすぐに辿る事が出来た。
其処には一台の戦車が在って、―とうに動く事を止め、他の自家用車と同じ様に情けなく雪の中に埋もれていた、その上部の丸い入り戸の上で一人の男が躍る様に弓を引いて居た。そのヴァイオリニストの観客は唯一人。それがエリアーデであったのである。
ひばりは音楽をあまり知らなかったが、それでもこのヴァイオリニストが天才と言われる一人である事ははっきりとわかった。彼の鳴らす音楽は熱気に満ち満ちて居た。音の一つ一つがまるでそれぞれ呼吸をしているかのように凍てつく早朝の空気を走って来る。この寒空に在って、彼の音楽だけが冬を溶かして居られるようであった。彼のヴァイオリンはひばりの心に直接語り掛けているようだった。
ひばりは気が付けばエリアーデの隣に立ち観客の一人に加わって居た。生きている。ひばりはその事を深く感じ入らずには居られなかった。エリアーデはこちらに気が付くと哀しそうににこりと笑った。彼女がひばりを見たのはこれきりで、それから先はずっとヴァイオリニストの方を向いていた。
一時間、もしかしたらもっと立って居たのかも知れない。そのヴァイオリンが止んでしまうまで、ずっと二人はその音楽に身を委ね続けた。
彼の名前はパガニーニと言うらしい。
彼は「疲れたよ」と笑って弓から弦を逃がしてやると、二人に一礼をして名乗ったのであった。音楽が止んでしまうと、彼も唯普通の青年であるらしかった。背が高くてウエーブの掛かった長髪を額の真ん中から垂らして居る。年は二十歳前後であっただろう。
「名前は?」パガニーニが問う。
「ひばり」「エリアーデ」それぞれ応えた。
「君、オートマタだね?」彼は弓に手を入れながら何でも無いというように言った。
「そうよ。」
「そうか。僕の音楽を聞いていてどう思った?」
エリアーデは少し考えるようにして「音がとてもずれていたわ」と言った。パガニーニは少し驚いたようにエリアーデの方を向いて「No goodとは言わないんだな」と言った。
「だって、芸術としてはとても優れて居たんだもの。」
「君みたいなオートマタは珍しいよ。大抵のやつは僕の音楽を嫌うんだ。知ってるかい? 今、この世界では理性と本能が戦争をして居る。僕みたいなやつは理性からは随分縁が遠いから、機械仕掛けの奴らの気に入らないらしい。何処へ行っても、僕の音楽は命からがらさ。」彼はやれやれと身ぶりを付けて言った。
「戦争をしているの?」ひばりは聞いた。
「君は…?」そう言いながら彼は尋ねるようにエリアーデを見た。
「そうか、君は知らないんだな。まさに世界は戦争の只中なんだ。僕は絶賛逃亡中。」
「本当に何も知らなくて…君は誰から逃げているの?」
「言っただろう。」彼は笑って見せた。
「理性ってやつからさ。あまり言いにくいんだけど、彼女のような機械仕掛けの人たちが僕を捕えようとしてるんだ。理性はどうしても僕を赦さないのさ、秩序を乱す反乱者だとか言って。でも、芸術家が理性的でなど居られるものか。」
「おかしいよ。理性と本能は対立するけれど、両立が出来ない訳じゃないのに。」
「戦争って、そういうものだよ。考えて見てよ。アメリカとロシアだってやろうと思えば共存出来たはずじゃないか?」
そう聞かれてもひばりには何も答える事が出来なかった。理想と現実。どの時代に在っても人間の悩む事は大抵同じ事であるらしい。
「でも、良かったよ。君たちがそのどちらにも所属する人間じゃなくてさ。」
「私も?」エリアーデが笑って聞いた。
「そうだよ。だって、他のオートマタたちは聞く耳を持った試しが無い。僕がヴァイオリンを持つだけですぐに機関銃を構えるんだ。」
「それはひどいわね。でも、そもそも私機関銃なんて持って居ないのよ。」
「そうかい?」パガニーニは少し考えるようにしてエリアーデの右腕を見た。
「その窪みは何の為にあると思う?」
「窪み?」見ると彼女の腕の内側には切れ込みがあって扉のようになって居た。エリアーデはそれを観察してみて、身体をびくりと震わせたかと思うと腕をかばうように身体に寄せた。ひばりはその動作を見て、彼女がオートマタであった事を再確認した。
「冗談だよ。」彼は笑った。
彼が笑ったと同時に遠くの方で何やら銃声がした。彼はやれやれと口に出して言ってから「さっきの音楽を聞きつけて来たらしい」と言った。
「ほらね、すぐに機関銃を撃って来るんだ。あの距離からだと余程運が悪く無いとまず当たらないけどね。君らもすぐに逃げた方が良い。」
遠くからは何やら甲高いサイレンと油の差していないような軋む機械音が聞えている。ひばりは心臓の奥の方を不安に荒立てながらエリアーデの方を見た。エリアーデは、大丈夫とでも言うように微笑んで居る。
パガニーニは「またな」と言って颯爽と駆けて行った。姿が見えなくなる最後に鳴らした彼のヴァイオリンは確かに自由を歌っていた。そうした出来事がものの数秒の内に起こって、ひばりは初めて向けられた銃口に気を動顚させながらも何とか直立して居た。
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