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3.旅立ち
30.5年後
しおりを挟むA国のとある町の中心部、立ち並ぶ高層ビルの1つに響一郎の会社はある。
最上階ではないが、社長室と応接室を兼ねた部屋から見える町の景色は素晴らしい。日本では見られないような青色の空の下に、豊かな緑と赤と白の瓦が鮮やかなA国特有の建物が見える。
革張りのソファに座り、ガラステーブルを前に2人向かい合う。
「正直、顔を見せに来てくれたのは意外だったな。振り込みで済ませると思っていたから」
自ら入れたコーヒーを勧めながら響一郎は言う。
目の前の相手……藤江は、響一郎の顔を真っ直ぐ見て微笑む。
「人としての礼儀を忘れてはいけない、というのが俺の信条ですから」
響一郎は感心して藤江を見つめる。
日本にいたとき、響一郎が藤江の顔を直接見たことはなかったが、この5年で大分風貌は変わったのだろう。
今の藤江はA国によく馴染む見た目をしている。
短く刈り込まれた黒髪、健康的に焼けた肌に白い歯が光る。藍色に近いブルーの半袖シャツにスラックスと革靴を合わせている。こちらではネクタイをする人がほとんどいないから藤江もしていない。
響一郎も同じような服装である。
「まぁ、色羽に使われて響一郎さんと灯さんを売ろうとした俺が礼儀だ何だの言ってもお笑いなんですが。灯さんに散々酷いこと言ってしまいましたし……」
藤江は自嘲的に笑う。
「いや、色羽みたいな悪魔に目を付けられたら、ほとんどのヤツは逃げられないよ」
響一郎は明るく笑って言う。
「優しいですね……」
藤江はコーヒーカップを持ち上げる。俯いて黒い液体を眺めながら口を開く。
「なんで5年前、俺に金を貸してくれたんですか?」
5年前、響一郎と灯は、船でA国に渡った。
船が日本を出航する直前、別れを告げるために駆け付けた林……幼少時から響一郎の世話をしてきたじいやに、響一郎は最後の頼みを託した。
それは、響一郎の預金をA国の口座に移すことだった。ただし、当時借金を背負いホームレスだった藤江に必要分を貸すように、とも伝えた。
林は藤江の居場所を突き止め、頼まれたことを実行した……
「ただの自己満足だよ。人が差を付けられて、憎しみ合って、傷つけ合っていくのにうんざりしたんだ。人生の大半をそのピラミッドの上で過ごしていた自分自身にも……REDになって数年経って、やっと自分のことを冷静に見れたんだ。俺は憎まれても仕方ない人間なんだ、って……でも、俺は自分に出来ることがしたかった。そのために利用したのが君だった。ただそれだけさ」
響一郎は淡々と言う。
「それだけであのハンパない金額を俺に……簡単に出せる額じゃなかったですよね?」
藤江は信じられないといった様子で響一郎の顔を見る。
響一郎の妹、色羽が可愛がっていた手下を突き落とすため、手を尽くして背負わせた借金は数百万円あった。
響一郎はその大部分を返せる金額を林経由で藤江に手渡した。
元々REDにされたときにα時代の財産はほとんど剥奪されていたこともあり、響一郎と灯はA国でほとんど無一文でのスタートとなった。仕事が軌道に乗るまで、2人はギリギリの生活を送った。
1年前、やっと響一郎は独立して小さな情報サービスの会社を立ち上げた。灯もアルバイトしながら幼稚園の先生の資格を取り、最近働き始めた。
自分の選択について、響一郎は後悔していなかった。だから、そのまま藤江に伝える。
「俺自身が幸せになるとき、頭の片隅に不幸な人間がいるのが嫌だっただけ……俺の自己満足に君を巻き込んだだけさ。それに、君は絶対に返してくれると思っていたからね」
響一郎は応接セットの皮張りのソファに腕を広げて脚を組み、にっこりと笑う。
藤江も口角を上げて、微笑み返す。
「あげる、じゃなくて貸す、ってところに響一郎さんの優しさを感じましたね」
「あげるって言ったら受け取ってくれなかっただろ?」
「そうですね」
藤江は頷く。
藤江は床に置いていたアタッシュケースをガラステーブルの上に乗せる。
「5年掛かっちゃいました。利子もちゃんと付けています」
響一郎はそれを開けて、中身を確認する。
「うん。返していただきました。ありがとう」
確認し終わった響一郎はアタッシュケースを閉めて、自分側の床に置く。
「日本でも必死で頑張りましたけど……A国に来たことでより稼げるようになりました。A国に移住する決断をさせて貰ったのは響一郎さんの影響ですね」
5年間を思い出すように藤江はしみじみ言う。
藤江は3年前からA国に移住してきて、A国でも5本の指に入る有名企業で働いている。日本とは違い、αもβもΩも関係ない成果主義なので藤江は不満のない額の給料を貰っているらしい。
「俺らが日本を出て……色羽たちも日本から逃亡して……5年経っていろいろ変わったな」
響一郎はこの5年間を振り返るように言う。
「色羽たちも、祖父が急逝してからはあっという間の転落だったな」
2年前、上天神家で一番権力を持っていた響一郎の祖父、調一郎が脳梗塞で倒れ、そのまま急死した。
その直後から、週刊誌やSNSに色羽と音二郎の「悪行」の被害者たちの声が次々と出てきた。
2人……特に色羽は、中学生時代から気に入ったΩを無理矢理犯し、番にしては飽きて捨てていた。
「私にとってΩの首筋は犬にとっての電柱みたいなものよ。好きかも、と思ったら、とりあえず犯して噛んでおくの」という当時の同級生の台詞も雑誌にしっかり掲載されていた。
グループ会社に入ってからも、絶大な権力を盾に、パワハラのような形でΩを食い荒らしていた。「家畜部屋」という、色羽お気に入りのΩたちをだけを集めた部屋まで作っていたらしい。
A国などの外国の影響で、ここ数年日本でもΩを同じ人間として認めようという動きが活発になっている。
それでも、本来ならば、上天神家の権力が行使されて、悪評が出てもしばらく経てば引いただろう。
しかし、実際には、色羽たちは両親を除く上天神家の全員、さらに他の上流階級のαたちからも色羽たちを排除させよう、という声が大きかった。彼らは色羽たちの被害者たちに味方し、世論を煽るように仕向けた。
その理由は、色羽が響一郎を逃がしてしまったからだ。
日本のαの伝統であり必要悪、同時に決して知られてはいけない恥部とされるのがREDの存在である。日本の上流階級のαたちは絶対にRED制度を残したいと考えていた。外部にその存在を知られることを何より恐れていた。
あろうことか、色羽は自分のREDである兄、響一郎の脱走を許した。
色羽としては、すぐに響一郎を取り返し、目と耳を潰した肉便器にしようという考えだった。しかし、取り返すどころか、響一郎を外国に逃してしまう失態を犯した。
外国に逃れたREDである響一郎はもはや歩く時限爆弾だ。いつREDのことを喋って世界中に広めるかわからない。
そんな爆弾をセットしてしまった色羽や音二郎、その両親には上天神グループのトップに立つ資格はない、というのがRED制度を支持するαたちの判断だった。
守ってくれるはずの上流階級のαからもそう判断され、色羽と音二郎、その両親は行き場を失った。
一家は逃げるように海外へ飛んだ……その行方は分からない。
「響一郎さんはREDの風習をなくそうとはしないんですか?」
遠慮がちに藤江は聞く。
コーヒーカップを口に運ぼうとしていた響一郎の手が止まる。
気持ちを落ち着かせるためにコーヒーを一口飲んだ後、響一郎は少し考えて思いを纏める。
「正直言うと、最近まで、そんなこと考えていなかった。自分の生活を守ることに必死で……日本から俺のことを誰か捕まえに来るんじゃないか、と不安で……でも、最近、やっとそういうことも考えるようになったよ。今でも昔の俺みたいにREDにされて苦しんでいるヤツがいると思うと辛い。絶望の淵から助けてやりたい、って思う」
自分の過去と現在の誰かの痛みが繋がり、響一郎の目から涙が零れる。
藤江は慌てて謝る。
「すみません。無神経なことを聞いてしまいました」
響一郎はそれを静止するように手を出す。
「良いんだ。いつかは向き合わなければいけないことだから……俺自身も貴崎さんに助けられてここまで来たんだ。俺もいつかは助ける側に行きたいよ」
藤江は輝く目で響一郎を見る。
以前は「特権階級の責任を放棄したクソ元α」として響一郎を見ていたが、今はただの「A国で働く先輩」として藤江は響一郎を見ている。
それから2人はしばらく雑談して、最後は笑顔で別れた。
「また会おう」と自分から言ったことに響一郎は驚いた。
でも、本当に響一郎は藤江とまた会いたい、と思った。
5年という歳月と差別のない社会は、対立していた2人の関係も変えたのだ。
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