泡沫の夢物語。-男と女の物語。短編集-

久遠 れんり

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最悪の人生、その時に -新しい年、新しい自分、変わる切っ掛けは…… 一つの出逢い- 短編用

第6話 自己紹介

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「永礼さん。よろしいでしょうか?」
「はい、いいですよ」
 声ではそう返事をしたが、彼女の方を向きもせず、座卓の前で茶をすすりながら視線はスマホへ。

「お邪魔します」
 そう言って、中へ入るとやっと視線が彼女に向かう。

 六畳ほどの畳の間、中央には座卓、この部屋にはテレビなどはない。
 テレビや、食事用だと思える大きめの座卓は、玄関を入ってすぐ、露天風呂の北側の部屋に集まっている。
 中央の南北、浴室八畳と、食事用八畳、それを挟んで東西に六畳間が二つ。
 南側の六畳間は、浴室を囲む小さな廊下を歩くことになる。

「これ、売店で見つけたんです。おまじないに付けてください」
 小さな紙袋。

「ありがとうございます」
 そう言われ、立ち上がろうとした冬先だが、すすすと文美が冬先の右横へと移動してちょこんと座る。

「あっ、座布団がそこに」
 向かい側には座椅子もあるのだが、何もない畳の上に、彼の横に座った彼女はなぜかものすごく笑顔だ。
「私のことはいいから、開けてみてください」
 そう言って、少し急かしながら彼に渡す。

 彼は喜んでくれるだろうか、彼女の心は、その時思っていたのはそれだけだった。

 ワクワクとする。

 中を見て、思っていた表情ではない、険しい顔。
「ほう、両手を挙げている。そして交通安全。これは…… まあ、ありがたい」
 言葉からすると喜んでいるようだが、笑顔ではない。

「かわいくないですか?」
 一瞬犬派か? とも思ったが聞いてみた。
「いや嬉しいよ。ありがたく使わせて貰う…… あーすまない、自己紹介もまだだった。永礼 冬先ながれ とうせん二十六歳だ、仕事はトレーダーだ。一般的には無職」
 それを聞いて、経済系に明るくない文美は、頭の中にクエスチョンマークが乱舞する。

「とれーだー? あっすみません。私、阿久井 文美あくい ふみ二十四歳です、先日仕事を辞めたので、私も無職です」
「やめた?」
「ええ、看護師だったのですが、色々あって……」
 文美はその時、冬先の目を見ていた。

 『看護師』と言うワードをこよなく愛し、強烈に引きつけられる男性がたまにいると聞いている。
 だが彼は、残念ながら、その手合いでは無かったようだ。

 勤務中、実はその手の誘いをしてくる患者がいる。
 しつこいと、担当を変えて貰うが、自身のモノを元気にしてわざと見せてくるとかもうね……


 文美から受け取ったとき、両手が上がっているまねきねこを見て驚く。彼はその意味を知っていた。
 これは商売用だよな。金運と客運だった気がする。
 それなのに、ぶら下がる札は交通安全。

 この主体性のない、いい加減さ。このキーホルダーは、存在していて良いものなのか? そんなことを考えていた。そのせいで、険しい顔になったが、金運と交通安全だけを信じることにする。
 自分の家に、千客万来で人が来るのは、きっとろくでもないことだ。

 さっきの跳ね上がりを思い出す。
 もう少し、レバレッジを下げよう。
 どちらも安全第一だな。
 
 そこまで考えて、やっと表情が緩む。

 そうして、二つ下の看護師さん。
 その年数でやめるのは、何かあったのだろうかと思いつく。

 女性が仕事をやめる。
 セクハラか、結婚か?
 結婚なら相手が……
 ここは、ファミリー向け。後から彼が……
 いやそれなら、俺を泊めたりしない。
 破談となり別れたが、キャンセル料が勿体ないからやって来た。

 いやしかし、今時新婚旅行なら、海外。
 いやいやいや、医者と看護師なら、簡単に長期の休みは取れまい。
 旦那の実家がこの近くで、挨拶後はこっちに宿泊予定だったのだが、その前に何かがあったと考えるべきか?

「永礼さん? だいじょうぶですか?」
 彼女の心配そうな顔が覗き込んでいた。

 思考の海に没頭していた彼は、ついその勢いのまま疑問を口にしてしまう。
「なぜやめた? どうしてそんな安定そうな職を辞した、わしにもうしてみよぉ」
 そう言いながら、思わず彼女の両肩を、握ってしまう。

「えっえっ? 何ですか? ちょっと怖いです。鼻息が……」
 その声を聞いて、正気に戻る。

「あっ、いやすまない。仕事柄、人と喋るのになれていなくて」
 仕事柄…… いい。これは使える。
 そんな彼の思いとは別に、彼女は考えていた。

 今がベストでは? 酔わせてと思っていたけれど、正気のほうが正解かも。
 細く、短い糸をたぐるため彼女は口を開く。

「一千万円で私を買ってください。あっ」
「えっ? 一千万?」
 彼女はテンパって、どうしようもなかったときの一言を、つい冒頭へと持って来てしまった。口から出た言葉はもう取り戻せない。

「ええ、はい。そうなんです。実は……」
 喋りながら足が痛くなり、座布団を求めて、座椅子ごと引っ張ってきた。
 座椅子に座り、向かいながら話し込み、外に向いた障子が本格的に赤く照らされる。

 おおよそ、三十分くらいだろうか?
 彼女の全くまとまりのない、主観だらけの話は終了をした。
 そしてノリノリで喋ったために、彼女はとんでもない事まで暴露をした。
 それを聞いて、当然彼は切れていた。

 昔同じ事をされ、未だに苦しんでいる彼なのだ。
「へー、男に騙されて、借金を背負わされたと。払えないから死のうと……」
「はい、そうです」
 演技ではなく、涙が浮かぶ。

 だが、彼は言い始める。
「俺は人間嫌い。それも女が大っ嫌いなんだ」
「あっそちらの? 多様性ですよね」
 一応反応をする、驚きながら。

「違うから聞け。そいつは純真無垢な高校生だった。ある日好きだった女の子に誘われて。手を引かれながら有頂天だった。だけど……」
 そう、彼は喋った、怒りのままに。
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