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番外編 絶海と柳の話
幸福を知っていた 視点 柳久遠
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『どこにいくの、久遠』
百貨店に向かって歩いていた僕の耳に『彼女の声』が潜り込んできた。いつもの幻聴とわかっているのに僕は咄嗟に足を止めてしまう。背後を歩いていた人が僕の背中にぶつかり、いて、と声を上げる。謝らなくてはいけないと思っているのに僕の体は動かない。その人は不審そうに僕をちらりと見たが、すぐに僕を追い越していった。
『普通の人』は急に足を止めない。ぶつかってもすぐに歩き出す。
僕も右に倣ってそうしようとしているのに、僕の心臓は太鼓みたいな音を立て、僕の喉は呼吸を忘れ、僕の脚は石像のように固まってしまう。そして僕の耳は『彼女の声』を聞く。今そこにいるかのようにはっきりと彼女の声を聞き取ってしまう。
『久遠の帰る場所はここでしょ?』
あのとき、――僕が児童養護施設を出ていったときの彼女の声。
雑踏は流れていく水のようにしなやかに僕を避けて歩いていく。僕以外の『普通の人』は『普通の道』を歩いていく。僕なんか見えていないみたいに歩き去っていく。頭が割れそうに痛み、天と地がひっくり返り、僕だけが壊れていく。
『おいてかないで』
その言葉を最後に幻聴はおさまり、繁華街のざわめきが戻ってきた。額を手でぬぐうとべったりと冷や汗がついた。幻聴はおさまっても体力はすべて奪われてしまった。もう一歩も歩きたくない。けれどそうもいかない。今日は『約束』の日だ。彼が待っている。
「『約束』……」
それだけを救いに、僕はゆっくりと歩きだした。
■
待ち合わせ先のレストランは銀座の一等地の高い高いビルの一番上にあった。
皺のない服を着たウエイトレスに友人の名前を告げると、彼女は僕を一番奥の個室に案内してくれた。そこには僕の友人がすでに座っていた。
彼、――絶海――は僕の顔を見ながら煙を吐き、億劫そうに煙草を灰皿に押し付けた。
「俺を待たせるのはお前ぐらいだ」
百貨店で買った茶菓子を差し出すと、彼は片方の眉をあげて、友人に気を遣われるのは不愉快だと言った。高校を卒業して以来、五年振りに会ったというのに、彼の物言いは変わらない。そのことは僕を安心させた。
彼も僕を見て、変わらない間抜け面だ、と笑う。
「ウン、僕は大人になれないままさ。潔癖にして絶対の童貞」
「二十を過ぎてもその思想は怖いものがあるな……で、何を飲む?」
僕は自分の腕時計を指し示す。まだ昼の二時を過ぎたばかりだよ、と言葉でも付け足せば彼はつまらなそうにため息を吐く。
「常識人め。マア、いい……何か食うか?」
「いらない。珈琲でいい」
「どうせまともに食ってないんだろ、貧乏人。奢ってやるから好きに頼め」
「そんな言い方……じゃあオムライスとメロンソーダ」
彼はクツクツと笑い、呼び鈴を鳴らす。それは美しく高い音をしていた。
彼は僕のために看板メニューのオムライスとメロンソーダを頼み、自分には珈琲と灰皿の替えを頼む。訓練されたウエイトレスは微笑みを崩すことなく素早く替えの灰皿をサーブし、吸い殻が山になった灰皿を片手に立ち去った。随分待たせてしまっていたらしい。
「絶海、……待たせたね」
「構わない」
彼は唇を人差し指で叩く。
吸っていいよと煙草を指差したが、彼は首を横に振る。彼はしばらく黙った後、口を開いた。
「五年経ったな、柳。あの『約束』から」
『約束』
――その言葉を皮切りに過去が甦る。
高級レストランから夕暮れ時の高校に視界がうつっていく。
□
高校最後の日。
卒業式の後、僕たちは教室に居座った。傷だらけの机と椅子を並べて二人で夕焼けを見ていた。赤と橙と紫に染まった空が、教室が、彼の横顔がとても美しく、穏やかな時間だった。
「柳、この先、あてはあるのか?」
けれど不意の彼の問いに僕の心に波が生まれる。空は夕焼けを忘れ、夜に染まり始める。世界はあっという間に暗くなる。
今日、高校を卒業はできた。けれ施設を出た三年前と変わらず僕には金も学もないままだ。学生という身分がなくなり、どこへ進めばいいのかどころかどこに進めるのかもわからない。
そんな何にもなれない僕に彼は手を差しのべてくれた。
「俺のところに来ないか? ……お前なら歓迎する。腕っぷしもあって頭も切れるからな。……世間に誇れる仕事じゃないが、……俺とやるんだ。きっと楽しい。悪くない話だろう?」
彼は言葉を選びながら、ゆっくり話した。それは獣が獲物を狙うときのようだった。食われるつもりはなかった僕は首を横に振った。
「ありがたいけど君には頼らない。僕は僕でちゃんとやる。友人に見くびられるような僕じゃないんだ」
彼は僕の強がりを見抜いた上で差し出した手を下ろしてくれた。
「そうだな、お前は俺の友人だ。お前の選択に敬意を払おう。だから……五年逃がしてやる」
「五年?」
彼はクツクツと笑った。
「また会うときに俺に自慢できるような生き方をしていろ。いいな、柳。それができてなけりゃお前は俺が使う。『約束』だぞ」
「なにそれ。僕に選択権はないの?」
「お前がちゃんと生きてりゃいい」
「……じゃあ僕がちゃんと生きてなくて、でも君に使われるのも嫌だって言ったらどうなるのさ」
彼は少し考えてから微笑んだ。
「そんときゃ殺してやるよ。そんなつまらない人生、生きていても仕方ないだろ?」
詰め襟姿の彼の姿が蜃気楼のように揺らぎ、漆黒の着物姿の彼が姿をあらわす。
――夢が終わり、ここは今だ。
■
「柳? ぼんやりしてどうした?」
僕は会釈のような謝罪のような、何にもならない感情を込めて頭を下げた。彼は鼻に皺を寄せる。
「呆れた。また夢見てたのか? お前、気を抜くと夢から帰ってこなそうだな」
「……そうかもね」
「馬鹿が。ちゃんと今を生きろ」
あれから五年経った。
「絶海はちゃんとヤクザになったんだね」
「ちゃんとって……マア、そうだな。ちゃんとヤクザだ。あの頃とは違う」
僕たちが詰め襟を着ていた頃を、彼は懐かしむように目を細める。
「あの頃のお前は施設から出たばかりで、頭はいいのに学も金もないせいであんな底辺高に入る羽目になった。しかし腐ることはなく平和主義者……高潔なユニコーン」
そんなんじゃなかったと思うが、あの頃の自分は彼の目を通して見るとそうなるのだろう。僕は肩を竦める。
「絶海は、頭いいのにどうしてあの高校を選んだの?」
「裏切らない仲間が欲しかったからだ。学があると裏切るからな。おかげで俺は今、忠犬たちに守られている」
「忠犬なんて言い方……」
彼は携帯を取り出すと、懐かしい面々の写真を見せてくれた。みんなちゃんとヤクザになっていた。
「自分を受け入れたら役割がわかる。あいつらは犬に向いていて俺は飼い主に向いている」
彼の左手が僕の右手をとらえる。その目は卒業式と同じ、獲物を狙う獣の目だ。
「……僕も君の犬に向いていると?」
「いや、お前はヤクザに向いている」
彼が当然のようにそんなことを言うから、僕は笑いながら首を横に振る。
「僕はそんなものには向いてない。僕はね、ローン組んで白い家を建てて白い犬飼ってかわいい奥さんと住むんだ。『普通』の幸福ってそういうものだろ」
僕の言葉に彼は眉を下げた。
「お前はまだ『普通』になりたいのか?」
彼はまるで子どもでも見るかのように微笑む。その優しい笑顔が癇に触った。
「当たり前だろ! 誰が好き好んでヤクザなんて馬鹿な仕事をやるんだ! くだらない。馬鹿の極みだよ!」
「マア、真理だな」
少しも苛立つ様子なく彼は楽しそうに笑みを深めた。虚をつかれ僕は少し動揺した。彼は、それで?と笑う。
「……それでって……何が?」
「それでこの五年、結局お前は何をしていた? ちゃんと生きていたのか? 俺に自慢できるのか? 『嘘偽りなく』『心から』」
僕は唇をなめてから、フリーターだよ、と短く答えた。彼は、それじゃわからない、と苦笑する。
「じゃあ何が聞きたいんだよ。ちゃんと生きてるってどう証明したらいい?」
「仲のいい人間はいるか?」
僕は驚いた。そんなことを聞かれるとは思っていなった。用意していた今までの職歴を口にしても、興味がない、と彼は笑う。
彼は、聞きたいことはお前の新しい友人の話だ、いるならな、と笑う。
「お前は人といるのが好きだろ?」
「そんなこと……僕は誰も好きになったりしない……」
「ほう? 奥さんのためにどんな白い家を建てるんじゃなかったか?」
「それは違くて……だ、だから、僕は……」
「だからだからと駄々をこねてお前の語る幸福の実像はどこにある? 柳、答えろ」
僕が答える前にタイミングよくウエイトレスがやってきた。
彼女はオムライスとメロンソーダを僕にサーブした。でも僕はそれを見る余裕はなかったし、彼は珈琲には目もくれず僕の手も離さない。そんな奇妙な僕たちを目の当たりにしても、彼女は訓練されたウエイトレスだったから「ご用がありましたら呼び鈴を鳴らしてくださいませ」と笑顔で去っていった。
目の前に置かれたオムライスはあたたかそうで、とても美しい黄色をしている。
――彼女が作ってくれたオムライスとは大違いだ。あれはひどく焦げていた。
□
「久遠、食べなくていいってば!」
懐かしい声に目をあげる。
そこは児童養護施設の食堂だった。また過去だ、また夢に僕は逃げている。目の前には焦げたオムライス、隣には『彼女』がいた。僕の幼馴染み、同じ施設で育った、僕と同じ親知らずの同い年の捨て子。
彼女が作ったオムライスは真っ黒だった。
「旦那さんにそんなの食べさせるなんて!」
「でも僕のために作ってくれたんでしょう?」
「それはそうだけど、でもそれは失敗なの!」
彼女がそう泣いても、僕はそのオムライスを食べた。ジャリジャリと音がするほどの砂糖が入っているのに、それでもとても美味しく感じる。
「美味しい。ありがとう、大好きだよ」
「もう、おばか!」
そんな風に僕は彼女が好きだった。そんな風に彼女も僕を好きでいてくれた。
僕たちは幼いときから一人で生きていく術を教え込まれていた。そうでもしなければ生きていけないことを先生達はわかっていたし、僕たちもわかっていた。僕たちは自分達がすでにこの国のセーフティーネットにしがみついている、格差の象徴たる存在と理解していたから。
だから僕たちはずっと一緒にいる約束をした。それは頑張って生きようという約束だった。
「勉強をうんとして、奨学金で大学を出るのよ。公務員になるのよ。そうして私の家に帰ってくるの。白い家を建ててね。白い犬を飼ってね。そうしてかわいい赤ちゃんをたくさん育てるの。それが私たちの幸福だよ、久遠」
「うん、わかった。幸せにする」
たしかにそう約束した。でも、――僕はそれを守れなかった。
十二歳になったときに、ある先生から僕の親のことを教わった。
君の父親も母親も暴力を振るって塀の向こうにいる。君はそういう血。暴力は遺伝する。だから君もそうなる。
先生は繰り返した。他の先生が慌てた顔で止めにはいるまで繰り返した。
『君はいつか化け物になる』
その先生は養護施設を辞めた。病んでいたと後で聞いた。だから気にしなくていいと皆、慰めてくれた。
しかし、先生の言葉は僕の中に種となった。そしてそれは十五のときに発芽した。それが僕の終わらぬ悪夢の始まりだった。
些細ないざこざで彼女が僕を嫌いと言った。その瞬間に、僕は大好きな彼女を殴る白昼夢を見た。目が覚めたとき彼女を殴っていなかったことに心底ほっとして、――心底ゾッとした。
――次は夢じゃない。その確信があった。だから僕は家を出ると決めた。
別れの日、彼女は僕にすがって泣いた。生唾を飲み下し、彼女の涙をぬぐう。
「どこにいくの、久遠……久遠の帰る場所はここでしょ」
そんな風に泣いている君を見て、苦しく思う反面嬉しく感じる。もっと泣けばいいのに、もっと苦しめばいい、もっと痛め付けてやりたい。
先生の言う通り、僕は化け物になった。
「……おいていかないで」
――パン、と高い音がした。
■
「目が覚めたか、ユニコーン。つまらない生き方をしているから脳みそが現実逃避をするんだ」
「……そんな言い方……」
彼に殴られた頬が痛む。睨み付けても彼は笑うだけだった。
「夢見てないでオムライスを食え。メロンソーダを飲め。そして……『約束』通りヤクザをやれ」
「嫌だよ」
「何故?」
「ヤクザは人を傷つける仕事だ」
「人を殴るの好きだろう?」
「……そんなの好きじゃない。僕はだれも傷つけたくない」
僕は必死に嘘をついた。口にする度に唇が乾く嘘をついた。そんな僕を見て、無理をするな、と彼は困ったように眉を下げる。
それはあまりにも優しくて残酷な言葉だった。
「仲いいやつできるほど堅気に馴染めなかったんだろ。バイトだってどんだけもった?」
「……最長、三週間だけど……」
短いな、と彼は苦笑する。
「柳、たしかにお前は優しく正しくあろうと努力している。死ぬまでそうできるかもしれない。だが、もしも我慢できなくなったら? ……そうやって怯えて暮らすのは辛いだろう?」
彼の言葉を聞いて、その通りだとわかった。いや、本当はずっとわかっていた。どこへ逃げても自分からは逃げられない。どこへ行こうと、僕はこの僕から逃げられない。僕は、この暴力性から逃げようがない。どれだけ我慢しても、それは我慢だ。僕が死ぬのを待つだけの我慢ゲームでしかない。
僕の人生には苦痛しかない。
溢れそうになった涙を気合いで飲み込むと、絶海は仕方なさそうに微笑んだ。
「お前には友人がいるのに、なぜ頼らない?」
「……友人?」
「俺だ。俺を頼れ」
彼が僕の腕を強くつかむ。
「お前が楽に生きられる場所を俺が用意してやる」
彼の言葉は僕が必死に建てたバリケードを突き破って、僕に突き刺さった。剥き出しの心臓をつかまれた衝撃で、僕は息も出来なくなる。
彼は僕が僕を諦めてもまだ、こんな化け物を生かそうとしてくれるのだ。
そうだった。獲物を狙う獣のように残酷で、しかし行き場のない人間を飼う程度には優しいやつなのだ。
「嫌なら組員にならなくていい。喧嘩のときだけ来るだけでいい。お前の憂さ晴らしに俺を使えばいいだろう?」
地獄に垂らされた蜘蛛の糸みたい。気まぐれな神様が都合よく僕を救ってくれるヒーローを派遣してくれたんだろうか。涙が喉につまって、鼻の奥が痛む。僕の爪は僕の手の平に突き刺さって血をこぼす。それでも彼は僕を見ている。
「なんで……君はそんなに優しいんだよ……ひどいこと言ったのに、……なんで怒らないの……?」
「お前はひどいことなんか言ってないだろ? 俺は使えるもんを使うだけだ。お前もそうしろと……」
「やめてくれ、そんな気遣い! それじゃ駄目なんだ!」
でもそれじゃ僕がここに来た意味がない。
「駄目? 何が駄目だ?」
「……僕は、君を怒らせるんだ、君は、……ヤクザだから人の消し方もわかってるだろう……?」
「何を……」
「怒ってよ、絶海。ちゃんとヤクザになったんだろ? 僕はちゃんと生きてないし、そんな風にちゃんとしたヤクザにだってなれやしないよ。僕は、ただの化け物なんだ……だから、ちゃんと僕を……『約束』通り殺してくれ」
彼は深く、深く、息を吐き出した。
「それが……、この五年でお前が出した結論か?」
僕が頷くと彼はまた僕の頬を張った。それでも僕は、他に道はない、と言った。彼の顔が歪む。
「死んだらもうだれも傷つけない。だから僕はもういいんだ。頼むよ、絶海。僕を……」
「まだ何もよくねえよ!」
平手した右手で彼は僕の頬を撫でた。熱を孕んだ頬に彼の手は冷たい。痛め付けたのは彼なのに、その手は優しい。彼は僕を睨んでいた。
「柳、友人にそんなこと言われて俺がどう思うか、少しも想像できないのか?」
――彼が僕を見ている。
□
三年の先輩たちが一人の二年生を囲んでいた。廊下の掃除当番だった僕はその現場に居合わせてしまった。
僕はその囲まれている青年とも、囲んでいる青年たちとも面識はなかった。ただ、囲まれている青年は、こんな底辺高校になぜか転入してきた噂の人だった。それで僕はなんとなく彼らを見た。
先輩たちは青年の肩をつついて、生意気なんだよ、と言った。その理由は目が気に入らないだとかそんなくだらないこと。よくもそんな自殺行為を、と今なら皆思うだろうが、当時は彼がヤクザの子どもであることをまだ誰も知らなかったし、彼は今ほど恐ろしい噂はなかった。
彼は自分を囲む人間の顔を見てから鼻で笑った。
「弱そうなガキばっかだな」
多勢に無勢なのに先に喧嘩を売ったのは彼だった。殴り合いが始まり、歓声が上がり、血が壁に飛ぶ。誰かの歯が床に落ちる。あれはリンチだ、止めないといけないと理性が言う。そのくせ体は妙に熱を帯びる。参加してしまえと悪魔が笑う。
生唾を飲み込んだとき、彼と目が合った。
「来いよ。殺してやる」
助けを求める目ではない。何もかも食ってやるという獣の目。その奥に僕の同じ化け物が見えた。
――彼は、同類だ。
気が付いたら僕は青年を羽交い締めにしていた人の頭を箒で殴っていた。骨を伝う衝撃。その人は膝から崩れ落ちた。その光景にぞくぞくと腹にナニカが走る。今まで感じたことがないソレは、間違いなく喜びだった。僕の飢えを抑え込む喜びだった。
「フルスイングか。いいな」
恐ろしい感覚に震えている僕の腕を青年がつかみ、走り出した。彼は豹みたいに足が速かった。僕は彼に引きずられるように走った。背後の罵声が聞こえなくなるまで僕たちは走った。
「鈍間め。あんな人数最後まで相手できるわけないだろ」
駅まで逃げてから彼はようやく振り向いた。そして僕の顔を見て目を丸くした。
「なんで泣いてんだよ?」
「……僕、……」
「ウン?」
「人を、殴ってしまった……」
「……なんだそれ」
彼は僕に拳を差し出した。
「絶海だ」
「……何?」
「俺の名前。お前は?」
「……柳久遠。柳って呼んで」
「柳か。ウン、柳、助かった。お前のおかげで死なずにすんだ」
「……なら、よかった」
震える拳を合わせて、あのとき僕たちは友人になった。
■
――絶海が僕を見ていた。
「……僕は君を傷つけた?」
どうだろうなと彼は笑った。嘘つきの笑顔だった。僕は、ごめんという意味を込めて深く頭を下げた。涙が机に落ちる。
彼は煙草臭い手で僕の頭を撫でてくれた。
「柳、普通になれないから死ぬなんて言うな。人を傷つけるから生きられないなんて言うな。そんなこと言うぐらいなら、倫理も、優しさも、社会も捨てろ。そんなもんはお前を縛るだけで守りはしない。こっちに来い。そしたら俺が守ってやれる」
「僕は守られる価値なんかないよ……」
「それは俺が決めることだ」
「でも僕は……死んだ方が世界のためになるんだ」
「だから何だ。素直になれ。お前は死にたくなんかないだろう?」
――そうだ。
「僕は、……僕が怖い。僕は化け物なんだ。わかってる。いつか我慢できずに誰か殺すかもしれない。でも、……僕は、……生きていたい……!」
絶海がようやく僕の手を離した。
「僕が一線を越えないように……僕を使ってくれる?」
彼はニッコリと笑った。
「当然だ。俺に任せろ」
「……プロポーズみたいだね。ダーリンって呼んだ方がいい?」
「阿呆」
「あはは、はは……」
「泣くなって……オムライス食え」
彼が笑う。
――その笑い声が遠ざかる。
◆◇◆
気が付けばそこは銀座ではなかった。赤坂の交差点。車に向かって歩いていた絶海が不思議そうに僕を振り返る。
「どうした、柳。夢でも見てたのか?」
「……うん」
「はは、変わらんなお前は。いつの夢だ?」
「君からのプロポーズ」
「記憶にない」
「五年前だよ」
「五年前? ああ、あれか」
そう、『あれから』もう五年も経った。
『守られるのは性に合わんが、俺のボディーガードにしてやる』
『了解、死んでも守る』
『死なさねえためにやってんだ、馬鹿野郎。お前はまず死ぬ気で生きろ。普通だの幸せだのなんだの、くだらんことはその後だ』
そんなわけで、僕は今は絶海のボディーガードをしている。
組の跡目で揉めている今、一瞬たりとも警戒を怠れないのに、なんでこんな夢を今さら見たのだろう。そんなことを考えながら彼の後ろを歩く。彼は煙草を吸いながら、のんきなもんだぜ、鈍間なユニコーンと僕をからかう。それに返事をしようと口を開いたとき目の前に男が飛び出してきた。反射で、僕は彼の前に飛び出す。
――タアン、と高い音。
男の頭を殴りつけ、そいつが意識を失ったのを見届ける。それから自分の腹に手を当てると、破裂した水風船みたいな妙な感触。
「あれ?」
視界に黒いアスファルトしかない。いつの間にか僕は倒れていた。気づけば指先すら動かない。と思っている間に眠くなる。
「柳!」
絶海が僕を抱き起こしてくれた。彼に怪我がなくてほっとしたら、さらに眠くなった。
「起きろ! 寝るな!」
彼の焦っている顔は初めて見る。笑いたいのに体は勝手に呻く。
「おい、柳!」
口を開いたら血がこぼれ、それでもなんとか喉を開く。これが最後の言葉になると自分でもわかっていた。
「……鈍間め、……守ってやった、ぞ……」
「このっ、馬鹿が!」
ぐらり、視界が揺れた。
■
――目を開くと、そこは児童養護施設だった。夕焼けに染まる食堂は懐かしい匂い。僕はつい笑った。
「走馬灯でもここに帰るのか、僕は……未練だな」
あたりを見渡すと一人の少年が部屋の隅で膝を抱えていた。こちらに背を向けて、彼は一人座っている。随分と暗い背中だ。
「君、……どうしたの?」
肩をたたくと少年が振り向いた。
それは幼い頃の僕だった。彼は僕を見て泣いた。
「どうして、ここを出たの? ここにいた時はずっと『普通』だったのに……ここで我慢していれば『普通』のまま死ねたかもしれないのに……」
彼は僕にしがみついてポロポロ泣いた。かわいそうだった。でももう僕はこの頃のように自分が嫌いじゃなかった。だから、彼にごめんねとは言えなかった。
「僕が生きるにはここを出るしかなかった。僕は『普通』じゃないからね」
「僕は『普通』じゃないの……?」
「これが僕の『普通』だ。それにここを出たらこんな僕でも、友人ができたよ」
「友人?」
「怖くて、強くて、優しくて、僕の自慢の友人だ」
家族ではないし、恋人でもないし、好きな人でもない。けれど嘘を吐かなくていい人だ。嘘をつかずに生きていけるようにしてくれた恩人だ。そんな彼に最後の最後に悪態をついたことを『少し』後悔し、けれど彼から言われた暴言の数々を思い返すともっと言ってやればよかったと『深く』後悔した。
死に際にこんなことを思えるなんて考えていなかった。
「僕はここで育ったこと、ここを出たこと、それからのこと一つとして悔いはない」
「撃たれて死ぬのに?」
「うん。それでもいい人生だった」
普通、倫理、社会、そういうもの全てに中指を立てた。人を殴った。人を傷つけた。僕は化け物だ。だから地獄に落ちるとしても構わない。僕は僕としてちゃんと死ぬ気で生きた。
嘘偽りなく心から自慢できる僕の人生だ。
「本当に? 『普通』じゃなくても?」
「うん」
「ねえ、僕……僕は幸せだった?」
「うん、僕は幸せだ」
少年は僕の答えに微笑む。
その笑顔を見てから、僕はゆっくり目を閉じた。
百貨店に向かって歩いていた僕の耳に『彼女の声』が潜り込んできた。いつもの幻聴とわかっているのに僕は咄嗟に足を止めてしまう。背後を歩いていた人が僕の背中にぶつかり、いて、と声を上げる。謝らなくてはいけないと思っているのに僕の体は動かない。その人は不審そうに僕をちらりと見たが、すぐに僕を追い越していった。
『普通の人』は急に足を止めない。ぶつかってもすぐに歩き出す。
僕も右に倣ってそうしようとしているのに、僕の心臓は太鼓みたいな音を立て、僕の喉は呼吸を忘れ、僕の脚は石像のように固まってしまう。そして僕の耳は『彼女の声』を聞く。今そこにいるかのようにはっきりと彼女の声を聞き取ってしまう。
『久遠の帰る場所はここでしょ?』
あのとき、――僕が児童養護施設を出ていったときの彼女の声。
雑踏は流れていく水のようにしなやかに僕を避けて歩いていく。僕以外の『普通の人』は『普通の道』を歩いていく。僕なんか見えていないみたいに歩き去っていく。頭が割れそうに痛み、天と地がひっくり返り、僕だけが壊れていく。
『おいてかないで』
その言葉を最後に幻聴はおさまり、繁華街のざわめきが戻ってきた。額を手でぬぐうとべったりと冷や汗がついた。幻聴はおさまっても体力はすべて奪われてしまった。もう一歩も歩きたくない。けれどそうもいかない。今日は『約束』の日だ。彼が待っている。
「『約束』……」
それだけを救いに、僕はゆっくりと歩きだした。
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待ち合わせ先のレストランは銀座の一等地の高い高いビルの一番上にあった。
皺のない服を着たウエイトレスに友人の名前を告げると、彼女は僕を一番奥の個室に案内してくれた。そこには僕の友人がすでに座っていた。
彼、――絶海――は僕の顔を見ながら煙を吐き、億劫そうに煙草を灰皿に押し付けた。
「俺を待たせるのはお前ぐらいだ」
百貨店で買った茶菓子を差し出すと、彼は片方の眉をあげて、友人に気を遣われるのは不愉快だと言った。高校を卒業して以来、五年振りに会ったというのに、彼の物言いは変わらない。そのことは僕を安心させた。
彼も僕を見て、変わらない間抜け面だ、と笑う。
「ウン、僕は大人になれないままさ。潔癖にして絶対の童貞」
「二十を過ぎてもその思想は怖いものがあるな……で、何を飲む?」
僕は自分の腕時計を指し示す。まだ昼の二時を過ぎたばかりだよ、と言葉でも付け足せば彼はつまらなそうにため息を吐く。
「常識人め。マア、いい……何か食うか?」
「いらない。珈琲でいい」
「どうせまともに食ってないんだろ、貧乏人。奢ってやるから好きに頼め」
「そんな言い方……じゃあオムライスとメロンソーダ」
彼はクツクツと笑い、呼び鈴を鳴らす。それは美しく高い音をしていた。
彼は僕のために看板メニューのオムライスとメロンソーダを頼み、自分には珈琲と灰皿の替えを頼む。訓練されたウエイトレスは微笑みを崩すことなく素早く替えの灰皿をサーブし、吸い殻が山になった灰皿を片手に立ち去った。随分待たせてしまっていたらしい。
「絶海、……待たせたね」
「構わない」
彼は唇を人差し指で叩く。
吸っていいよと煙草を指差したが、彼は首を横に振る。彼はしばらく黙った後、口を開いた。
「五年経ったな、柳。あの『約束』から」
『約束』
――その言葉を皮切りに過去が甦る。
高級レストランから夕暮れ時の高校に視界がうつっていく。
□
高校最後の日。
卒業式の後、僕たちは教室に居座った。傷だらけの机と椅子を並べて二人で夕焼けを見ていた。赤と橙と紫に染まった空が、教室が、彼の横顔がとても美しく、穏やかな時間だった。
「柳、この先、あてはあるのか?」
けれど不意の彼の問いに僕の心に波が生まれる。空は夕焼けを忘れ、夜に染まり始める。世界はあっという間に暗くなる。
今日、高校を卒業はできた。けれ施設を出た三年前と変わらず僕には金も学もないままだ。学生という身分がなくなり、どこへ進めばいいのかどころかどこに進めるのかもわからない。
そんな何にもなれない僕に彼は手を差しのべてくれた。
「俺のところに来ないか? ……お前なら歓迎する。腕っぷしもあって頭も切れるからな。……世間に誇れる仕事じゃないが、……俺とやるんだ。きっと楽しい。悪くない話だろう?」
彼は言葉を選びながら、ゆっくり話した。それは獣が獲物を狙うときのようだった。食われるつもりはなかった僕は首を横に振った。
「ありがたいけど君には頼らない。僕は僕でちゃんとやる。友人に見くびられるような僕じゃないんだ」
彼は僕の強がりを見抜いた上で差し出した手を下ろしてくれた。
「そうだな、お前は俺の友人だ。お前の選択に敬意を払おう。だから……五年逃がしてやる」
「五年?」
彼はクツクツと笑った。
「また会うときに俺に自慢できるような生き方をしていろ。いいな、柳。それができてなけりゃお前は俺が使う。『約束』だぞ」
「なにそれ。僕に選択権はないの?」
「お前がちゃんと生きてりゃいい」
「……じゃあ僕がちゃんと生きてなくて、でも君に使われるのも嫌だって言ったらどうなるのさ」
彼は少し考えてから微笑んだ。
「そんときゃ殺してやるよ。そんなつまらない人生、生きていても仕方ないだろ?」
詰め襟姿の彼の姿が蜃気楼のように揺らぎ、漆黒の着物姿の彼が姿をあらわす。
――夢が終わり、ここは今だ。
■
「柳? ぼんやりしてどうした?」
僕は会釈のような謝罪のような、何にもならない感情を込めて頭を下げた。彼は鼻に皺を寄せる。
「呆れた。また夢見てたのか? お前、気を抜くと夢から帰ってこなそうだな」
「……そうかもね」
「馬鹿が。ちゃんと今を生きろ」
あれから五年経った。
「絶海はちゃんとヤクザになったんだね」
「ちゃんとって……マア、そうだな。ちゃんとヤクザだ。あの頃とは違う」
僕たちが詰め襟を着ていた頃を、彼は懐かしむように目を細める。
「あの頃のお前は施設から出たばかりで、頭はいいのに学も金もないせいであんな底辺高に入る羽目になった。しかし腐ることはなく平和主義者……高潔なユニコーン」
そんなんじゃなかったと思うが、あの頃の自分は彼の目を通して見るとそうなるのだろう。僕は肩を竦める。
「絶海は、頭いいのにどうしてあの高校を選んだの?」
「裏切らない仲間が欲しかったからだ。学があると裏切るからな。おかげで俺は今、忠犬たちに守られている」
「忠犬なんて言い方……」
彼は携帯を取り出すと、懐かしい面々の写真を見せてくれた。みんなちゃんとヤクザになっていた。
「自分を受け入れたら役割がわかる。あいつらは犬に向いていて俺は飼い主に向いている」
彼の左手が僕の右手をとらえる。その目は卒業式と同じ、獲物を狙う獣の目だ。
「……僕も君の犬に向いていると?」
「いや、お前はヤクザに向いている」
彼が当然のようにそんなことを言うから、僕は笑いながら首を横に振る。
「僕はそんなものには向いてない。僕はね、ローン組んで白い家を建てて白い犬飼ってかわいい奥さんと住むんだ。『普通』の幸福ってそういうものだろ」
僕の言葉に彼は眉を下げた。
「お前はまだ『普通』になりたいのか?」
彼はまるで子どもでも見るかのように微笑む。その優しい笑顔が癇に触った。
「当たり前だろ! 誰が好き好んでヤクザなんて馬鹿な仕事をやるんだ! くだらない。馬鹿の極みだよ!」
「マア、真理だな」
少しも苛立つ様子なく彼は楽しそうに笑みを深めた。虚をつかれ僕は少し動揺した。彼は、それで?と笑う。
「……それでって……何が?」
「それでこの五年、結局お前は何をしていた? ちゃんと生きていたのか? 俺に自慢できるのか? 『嘘偽りなく』『心から』」
僕は唇をなめてから、フリーターだよ、と短く答えた。彼は、それじゃわからない、と苦笑する。
「じゃあ何が聞きたいんだよ。ちゃんと生きてるってどう証明したらいい?」
「仲のいい人間はいるか?」
僕は驚いた。そんなことを聞かれるとは思っていなった。用意していた今までの職歴を口にしても、興味がない、と彼は笑う。
彼は、聞きたいことはお前の新しい友人の話だ、いるならな、と笑う。
「お前は人といるのが好きだろ?」
「そんなこと……僕は誰も好きになったりしない……」
「ほう? 奥さんのためにどんな白い家を建てるんじゃなかったか?」
「それは違くて……だ、だから、僕は……」
「だからだからと駄々をこねてお前の語る幸福の実像はどこにある? 柳、答えろ」
僕が答える前にタイミングよくウエイトレスがやってきた。
彼女はオムライスとメロンソーダを僕にサーブした。でも僕はそれを見る余裕はなかったし、彼は珈琲には目もくれず僕の手も離さない。そんな奇妙な僕たちを目の当たりにしても、彼女は訓練されたウエイトレスだったから「ご用がありましたら呼び鈴を鳴らしてくださいませ」と笑顔で去っていった。
目の前に置かれたオムライスはあたたかそうで、とても美しい黄色をしている。
――彼女が作ってくれたオムライスとは大違いだ。あれはひどく焦げていた。
□
「久遠、食べなくていいってば!」
懐かしい声に目をあげる。
そこは児童養護施設の食堂だった。また過去だ、また夢に僕は逃げている。目の前には焦げたオムライス、隣には『彼女』がいた。僕の幼馴染み、同じ施設で育った、僕と同じ親知らずの同い年の捨て子。
彼女が作ったオムライスは真っ黒だった。
「旦那さんにそんなの食べさせるなんて!」
「でも僕のために作ってくれたんでしょう?」
「それはそうだけど、でもそれは失敗なの!」
彼女がそう泣いても、僕はそのオムライスを食べた。ジャリジャリと音がするほどの砂糖が入っているのに、それでもとても美味しく感じる。
「美味しい。ありがとう、大好きだよ」
「もう、おばか!」
そんな風に僕は彼女が好きだった。そんな風に彼女も僕を好きでいてくれた。
僕たちは幼いときから一人で生きていく術を教え込まれていた。そうでもしなければ生きていけないことを先生達はわかっていたし、僕たちもわかっていた。僕たちは自分達がすでにこの国のセーフティーネットにしがみついている、格差の象徴たる存在と理解していたから。
だから僕たちはずっと一緒にいる約束をした。それは頑張って生きようという約束だった。
「勉強をうんとして、奨学金で大学を出るのよ。公務員になるのよ。そうして私の家に帰ってくるの。白い家を建ててね。白い犬を飼ってね。そうしてかわいい赤ちゃんをたくさん育てるの。それが私たちの幸福だよ、久遠」
「うん、わかった。幸せにする」
たしかにそう約束した。でも、――僕はそれを守れなかった。
十二歳になったときに、ある先生から僕の親のことを教わった。
君の父親も母親も暴力を振るって塀の向こうにいる。君はそういう血。暴力は遺伝する。だから君もそうなる。
先生は繰り返した。他の先生が慌てた顔で止めにはいるまで繰り返した。
『君はいつか化け物になる』
その先生は養護施設を辞めた。病んでいたと後で聞いた。だから気にしなくていいと皆、慰めてくれた。
しかし、先生の言葉は僕の中に種となった。そしてそれは十五のときに発芽した。それが僕の終わらぬ悪夢の始まりだった。
些細ないざこざで彼女が僕を嫌いと言った。その瞬間に、僕は大好きな彼女を殴る白昼夢を見た。目が覚めたとき彼女を殴っていなかったことに心底ほっとして、――心底ゾッとした。
――次は夢じゃない。その確信があった。だから僕は家を出ると決めた。
別れの日、彼女は僕にすがって泣いた。生唾を飲み下し、彼女の涙をぬぐう。
「どこにいくの、久遠……久遠の帰る場所はここでしょ」
そんな風に泣いている君を見て、苦しく思う反面嬉しく感じる。もっと泣けばいいのに、もっと苦しめばいい、もっと痛め付けてやりたい。
先生の言う通り、僕は化け物になった。
「……おいていかないで」
――パン、と高い音がした。
■
「目が覚めたか、ユニコーン。つまらない生き方をしているから脳みそが現実逃避をするんだ」
「……そんな言い方……」
彼に殴られた頬が痛む。睨み付けても彼は笑うだけだった。
「夢見てないでオムライスを食え。メロンソーダを飲め。そして……『約束』通りヤクザをやれ」
「嫌だよ」
「何故?」
「ヤクザは人を傷つける仕事だ」
「人を殴るの好きだろう?」
「……そんなの好きじゃない。僕はだれも傷つけたくない」
僕は必死に嘘をついた。口にする度に唇が乾く嘘をついた。そんな僕を見て、無理をするな、と彼は困ったように眉を下げる。
それはあまりにも優しくて残酷な言葉だった。
「仲いいやつできるほど堅気に馴染めなかったんだろ。バイトだってどんだけもった?」
「……最長、三週間だけど……」
短いな、と彼は苦笑する。
「柳、たしかにお前は優しく正しくあろうと努力している。死ぬまでそうできるかもしれない。だが、もしも我慢できなくなったら? ……そうやって怯えて暮らすのは辛いだろう?」
彼の言葉を聞いて、その通りだとわかった。いや、本当はずっとわかっていた。どこへ逃げても自分からは逃げられない。どこへ行こうと、僕はこの僕から逃げられない。僕は、この暴力性から逃げようがない。どれだけ我慢しても、それは我慢だ。僕が死ぬのを待つだけの我慢ゲームでしかない。
僕の人生には苦痛しかない。
溢れそうになった涙を気合いで飲み込むと、絶海は仕方なさそうに微笑んだ。
「お前には友人がいるのに、なぜ頼らない?」
「……友人?」
「俺だ。俺を頼れ」
彼が僕の腕を強くつかむ。
「お前が楽に生きられる場所を俺が用意してやる」
彼の言葉は僕が必死に建てたバリケードを突き破って、僕に突き刺さった。剥き出しの心臓をつかまれた衝撃で、僕は息も出来なくなる。
彼は僕が僕を諦めてもまだ、こんな化け物を生かそうとしてくれるのだ。
そうだった。獲物を狙う獣のように残酷で、しかし行き場のない人間を飼う程度には優しいやつなのだ。
「嫌なら組員にならなくていい。喧嘩のときだけ来るだけでいい。お前の憂さ晴らしに俺を使えばいいだろう?」
地獄に垂らされた蜘蛛の糸みたい。気まぐれな神様が都合よく僕を救ってくれるヒーローを派遣してくれたんだろうか。涙が喉につまって、鼻の奥が痛む。僕の爪は僕の手の平に突き刺さって血をこぼす。それでも彼は僕を見ている。
「なんで……君はそんなに優しいんだよ……ひどいこと言ったのに、……なんで怒らないの……?」
「お前はひどいことなんか言ってないだろ? 俺は使えるもんを使うだけだ。お前もそうしろと……」
「やめてくれ、そんな気遣い! それじゃ駄目なんだ!」
でもそれじゃ僕がここに来た意味がない。
「駄目? 何が駄目だ?」
「……僕は、君を怒らせるんだ、君は、……ヤクザだから人の消し方もわかってるだろう……?」
「何を……」
「怒ってよ、絶海。ちゃんとヤクザになったんだろ? 僕はちゃんと生きてないし、そんな風にちゃんとしたヤクザにだってなれやしないよ。僕は、ただの化け物なんだ……だから、ちゃんと僕を……『約束』通り殺してくれ」
彼は深く、深く、息を吐き出した。
「それが……、この五年でお前が出した結論か?」
僕が頷くと彼はまた僕の頬を張った。それでも僕は、他に道はない、と言った。彼の顔が歪む。
「死んだらもうだれも傷つけない。だから僕はもういいんだ。頼むよ、絶海。僕を……」
「まだ何もよくねえよ!」
平手した右手で彼は僕の頬を撫でた。熱を孕んだ頬に彼の手は冷たい。痛め付けたのは彼なのに、その手は優しい。彼は僕を睨んでいた。
「柳、友人にそんなこと言われて俺がどう思うか、少しも想像できないのか?」
――彼が僕を見ている。
□
三年の先輩たちが一人の二年生を囲んでいた。廊下の掃除当番だった僕はその現場に居合わせてしまった。
僕はその囲まれている青年とも、囲んでいる青年たちとも面識はなかった。ただ、囲まれている青年は、こんな底辺高校になぜか転入してきた噂の人だった。それで僕はなんとなく彼らを見た。
先輩たちは青年の肩をつついて、生意気なんだよ、と言った。その理由は目が気に入らないだとかそんなくだらないこと。よくもそんな自殺行為を、と今なら皆思うだろうが、当時は彼がヤクザの子どもであることをまだ誰も知らなかったし、彼は今ほど恐ろしい噂はなかった。
彼は自分を囲む人間の顔を見てから鼻で笑った。
「弱そうなガキばっかだな」
多勢に無勢なのに先に喧嘩を売ったのは彼だった。殴り合いが始まり、歓声が上がり、血が壁に飛ぶ。誰かの歯が床に落ちる。あれはリンチだ、止めないといけないと理性が言う。そのくせ体は妙に熱を帯びる。参加してしまえと悪魔が笑う。
生唾を飲み込んだとき、彼と目が合った。
「来いよ。殺してやる」
助けを求める目ではない。何もかも食ってやるという獣の目。その奥に僕の同じ化け物が見えた。
――彼は、同類だ。
気が付いたら僕は青年を羽交い締めにしていた人の頭を箒で殴っていた。骨を伝う衝撃。その人は膝から崩れ落ちた。その光景にぞくぞくと腹にナニカが走る。今まで感じたことがないソレは、間違いなく喜びだった。僕の飢えを抑え込む喜びだった。
「フルスイングか。いいな」
恐ろしい感覚に震えている僕の腕を青年がつかみ、走り出した。彼は豹みたいに足が速かった。僕は彼に引きずられるように走った。背後の罵声が聞こえなくなるまで僕たちは走った。
「鈍間め。あんな人数最後まで相手できるわけないだろ」
駅まで逃げてから彼はようやく振り向いた。そして僕の顔を見て目を丸くした。
「なんで泣いてんだよ?」
「……僕、……」
「ウン?」
「人を、殴ってしまった……」
「……なんだそれ」
彼は僕に拳を差し出した。
「絶海だ」
「……何?」
「俺の名前。お前は?」
「……柳久遠。柳って呼んで」
「柳か。ウン、柳、助かった。お前のおかげで死なずにすんだ」
「……なら、よかった」
震える拳を合わせて、あのとき僕たちは友人になった。
■
――絶海が僕を見ていた。
「……僕は君を傷つけた?」
どうだろうなと彼は笑った。嘘つきの笑顔だった。僕は、ごめんという意味を込めて深く頭を下げた。涙が机に落ちる。
彼は煙草臭い手で僕の頭を撫でてくれた。
「柳、普通になれないから死ぬなんて言うな。人を傷つけるから生きられないなんて言うな。そんなこと言うぐらいなら、倫理も、優しさも、社会も捨てろ。そんなもんはお前を縛るだけで守りはしない。こっちに来い。そしたら俺が守ってやれる」
「僕は守られる価値なんかないよ……」
「それは俺が決めることだ」
「でも僕は……死んだ方が世界のためになるんだ」
「だから何だ。素直になれ。お前は死にたくなんかないだろう?」
――そうだ。
「僕は、……僕が怖い。僕は化け物なんだ。わかってる。いつか我慢できずに誰か殺すかもしれない。でも、……僕は、……生きていたい……!」
絶海がようやく僕の手を離した。
「僕が一線を越えないように……僕を使ってくれる?」
彼はニッコリと笑った。
「当然だ。俺に任せろ」
「……プロポーズみたいだね。ダーリンって呼んだ方がいい?」
「阿呆」
「あはは、はは……」
「泣くなって……オムライス食え」
彼が笑う。
――その笑い声が遠ざかる。
◆◇◆
気が付けばそこは銀座ではなかった。赤坂の交差点。車に向かって歩いていた絶海が不思議そうに僕を振り返る。
「どうした、柳。夢でも見てたのか?」
「……うん」
「はは、変わらんなお前は。いつの夢だ?」
「君からのプロポーズ」
「記憶にない」
「五年前だよ」
「五年前? ああ、あれか」
そう、『あれから』もう五年も経った。
『守られるのは性に合わんが、俺のボディーガードにしてやる』
『了解、死んでも守る』
『死なさねえためにやってんだ、馬鹿野郎。お前はまず死ぬ気で生きろ。普通だの幸せだのなんだの、くだらんことはその後だ』
そんなわけで、僕は今は絶海のボディーガードをしている。
組の跡目で揉めている今、一瞬たりとも警戒を怠れないのに、なんでこんな夢を今さら見たのだろう。そんなことを考えながら彼の後ろを歩く。彼は煙草を吸いながら、のんきなもんだぜ、鈍間なユニコーンと僕をからかう。それに返事をしようと口を開いたとき目の前に男が飛び出してきた。反射で、僕は彼の前に飛び出す。
――タアン、と高い音。
男の頭を殴りつけ、そいつが意識を失ったのを見届ける。それから自分の腹に手を当てると、破裂した水風船みたいな妙な感触。
「あれ?」
視界に黒いアスファルトしかない。いつの間にか僕は倒れていた。気づけば指先すら動かない。と思っている間に眠くなる。
「柳!」
絶海が僕を抱き起こしてくれた。彼に怪我がなくてほっとしたら、さらに眠くなった。
「起きろ! 寝るな!」
彼の焦っている顔は初めて見る。笑いたいのに体は勝手に呻く。
「おい、柳!」
口を開いたら血がこぼれ、それでもなんとか喉を開く。これが最後の言葉になると自分でもわかっていた。
「……鈍間め、……守ってやった、ぞ……」
「このっ、馬鹿が!」
ぐらり、視界が揺れた。
■
――目を開くと、そこは児童養護施設だった。夕焼けに染まる食堂は懐かしい匂い。僕はつい笑った。
「走馬灯でもここに帰るのか、僕は……未練だな」
あたりを見渡すと一人の少年が部屋の隅で膝を抱えていた。こちらに背を向けて、彼は一人座っている。随分と暗い背中だ。
「君、……どうしたの?」
肩をたたくと少年が振り向いた。
それは幼い頃の僕だった。彼は僕を見て泣いた。
「どうして、ここを出たの? ここにいた時はずっと『普通』だったのに……ここで我慢していれば『普通』のまま死ねたかもしれないのに……」
彼は僕にしがみついてポロポロ泣いた。かわいそうだった。でももう僕はこの頃のように自分が嫌いじゃなかった。だから、彼にごめんねとは言えなかった。
「僕が生きるにはここを出るしかなかった。僕は『普通』じゃないからね」
「僕は『普通』じゃないの……?」
「これが僕の『普通』だ。それにここを出たらこんな僕でも、友人ができたよ」
「友人?」
「怖くて、強くて、優しくて、僕の自慢の友人だ」
家族ではないし、恋人でもないし、好きな人でもない。けれど嘘を吐かなくていい人だ。嘘をつかずに生きていけるようにしてくれた恩人だ。そんな彼に最後の最後に悪態をついたことを『少し』後悔し、けれど彼から言われた暴言の数々を思い返すともっと言ってやればよかったと『深く』後悔した。
死に際にこんなことを思えるなんて考えていなかった。
「僕はここで育ったこと、ここを出たこと、それからのこと一つとして悔いはない」
「撃たれて死ぬのに?」
「うん。それでもいい人生だった」
普通、倫理、社会、そういうもの全てに中指を立てた。人を殴った。人を傷つけた。僕は化け物だ。だから地獄に落ちるとしても構わない。僕は僕としてちゃんと死ぬ気で生きた。
嘘偽りなく心から自慢できる僕の人生だ。
「本当に? 『普通』じゃなくても?」
「うん」
「ねえ、僕……僕は幸せだった?」
「うん、僕は幸せだ」
少年は僕の答えに微笑む。
その笑顔を見てから、僕はゆっくり目を閉じた。
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