32 / 44
第十話 東京はノリが悪いって本当ですか?
04
しおりを挟む
文化祭当日。
中庭の片隅に作られた簡易的なステージの裏には簡易的なテントが張られていて、そのテントは次の演目の人間の控え室となっている。次が出番の私は一人テントの中で、深呼吸をした。
「……怖くない。大丈夫。失敗したって失敗しただけよ。私は……大丈夫」
舞台衣裳はこの間のワンピース。
それから絶海さんのジャケットを借りた。大きくて袖も丈もなにもかも余るけど、これ以上なく安心できるお守りだ。ジャケットからは絶海さんの匂いがした。
「顔面と声はいいんだから……大丈夫。倒れたなら立ち上がればいい……」
「次、桜川さん、いけますー?」
司会の人に声をかけられた。ジャケットに潜って、深呼吸をしてから、テントを出る。
爪先から頭の先までドキドキしている。舞台に立つと、私は一人ぼっちだった。でも、足を進めた。舞台の真ん中でマイクを握ると、もう汗をかいていた。きゃあきゃあと騒がしいのは観客なのか、私の胸なのか。
背中がじんわりと汗をかく。
「一年六組桜川朱莉です。今日は歌います。よろしくお願いします」
自分の声が震えていることがわかり、心臓がうるさく騒ぎだす。こわい。裏返ったらどうしよう。外したらどうしよう。間違えたらどうしよう。こわい。こわい。
震える手でジャケットの袖を握りしめると、絶海さんのお香の匂いがした。
また、深く呼吸をしてから、私はマイクを握り直す。
ス、と腹の奥まで息を吸う。そうして思いきり吐き出して、歌い出した瞬間に、――大丈夫、これは成功する、――とわかった。
やけに世界がゆっくり見えて、やけに世界が綺麗に見える。舞台には私だけ。足元で手拍子する観客も遠く感じる。今、私、多分、世界で一番だ。妙に心が高まり、それに体が追い付いている。
――歌い切ったとき、ぱたぱたと汗が落ちる。
ヒュウと喉の奥が鳴った。観客は皆静かに私を見上げていた。
「……ありがとうございました」
私が頭を下げた瞬間、爆発したみたいに拍手が襲いかかってきた。足から力が抜けそうになるのを必死にこらえて「ありがとうございました」ともう一度挨拶をして、ステージをおりてテントに戻った。
「アンコールされてるけど、やれる?」
「無理です……」
「あはは、お疲れ」
司会の人が次のバンドを紹介している間に汗をふき、テントからそっと出る。汗だくだ。急いで女子更衣室に向かおうとしたら、トン、と背中を叩かれた。
「朱莉さん、お疲れ」
振り返ると優弥さんだった。
彼は肩で息をして、少し汗をかいていた。それだけで彼が私のステージを観てくれていて、そうして終わってからすぐに走ってきてくれたことがわかった。わかってドキドキした。
「……私、ちゃんと歌えてた?」
「素敵だったよ。また高嶺の花だ。どんどん遠くなって、俺には手折れない人になってしまいそう」
「そんなことないわ!」
つい大きい声を出してしまった。
こんなのはもう好きだといったようなものだ。
でも彼はからかうことはなく黙って私の腕を軽く引いて、私のことを抱き締めた。絶海さんよりずっと細くて、ずっと熱い体だ。
「……汗くさいからよして」
「抱き締められるのはいいの?」
「……恥ずかしい」
「恥ずかしいだけ? イヤじゃない?」
「恥ずかしいこと聞かないで……」
優弥さんからはマスカットみたいな匂いがした。彼の使っているワックスの匂いだろう。
「キスしちゃ駄目なんだよね?」
そんなふざけたことを言うくせに顔は真っ赤で、私もつられて赤くなった気がした。
「もちろん駄目よ」
「……どうしても?」
「駄目ったら。もう一回言わせたら嫌いになるからね」
「……ハ、そういうところいいな。……ごめんね、意地悪たくさんして……」
「……いいのよ」
背伸びをして優弥さんの頬にキスをした。
「男の子のそういうところは可愛いと思うわ」
私が笑うと優弥さんはなんとも言えない顔をして「ズルイ」と言った。こっちの台詞だと思いながら彼の腕から抜け出し、舌を出す。
「でもスケベな人は嫌い」
「ごめんってば……、でもズルいのは朱莉さんの方だ」
「ついてこないで。私、これから着替えるんだから」
「じゃあ更衣室の前まで。まだ話したいんだよ」
ステージの脇を通って校舎に向かおうとしたとき、校門の方から悲鳴が聞こえてきた。それは誰か有名な人が来たというような悲鳴ではなく、危ないことが起きているような響きだった。なんだろうと思っていると、不意にその音の正体が中庭に現れた。
それは一台の車だった。
その車は人も物もなにもかもを気にもしないでフルスピードで校庭にはいってきた。その車は、まっすぐステージの方、つまりこっちに向かってきている。
「朱莉さん!」
優弥さんが私の腕を引いて、ステージの裏に回った。彼は私をテント押し込むと「隠れてて! 出てきちゃ駄目だよ!」と自分は外に出た。外から彼の「警察と救急をお願いします。学校の中庭まで暴走車がつっこんできたんです。学校は……」と電話をかける声がする。遠くから悲鳴が聞こえる。耳をつんざくようなブレーキ音と、なにかぶつかるような音、ハウリングするなにかの音。
「……ど、うしよ、……」
危ないということしかわからない。
震える手でなんとかジャケットにはいっていた携帯を取り出して、電話をかける。ワンコール、ツーコール、……。
「起きてよ、絶海さん、起きて……」
ガアンとひどく近くでなにかがぶつかる音がした。私は咄嗟にジャケットのポケットにスマホをしまった。その、次の瞬間、テントに誰かの腕が入ってきた。
「見つけた」
あ、と思ったときに捕まれていた。
私の腕をつかんだその人は、どこか絶海さんに似ている顔をしていた。彼は私の頭に袋を被せると、私を担ぎあげ、抵抗する間もないほどあっという間に私をどこかに投げ入れた。
いやどこかなんて明白だ。
だってこんなにエンジン音がうるさい。
「親子でドライブしようぜ、朱莉」
なすすべなく私は拉致されていた。
中庭の片隅に作られた簡易的なステージの裏には簡易的なテントが張られていて、そのテントは次の演目の人間の控え室となっている。次が出番の私は一人テントの中で、深呼吸をした。
「……怖くない。大丈夫。失敗したって失敗しただけよ。私は……大丈夫」
舞台衣裳はこの間のワンピース。
それから絶海さんのジャケットを借りた。大きくて袖も丈もなにもかも余るけど、これ以上なく安心できるお守りだ。ジャケットからは絶海さんの匂いがした。
「顔面と声はいいんだから……大丈夫。倒れたなら立ち上がればいい……」
「次、桜川さん、いけますー?」
司会の人に声をかけられた。ジャケットに潜って、深呼吸をしてから、テントを出る。
爪先から頭の先までドキドキしている。舞台に立つと、私は一人ぼっちだった。でも、足を進めた。舞台の真ん中でマイクを握ると、もう汗をかいていた。きゃあきゃあと騒がしいのは観客なのか、私の胸なのか。
背中がじんわりと汗をかく。
「一年六組桜川朱莉です。今日は歌います。よろしくお願いします」
自分の声が震えていることがわかり、心臓がうるさく騒ぎだす。こわい。裏返ったらどうしよう。外したらどうしよう。間違えたらどうしよう。こわい。こわい。
震える手でジャケットの袖を握りしめると、絶海さんのお香の匂いがした。
また、深く呼吸をしてから、私はマイクを握り直す。
ス、と腹の奥まで息を吸う。そうして思いきり吐き出して、歌い出した瞬間に、――大丈夫、これは成功する、――とわかった。
やけに世界がゆっくり見えて、やけに世界が綺麗に見える。舞台には私だけ。足元で手拍子する観客も遠く感じる。今、私、多分、世界で一番だ。妙に心が高まり、それに体が追い付いている。
――歌い切ったとき、ぱたぱたと汗が落ちる。
ヒュウと喉の奥が鳴った。観客は皆静かに私を見上げていた。
「……ありがとうございました」
私が頭を下げた瞬間、爆発したみたいに拍手が襲いかかってきた。足から力が抜けそうになるのを必死にこらえて「ありがとうございました」ともう一度挨拶をして、ステージをおりてテントに戻った。
「アンコールされてるけど、やれる?」
「無理です……」
「あはは、お疲れ」
司会の人が次のバンドを紹介している間に汗をふき、テントからそっと出る。汗だくだ。急いで女子更衣室に向かおうとしたら、トン、と背中を叩かれた。
「朱莉さん、お疲れ」
振り返ると優弥さんだった。
彼は肩で息をして、少し汗をかいていた。それだけで彼が私のステージを観てくれていて、そうして終わってからすぐに走ってきてくれたことがわかった。わかってドキドキした。
「……私、ちゃんと歌えてた?」
「素敵だったよ。また高嶺の花だ。どんどん遠くなって、俺には手折れない人になってしまいそう」
「そんなことないわ!」
つい大きい声を出してしまった。
こんなのはもう好きだといったようなものだ。
でも彼はからかうことはなく黙って私の腕を軽く引いて、私のことを抱き締めた。絶海さんよりずっと細くて、ずっと熱い体だ。
「……汗くさいからよして」
「抱き締められるのはいいの?」
「……恥ずかしい」
「恥ずかしいだけ? イヤじゃない?」
「恥ずかしいこと聞かないで……」
優弥さんからはマスカットみたいな匂いがした。彼の使っているワックスの匂いだろう。
「キスしちゃ駄目なんだよね?」
そんなふざけたことを言うくせに顔は真っ赤で、私もつられて赤くなった気がした。
「もちろん駄目よ」
「……どうしても?」
「駄目ったら。もう一回言わせたら嫌いになるからね」
「……ハ、そういうところいいな。……ごめんね、意地悪たくさんして……」
「……いいのよ」
背伸びをして優弥さんの頬にキスをした。
「男の子のそういうところは可愛いと思うわ」
私が笑うと優弥さんはなんとも言えない顔をして「ズルイ」と言った。こっちの台詞だと思いながら彼の腕から抜け出し、舌を出す。
「でもスケベな人は嫌い」
「ごめんってば……、でもズルいのは朱莉さんの方だ」
「ついてこないで。私、これから着替えるんだから」
「じゃあ更衣室の前まで。まだ話したいんだよ」
ステージの脇を通って校舎に向かおうとしたとき、校門の方から悲鳴が聞こえてきた。それは誰か有名な人が来たというような悲鳴ではなく、危ないことが起きているような響きだった。なんだろうと思っていると、不意にその音の正体が中庭に現れた。
それは一台の車だった。
その車は人も物もなにもかもを気にもしないでフルスピードで校庭にはいってきた。その車は、まっすぐステージの方、つまりこっちに向かってきている。
「朱莉さん!」
優弥さんが私の腕を引いて、ステージの裏に回った。彼は私をテント押し込むと「隠れてて! 出てきちゃ駄目だよ!」と自分は外に出た。外から彼の「警察と救急をお願いします。学校の中庭まで暴走車がつっこんできたんです。学校は……」と電話をかける声がする。遠くから悲鳴が聞こえる。耳をつんざくようなブレーキ音と、なにかぶつかるような音、ハウリングするなにかの音。
「……ど、うしよ、……」
危ないということしかわからない。
震える手でなんとかジャケットにはいっていた携帯を取り出して、電話をかける。ワンコール、ツーコール、……。
「起きてよ、絶海さん、起きて……」
ガアンとひどく近くでなにかがぶつかる音がした。私は咄嗟にジャケットのポケットにスマホをしまった。その、次の瞬間、テントに誰かの腕が入ってきた。
「見つけた」
あ、と思ったときに捕まれていた。
私の腕をつかんだその人は、どこか絶海さんに似ている顔をしていた。彼は私の頭に袋を被せると、私を担ぎあげ、抵抗する間もないほどあっという間に私をどこかに投げ入れた。
いやどこかなんて明白だ。
だってこんなにエンジン音がうるさい。
「親子でドライブしようぜ、朱莉」
なすすべなく私は拉致されていた。
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/light_novel.png?id=7e51c3283133586a6f12)
何でもない日の、謎な日常
伊東 丘多
ライト文芸
高校のミステリー研究会の日常の話です。
どちらかと言うと日常の、たわいのない話をミステリーっぽく雑談してます。
のほほんとした塾講師を中心に、様々な出来事がおこっていく、さわやか青春ストーリーだと、思います。(弱気)
ホラー要素や、ミステリー要素は無いので、ジャンルを変えてみました。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』とその周辺の人々
饕餮
ライト文芸
ここは東京郊外松平市にある商店街。
国会議員の重光幸太郎先生の地元である。
そんな商店街にある、『居酒屋とうてつ』やその周辺で繰り広げられる、一話完結型の面白おかしな商店街住人たちのひとこまです。
★このお話は、鏡野ゆう様のお話
『政治家の嫁は秘書様』https://www.alphapolis.co.jp/novel/210140744/354151981
に出てくる重光先生の地元の商店街のお話です。当然の事ながら、鏡野ゆう様には許可をいただいております。他の住人に関してもそれぞれ許可をいただいてから書いています。
★他にコラボしている作品
・『桃と料理人』http://ncode.syosetu.com/n9554cb/
・『青いヤツと特別国家公務員 - 希望が丘駅前商店街 -』http://ncode.syosetu.com/n5361cb/
・『希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~』https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271
・『希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―』https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376
・『日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)』https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232
・『希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~』https://ncode.syosetu.com/n7423cb/
・『Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街』https://ncode.syosetu.com/n2519cc/
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる