かあさん、東京は怖いところです。

木村

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第十話 東京はノリが悪いって本当ですか?

04

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 文化祭当日。
 中庭の片隅に作られた簡易的なステージの裏には簡易的なテントが張られていて、そのテントは次の演目の人間の控え室となっている。次が出番の私は一人テントの中で、深呼吸をした。

「……怖くない。大丈夫。失敗したって失敗しただけよ。私は……大丈夫」

 舞台衣裳はこの間のワンピース。
 それから絶海さんのジャケットを借りた。大きくて袖も丈もなにもかも余るけど、これ以上なく安心できるお守りだ。ジャケットからは絶海さんの匂いがした。

「顔面と声はいいんだから……大丈夫。倒れたなら立ち上がればいい……」
「次、桜川さん、いけますー?」

 司会の人に声をかけられた。ジャケットに潜って、深呼吸をしてから、テントを出る。
 爪先から頭の先までドキドキしている。舞台に立つと、私は一人ぼっちだった。でも、足を進めた。舞台の真ん中でマイクを握ると、もう汗をかいていた。きゃあきゃあと騒がしいのは観客なのか、私の胸なのか。
 背中がじんわりと汗をかく。

「一年六組桜川朱莉です。今日は歌います。よろしくお願いします」

 自分の声が震えていることがわかり、心臓がうるさく騒ぎだす。こわい。裏返ったらどうしよう。外したらどうしよう。間違えたらどうしよう。こわい。こわい。
 震える手でジャケットの袖を握りしめると、絶海さんのお香の匂いがした。
 また、深く呼吸をしてから、私はマイクを握り直す。
 ス、と腹の奥まで息を吸う。そうして思いきり吐き出して、歌い出した瞬間に、――大丈夫、これは成功する、――とわかった。
 やけに世界がゆっくり見えて、やけに世界が綺麗に見える。舞台には私だけ。足元で手拍子する観客も遠く感じる。今、私、多分、世界で一番だ。妙に心が高まり、それに体が追い付いている。
 ――歌い切ったとき、ぱたぱたと汗が落ちる。
 ヒュウと喉の奥が鳴った。観客は皆静かに私を見上げていた。

「……ありがとうございました」

 私が頭を下げた瞬間、爆発したみたいに拍手が襲いかかってきた。足から力が抜けそうになるのを必死にこらえて「ありがとうございました」ともう一度挨拶をして、ステージをおりてテントに戻った。

「アンコールされてるけど、やれる?」
「無理です……」
「あはは、お疲れ」

 司会の人が次のバンドを紹介している間に汗をふき、テントからそっと出る。汗だくだ。急いで女子更衣室に向かおうとしたら、トン、と背中を叩かれた。

「朱莉さん、お疲れ」

 振り返ると優弥さんだった。
 彼は肩で息をして、少し汗をかいていた。それだけで彼が私のステージを観てくれていて、そうして終わってからすぐに走ってきてくれたことがわかった。わかってドキドキした。

「……私、ちゃんと歌えてた?」
「素敵だったよ。また高嶺たかねの花だ。どんどん遠くなって、俺には手折たおれない人になってしまいそう」
「そんなことないわ!」

 つい大きい声を出してしまった。
 こんなのはもう好きだといったようなものだ。
 でも彼はからかうことはなく黙って私の腕を軽く引いて、私のことを抱き締めた。絶海さんよりずっと細くて、ずっと熱い体だ。

「……汗くさいからよして」
「抱き締められるのはいいの?」
「……恥ずかしい」
「恥ずかしいだけ? イヤじゃない?」
「恥ずかしいこと聞かないで……」

 優弥さんからはマスカットみたいな匂いがした。彼の使っているワックスの匂いだろう。

「キスしちゃ駄目なんだよね?」

 そんなふざけたことを言うくせに顔は真っ赤で、私もつられて赤くなった気がした。

「もちろん駄目よ」
「……どうしても?」
「駄目ったら。もう一回言わせたら嫌いになるからね」
「……ハ、そういうところいいな。……ごめんね、意地悪たくさんして……」
「……いいのよ」

 背伸びをして優弥さんの頬にキスをした。

「男の子のそういうところは可愛いと思うわ」

 私が笑うと優弥さんはなんとも言えない顔をして「ズルイ」と言った。こっちの台詞だと思いながら彼の腕から抜け出し、舌を出す。

「でもスケベな人は嫌い」
「ごめんってば……、でもズルいのは朱莉さんの方だ」
「ついてこないで。私、これから着替えるんだから」
「じゃあ更衣室の前まで。まだ話したいんだよ」

 ステージの脇を通って校舎に向かおうとしたとき、校門の方から悲鳴が聞こえてきた。それは誰か有名な人が来たというような悲鳴ではなく、危ないことが起きているような響きだった。なんだろうと思っていると、不意にその音の正体が中庭に現れた。

 それは一台の車だった。

 その車は人も物もなにもかもを気にもしないでフルスピードで校庭にはいってきた。その車は、まっすぐステージの方、つまりこっちに向かってきている。

「朱莉さん!」

 優弥さんが私の腕を引いて、ステージの裏に回った。彼は私をテント押し込むと「隠れてて! 出てきちゃ駄目だよ!」と自分は外に出た。外から彼の「警察と救急をお願いします。学校の中庭まで暴走車がつっこんできたんです。学校は……」と電話をかける声がする。遠くから悲鳴が聞こえる。耳をつんざくようなブレーキ音と、なにかぶつかるような音、ハウリングするなにかの音。

「……ど、うしよ、……」

 危ないということしかわからない。
 震える手でなんとかジャケットにはいっていた携帯を取り出して、電話をかける。ワンコール、ツーコール、……。

「起きてよ、絶海さん、起きて……」

 ガアンとひどく近くでなにかがぶつかる音がした。私は咄嗟にジャケットのポケットにスマホをしまった。その、次の瞬間、テントに誰かの腕が入ってきた。

「見つけた」

 あ、と思ったときに捕まれていた。
 私の腕をつかんだその人は、どこか絶海さんに似ている顔をしていた。彼は私の頭に袋を被せると、私を担ぎあげ、抵抗する間もないほどあっという間に私をどこかに投げ入れた。
 いやどこかなんて明白だ。
 だってこんなにエンジン音がうるさい。

「親子でドライブしようぜ、朱莉」

 なすすべなく私は拉致されていた。
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