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#009 京都
しおりを挟む京都に着いたのは午前十時だった。伊丹空港から京都に向う道中、タクシーの運転手に残暑について尋ねると悲しい顔をされた。しかし、まずは仕事である。スーツのわたしは覚悟するしかなかった。
仕事を終えて、京都駅近くのネットカフェのシャワールームで夏着物に着替え、友人宅に着いたのは午後八時だ。友人はわたしを出迎え「汗臭い」とからかう。彼からは香水のラストノートであるバニラの香りがした。形だけ嫌がる彼とハグしてから、彼の娘に挨拶をする。すると彼女からハグを求められたので親愛のハグを交わし、彼に耳をつねられた。そんな平穏な再会の後、平穏な夕餉を過ごし、彼の娘が眠ってから、わたしたちは土産の日本酒で晩酌を始めた。彼は旅のことを尋ねてきた。わたしは旅の話をしてから、娘のことを尋ねた。彼は「家族がいると一人の寂しさがわかる」と笑った。
七輪でしいたけを焼きながら、一献、一献、酒を深める。瞼はすこしずつ重くなり、その分、口は軽くなる。彼はわたしの着物の袖をひいて「次はおれが選んでやるよ。東の田舎者よりあんたに似合うものをさ」と笑った。京都人らしくない振る舞いをするのに、その実、この古都を深く愛している彼のこういった面倒くささすら好きになるぐらい、彼とは長い付き合いだ。話は尽きることはない。夜が更けていっても、街の明かりに騙された蝉の声は続いていく。焼いたしいたけを食べきり、次におにぎりを焼き、飲んでいた酒が空き、代わりにクラフトコーラを飲む。バニラの甘い香りと、土の匂い、生い茂る嫩葉の匂い、風にはすこしだけ秋が交じる。口の中で弾ける甘いコーラにいつかの夏の終わりを思い出していると、「なあ」と彼が声をあげた。
「ドクター、今更だけどあの夏は楽しかった。だから、また来てくれて嬉しい」
酔った彼が漏らした本音は実に今更だった。それはそうだろう、もっともだ、とわたしは声を上げて笑ってしまった。
翌朝、彼の娘に起こされてモーニングのために喫茶店に向かった。彼は二日酔いでついてこなかったので、彼女から彼の話をあれこれ聞いた。彼女はあれこれと彼の不満をこぼし、けれど決してわたしに同意を求めなかった。彼らはうまく親子をやっているらしい。サラダにかけられたドレッシングが美味しかったので、土産に買った。
蝉時雨の帰り道、彼女が聞きたがったので、今となっては昔の話をした。彼女は「お父さんを褒められると、自分のことのように嬉しい」と心から嬉しそうに笑った。彼が家族を見つけたことが嬉しくて、その礼も兼ねて彼女に櫛を買った。彼女は顔を真っ赤にした。帰ってから彼に「口説くな、馬鹿者」と説教された。理不尽だとは思ったが、郷に入っては郷に従えという先人の教えに従い、大人しく怒られた。この年になっても怒られることがまだあるのだ。
数日、予定通り彼の家に滞在することにした。
彼女のホームワークを添削し、彼と自家製コーラをつくり、彼の見立てで夏着物を仕立て、彼女を連れて神社仏閣をめぐり、皆でスイカ割りをした。そして、友人宅に花火大会の中継を観に行く彼女の恋の応援のために、彼女の髪を整えた。彼と花火大会の中継を観ながら、よかったのかと聞くと、彼は「どうだっていい」と笑う。懐の深い言葉だ。祭囃子を遠く聞きながら、仕事の話やこれまでの旅の話をした。ついでに『魔法の言葉』を聞かせると、彼は歯を見せて笑ってから「良い言葉ではないから、人前でいうな」と忠告してくれた。すこし怖くなったので意味は聞かなかった。
その後、話の流れで彼が気になるというのでマイアミで買った香水を渡す。彼は薄い和紙に匂いをつけると「ああ、いい匂いだな」と微笑んだ。その香りに久しぶりに触れたわたしは海が見たくなったので、翌日、宮津の海に釣りに行くことになった。
勝負と称して釣りをしたところ、彼の圧勝であった。できないことはないのかと聞けば「ドクターができることはできないさ」と笑う。涼しい潮風に秋がくる予感がした。夕焼けの海をいつまでも見ていたかったが、背後で「だれが捌くのよ、こんなに釣って」「なんのために外科医を連れてきたと思っている。このためだ」と親子が無責任な会話をし始めたので、反論のために帰ることにした。彼女は帰ってからも、髪がきしむというので櫛で梳いてあげたら、案の定、彼に耳をつねりあげられた。
そんな風にいつまでも遊んでいたかったけれど、帰りの時間はやってくる。空港まで送りに来てくれた二人に、いつかこちらに来てほしいと頼むと、彼女がニッコリ笑って頷いたので、彼も渋々頷いてくれた。それでも別れがたかった。けれど彼らが「あんたが好きそうな香水をトランクに入れといた」「選んだのはわたしです」というので、帰ることにした。それが夏休みのおわりだった。
空港でトランクケースを受け取り、早速開けてみると荷物の上に箱が入っていた。トラベルサイズの香水は友人からの気軽な贈り物としてちょうどよかった。手首につけてみると、時差ボケで早朝に起きてしまったときのことをはっきりと思い出した。
慣れぬ異国の街、どこまでも静かで、世界中で自分一人しか目覚めていないかのような錯覚を覚える。けれど、寂しくはない。白白とあがってくる太陽がすこしずつ夜を連れ去っていく光景があまりにも美しいから、それだけで満たされる。あの朝焼けの中に、いつも教会で祈りをささげる対象の存在を感じるのだ。灯台守になったような気持ちで目覚めていく街を眺める、静かで、豊かな孤独。そんな時間をはっきりと思い出すほど、それは透き通った香りで、彼らの予想通り、大変わたしの好みであった。
空港には研修を終えた秘書が迎えに来てくれていた。
いつもありがとうと労ると、一回り成長したらしい秘書は「知ってますよ」と笑った。秘書はもちろんわたしの香水に気が付き、しかし「ドクターらしい香りですね」と評した。それはまったく予想外の言葉で、わたしはすこし恥ずかしくなった。
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