空港にて

木村

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#006 過去

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 日本に滞在していたのは十一年前だ。震災しんさい支援で入国し一年近く現地にいた。そして帰国前にスタッフから薦められ日本各地を観光したのだ。普段であれば楽しい旅行も、あのときばかりは現地に後ろ髪を引かれた。それなのに『薦めてもらったのだから楽しまねばならない』と強迫観念きょうはくかんねんに襲われ、有名な観光地を片っ端から義務ぎむのようにこなした。折角生きているのにそんな時間の過ごし方をしている罪悪感に胸が痛んだ。痛みは次第に強くなり、他にはなにも感じなくなった。夜は眠れないもので、朝は悲しいものになった。そんなときに、わたしは彼と出会った。場所は古都こと京都きょうとだった。
 京都の夏は熱帯雨林に近く、しかも風がない。だというのに当時の旅慣れしていないわたしはなにもせずに街の写真を撮り続け、危機感を覚える前に瓦屋根かわらやねの家屋の前で座り込んでしまった。診察を受けるまでもない、熱中症だ。
 しかし、どうだってよかった。
 ギャアギャアと肌に刺さるせみの声、ギラギラと地面から照り返す陽の光、道路で干からびる蚯蚓みみず死骸しがい。感情は動かず、体も動かない。ぼやけていく視界と、ぼやけていく思考。ドクターなど、一体なんの力になれるのだろう。たった一年、無数の課題を残して帰ることになった。こんなの逃げ帰るのとなにが違うのか。罰してほしい。わたしはもっと苦しむべきだ。湯気の立つ地面、焼かれていく肌、汗が染みとなる。命を削って鳴く蝉の声が幻聴げんちょうとなって、わたしを責め立てる。
「おれの家の前で死ぬな、阿呆あほう
 それは、濁流だくりゅうのような思考を切り裂く、日本刀のように真っ直ぐな声だった。顔をあげると、真っ黒な着物を着た男性が蛇腹傘じゃばらかさの影にわたしを隠してくれていた。わたしが言葉を発する前に、彼はわたしの腕をつかむと心底どうでもよさそうにこういった。
「黙ってろ」
 彼はわたしにスポーツ飲料水を飲ませると、彼の家に迎え、わたしがなにかいおうとする度に「寝てろ」と切り捨て、手厚く看護かんごをしてくれた。彼の献身けんしんのおかげで夜には起き上がることができたが、礼をいう前に「飯の時間だ」と夕飯を出された。冷たいじゃがいものスープ、薄く切られたで豚《ぶた》のサラダ、大きな豆腐とうふ。そんな回復食をわたしのために用意してくれた彼は、なにも聞かず、なにもいわない。その優しさに、気が付いたら泣いていた。彼は部屋を用意してくれた後、「まだ、ここにいろ」といった。
 結論からいえば、帰国までのひと夏、彼の家に滞在した。
 彼はわたしがドクターだと知ると「医者の不養生ふようじょう」と笑い、わたしが納豆や刺し身といった日本独自の料理を食べる前にすこしでも躊躇ちゅうちょすると「郷に入っては郷に従え」と笑い、わたしが日本のことを知らないと見抜くと「知らざるを知らずとせよ」と次から次へと様々なことを経験させてくれた。
 着付けを覚えさせられたり、盆踊りをマスターさせられたり、目隠しでスイカを割らされたり、すすれるようになるまで蕎麦そばばかり食べさせられたり、一本歯下駄いっぽんばげたで登山させられたり……何故そんなことまでやらされたのだ、と振り返るとそう思うことばかり。しかしだからこそ、どんな場所でもなんでも挑戦できる程度にはきもきたえられたし、多くの美しい日本語を覚えるに至った。
 彼と過ごした夏は、まさに人生の夏休みだった。
 伸ばしに伸ばした帰国日が翌日に迫った夜、彼は縁側えんがわで線香花火を作ってくれた。手元で舞い踊る光、パチパチという軽やかな音。わたしがいなくなったらさびしくなるだろう、と問うと、彼は歯を見せて笑った。
 団扇うちわあおぎながらとろけた色をした月を見上げる。夜を忘れた蝉の鳴き声が霧雨きりさめのように空気に交じる。板張りの縁側に寝転がり、手を伸ばして部屋の中の畳の縁を指先で撫でる。どこもかしこもすこし湿っていて、けれど、どこもかしこも昨日より乾いている。青々と好き勝手伸びていた庭の植物が月に頭を下げて、眠りの季節がくることを告げている。
 風が吹いて、ふ――と、胸になにかが届いた。
 線香花火の火薬の香だ、と気が付いた瞬間に、蚊取り線香の香、彼の香水の最後に残るバニラの香りや、湿った土、い草の香、――夏の終わりの香りがわたしを包んだ。
わたしはそのとき初めて、匂いを感じていなかったことに気が付いた。
「ようやく匂いがわかったか。なによりだ。もう帰っていいぞ」
 わたしはもう泣かなかった。彼の与えてくれた場所、時間、経験、言葉、それらがわたしの痛んだ部分を補ってくれていたから、泣かなくても大丈夫だった。人生で最も大切な再生の時間だった、が、「どうだっていい」と彼は最後まで礼をいわせてくれなかった。それが十一年前だ。彼とはそれから、本当に長い付き合いをさせてもらっている。
先日シャウエンで再会した彼は相変わらず彼のままで、また夏に行くよ、といえば「夏はやめておけ。最近は灼熱しゃくねつだ。次は冬にしろ。極寒だけどな」などと笑う。どうしたらいいのだとわたしが笑うと、「どうだっていいよ。いつでも歓迎かんげいする」と、彼は歯を見せて笑った。
 だから、わたしはまたこの国にやってきた。
 東京とうきょうに着いたのは午後六時だった。

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