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#005 シャウエン
しおりを挟むシャウエンに着いたのは午後五時だった。旧市街の中に車は入ることができないため、タクシーで近くに下ろしてもらい、徒歩でホテルに向かう。モロッコ山岳地帯にあるシャウエンは階段が多いが、シャウエンブルーの街並みは絵に描いたように美しく、足取りは軽い。影さえも青に染まる世界にモロッコらしいスパイシーな香りも相まって、ファンタジー映画の中にいるようだ。オフシーズンだったことが功を奏したのか無人の通りも多く、久しぶりに私用のスマートフォンの写真機能を多用した。しかしフォトジェニックな街並みを堪能している内に裏通りに入り込んでしまい、タクシーの運転手に五分で着くと教えてもらっていたホテルに着くまでに三十分以上迷うことになった。
汗だくでなんとか辿り着いたホテルは中庭を囲むように客室が配置されていた。案内された部屋は豊かな色彩が使われており、異国に来た実感に気分が高まる。ウエルカムドリンクとして渡されたミントティーを飲みつつ、写真をパートナーに送る。向こうは深夜だから返信はすぐには来ないだろう。シャワーを浴びて仕事のメールを返すと、背後から眠気が覆いかぶさってきて、机に伏して眠ってしまった。
目を覚ましたときには二時間も過ぎていた。開けておいた窓からスパイシーな香りがする。匂いにつられてフロントに向かうと、夕食の準備ができていることと、部屋と中庭どちらがいいかと聞かれた。ついでに豆知識のように「通りに面するところに庭を作ることは禁止されているので、大体の家には中庭があるんですよ。憩いの場です」と教えられ、なら、と憩いの場で夕食を頂くことにした。
中庭には色鮮やかな大小様々の植木鉢、星をかたどった照明器具、いくつかの素朴な丸机と丸椅子が設置されていた。他の宿泊客がアルコールの代わりに食後のミントティーを楽しんでいる。空の月はとろけたバターの色をしていて、夏の夜の夢のような光景だった。空いていた席に掛けて、クレープとタジン料理、新鮮な果物を食べる。食後にスタッフから薦められたアボカドジュースを持つ。アボカドは得意ではないのだが、郷に入っては郷に従えという先人の教えもあるし、恐る恐る一口。
「おれを覚えているか、ドクター」
味わう前に、突然背後から声をかけられてむせてしまった。「おい、また派手にやったな」とわたしの背中を撫でる人を見上げると、モロッコらしい色鮮やかな布を肩からかけた紳士だった。ムスクの香りをまとった彼はわたしの口元を折り目のついたハンカチで拭ってくれる。知人の中でこれだけ紳士な対応ができる人は一人しかおらず、忘れられるわけがないとしゃがれた声で答えるしかなかった。驚いたよといえば、彼は満足そうに「なにより」と鷹揚に頷く。彼の悪戯好きはなにもかわっていないようだ。いつぶりかと聞くと、彼は月を見上げて「どうだっていい」と心からどうでもよさそうにわらってから、ひどいタイミングで声をかけた非礼を詫びてくれた。だからわたしも彼の悪戯を笑い、翌日から共に観光する約束をした。
翌朝、約束の時間にホテルを出ると、日影で白いワンピースを着た黒髪の少女がりんごをかじっていた。青の通りに白と黒と赤のコントラストが映える。熟れた果物の香りとミントの香りが夏の空気に馴染んでいた。彼女の手の中のりんごには形の良い歯型がついている。と、すこし遅れてやってきた彼が、驚くべきことに、少女を娘だといいだした。結婚していたかと聞けば「前時代だな、アップデートをかけろ」と彼は笑い、少女はたどたどしい英語で「よろしくね」と微笑む。彼らのえくぼはよく似ていた。
彼らと青の通りを探索する。彼は事あるごとに娘の写真を撮り、逐一それをわたしに報告する。子煩悩なことだ。彼女は彼女でそんな父の写真を撮り、やはりそれをわたしに報告する。仲が良いのだろう。わたしも写真を彼らに見せると、彼らはたくさんの言葉で褒めてくれて、すこし恥ずかしくなった。彼らに勧められて、色鮮やかな伝統的なスカーフを言い値の三分の一で購入し、階段を上り、丘の上にあるモスクに向かった。
そこからはシャウエンが一望できた。
「ところで何故こんなところにいたんだ、ドクター。驚きすぎて、夢かと思ったよ」
旅が好きなんだと答え、彼にも同じ質問を返す。ここは彼の国から遠い場所だ。わざわざこんなところまで来るほど、彼は旅好きでも写真好きでもなかったはずだ。
「遠くに来たかったの。それだけよ」
わたしの問いに答えてくれたのは彼の娘だった。
「もう会えないってわかってるのに、遠くで生きている気がしたの。だから、遠くまで来てみたの。おもちゃみたいにきれいな街……だけど、ここにもいないのね」
彼はなにもいわずに彼女の肩を抱く。彼らの間には痛みがあった。何度も何度も、目の前で見てきた痛みだ。街からふきあげてきた風が襲いかかってくる。汗の香、ミントの香、スパイスの香、果物の残り香、彼の香水の深い森の香。すべてが混ざり合い、このおもちゃのような街にぴったりの夏の匂いになっていた。
遠くで虫が鳴いている。わたしは彼らの隣で、街を見下ろすしかできなかった。
彼らの日程に合わせ滞在を終え、空港でハグをして別れた。彼女はハグに慣れていなかったのか顔を真っ赤にしてしまい、彼に耳をつねられたのもいい思い出だ。
自国の空港に着いたのは深夜だったが、秘書が迎えに来てくれていた。荷物を預けると最早慣れた調子で鼻を寄せてきて「サマーキャンプみたいな香り」と微笑む。たしかにそうだ、思い返せば、あれは遠い夏の匂いだ。
「遠くに行ってきたからね……遠くの香りがするんだよ」
わたしはまた日本に行きたくなった。どうしてもまた、あの夏の匂いに包まれたくて、やはり夏にいかなくてはいけないと、強く思った。
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