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第四話
ちらし寿司と心中 前編
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――I saw the best minds of my generation destroyed by madness. (私はこの時代の最高の才能が狂気によって破壊されるのを見た)
私たちは前方についた2つの目で見たことを『正解』と判断する生き物だ。それを浅はかととらえるか、それを愛らしさととらえるかは、上部についた1つの脳みその判断だ。
結局、人間は自分の判断でしか『正解』を見つけられない。
最高の才能も、それを破壊する狂気も、この目で見なければ判断はつかない。
そして存外、『そんなもの』は自分の目で見てしまえば大したものではないのかもしれない。むしろ自分の目では決して見られないものにこそ、狂気は宿っているのかもしれない。 そんなことをぼんやりと思いながら、私は『彼』の背中を見ていた。
■
私達の交際は順調といえば順調だ。
告白のあとデートは二回したし、命を脅かされるような事件に巻き込まれていないし(ひったくりを捕まえたりはしたけれど)、白翔くんのやばそうなところも鳴りをひそめてくれている。
しかし、三月に入ると、白翔くんは忙しすぎて時間がとれないと連絡をしてきた。
年度末と学年末が同時に来ているために、学生であり、事業主である彼にはやることがたくさんある、とのことだ。一事業主に過ぎない私でもやることの多い時期なので、気持ちは大変よく分かった。電話越しに謝罪してくる彼に「そかそか、頑張れ」と答えると、彼はため息を吐く。
『どうしてそんなに聞き分けがよくいらっしゃるのか』
「長所じゃない?」『俺はもっと我儘言ってもらえた方が嬉しいです……』
電話越しなのに、拗ねている顔が浮かんできて、つい笑ってしまった。年下彼氏の可愛いところを、白翔くんでも少しはもっているらしい。
「仕事行く前に研究室に顔だけ出そうか?」
『いいんですか?』
「うん、ちょっと話すぐらいしか出来ないと思うけど」
『嬉しいです! 毎日来てください。あなたの顔が見られるなら頑張ろうという気になれます』
「毎日は無理。というか頑張る気すらなかったの……?」
三月だ。
私の顔の傷はこの二週間で完全に治った。今はどこを殴られたのかも分からないほどだ(白翔くんはそれでも会うたびに私の顔を診て「今日も可愛いです」なんて関係のないことを言う)。それでも不眠だけは治らず私はまた日付が変わる時計を見ていた。
眠れなくなった原因はストレスだと思うけれど、痛み止めの点滴を打っている間だけはよく眠れたことを考えると、そういうものに頼るべきなのだろうか。ストレスの除去など考えずに、薬に頼れば、そしたら、もっと楽に生きていけるのだろうか。
――痛みも苦しみのない――
「……はあ……」
会ってもストレスになるし会えなくてもストレスになるんだな、と思いながら私はコートを羽織った。
■
……豚骨と魚介を丁寧に合わせたスープが中太ストレート麺との調和、大将こだわりの叉焼には根強い人気が……ゾクゾクゾク――と急に寒気が襲ってきた。
視線をあげるのと、背後から伸びてきた二本の腕が目の前の雑誌の棚を掴んだのは同時だった。
「こんばんは、久留木さん?」
振り返るまでもなくはっきりと分かる、【なにか】の気配。
「こんな時間になにをしているんですか?」
コンビニでラーメン特集雑誌を立ち読みしていただけなのに突然消毒液の匂いに包まれた。ゾゾゾゾと襲ってくる寒気に身をすくませつつ「こんばんは、えっと、白翔くん」と言うと、「ええ、こんばんは。もうすぐ三時ですね?」と彼は返してくれた。
彼の両腕は私を逃がす気がないらしく、棚を掴み続けている。
「もう一回聞きますけど、こんな時間にこんなところでなにをしているんですか?」
背後の低い声に額から冷や汗が噴き出してくる。
「ねえ、久留木さん?」
「え、っと……雑誌読んでます……」
「こんな時間に女性ひとりで、部屋着の上にコートだけ着たような無防備な装いで出かけるなんて、よほど火急の用件なのでしょうね?」
「えっ……火急ではないんだけど……」
耳にその吐息が触れる。
「下着ぐらいちゃんとつけて出てきてください」
「なっえっ⁉ ちょっと、どこ見ているの!」
彼の腕の中で振り返ると絶対零度の瞳が私を見下ろした。
「ひっ……」
「それで……久留木さん……俺を納得させられるだけの用件ですか?」
今日も今日とて真っ黒なモッズコートにゴツいミリタリーブーツを履いた彼がさわやかな笑顔で私に詰め寄ってきた。
【なにか】がぴたりと私に寄り添って、にこり、と笑っている。
ぞぞぞと吐き気を伴う悪寒が足から頭まで突き抜ける。どぐん、どぐん、と震える胸をおさえても少しも寒気はおさまらない。私をただ見下ろす氷のような冷たい【なにか】。
――そうだった。これが『彼』だ。
「そ、の、……ウェブマネーを買いに……」
「それはこの深夜に必要でしたか? 不要不急の用件じゃないでしょうか?」
「あの、その、母の、息子が、その……五万円分必要だって言うから、その……」
「母の息子ってなんですか。お兄さんですか?」
「後で振り込むって言うから!」
彼が舌打ちをする。懐かしさと恐怖を覚えた。
「久留木さん。『アカウント乗っ取り、ウェブマネー』で検索してください。数年前の古典的な詐欺が出てきますよ」
「え、詐欺なの⁉ だってすぐ買ってこいって言うんだよ⁉」
「そもそもこの時間に急ぎウェブマネーが必要な人間がいますか? もしそうだとしたらあなたは何故すぐに帰らず雑誌を立ち読みますか?」
「……それは……そんなに怒る話……?」
彼は私の手から雑誌を奪い、足元に置いておいた生クリームとウイスキーなどが入ったカゴを持つと、ウェブマネーのカードは棚に戻し、レジに向かってしまった。
「ちょっと待って!」
「反省してください」
「反省って……悪いことしたつもりはないんだけど……」
「そんなに拉致されたいんですか、俺に?」
「そんなことする予定あるの? ちょっと待ってよ! それ私の買い物だからっ」
「一括で」
「待ってってば!」
さくさくと会計を済ませてしまった彼の腕を掴んでも、彼は止まるどころか逆に私の腰を掴んで歩き出してしまった。
彼の力強い腕に引きずられるままコンビニを出ると、黒い高級車のトランクに放り込まれてしまった。
「いたっ……」
高級車はトランクも広く、私一人が横になるスペースは余裕であった。
「ちょっと白翔くん……!」
助手席ではなくトランクに放り込まれるのは『ヤバい』――寒い――肘をついて起き上がろうとすると、肩をつかまれ床に押し付けられた。
「なんですか、久留木さん」
彼が私を見下して微笑んでいた。
暗い車内では絶対見たくない能面のような笑顔だ。
黒の皮手袋をした彼の手が私の膝に触れる。
「久留木さん」
「うっ……なんでしょうか……?」
「あっと言う間に荷物のように載せられてしまう久留木さん?」
「ひぇっ……はい……それは、でも、これ、相手が白翔くんだからであって、……」
「オレオレ詐欺を簡単に信じてしまう久留木さん?」
「……誰に対してもこんな簡単に流されるわけでは……」
彼の膝が私の足を割り開き、その手が私の腹を強く押す。
「ちょっ……白翔くんっ、待ってっ!」
「このまま俺の家に連れ帰ってもいいんですよ? いいんですか? 俺は聖人君子ではありませんから、監禁してあなたが歩けなくなるまで太らせますよ?」
「それは聖人君子じゃない普通の人もまず考えない事だよ、白翔くん!」
「俺がなにを言いたいか分かりますね、久留木さん。あなたは頭がいいですからね?」
「……だってっ初めて会った時はそんなこと言わなかったじゃんっ!」
苦し紛れにそう言うと彼は笑みを深くし、鼻がぶつかりそうなほど近くまで私に顔を近づけてきた。
「前と今では状況が違います。あの時は事情聴取があったでしょう? だからあなたは朝になってから帰ったはずです」
「たしかにそうだけどもっ……、白翔くんはさっさと帰っちゃったじゃん! あのときは送ってもくれなかったじゃん……」
「俺は宮本さんのことがあったので仕方ないでしょう? 俺が帰っていなかったら死人が出ていたんですよ? それにあの時と今では俺たちの距離も関係性も変わりましたよね? ……あなたはそれを了承しましたよね? ねえ?」
「みぞおちグリグリしないで、痛いよっ」
「痛くしているのだから当然です」
「……いや、痛いっ! やだ!」
「久留木さん、謝りなさい」
暗闇の中でその瞳が爛々と光っている。――ぞっと、全身が冷えた。
「ごめんなさいっ!」
「……はあ、……仕方ない人ですね……」
ようやく【なにか】は気配を消し、白翔くんがくすくすと笑ってくれた。
ふざけていたのかと思うぐらいの切り替えの早さだが、未だに彼の膝は私の足の間にあり、彼の手は私のみぞおちを押し続けている。怒りは継続しているらしい。
「俺がなんで怒っているか分かっていますか?」
「……なんで白翔くん、ここにいるの?」
「今日日携帯があれば分かることはいくらでもあります」
「怖い想像しか出来ないんだけど」
白翔くんにこりと笑い、頬にキスをしてきた。
「分かるでしょう、久留木さん」
「分かりたくない……」
「なら分かっているということですね、安心しました」
白翔くんが私のみぞおちから手を離し、優しく抱き起こしてくれた。
「帰りますよ」
白翔くんは私を助手席に導き、シートベルトまでしめてくれた。それからくしゃくしゃと私の頭を撫でて、自分は運転席に乗り込んでにこりと笑う。
「そんなに怖かったですか?」
「……すごく怖かった……」
「おかしいですね。あなたは俺の【そういう部分】を知りたがっていたのに。怖いもの見たさだったんですか? 今更もう逃げられないですよ」
くすくすと笑いながら白翔くんは車を発進させた。
それから彼は一言も話さず、私もなんと声をかけたらいいか分からず、車内は沈黙に包まれた。
そっと彼の横顔を見ると、目の下にうすくクマが出来ている。
「……白翔くん」
「なんですか?」
「ごめんなさい」
私が頭を下げると彼はちらりと私を見た。
「……それは今、俺はフられたという意味ですか?」
「へ? いやそうじゃなくて、そんなに心配してくれたんだなって……」
「それはまあ……、当たり前のことでしょう? 彼氏ですよ、俺は」
白翔くんはうろんげに私を見た。
「今日はもう早く寝てください。俺も、……少し疲れています。こんな時間にあなたに会いたくなかった。優しくできないですから」
「……そっか……」
彼は私の家まで送ってくれた。「ありがとう」とドアを閉めようとしたら「久留木さん」と白翔くんがドアをおさえた。
「なに?」
「なにか久留木さんの手作りのお菓子が食べたいです」
「そうなの? 食べていく? すぐ作れるよ」
それで機嫌が取れるならと私が声を明るくすると、白翔くんは何故かため息を吐いた。
「意味分かって言ってますか?」
「意味? ……、あ。もしかして送り狼だった?」
白翔くんはにっこりと笑った。
「海よりも深く反省してください」
「ごめんなさい」
次の日(といってももう今日だけど)に研究室にシュークリームを届けることを約束して別れた。
とりいそぎ母には『それは詐欺だから無視して』と連絡を入れた。母は『そうらしいの! あんた! 騙されるところだったわね!』と笑われた。
「……付き合うの、やっぱやばかったかな……」
『なんとなく付き合ってなんとなく別れる』は彼には通じなそうだなと思いながらベッドにもぐった。
次の日の朝、昨日の深夜あのコンビニの前で拉致があったという通報があったというニュースが流れたときは少し笑ってから、「ただの痴話喧嘩です。すいません」と警察に電話を入れておいた。
■
約束通りシュークリームを持っていくと、研究所の玄関まで迎えに来てくれた白翔くんが女の子を抱っこしていた。
「白翔くん、子持ちだったの?」
彼は私の質問に不満そうに眉間に皺を作った。
「俺は潔癖です」
「それはどういう意味? キレイ好きってこと? まあいいや、深堀りはしないでおこう」
「詳しく聞いていただいて構わないのに」
「いやだ」
「そうですか、残念」
そのおさげ髪の女の子は彼の白衣を掴んだまま眠ってしまっているようだ。
「白衣も似合ってるね」
「仕事着ですよ」
「いつも黒いけど、白も似合う」
「でしたら今度選んでください、……さてと」
白翔くんは抱っこしていたその女の子を指さした。
「後藤さんの娘さんの『ゆきちゃん』です」
「後藤さん?」
「強盗の後藤さんですよ」
「ああ! 強盗の!」
白翔くんは人差し指を口元にあてて「シー、やっと寝てくれたところなんです」と慌てたので、「ごめんね」と頭を下げる。
「後藤さんの娘さんがどうしてここにいるの?」
「色々理由があるんですが……とにかく研究室に行きましょう。ここは煙草臭いので」
「あ。そうだね、子どもにはよくない。相変わらず喫煙所と化してるのね……」
白翔くんは手早く私の入館手続きを済まし、彼の城に案内してくれた。
相変わらずどういう用途で使われるのかわからない機械に満ちている場所だ。しかし今日は前に来た時とは違い、机の上にも椅子の上にも夥しい量の書類が積まれている。
「どうしたのこれ、すごい量だけど……」
「年度末関連の書類と俺のレポート草稿ですね……校正は紙で見た方が安心なので印刷したんです。よかったらこちらに座ってください」
「こちらって……」
白翔くんはその長い脚で書類を蹴り飛ばして席をひとつ開けてくれた。
「どうぞ、久留木さん」
「……ありがとう」
席に座り、蹴り飛ばされた書類の一枚拾ってみる。……異種形状の結晶粒からなる多結晶材の……。私にはよく分からない言葉が並んでいたので、また床に放流しておいた。
白翔くんは部屋の隅にあるドリンクコーナーから私を見た。
「紅茶とコーヒーどちらがいいですか?」
「どちらでも」
「ならコーヒーにしましょう」
白翔くんはコーヒーメーカーのスイッチを入れると「重いな……」と呟きながら女の子を抱き直した。
「それで、……その子はどうしたの?」
「後藤さんに決算対応をお願いしていたら税務署に直接行かなくてはいけない用件があったそうで……そのタイミングでこの子が熱を出したと保育園から連絡がありまして……でしたら税務署は別日でいいと言ったのですがどういうわけか後藤さんはこの子を置いて、税務署に行ってしまいました。後藤さんは俺の想像を越えてくれますよ」
ハハッと白翔くんは乾いた笑い声をあげた。あまりにも分かりやすい皮肉だった。
「……そんなに子ども苦手なの?」
「得意だと思いますか?」
「愛想よくはできると思ってたかな」
「その結果がこの有様です」
白翔くんはにこりと笑う。それはそれはハンサムだった。
「初恋泥棒しちゃったんだね?」
「盗んだ自覚はありません。時任さんがいるときであれば彼が対応してくれたと思うのですが、彼は彼でメディア対応をお願いしていたので……」
白翔くんの目の下にできていたクマが濃くなっている。
「忙しいのね」
「この時期はどうしてもそうなりますね」
白翔くんがコーヒーの入ったマグカップを持ってきてくれた。マグカップには葡萄のイラストが描かれている。
「そんな時に私ここに来てよかったの?」
「他の人間は歓迎できませんが、あなたは別です。あなたがいることで俺の生産性が飛躍的に高まります」
そんなことあるだろうかと思いながらコーヒーをひとくち飲む。酸味が強くコク深い浅煎りの豆の味がした。おいしい、と呟くと、白翔くんは私のうなじと髪の間にその高い鼻をつっこんできた。
「久留木さん、会いたかった」
「あ、うん……犬みたいね……」
「ふふ、久留木さんだ。……はあ、……」
「……そんなに忙しいならやっぱり私来ない方がよかったんじゃない?」
無言で笑みを返されたのでそれ以上はなにも言えなかった。
白翔くんはコーヒーメーカーをもう一度動かし自分の分のコーヒーを淹れだした。その腕の中で女の子はすやすやと眠っている。
「それにしても、ゆきちゃん、よく寝ているね。熱があるからかな」
「熱はもう下がっていますよ。ちゃんと病院で診てもらいました。さすがに小児は自信がありませんので」
「そう……じゃあなんでそんなに寝ているのかな」
「ああ。それは『も』ったので」
「へ? なに?」
「薬を『盛』ったので」
白翔くんはさらりとそう言うと、腕の中の子どもを抱き直した。
「……それは、大丈夫なの?」
「子どもの治験は済んでいますから……よほど運が悪くなければ死にはしません」
「運が悪いとどうなるの?」
「運が悪ければ人間は死にますよ。今生きている人間は今まで運が良かっただけです」
暴論を吐いた後、白翔くんが淹れたばかりのコーヒーを飲む。
いつもより棘が多いというか愛想が少ない。今の彼は本当に疲れているのだろう。
「私が抱っこしようか?」
「いえ、あなたに抱かれるのは俺だけでいい」
「……白翔くん……ガンガン来るのね……」
「彼氏ですから」
私の隣の席の上に乗っている書類を蹴り落とし、白翔くんは腰掛けると私の肩にその頭を預けてきた。
彼の体からはいつもの甘い香水の匂いはなく、昨日と同じ消毒液の匂いがする。
「眠いの?」
「……」
白翔くんは目を閉じてしまっていた。その腕の中の女の子もまた起きる気配がない。私は小さくため息をつく。
「そんなに眠いなら仮眠して来たら? そういう部屋はないの?」
「折角あなたがいるのに仮眠室にいけと?」
「膝枕してほしい?」
「いいですね……」
彼はそうは言ったが、私にそれを頼まず、私の肩にその頭を預けて深く息をしている。その髪を撫でると「久留木さん、いい匂いです」と彼は笑った。
「白翔くん、昨日はたまたまコンビニに来ただけじゃない?」
「……どうしてそう思います?」
「昨日は本当に怒っていたから、……私がコンビニにいて驚いたんじゃない? きみが怒るときは予想が裏切られたときだけ……きみがGPSとか見ていても違和感ないけど、違うでしょう?」
彼は深く息を吐いた。
「そうですね。そもそも俺にあなたを監視する余裕はない。……昨日は気分転換と夜食を買いに、……あなたにもし会えたらとちょっと期待してあのコンビニまでいったんです。そしたら本当にいて……しかも、あんな無防備な恰好で……車ごと突っ込むところでした」
そんな頻繁にダイナミック入店されては、あのコンビニはつぶれてしまうだろう。あそこが家から一番近いコンビ二なのでそれは困る。「やめてね」と言うと「あなた次第です」と白翔くんは口を尖らせた。
「次、もし材料がなくて困ったら俺を呼んでください。買っていきます。家はもう知ってますから」
シレっと言われたら、もうどうしようもない。
「……私もきみに会いたかったよ」
彼はにんまりと笑った。
「なんできみはそこまでしてくれるんだろう……そこまで好かれる理由が私にはないよ」
「どこが好きか説明してほしいんですか?」
白翔くんは目を開けて私の肩から離れた。
「明確な理由を説明したら、それを失った時に俺はあなたを嫌いになるという証明になります。かと言って曖昧な表現をしたらあなたは俺の思いを疑うのではありませんか?」
「……そんな面倒な気持ちで聞いてはいなかった。単純に、ちょっと聞きたいなーっていうか……」
「好きなだけですよ。そこに理由は求めない方がいいんじゃありませんか?」
「……そういうもんなのかなぁ?」
そんなこともない、と言えるほど私は恋愛に詳しくなかった。白翔くんは私の顔を覗き込むと「あなたに好かれたい、今よりもっと」と笑った。
私は彼のことをもう結構好きなのだけど、彼は赤茶色の瞳で真っ直ぐに私を見ていたから、迂闊なことは言えなかった。
「……ちゃんと考えます。彼女なので……」
「俺はフラれても諦められないので、最終的には久留木さんが諦めて俺の隣で死んでください」
「え。怖い」
「今更ですが、他にお付き合いしている人いませんよね?」
「いないよ。いたらさすがにシュークリームなんて持ってこないよ」
「ああ、よかった。じゃあ、シュークリームを食べましょうか」
そうだねと返事をしようとした瞬間、――バアン、と遠くでなにかが弾ける音がした。
窓を開けると病院から煙が上がっている。どうしたものかと、白翔くんを見る。
彼は爆発音とともに目を覚ましてギャン泣きし始めた女の子に爽やかな笑顔を見せていた。
「大丈夫ですよ」
「怖い!」
「怖くないですよ。お父さんもすぐに帰ってきますよ」
「おとうさん……、おとうさんどこぉ!」
「ああ……余計なことを言ってしまいましたね……」
「やだあ! おかあさんやだぁ!」
「そうですね、お母さんは嫌ですね。……泣かないでくれますか?」
ギャン泣きしている子からは、後藤さんのDV被害を裏付けるような不安定さを感じた。そんな子どもを抱きしめて「大丈夫ですよ、怖くありません」と白翔くんは何度も囁く。うんざりしているのは私から見れば明らかだが、その子から見たらわからないようだ。
穏やかに微笑んだ人に、低く落ち着いた声で「怖いことはありませんよ。ここに怖いことはありません」と何度も諭してもらえるのは、落ち着くだろう。少し羨ましい。
「……ほんとう? あきちゃん、大丈夫?」
「はい、あきちゃんがゆきちゃんを守ります」
「怖くない?」
「はい、怖くないです」
五分ほどおだやかに話しかけられ続け、ようやく女の子が泣き止んだ。
「もう、……怖くない」
「そうですか、よかったです」
心温まる状況だ。しかし、……である。
「……白翔くん、さすがに避難した方がいいんじゃない?」
「どうですかね、これだけ騒いでいても避難指示が出ないなら、大したことはないような、……それに避難すると、俺は明日提出のレポートを書き終わらない予感がしています」
「明日提出なの⁉」
「正確に言えば今日の二十四時までに教授に送らないとアウトです」
「アウトってどうなるの?」
「必修科目なので留年ですね」
「……留年って……」
「……さて、……どうしますかね……会社代表としては避けたいところですが……」
白翔くんは疲れているようだったので、私は彼の腕の中の子に「こんにちは」と声をかけた。
「だれ?」
「あきちゃんのともだち。まいっていうの」
「まいちゃん?」
「うん、まいちゃん。ゆきちゃん、まいちゃんともあそんでくれる?」
「いいよ?」
「よかったー、あのね、ゆきちゃん、ちょっとこっちきて?」
嫌がられていないのを確認しながらその子を抱き上げる。思っていたよりは重いけれど、やはり小さいし、細い。その背中を撫でたあと、その小さな耳に口を寄せる。
「まいちゃんね、あきちゃんにないしょのプレゼントあげたいの」
「ないしょの?」
「そう、ないしょの……いっしょにえらんでくれる?」
ゆきちゃんは『あきちゃん』を見て、それから私を見上げてにっこりと笑った。
「いいよ!」
「ありがとう」
その辺の雑貨屋を散歩して来よう、その間に白翔くんならレポートを片付けられるだろう。
ゆきちゃんを抱っこしたまま「あきちゃん、またね」と言うと、白翔くんはぽかんと口を開けて私を見上げていた。
「どうしたの?」
「いや……久留木さん、お子さん似合いますね……」
ピリリと【なにか】寒気が走った。
「……恐ろしいこと考えてない?」
「大したことは考えてませんよ。まあ、そういった手段も、というだけで……」
「どういった手段の話をしているかわからないけど、やめてね? 怒るよ?」
「ふふ」
「笑い事じゃないんだよな……」
寝不足の白翔くんは倫理観も死ぬようなので放っておこうと決めた。とっとといこうと思ったら、白翔くんが立ち上がり私の肩を掴む。
「どうしたの? ぐえっ」
彼はいきなり私の顎をつかんできた。
「なにっ⁉」
「これ、飲んでください」
「へ? うぐっ……」
なにかを口の中に入れられたと思ったら、すぐにコーヒーを注ぎ込まれた。冷えていたから火傷はなかったがいきなりの水責めに「うぇっ」とひどい声で呻いてしまった。
「飲んで」
「……ごほっ、うえ……」
鼻と口をふさがれては飲み下すしかなかった。
ごくん、と喉を異物が通り過ぎたのが分かったが今更吐きだせもしない。白翔くんは私が全てを飲み下したのを確認してから鼻と口を解放してくれた。
「……なにを、飲ませたの……?」
「ちょっとしたものです」
「なに、爆弾⁉」
「違いますよ。……でも、あまり遠くには行かないでくださいね」
「遠くに行くとどうなるの‼ なに⁉」
「あはは」
「笑い事じゃないんだけど!」
不意に襟を引っ張られた。
「けんかしてるの?」
ゆきちゃんが不安そうな顔で私を見ていた。なので笑顔で「違うよー、仲良しだよー」と笑った。『あきちゃん』も便乗するように笑顔で「早く帰ってきてくださいね、寂しいので」と笑いやがった。
私は喉の奥になにかがあることに恐怖を覚えつつ、緊急放送の流れる研究所を後にした。
■
「ゆきちゃんはあきちゃん好き?」
「好き! かっこいい!」
「そうだよねえ、かっこいいよねえ」
「似てるから!」
「うん?」
ゆきちゃんはにこにこと笑いながら、どこかのアイドルグループを口にした。そのボーカルに白翔くんは似ているらしい。残念ながら私はその中の誰がボーカルなのかわからないので「そうだよねえ」と言うしかなかった。
「まいちゃん。あきちゃんって足はやいかな?」
「ん? なんで?」
「足はやいとモテるから……」
「そう……幼稚園ってそういう感じだったか……」
「ひーくんもモテるの!」
「ひーくん? だれ?」
「チューリップ組! ゆきちゃんといっしょ!」
「足はやいの?」
「はやいーでもいやなやつなの!」
ひそひそとゆきちゃんが教えてくれたことによると、チューリップ組(年長組)のひーくんはカッコよくて足が速いからモテるのだけど、ゆきちゃんの物を持っていったり「おかあさんいない子」と言っていじめたりするらしい。それはいやなやつだなと思ったけれど、私が同意を示す前に「でもかっこいいの、仲良くなれたらいいのにな」とゆきちゃんが言った。
「ゆきちゃんはみんなと仲良くしたいの!」
「ゆきちゃんはお父さんに似て、将来苦労しそうだな……」
誰とでも仲良くしたいと思うのは美徳だが、男女間の場合は必ずしもそれが幸と出るとは限らない。現実は漫画ではないのだ。しかしそんなこと大人が幼稚園児に言うべきではないだろう。
「ゆきちゃんはひーくんとあきちゃんならどっちが好き?」
「付き合うならひーくん。結婚するならあきちゃん」
「……結婚があきちゃんで大丈夫?」
「あきちゃんお金持ちだもん!」
「それは大事な観点ね……」
そんな話をしながら駒場の近くにある雑貨屋に入る。そこでゆきちゃんが「歩く!」と言うので抱っこを止めて手をつなぐことにした。子どもの手は湿っていた。
「まいちゃんはあきちゃんになにをあげたらいいかなあ」
「なんでないしょのプレゼントしたいの?」
「なんでって……」
ゆきちゃんを連れ出すための口実に過ぎなかった。けど冷静に、これまでの白翔くんとのことを思い出すと(家まで送ってくれたり、デートを提案してくれたり、そもそも彼氏だった)私は彼にもう少し感謝を示しておくべきだろう。
「日頃の感謝かなあ……」
「まいちゃんはあきちゃんと付き合っているの?」
「……付き合ってたらどう?」
「お似合い!」
「あ、そう?」
子どもの頃は年の近い男女が一緒にいたら、みんな付き合っていると思っていた。多分、ゆきちゃんから見たら私たちはそうなのだろう。
と分かるのに、お似合い、と言われて、悪くないと思う自分が少し恥ずかしかった。相手から好意を示されてまんまと好きになるなんて、……実にちょろい……。 ため息をつく。
「ねえ、ゆきちゃん、あきちゃんってどんな人だと思う?」
「あきちゃんは『すっごい頭がいい人』で、それから『すっごくきびしい人』で、だからおとうさんはあきちゃんとお仕事できて『すっごくうれしい』って言ってたよ!」
「……そっか。それならよかったね」
白翔くんはちゃんとあの強盗のおじさんを雇ってくれているようだ。
『弁護士』と『会計士』というダブルライセンス持ちでありながらそれを全く活かせていなかった後藤さんが、白翔くんの下で最大限活かされているなら、それはきっといいことだろう。
ゆきちゃんが笑う。
「だからゆきちゃんとあきちゃんが結婚したらおとうさんよろこぶよね?」
「あきちゃんはゆきちゃんよりも十五歳ぐらい年上だから……」
「だめ?」
「だめとは言わないけど……ゆきちゃんが好きだと思う人と結婚したらおとうさんは嬉しいんじゃないかな」
「まいちゃんはあきちゃんが好きなの?」
少し考える。それは難しい質問だった。
「好きってどういう感情なのかな……」
「喜んでほしいって思うことだよ!」
「……喜んでほしい?」
「そう! だからプレゼントあげたいって思うんでしょ? だから、好きなんだよ!」
「ああ、……そっか、じゃあ好きなのかな……」
少し恥ずかしくなった。
「まいちゃんはあきちゃんラブなのね」
「……そうね、どうやら、いつの間にやら……そうだったみたいね」
ゆきちゃんはくすくす笑った。
『あきちゃん』へのプレゼントとして、ゆきちゃんが選んでくれたB5サイズのノートを買った。黒地の革表紙に方眼紙のノートだ。
ブランドも値段も書いていないシンプルなデザインで、たしかに白翔くんに似合いのノートだと思った。
研究室の近くを歩いていると、なにかの機械の配線がショートをしたボヤ騒ぎだった、などと道行く人が話していた。あの爆発は、事故でも事件でとなかったらしい。それなら安心だろうと研究室に戻ると、研究室のドアの外でひとりのおじさんが体育座りしていた。
「あ、強盗のおじさんだ」
「おとうさん!」
呼びかけを間違えたが、ゆきちゃんの声でかき消されたので問題なかったことにした。ゆきちゃんはそのおじさんに駆け寄った。
強盗のおじさんこと後藤さんは「ゆき、おかえりー」とゆきちゃんを抱きとめてから、私を見上げた。
「お久しぶりです、久留木さん!」
「久しぶり、新しい職場はどう?」
「びっくりするぐらい良いんですよ、これが。年収も倍ですし休みもありますし、あいさつしてもらえて、すごいんですよ」
「それでびっくりしちゃうのか……」
今までどんな扱いをされてきたのかと思いつつ手を差し出すと「ありがとうございます」と彼が立ち上がった。
「太った?」
「毎日吐かなくなったので!」
「あ、そっか……うん……」
彼の以前の労働環境については考えないことにした。 彼はゆきちゃんを抱き上げた。
「じゃあ、ゆき、帰ろう」
「帰るの? あきちゃんにばいばいするー」
「あきちゃんは今、修羅となっているから大人しく帰ろうな」
「なんで? ばいばいしないの?」
「うん、また今度な」
そんな恐ろしい会話のあと、後藤さんは私を見た。
「久留木さんは中へどうぞとのことでした」
「そんな話を聞いた後に、私に地獄に入れと?」
「あはは」
「いやいや、笑い事じゃないよ。え、一カ月、白翔くんの下で働くと白翔くん化するの?」
「いやー、よろしくお願いします、じゃあ俺は失礼しますー」
こちらの言葉にはまともな返答をせずに彼は娘を連れて帰ってしまった。その対応はものすごく白翔くんに似ていた。
「え……どうしようかな……」
一人残された私は、研究室の窓からそっと中を覗くことにした。が、すぐに後悔した。
「ひえっ⁉」
窓に白翔くんの顔があった。
思わず叫んだ瞬間に目の前の扉が開き、腕を掴まれ、部屋に引きずり込まれた。
「なにっ⁉」
「……」
「なにか言って⁉」
白翔くんはなにも言わぬまま私を膝の上に無理やり乗せて、ばたばたとタイピングを始めてしまった。なにをしているのかは分からないが、もうこの膝から降ろしてもらえないのだろう。
試しに少し動いてみただけで背後の『ヤバさ』が増し、耳元で「死にたいんですか?」と言われたので、もうなにもできなかった。
「……そんなに体格差ないと思ったんだけどな……」
私は白翔くんの膝の上に完全に収まってしまっている。抵抗もできない。
白翔くんに凭れて、その肩に頭をつける。
「ちょっと寝ちゃおうかな」
「どうぞ」
「一応話は聞いているのか……じゃあ、寝てみよう……」
どうせ眠れはしないのだ。
でも他に何もできないなら目を閉じていたかった。
■
「終わりました」
彼の声で目を開ける。
「おつかれ、白翔くん」
「ふふ、あなたにそう呼ばれるの良いですね」
「なにが?」
「俺も舞さんって呼ぼうかな」
「好きにしたらいいけど……足しびれてない?」
「どうでしょう。下りてもらってもいいですか?」
「うん、じゃあ私のおなかに回っている腕を外してもらっていいかな?」
白翔くんはくすくす笑いながら私を抱きしめて、首にその顔を押し付けてきた。
「ちょっと……仮にも公共の場じゃないの、ここ?」
「ここは公には開かれてませんよ。まあ、密室でもありませんね」
「離してってば」
ぺしぺしとその頭を叩くとようやく解放してもらえた。私が立ちあがると白翔くんは「あれ? 立てませんね」と言った。どうやらしびれているらしい。
「痛みはないの?」
「少し薬を減らしているので……そうですね、痛い……のかな?」
「え、薬減らしてるの? なんで?」
「睡眠時間を減らしたかったので。あの薬を飲むと強制的に寝てしまうから……でももう終わったので戻します」
「……ねえ、……それ、初めて会ったときもそうしてたの?」
「あのときは飲む時間をずらしていました。明け方から眠るように変えていたんです。あれはあれで疲れる生活でしたね……」
白翔くんはため息を吐いてから大きく伸びをした。
「そんな薬の量変えたりしていいの?」
「俺はこの薬に依存していますし、ずらすのも減らすのも体に負荷がかかります。でもそれだけで……眼鏡がないと歩けない、というのと同じです。そんな顔をしないでください」
「なら、彼女にそんな顔をさせないようにしてほしいわね」
ぺし、と白翔くんの鼻先を叩いてから、私も伸びをする。
「帰る」
「送ります」
「……きみはレポートを教授に出したの?」
「出しましたよ。年末の処理も終わりました。明日は休みです」
「ふうん……でも体が痛い人に送ってもらう話はないから」
白翔くんが起き上がり私の頬に手をあてた。
「……なに?」
「俺も眠れていない人を一人で帰すはずがないんですよ?」
「……え?」
「……『要するに白翔くんって、ちょっと面倒な人なんだね』でしたっけ。あなたには言われたくないですよ、久留木さん……あなたにあの睡眠導入剤は効かなかったようだ……」
「ああ、なるほど。睡眠導入剤だったのね、よかった……そんなもんで……」
彼はにんまりと嬉しそうに笑う。
「あなたに合わせて薬を作りましょう。そしたらあなたは俺から離れられなくなりますね?」
「……発想がこわいよ」
「孕みますか?」
「音声で聞いたことなんだけど、そんな脅し文句」
「なんであれ送りますよ。少しは寝てくださるかと思いましたけど、俺の体温は少しも役に立たなかったようなので……」
お詫びです、と白翔くんは笑った。
その笑顔が疲れていて申し訳ない気持ちになったが、それでも今日も眠れないことはなんとなく予想がついていた。だから大人しく彼の車に乗ることにした。
■
白翔くんのボルボはいつも甘い匂いがする。
「白翔くんって香水つけてるの?」
「嗅覚は残っているので、香水は好きです」
「重いな……」
シートベルトを締めると白翔くんは「慣れてください。俺の体とは一生付き合ってもらいますから」と笑った。その発言も重かった。
「ところで……久留木さん、俺の事どこまで調べましたか?」
「ファンサイトは読むには読んだけど、信用できないと思ったから忘れちゃった」
「そんな都合の良い記憶をしていらっしゃるんですか?」
「そりゃそうでしょ。私の頭なんだから私の都合に良くなきゃ困るじゃない?」
肩を竦めると、白翔くんは目を丸くした。
「なにその顔?」
「……あなたは俺が思っていないことを言いますね」
「なにそれ、へんなの。まあ、私はきみよりきみの薬の方が興味あるかも。痛みも苦しみもないとか麻薬っぽい情報しか出てこないんだもん」
「あははっ……そんな素直に言う人がいますか? 全然違いますよ」
白翔くんが歯を見せて笑うのが珍しくて、今度は私が目を丸くする番だった。
でも彼は私の顔にはつっこまずに生き生きとした様子で薬の説明を始めてくれた。低くよく通る声で彼が言うことには、彼の薬の効果は痛みや苦しみを消すものではなく、その感度をおさえるものだそうだ。元々誤作動で大きくなっている機能を生活できるレベルまで下げる。
それは個性を殺すこととも考えられなくはないが、死にたいと思う気持ちをおさえる薬が認められていて彼の薬が認められない謂れはないそうだ。
「必要以上に痛む必要も苦しむ必要もないんですよ。人は楽に生きていくべきだ。余裕がないと、楽しみの忘れてしまうでしょう?」
「……ふうん、達観ね」
「痛いのも苦しいのも一生分経験しましたよ」
「……重いなあ」
「父はこの病気を苦で自殺を選びました。母は無理心中で連れていかれて、俺だけは運よくか運悪くか生き残り、その三年後発症しました。元々この薬は父が研究していたものなんです。その土台がなければ、俺も今頃死んでいるかもしれませんね」
「……そういう話を聞いてどういう顔をしたらいいのかわかんない」
「その顔をしていてください」
「私どんな顔してる?」
「困った顔をしています。聞きたくなかったなあって顔」
私はそう思っているので、そういう顔をしているのだろう。
「怒っている?」
「何故?」
「だって、……そんな薄情なこと、彼女が思うのだめでしょ?」
「さあ。どうでしょう。俺、彼女ができたの初めてなのでよく分かりません」
「それはさすがに嘘」
「なんでですか。本当ですよ」
車が赤信号で止まる。 エンジン音が続く。
「あなたには俺のことを知ってほしいんです。そしたらあなたは俺を見捨てないだろうから」
「捨てないよ……私、フラれない限りはきみの彼女だと思うよ?」
「はは、それは嘘でしょう?」
「なんで? 本当だよ」
私は本音で話していた。でも彼は苦笑した。
その顔を見たとき、私たちはきっとこんな風にこの先も分かり合えないような、そんな気がした。
「……白翔くん」
「なんですか、久留木さん」
「デートしようか」
「いいですね。どこ行きましょうか?」
「……私のこと、知りたい?」
彼は少し黙った後「はい、知りたいです」と言った。
→後編
私たちは前方についた2つの目で見たことを『正解』と判断する生き物だ。それを浅はかととらえるか、それを愛らしさととらえるかは、上部についた1つの脳みその判断だ。
結局、人間は自分の判断でしか『正解』を見つけられない。
最高の才能も、それを破壊する狂気も、この目で見なければ判断はつかない。
そして存外、『そんなもの』は自分の目で見てしまえば大したものではないのかもしれない。むしろ自分の目では決して見られないものにこそ、狂気は宿っているのかもしれない。 そんなことをぼんやりと思いながら、私は『彼』の背中を見ていた。
■
私達の交際は順調といえば順調だ。
告白のあとデートは二回したし、命を脅かされるような事件に巻き込まれていないし(ひったくりを捕まえたりはしたけれど)、白翔くんのやばそうなところも鳴りをひそめてくれている。
しかし、三月に入ると、白翔くんは忙しすぎて時間がとれないと連絡をしてきた。
年度末と学年末が同時に来ているために、学生であり、事業主である彼にはやることがたくさんある、とのことだ。一事業主に過ぎない私でもやることの多い時期なので、気持ちは大変よく分かった。電話越しに謝罪してくる彼に「そかそか、頑張れ」と答えると、彼はため息を吐く。
『どうしてそんなに聞き分けがよくいらっしゃるのか』
「長所じゃない?」『俺はもっと我儘言ってもらえた方が嬉しいです……』
電話越しなのに、拗ねている顔が浮かんできて、つい笑ってしまった。年下彼氏の可愛いところを、白翔くんでも少しはもっているらしい。
「仕事行く前に研究室に顔だけ出そうか?」
『いいんですか?』
「うん、ちょっと話すぐらいしか出来ないと思うけど」
『嬉しいです! 毎日来てください。あなたの顔が見られるなら頑張ろうという気になれます』
「毎日は無理。というか頑張る気すらなかったの……?」
三月だ。
私の顔の傷はこの二週間で完全に治った。今はどこを殴られたのかも分からないほどだ(白翔くんはそれでも会うたびに私の顔を診て「今日も可愛いです」なんて関係のないことを言う)。それでも不眠だけは治らず私はまた日付が変わる時計を見ていた。
眠れなくなった原因はストレスだと思うけれど、痛み止めの点滴を打っている間だけはよく眠れたことを考えると、そういうものに頼るべきなのだろうか。ストレスの除去など考えずに、薬に頼れば、そしたら、もっと楽に生きていけるのだろうか。
――痛みも苦しみのない――
「……はあ……」
会ってもストレスになるし会えなくてもストレスになるんだな、と思いながら私はコートを羽織った。
■
……豚骨と魚介を丁寧に合わせたスープが中太ストレート麺との調和、大将こだわりの叉焼には根強い人気が……ゾクゾクゾク――と急に寒気が襲ってきた。
視線をあげるのと、背後から伸びてきた二本の腕が目の前の雑誌の棚を掴んだのは同時だった。
「こんばんは、久留木さん?」
振り返るまでもなくはっきりと分かる、【なにか】の気配。
「こんな時間になにをしているんですか?」
コンビニでラーメン特集雑誌を立ち読みしていただけなのに突然消毒液の匂いに包まれた。ゾゾゾゾと襲ってくる寒気に身をすくませつつ「こんばんは、えっと、白翔くん」と言うと、「ええ、こんばんは。もうすぐ三時ですね?」と彼は返してくれた。
彼の両腕は私を逃がす気がないらしく、棚を掴み続けている。
「もう一回聞きますけど、こんな時間にこんなところでなにをしているんですか?」
背後の低い声に額から冷や汗が噴き出してくる。
「ねえ、久留木さん?」
「え、っと……雑誌読んでます……」
「こんな時間に女性ひとりで、部屋着の上にコートだけ着たような無防備な装いで出かけるなんて、よほど火急の用件なのでしょうね?」
「えっ……火急ではないんだけど……」
耳にその吐息が触れる。
「下着ぐらいちゃんとつけて出てきてください」
「なっえっ⁉ ちょっと、どこ見ているの!」
彼の腕の中で振り返ると絶対零度の瞳が私を見下ろした。
「ひっ……」
「それで……久留木さん……俺を納得させられるだけの用件ですか?」
今日も今日とて真っ黒なモッズコートにゴツいミリタリーブーツを履いた彼がさわやかな笑顔で私に詰め寄ってきた。
【なにか】がぴたりと私に寄り添って、にこり、と笑っている。
ぞぞぞと吐き気を伴う悪寒が足から頭まで突き抜ける。どぐん、どぐん、と震える胸をおさえても少しも寒気はおさまらない。私をただ見下ろす氷のような冷たい【なにか】。
――そうだった。これが『彼』だ。
「そ、の、……ウェブマネーを買いに……」
「それはこの深夜に必要でしたか? 不要不急の用件じゃないでしょうか?」
「あの、その、母の、息子が、その……五万円分必要だって言うから、その……」
「母の息子ってなんですか。お兄さんですか?」
「後で振り込むって言うから!」
彼が舌打ちをする。懐かしさと恐怖を覚えた。
「久留木さん。『アカウント乗っ取り、ウェブマネー』で検索してください。数年前の古典的な詐欺が出てきますよ」
「え、詐欺なの⁉ だってすぐ買ってこいって言うんだよ⁉」
「そもそもこの時間に急ぎウェブマネーが必要な人間がいますか? もしそうだとしたらあなたは何故すぐに帰らず雑誌を立ち読みますか?」
「……それは……そんなに怒る話……?」
彼は私の手から雑誌を奪い、足元に置いておいた生クリームとウイスキーなどが入ったカゴを持つと、ウェブマネーのカードは棚に戻し、レジに向かってしまった。
「ちょっと待って!」
「反省してください」
「反省って……悪いことしたつもりはないんだけど……」
「そんなに拉致されたいんですか、俺に?」
「そんなことする予定あるの? ちょっと待ってよ! それ私の買い物だからっ」
「一括で」
「待ってってば!」
さくさくと会計を済ませてしまった彼の腕を掴んでも、彼は止まるどころか逆に私の腰を掴んで歩き出してしまった。
彼の力強い腕に引きずられるままコンビニを出ると、黒い高級車のトランクに放り込まれてしまった。
「いたっ……」
高級車はトランクも広く、私一人が横になるスペースは余裕であった。
「ちょっと白翔くん……!」
助手席ではなくトランクに放り込まれるのは『ヤバい』――寒い――肘をついて起き上がろうとすると、肩をつかまれ床に押し付けられた。
「なんですか、久留木さん」
彼が私を見下して微笑んでいた。
暗い車内では絶対見たくない能面のような笑顔だ。
黒の皮手袋をした彼の手が私の膝に触れる。
「久留木さん」
「うっ……なんでしょうか……?」
「あっと言う間に荷物のように載せられてしまう久留木さん?」
「ひぇっ……はい……それは、でも、これ、相手が白翔くんだからであって、……」
「オレオレ詐欺を簡単に信じてしまう久留木さん?」
「……誰に対してもこんな簡単に流されるわけでは……」
彼の膝が私の足を割り開き、その手が私の腹を強く押す。
「ちょっ……白翔くんっ、待ってっ!」
「このまま俺の家に連れ帰ってもいいんですよ? いいんですか? 俺は聖人君子ではありませんから、監禁してあなたが歩けなくなるまで太らせますよ?」
「それは聖人君子じゃない普通の人もまず考えない事だよ、白翔くん!」
「俺がなにを言いたいか分かりますね、久留木さん。あなたは頭がいいですからね?」
「……だってっ初めて会った時はそんなこと言わなかったじゃんっ!」
苦し紛れにそう言うと彼は笑みを深くし、鼻がぶつかりそうなほど近くまで私に顔を近づけてきた。
「前と今では状況が違います。あの時は事情聴取があったでしょう? だからあなたは朝になってから帰ったはずです」
「たしかにそうだけどもっ……、白翔くんはさっさと帰っちゃったじゃん! あのときは送ってもくれなかったじゃん……」
「俺は宮本さんのことがあったので仕方ないでしょう? 俺が帰っていなかったら死人が出ていたんですよ? それにあの時と今では俺たちの距離も関係性も変わりましたよね? ……あなたはそれを了承しましたよね? ねえ?」
「みぞおちグリグリしないで、痛いよっ」
「痛くしているのだから当然です」
「……いや、痛いっ! やだ!」
「久留木さん、謝りなさい」
暗闇の中でその瞳が爛々と光っている。――ぞっと、全身が冷えた。
「ごめんなさいっ!」
「……はあ、……仕方ない人ですね……」
ようやく【なにか】は気配を消し、白翔くんがくすくすと笑ってくれた。
ふざけていたのかと思うぐらいの切り替えの早さだが、未だに彼の膝は私の足の間にあり、彼の手は私のみぞおちを押し続けている。怒りは継続しているらしい。
「俺がなんで怒っているか分かっていますか?」
「……なんで白翔くん、ここにいるの?」
「今日日携帯があれば分かることはいくらでもあります」
「怖い想像しか出来ないんだけど」
白翔くんにこりと笑い、頬にキスをしてきた。
「分かるでしょう、久留木さん」
「分かりたくない……」
「なら分かっているということですね、安心しました」
白翔くんが私のみぞおちから手を離し、優しく抱き起こしてくれた。
「帰りますよ」
白翔くんは私を助手席に導き、シートベルトまでしめてくれた。それからくしゃくしゃと私の頭を撫でて、自分は運転席に乗り込んでにこりと笑う。
「そんなに怖かったですか?」
「……すごく怖かった……」
「おかしいですね。あなたは俺の【そういう部分】を知りたがっていたのに。怖いもの見たさだったんですか? 今更もう逃げられないですよ」
くすくすと笑いながら白翔くんは車を発進させた。
それから彼は一言も話さず、私もなんと声をかけたらいいか分からず、車内は沈黙に包まれた。
そっと彼の横顔を見ると、目の下にうすくクマが出来ている。
「……白翔くん」
「なんですか?」
「ごめんなさい」
私が頭を下げると彼はちらりと私を見た。
「……それは今、俺はフられたという意味ですか?」
「へ? いやそうじゃなくて、そんなに心配してくれたんだなって……」
「それはまあ……、当たり前のことでしょう? 彼氏ですよ、俺は」
白翔くんはうろんげに私を見た。
「今日はもう早く寝てください。俺も、……少し疲れています。こんな時間にあなたに会いたくなかった。優しくできないですから」
「……そっか……」
彼は私の家まで送ってくれた。「ありがとう」とドアを閉めようとしたら「久留木さん」と白翔くんがドアをおさえた。
「なに?」
「なにか久留木さんの手作りのお菓子が食べたいです」
「そうなの? 食べていく? すぐ作れるよ」
それで機嫌が取れるならと私が声を明るくすると、白翔くんは何故かため息を吐いた。
「意味分かって言ってますか?」
「意味? ……、あ。もしかして送り狼だった?」
白翔くんはにっこりと笑った。
「海よりも深く反省してください」
「ごめんなさい」
次の日(といってももう今日だけど)に研究室にシュークリームを届けることを約束して別れた。
とりいそぎ母には『それは詐欺だから無視して』と連絡を入れた。母は『そうらしいの! あんた! 騙されるところだったわね!』と笑われた。
「……付き合うの、やっぱやばかったかな……」
『なんとなく付き合ってなんとなく別れる』は彼には通じなそうだなと思いながらベッドにもぐった。
次の日の朝、昨日の深夜あのコンビニの前で拉致があったという通報があったというニュースが流れたときは少し笑ってから、「ただの痴話喧嘩です。すいません」と警察に電話を入れておいた。
■
約束通りシュークリームを持っていくと、研究所の玄関まで迎えに来てくれた白翔くんが女の子を抱っこしていた。
「白翔くん、子持ちだったの?」
彼は私の質問に不満そうに眉間に皺を作った。
「俺は潔癖です」
「それはどういう意味? キレイ好きってこと? まあいいや、深堀りはしないでおこう」
「詳しく聞いていただいて構わないのに」
「いやだ」
「そうですか、残念」
そのおさげ髪の女の子は彼の白衣を掴んだまま眠ってしまっているようだ。
「白衣も似合ってるね」
「仕事着ですよ」
「いつも黒いけど、白も似合う」
「でしたら今度選んでください、……さてと」
白翔くんは抱っこしていたその女の子を指さした。
「後藤さんの娘さんの『ゆきちゃん』です」
「後藤さん?」
「強盗の後藤さんですよ」
「ああ! 強盗の!」
白翔くんは人差し指を口元にあてて「シー、やっと寝てくれたところなんです」と慌てたので、「ごめんね」と頭を下げる。
「後藤さんの娘さんがどうしてここにいるの?」
「色々理由があるんですが……とにかく研究室に行きましょう。ここは煙草臭いので」
「あ。そうだね、子どもにはよくない。相変わらず喫煙所と化してるのね……」
白翔くんは手早く私の入館手続きを済まし、彼の城に案内してくれた。
相変わらずどういう用途で使われるのかわからない機械に満ちている場所だ。しかし今日は前に来た時とは違い、机の上にも椅子の上にも夥しい量の書類が積まれている。
「どうしたのこれ、すごい量だけど……」
「年度末関連の書類と俺のレポート草稿ですね……校正は紙で見た方が安心なので印刷したんです。よかったらこちらに座ってください」
「こちらって……」
白翔くんはその長い脚で書類を蹴り飛ばして席をひとつ開けてくれた。
「どうぞ、久留木さん」
「……ありがとう」
席に座り、蹴り飛ばされた書類の一枚拾ってみる。……異種形状の結晶粒からなる多結晶材の……。私にはよく分からない言葉が並んでいたので、また床に放流しておいた。
白翔くんは部屋の隅にあるドリンクコーナーから私を見た。
「紅茶とコーヒーどちらがいいですか?」
「どちらでも」
「ならコーヒーにしましょう」
白翔くんはコーヒーメーカーのスイッチを入れると「重いな……」と呟きながら女の子を抱き直した。
「それで、……その子はどうしたの?」
「後藤さんに決算対応をお願いしていたら税務署に直接行かなくてはいけない用件があったそうで……そのタイミングでこの子が熱を出したと保育園から連絡がありまして……でしたら税務署は別日でいいと言ったのですがどういうわけか後藤さんはこの子を置いて、税務署に行ってしまいました。後藤さんは俺の想像を越えてくれますよ」
ハハッと白翔くんは乾いた笑い声をあげた。あまりにも分かりやすい皮肉だった。
「……そんなに子ども苦手なの?」
「得意だと思いますか?」
「愛想よくはできると思ってたかな」
「その結果がこの有様です」
白翔くんはにこりと笑う。それはそれはハンサムだった。
「初恋泥棒しちゃったんだね?」
「盗んだ自覚はありません。時任さんがいるときであれば彼が対応してくれたと思うのですが、彼は彼でメディア対応をお願いしていたので……」
白翔くんの目の下にできていたクマが濃くなっている。
「忙しいのね」
「この時期はどうしてもそうなりますね」
白翔くんがコーヒーの入ったマグカップを持ってきてくれた。マグカップには葡萄のイラストが描かれている。
「そんな時に私ここに来てよかったの?」
「他の人間は歓迎できませんが、あなたは別です。あなたがいることで俺の生産性が飛躍的に高まります」
そんなことあるだろうかと思いながらコーヒーをひとくち飲む。酸味が強くコク深い浅煎りの豆の味がした。おいしい、と呟くと、白翔くんは私のうなじと髪の間にその高い鼻をつっこんできた。
「久留木さん、会いたかった」
「あ、うん……犬みたいね……」
「ふふ、久留木さんだ。……はあ、……」
「……そんなに忙しいならやっぱり私来ない方がよかったんじゃない?」
無言で笑みを返されたのでそれ以上はなにも言えなかった。
白翔くんはコーヒーメーカーをもう一度動かし自分の分のコーヒーを淹れだした。その腕の中で女の子はすやすやと眠っている。
「それにしても、ゆきちゃん、よく寝ているね。熱があるからかな」
「熱はもう下がっていますよ。ちゃんと病院で診てもらいました。さすがに小児は自信がありませんので」
「そう……じゃあなんでそんなに寝ているのかな」
「ああ。それは『も』ったので」
「へ? なに?」
「薬を『盛』ったので」
白翔くんはさらりとそう言うと、腕の中の子どもを抱き直した。
「……それは、大丈夫なの?」
「子どもの治験は済んでいますから……よほど運が悪くなければ死にはしません」
「運が悪いとどうなるの?」
「運が悪ければ人間は死にますよ。今生きている人間は今まで運が良かっただけです」
暴論を吐いた後、白翔くんが淹れたばかりのコーヒーを飲む。
いつもより棘が多いというか愛想が少ない。今の彼は本当に疲れているのだろう。
「私が抱っこしようか?」
「いえ、あなたに抱かれるのは俺だけでいい」
「……白翔くん……ガンガン来るのね……」
「彼氏ですから」
私の隣の席の上に乗っている書類を蹴り落とし、白翔くんは腰掛けると私の肩にその頭を預けてきた。
彼の体からはいつもの甘い香水の匂いはなく、昨日と同じ消毒液の匂いがする。
「眠いの?」
「……」
白翔くんは目を閉じてしまっていた。その腕の中の女の子もまた起きる気配がない。私は小さくため息をつく。
「そんなに眠いなら仮眠して来たら? そういう部屋はないの?」
「折角あなたがいるのに仮眠室にいけと?」
「膝枕してほしい?」
「いいですね……」
彼はそうは言ったが、私にそれを頼まず、私の肩にその頭を預けて深く息をしている。その髪を撫でると「久留木さん、いい匂いです」と彼は笑った。
「白翔くん、昨日はたまたまコンビニに来ただけじゃない?」
「……どうしてそう思います?」
「昨日は本当に怒っていたから、……私がコンビニにいて驚いたんじゃない? きみが怒るときは予想が裏切られたときだけ……きみがGPSとか見ていても違和感ないけど、違うでしょう?」
彼は深く息を吐いた。
「そうですね。そもそも俺にあなたを監視する余裕はない。……昨日は気分転換と夜食を買いに、……あなたにもし会えたらとちょっと期待してあのコンビニまでいったんです。そしたら本当にいて……しかも、あんな無防備な恰好で……車ごと突っ込むところでした」
そんな頻繁にダイナミック入店されては、あのコンビニはつぶれてしまうだろう。あそこが家から一番近いコンビ二なのでそれは困る。「やめてね」と言うと「あなた次第です」と白翔くんは口を尖らせた。
「次、もし材料がなくて困ったら俺を呼んでください。買っていきます。家はもう知ってますから」
シレっと言われたら、もうどうしようもない。
「……私もきみに会いたかったよ」
彼はにんまりと笑った。
「なんできみはそこまでしてくれるんだろう……そこまで好かれる理由が私にはないよ」
「どこが好きか説明してほしいんですか?」
白翔くんは目を開けて私の肩から離れた。
「明確な理由を説明したら、それを失った時に俺はあなたを嫌いになるという証明になります。かと言って曖昧な表現をしたらあなたは俺の思いを疑うのではありませんか?」
「……そんな面倒な気持ちで聞いてはいなかった。単純に、ちょっと聞きたいなーっていうか……」
「好きなだけですよ。そこに理由は求めない方がいいんじゃありませんか?」
「……そういうもんなのかなぁ?」
そんなこともない、と言えるほど私は恋愛に詳しくなかった。白翔くんは私の顔を覗き込むと「あなたに好かれたい、今よりもっと」と笑った。
私は彼のことをもう結構好きなのだけど、彼は赤茶色の瞳で真っ直ぐに私を見ていたから、迂闊なことは言えなかった。
「……ちゃんと考えます。彼女なので……」
「俺はフラれても諦められないので、最終的には久留木さんが諦めて俺の隣で死んでください」
「え。怖い」
「今更ですが、他にお付き合いしている人いませんよね?」
「いないよ。いたらさすがにシュークリームなんて持ってこないよ」
「ああ、よかった。じゃあ、シュークリームを食べましょうか」
そうだねと返事をしようとした瞬間、――バアン、と遠くでなにかが弾ける音がした。
窓を開けると病院から煙が上がっている。どうしたものかと、白翔くんを見る。
彼は爆発音とともに目を覚ましてギャン泣きし始めた女の子に爽やかな笑顔を見せていた。
「大丈夫ですよ」
「怖い!」
「怖くないですよ。お父さんもすぐに帰ってきますよ」
「おとうさん……、おとうさんどこぉ!」
「ああ……余計なことを言ってしまいましたね……」
「やだあ! おかあさんやだぁ!」
「そうですね、お母さんは嫌ですね。……泣かないでくれますか?」
ギャン泣きしている子からは、後藤さんのDV被害を裏付けるような不安定さを感じた。そんな子どもを抱きしめて「大丈夫ですよ、怖くありません」と白翔くんは何度も囁く。うんざりしているのは私から見れば明らかだが、その子から見たらわからないようだ。
穏やかに微笑んだ人に、低く落ち着いた声で「怖いことはありませんよ。ここに怖いことはありません」と何度も諭してもらえるのは、落ち着くだろう。少し羨ましい。
「……ほんとう? あきちゃん、大丈夫?」
「はい、あきちゃんがゆきちゃんを守ります」
「怖くない?」
「はい、怖くないです」
五分ほどおだやかに話しかけられ続け、ようやく女の子が泣き止んだ。
「もう、……怖くない」
「そうですか、よかったです」
心温まる状況だ。しかし、……である。
「……白翔くん、さすがに避難した方がいいんじゃない?」
「どうですかね、これだけ騒いでいても避難指示が出ないなら、大したことはないような、……それに避難すると、俺は明日提出のレポートを書き終わらない予感がしています」
「明日提出なの⁉」
「正確に言えば今日の二十四時までに教授に送らないとアウトです」
「アウトってどうなるの?」
「必修科目なので留年ですね」
「……留年って……」
「……さて、……どうしますかね……会社代表としては避けたいところですが……」
白翔くんは疲れているようだったので、私は彼の腕の中の子に「こんにちは」と声をかけた。
「だれ?」
「あきちゃんのともだち。まいっていうの」
「まいちゃん?」
「うん、まいちゃん。ゆきちゃん、まいちゃんともあそんでくれる?」
「いいよ?」
「よかったー、あのね、ゆきちゃん、ちょっとこっちきて?」
嫌がられていないのを確認しながらその子を抱き上げる。思っていたよりは重いけれど、やはり小さいし、細い。その背中を撫でたあと、その小さな耳に口を寄せる。
「まいちゃんね、あきちゃんにないしょのプレゼントあげたいの」
「ないしょの?」
「そう、ないしょの……いっしょにえらんでくれる?」
ゆきちゃんは『あきちゃん』を見て、それから私を見上げてにっこりと笑った。
「いいよ!」
「ありがとう」
その辺の雑貨屋を散歩して来よう、その間に白翔くんならレポートを片付けられるだろう。
ゆきちゃんを抱っこしたまま「あきちゃん、またね」と言うと、白翔くんはぽかんと口を開けて私を見上げていた。
「どうしたの?」
「いや……久留木さん、お子さん似合いますね……」
ピリリと【なにか】寒気が走った。
「……恐ろしいこと考えてない?」
「大したことは考えてませんよ。まあ、そういった手段も、というだけで……」
「どういった手段の話をしているかわからないけど、やめてね? 怒るよ?」
「ふふ」
「笑い事じゃないんだよな……」
寝不足の白翔くんは倫理観も死ぬようなので放っておこうと決めた。とっとといこうと思ったら、白翔くんが立ち上がり私の肩を掴む。
「どうしたの? ぐえっ」
彼はいきなり私の顎をつかんできた。
「なにっ⁉」
「これ、飲んでください」
「へ? うぐっ……」
なにかを口の中に入れられたと思ったら、すぐにコーヒーを注ぎ込まれた。冷えていたから火傷はなかったがいきなりの水責めに「うぇっ」とひどい声で呻いてしまった。
「飲んで」
「……ごほっ、うえ……」
鼻と口をふさがれては飲み下すしかなかった。
ごくん、と喉を異物が通り過ぎたのが分かったが今更吐きだせもしない。白翔くんは私が全てを飲み下したのを確認してから鼻と口を解放してくれた。
「……なにを、飲ませたの……?」
「ちょっとしたものです」
「なに、爆弾⁉」
「違いますよ。……でも、あまり遠くには行かないでくださいね」
「遠くに行くとどうなるの‼ なに⁉」
「あはは」
「笑い事じゃないんだけど!」
不意に襟を引っ張られた。
「けんかしてるの?」
ゆきちゃんが不安そうな顔で私を見ていた。なので笑顔で「違うよー、仲良しだよー」と笑った。『あきちゃん』も便乗するように笑顔で「早く帰ってきてくださいね、寂しいので」と笑いやがった。
私は喉の奥になにかがあることに恐怖を覚えつつ、緊急放送の流れる研究所を後にした。
■
「ゆきちゃんはあきちゃん好き?」
「好き! かっこいい!」
「そうだよねえ、かっこいいよねえ」
「似てるから!」
「うん?」
ゆきちゃんはにこにこと笑いながら、どこかのアイドルグループを口にした。そのボーカルに白翔くんは似ているらしい。残念ながら私はその中の誰がボーカルなのかわからないので「そうだよねえ」と言うしかなかった。
「まいちゃん。あきちゃんって足はやいかな?」
「ん? なんで?」
「足はやいとモテるから……」
「そう……幼稚園ってそういう感じだったか……」
「ひーくんもモテるの!」
「ひーくん? だれ?」
「チューリップ組! ゆきちゃんといっしょ!」
「足はやいの?」
「はやいーでもいやなやつなの!」
ひそひそとゆきちゃんが教えてくれたことによると、チューリップ組(年長組)のひーくんはカッコよくて足が速いからモテるのだけど、ゆきちゃんの物を持っていったり「おかあさんいない子」と言っていじめたりするらしい。それはいやなやつだなと思ったけれど、私が同意を示す前に「でもかっこいいの、仲良くなれたらいいのにな」とゆきちゃんが言った。
「ゆきちゃんはみんなと仲良くしたいの!」
「ゆきちゃんはお父さんに似て、将来苦労しそうだな……」
誰とでも仲良くしたいと思うのは美徳だが、男女間の場合は必ずしもそれが幸と出るとは限らない。現実は漫画ではないのだ。しかしそんなこと大人が幼稚園児に言うべきではないだろう。
「ゆきちゃんはひーくんとあきちゃんならどっちが好き?」
「付き合うならひーくん。結婚するならあきちゃん」
「……結婚があきちゃんで大丈夫?」
「あきちゃんお金持ちだもん!」
「それは大事な観点ね……」
そんな話をしながら駒場の近くにある雑貨屋に入る。そこでゆきちゃんが「歩く!」と言うので抱っこを止めて手をつなぐことにした。子どもの手は湿っていた。
「まいちゃんはあきちゃんになにをあげたらいいかなあ」
「なんでないしょのプレゼントしたいの?」
「なんでって……」
ゆきちゃんを連れ出すための口実に過ぎなかった。けど冷静に、これまでの白翔くんとのことを思い出すと(家まで送ってくれたり、デートを提案してくれたり、そもそも彼氏だった)私は彼にもう少し感謝を示しておくべきだろう。
「日頃の感謝かなあ……」
「まいちゃんはあきちゃんと付き合っているの?」
「……付き合ってたらどう?」
「お似合い!」
「あ、そう?」
子どもの頃は年の近い男女が一緒にいたら、みんな付き合っていると思っていた。多分、ゆきちゃんから見たら私たちはそうなのだろう。
と分かるのに、お似合い、と言われて、悪くないと思う自分が少し恥ずかしかった。相手から好意を示されてまんまと好きになるなんて、……実にちょろい……。 ため息をつく。
「ねえ、ゆきちゃん、あきちゃんってどんな人だと思う?」
「あきちゃんは『すっごい頭がいい人』で、それから『すっごくきびしい人』で、だからおとうさんはあきちゃんとお仕事できて『すっごくうれしい』って言ってたよ!」
「……そっか。それならよかったね」
白翔くんはちゃんとあの強盗のおじさんを雇ってくれているようだ。
『弁護士』と『会計士』というダブルライセンス持ちでありながらそれを全く活かせていなかった後藤さんが、白翔くんの下で最大限活かされているなら、それはきっといいことだろう。
ゆきちゃんが笑う。
「だからゆきちゃんとあきちゃんが結婚したらおとうさんよろこぶよね?」
「あきちゃんはゆきちゃんよりも十五歳ぐらい年上だから……」
「だめ?」
「だめとは言わないけど……ゆきちゃんが好きだと思う人と結婚したらおとうさんは嬉しいんじゃないかな」
「まいちゃんはあきちゃんが好きなの?」
少し考える。それは難しい質問だった。
「好きってどういう感情なのかな……」
「喜んでほしいって思うことだよ!」
「……喜んでほしい?」
「そう! だからプレゼントあげたいって思うんでしょ? だから、好きなんだよ!」
「ああ、……そっか、じゃあ好きなのかな……」
少し恥ずかしくなった。
「まいちゃんはあきちゃんラブなのね」
「……そうね、どうやら、いつの間にやら……そうだったみたいね」
ゆきちゃんはくすくす笑った。
『あきちゃん』へのプレゼントとして、ゆきちゃんが選んでくれたB5サイズのノートを買った。黒地の革表紙に方眼紙のノートだ。
ブランドも値段も書いていないシンプルなデザインで、たしかに白翔くんに似合いのノートだと思った。
研究室の近くを歩いていると、なにかの機械の配線がショートをしたボヤ騒ぎだった、などと道行く人が話していた。あの爆発は、事故でも事件でとなかったらしい。それなら安心だろうと研究室に戻ると、研究室のドアの外でひとりのおじさんが体育座りしていた。
「あ、強盗のおじさんだ」
「おとうさん!」
呼びかけを間違えたが、ゆきちゃんの声でかき消されたので問題なかったことにした。ゆきちゃんはそのおじさんに駆け寄った。
強盗のおじさんこと後藤さんは「ゆき、おかえりー」とゆきちゃんを抱きとめてから、私を見上げた。
「お久しぶりです、久留木さん!」
「久しぶり、新しい職場はどう?」
「びっくりするぐらい良いんですよ、これが。年収も倍ですし休みもありますし、あいさつしてもらえて、すごいんですよ」
「それでびっくりしちゃうのか……」
今までどんな扱いをされてきたのかと思いつつ手を差し出すと「ありがとうございます」と彼が立ち上がった。
「太った?」
「毎日吐かなくなったので!」
「あ、そっか……うん……」
彼の以前の労働環境については考えないことにした。 彼はゆきちゃんを抱き上げた。
「じゃあ、ゆき、帰ろう」
「帰るの? あきちゃんにばいばいするー」
「あきちゃんは今、修羅となっているから大人しく帰ろうな」
「なんで? ばいばいしないの?」
「うん、また今度な」
そんな恐ろしい会話のあと、後藤さんは私を見た。
「久留木さんは中へどうぞとのことでした」
「そんな話を聞いた後に、私に地獄に入れと?」
「あはは」
「いやいや、笑い事じゃないよ。え、一カ月、白翔くんの下で働くと白翔くん化するの?」
「いやー、よろしくお願いします、じゃあ俺は失礼しますー」
こちらの言葉にはまともな返答をせずに彼は娘を連れて帰ってしまった。その対応はものすごく白翔くんに似ていた。
「え……どうしようかな……」
一人残された私は、研究室の窓からそっと中を覗くことにした。が、すぐに後悔した。
「ひえっ⁉」
窓に白翔くんの顔があった。
思わず叫んだ瞬間に目の前の扉が開き、腕を掴まれ、部屋に引きずり込まれた。
「なにっ⁉」
「……」
「なにか言って⁉」
白翔くんはなにも言わぬまま私を膝の上に無理やり乗せて、ばたばたとタイピングを始めてしまった。なにをしているのかは分からないが、もうこの膝から降ろしてもらえないのだろう。
試しに少し動いてみただけで背後の『ヤバさ』が増し、耳元で「死にたいんですか?」と言われたので、もうなにもできなかった。
「……そんなに体格差ないと思ったんだけどな……」
私は白翔くんの膝の上に完全に収まってしまっている。抵抗もできない。
白翔くんに凭れて、その肩に頭をつける。
「ちょっと寝ちゃおうかな」
「どうぞ」
「一応話は聞いているのか……じゃあ、寝てみよう……」
どうせ眠れはしないのだ。
でも他に何もできないなら目を閉じていたかった。
■
「終わりました」
彼の声で目を開ける。
「おつかれ、白翔くん」
「ふふ、あなたにそう呼ばれるの良いですね」
「なにが?」
「俺も舞さんって呼ぼうかな」
「好きにしたらいいけど……足しびれてない?」
「どうでしょう。下りてもらってもいいですか?」
「うん、じゃあ私のおなかに回っている腕を外してもらっていいかな?」
白翔くんはくすくす笑いながら私を抱きしめて、首にその顔を押し付けてきた。
「ちょっと……仮にも公共の場じゃないの、ここ?」
「ここは公には開かれてませんよ。まあ、密室でもありませんね」
「離してってば」
ぺしぺしとその頭を叩くとようやく解放してもらえた。私が立ちあがると白翔くんは「あれ? 立てませんね」と言った。どうやらしびれているらしい。
「痛みはないの?」
「少し薬を減らしているので……そうですね、痛い……のかな?」
「え、薬減らしてるの? なんで?」
「睡眠時間を減らしたかったので。あの薬を飲むと強制的に寝てしまうから……でももう終わったので戻します」
「……ねえ、……それ、初めて会ったときもそうしてたの?」
「あのときは飲む時間をずらしていました。明け方から眠るように変えていたんです。あれはあれで疲れる生活でしたね……」
白翔くんはため息を吐いてから大きく伸びをした。
「そんな薬の量変えたりしていいの?」
「俺はこの薬に依存していますし、ずらすのも減らすのも体に負荷がかかります。でもそれだけで……眼鏡がないと歩けない、というのと同じです。そんな顔をしないでください」
「なら、彼女にそんな顔をさせないようにしてほしいわね」
ぺし、と白翔くんの鼻先を叩いてから、私も伸びをする。
「帰る」
「送ります」
「……きみはレポートを教授に出したの?」
「出しましたよ。年末の処理も終わりました。明日は休みです」
「ふうん……でも体が痛い人に送ってもらう話はないから」
白翔くんが起き上がり私の頬に手をあてた。
「……なに?」
「俺も眠れていない人を一人で帰すはずがないんですよ?」
「……え?」
「……『要するに白翔くんって、ちょっと面倒な人なんだね』でしたっけ。あなたには言われたくないですよ、久留木さん……あなたにあの睡眠導入剤は効かなかったようだ……」
「ああ、なるほど。睡眠導入剤だったのね、よかった……そんなもんで……」
彼はにんまりと嬉しそうに笑う。
「あなたに合わせて薬を作りましょう。そしたらあなたは俺から離れられなくなりますね?」
「……発想がこわいよ」
「孕みますか?」
「音声で聞いたことなんだけど、そんな脅し文句」
「なんであれ送りますよ。少しは寝てくださるかと思いましたけど、俺の体温は少しも役に立たなかったようなので……」
お詫びです、と白翔くんは笑った。
その笑顔が疲れていて申し訳ない気持ちになったが、それでも今日も眠れないことはなんとなく予想がついていた。だから大人しく彼の車に乗ることにした。
■
白翔くんのボルボはいつも甘い匂いがする。
「白翔くんって香水つけてるの?」
「嗅覚は残っているので、香水は好きです」
「重いな……」
シートベルトを締めると白翔くんは「慣れてください。俺の体とは一生付き合ってもらいますから」と笑った。その発言も重かった。
「ところで……久留木さん、俺の事どこまで調べましたか?」
「ファンサイトは読むには読んだけど、信用できないと思ったから忘れちゃった」
「そんな都合の良い記憶をしていらっしゃるんですか?」
「そりゃそうでしょ。私の頭なんだから私の都合に良くなきゃ困るじゃない?」
肩を竦めると、白翔くんは目を丸くした。
「なにその顔?」
「……あなたは俺が思っていないことを言いますね」
「なにそれ、へんなの。まあ、私はきみよりきみの薬の方が興味あるかも。痛みも苦しみもないとか麻薬っぽい情報しか出てこないんだもん」
「あははっ……そんな素直に言う人がいますか? 全然違いますよ」
白翔くんが歯を見せて笑うのが珍しくて、今度は私が目を丸くする番だった。
でも彼は私の顔にはつっこまずに生き生きとした様子で薬の説明を始めてくれた。低くよく通る声で彼が言うことには、彼の薬の効果は痛みや苦しみを消すものではなく、その感度をおさえるものだそうだ。元々誤作動で大きくなっている機能を生活できるレベルまで下げる。
それは個性を殺すこととも考えられなくはないが、死にたいと思う気持ちをおさえる薬が認められていて彼の薬が認められない謂れはないそうだ。
「必要以上に痛む必要も苦しむ必要もないんですよ。人は楽に生きていくべきだ。余裕がないと、楽しみの忘れてしまうでしょう?」
「……ふうん、達観ね」
「痛いのも苦しいのも一生分経験しましたよ」
「……重いなあ」
「父はこの病気を苦で自殺を選びました。母は無理心中で連れていかれて、俺だけは運よくか運悪くか生き残り、その三年後発症しました。元々この薬は父が研究していたものなんです。その土台がなければ、俺も今頃死んでいるかもしれませんね」
「……そういう話を聞いてどういう顔をしたらいいのかわかんない」
「その顔をしていてください」
「私どんな顔してる?」
「困った顔をしています。聞きたくなかったなあって顔」
私はそう思っているので、そういう顔をしているのだろう。
「怒っている?」
「何故?」
「だって、……そんな薄情なこと、彼女が思うのだめでしょ?」
「さあ。どうでしょう。俺、彼女ができたの初めてなのでよく分かりません」
「それはさすがに嘘」
「なんでですか。本当ですよ」
車が赤信号で止まる。 エンジン音が続く。
「あなたには俺のことを知ってほしいんです。そしたらあなたは俺を見捨てないだろうから」
「捨てないよ……私、フラれない限りはきみの彼女だと思うよ?」
「はは、それは嘘でしょう?」
「なんで? 本当だよ」
私は本音で話していた。でも彼は苦笑した。
その顔を見たとき、私たちはきっとこんな風にこの先も分かり合えないような、そんな気がした。
「……白翔くん」
「なんですか、久留木さん」
「デートしようか」
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彼は少し黙った後「はい、知りたいです」と言った。
→後編
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