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第二章 アリア

第六話 語りし闇

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「それで、だからって、あなたは行くのね。へえ、私をこんな男と二人きりにして行くのね、あなたは」
「百々目にはきつく言っておいたし、肋骨も折っておいたから……」
 彼の告白から一週間も経っていない内に、彼は他国に行かなくてはいけなくなった。数年に一度行われる各国代表の悪い人が顔を合わせるイベントのためらしい。わざわざ行かなくてもオンラインでやれば、と提言したら、紫貴は『考えたこともなかった』という顔をした。そういうものではないそうだ。まあ、この際それはどうでもいい。
 問題は私たちの家のソファーに足組んでいるおっさんがいることだ。
「だって一人は危ないから。みどりが嫌な目にあったら、俺、悔やんでも悔やみきれない」
「こんな男と二人きりのが危ないんじゃないの? 嫌じゃないの、あなたは」
「百々目は俺を裏切らないから、そこは心配してないけど……あなたって言うの、やめてよ、みどり。名前で呼んで」
 もう出掛けなきゃいけない時間が迫っているのに、紫貴は私の機嫌をとろうとする。このままごね続ければ、彼は私が機嫌を直すまでここにいてくれるだろう。でも、私がどれだけごねたところで、彼はここにこのおっさんを置いて行くだろう。彼はこの件に関しては絶対に譲ってくれそうにない。
 そして、彼はフライトに遅れたくないという考えはない。彼にとって、逃したフライトの次の便のファーストを取ることは簡単なことだ。だから、つまり、ここでごね続けることで罪悪感を覚えるのは私だけだ。だから、納得してもしなくても、いつかは私が折れるしかない。渋々私はため息を吐いた。
「……怪我しないで帰ってきて。待ってるから」
「可愛すぎるだろ、やっぱり行くの辞めようかな」
 彼が私を抱きしめたところで、背後のソファーから「日比谷」と荒い声が飛んできた。
「馬鹿なこと言ってないでとっとと行け。『お嬢ちゃん』一人の面倒ぐらい、心配するな」
「百々目、次はどこ折られたいんだ?」
「はいはい、『市村さん』ね。わかった、わかった、早く行け。いってらっしゃい、気をつけて」
 紫貴は百々目さんを睨んで小声で何か呪いの言葉を吐き、それから私を見て眉を下げる。
「みどりも怪我しないようにね。俺を待っていてね」
「ウン、待ってる。約束ね」
「……最後にもう一回ちゅーしていい?」
「お前ら、いつまでやってんだ! 行け!」
 結局、紫貴は百々目さんに蹴り出されるようにして出かけていった。残された私と百々目さんは、ひとまず目を合わせる。
「どうも、『お嬢ちゃん』」
「どうも、『おじさん』」
 彼は悪役みたいに片眉をつりあげて、私を見下ろす。縦に長く体の厚みもある彼からは、紫貴からは感じない『圧』がある。けれど私は下から彼を睨みあげる。
(負けるものか、ここは私の家だぞ)
 彼は鼻で笑った。
「今んとこ、もめるつもりはねえよ」
 彼はまたソファーに戻った。紫貴と私のソファーを我が物顔で一人で占領するこのおっさんこと百々目 優。紫貴から聞いたことは『めちゃくちゃたくさんの女を囲っているけど、パートナー一筋』『元はヤクザで色々あって日本には入れない』『普段はデトロイトにいる』『紫貴の直接の部下だから絶対の信頼をおいている』『四十二歳』『だから今更礼儀作法教えても覚えられないと思う』と、このぐらいだ。最後のは私の怒りをおさえたかった紫貴の言い訳に過ぎない。
 つまり、ソファーで当たり前みたいに煙草吸おうとするおっさんに私は怒っていいのである。
 私は彼の前に仁王立ちした。
「ン?」
「……煙草、ベランダ、行ク……」
「それがマックスの低い声? 可愛いな、あんた」
「ベランダ! 行け!」
「はいはい、チワワちゃんの言う通り」
「ばかにしてます!?」
 彼はのんびり立ち上がりニヤァと笑った。
「キャンキャンうるせえ女。あんたじゃ日比谷がもったいねえな」
「ナ、ナ、ナ……!」
 真っ向から喧嘩を売ってきた彼に怒りのあまり言葉を失っていると、彼は煙を頭上から私に向かって吐きかけた。
「ゲホっ……何するのよ!」
「マァ、あんたのわがままは全部叶えてやるから、その後、大人しく日本に帰れよ」
「ハァ!? なんでそんなこと言われなきゃならないの!」
「俺が日比谷の保護者だからだ」
 ブチ、と頭の何処かが切れた。
「意味わかんないこと言わないで! 紫貴は子どもじゃないし私も大人! 勝手に来といてゲスト扱いされると思わないで、おっさん! ベランダで吸えって言ってるでしょう! 頭働いてる!? 煙草吸いたいならベランダ! 行きなさい!」
 彼はジィと私を見ていた。その値踏みのような視線に「その目も失礼!」とついでに怒鳴ると、彼はくわえていた煙草を高そうな背広に押し付けて火を消した。
「……へえ?」
 彼は嫌な笑顔を浮かべる。
「マァ、仲良くやろうぜ、二週間も一緒なんだからな」
「ほんとに、さいっあくっ!」
(帰ってきたら絶対に紫貴に埋め合わせしてもらう! 絶対!)
 こうして私にとって最高の同棲から、最悪の同居が始まった。



 紫貴との暮らしは気遣いと優しさと愛で満ちていたのだと今になって気がつく。つまり、――
「は? なんでこんなクソ不味そうな肉食わなきゃならねえんだよ。魚のがまだまし。Hello,Can you clean this mackerel?(なあ、これ捌けるか?)」
「今日は豚肉食べたかったの! ちょっと……!」
「Can I look else?  ...Thanks. I'll be back later.(他見てていいか? ……どうも、あとで戻る。)……スーパーでギャアギャア騒ぐんじゃねえよ、チワワちゃん。俺のしつけが疑われるだろ」
「コッ、ナッ、クッ……」
「お。ケーキ食おうぜ、美味そう。あ、薔薇だ。お前らの家って花瓶あるか?」
「勝手にぽいぽいカートに入れないで!」
 ――この男には気遣いも優しさもない。愛なんてもちろんない。だからこいつは人の話を聞かずに好き勝手に進める。しかも――
「うわ、つけられてるわ。ボコしてくるから、お前そこにいろよ」
「ちょ、……え、……うわ……」
「……ただいまー、何だその顔。日比谷もやってただろ?」
「するわけないでしょ、本当に怖いんだけど……」
「してるっつーの、絶対。お前が気がついてないだけ」
「逆に聞きたいけど、そんな野蛮なことを彼氏がしてて、気が付かないことあるわけなくない?」
 ――道端でいきなり人を殴って来たりする。しかも、そのぐらい紫貴もやるとか嘘をついてこちらの不安を煽ろうとしてくる。そうまでして別れさせたいらしい、最悪の性格。その上――
「お前の包丁の持ち方、なんなの。指切りたいわけ?」
「放っておいてもらえますー? 切ったことないんでー」
「見てる方が怖いんだよ。チワワちゃんにはネコちゃんの手は難しいのかなァ?」
「出来ますけどぉ!?」
「出来るんなら最初からやれ、馬鹿」
「馬鹿って言った!!!!」
「手元見ろ、馬鹿!!!!」
 ――いちいち人のやることに文句をつけてくる。挙げ句の果てに――
「死んで、変態!」
「マフィア相手にいい度胸だな、お前」
「マフィアなら他人の下着を丁寧に手洗いして干すな! エプロンつけて家事をするな! 出てって!!!」
「お前が『下着は手洗いだから勝手に回すな』つったんだろうが。ほら、他にもあんならとっとと……」
「関与するなって意味よ、馬鹿!」
 ――プライバシーという概念がない。
 ついでに何故紫貴に家事能力が一切ないのかの謎も解けた。この人がいれば生活力ゼロでも生きてこれたのだろう。家事もそうだし、食卓の花もそうだし、部屋の温度設定もそうだし、生活用品さえも気が付いたら補充されている。
(この人が甘やかしたせいで、紫貴は何もできないのね……。もう、ばか! なんで連絡もつかないのよ! もう! もうー!!! なんなの! 声だけでも聞きたいのに、紫貴! 何してるのよ!)
 二日で私はこの同居に限界を迎えていた。が、おっさんは何も感じていないらしく、三日目の朝に「つーか、なんもねえな、この街。飽きた」と言い出した。
「じゃあどっか行けば? そのまま帰ってこなくて結構です」
「俺がここにいるのはあんたを死なせないためだぜ? 俺が側にいるだけであんたを襲うことの意味が『日比谷への嫌がらせ』じゃなく、『俺たちへの宣戦布告』になんの。で、そこまでするやつは今はいねえから……」
「私も紫貴も襲われた事ない。余計なお世話よ」
 彼は、ハ、と息を吐いて笑った。
「とっとと化粧して、そのみっともない眉毛をどうにかしろ、ブス。出掛けるぞ」
 あまりの暴言に私は唖然とした。
(この輩……打ち首獄門に処すぞ……)
 しかし暴言を吐くおっさんの顔は、不本意なことにイケメンに属しているのだ。私は怒りに打ち震えるしかできない。
「……ブスじゃないもの、紫貴は美人って言ってくれたもの……イツカ、カナラズ、ショス……」
「はっきり喋れ」
「嫌いよ!!!!」
「俺も愚図は嫌いだ。とっとと動け」
 絶対にこんなおっさんと出歩きたくなかったけど、このおっさんは話を聞かないので強制的にそういうことになった。私はおっさんに首根っこ掴まれ、ニューヨークに渡った。
「運転、荒すぎなんですけど……」
「はぁ? 運転してもらっといてな、お礼も言わないなんてな、今までどんな教育をだな……」
「ありがとうございました! さよなら、バイバイ! 私はニュージャージー大好きだからもう帰るわ! フェリーで!」
「ハイハイ。行くぞ、チワワちゃん」
「掴まないでよ、変態!」
 紫貴の運転はボコボコ道路ですらいなす優しい運転だけど、おっさんの運転はスピードしかない。紫貴はいつも着心地の良さそうな黒い服装を好んでいたけど、このおっさんは家事の時でさえスーツを着てる。紫貴は手をつなぐ時でさえ気を使ってくれるのに、おっさんは勝手に人の手首を掴んで大股で歩き出す。
 この人といると紫貴が恋しくなるばかりだ。
(もう、やだ……)
 しかし私にマフィアに逆らう力などあるはずもないので、彼について早足で歩いた。連れて行かれたのは煉瓦道の通りだ。
「この辺は日比谷は来ないから、お前も来てないだろ?」
 彼が私を連れてきたのはマンハッタンのダウンタウンで、たしかに紫貴と来たことはない街だった。建築物も中心街とは異なり、古く、美術館のよう。空気も中心街よりはきれいだし、治安もそこまで悪くなさそうだ。写真を撮りたい気持ちにはなったが『おのぼりさんかよ』とおっさんに思われたくなかったので、『全く興味ないわ』という顔をする。
「ここ、どこなの?」
「ソーホー。女はみんな行きたがるところだ」
「『女だから』なんて前時代的すぎ」
「フゥン……マア、有り体に言えばな、俺は美術館は嫌いなんだ。どれもこれも手に入らないからな。ここは手に入るアートの宝庫、要するにショッピング街だ。物欲皆無の日比谷とじゃ、つまんねえ街だな」
 たしかに紫貴はショッピングが苦手だ。
 例えば私が古着屋でパーカーを買うか悩んでいる横で『早く終わらないかな、もう俺が買うのに』と言う顔をする。でも私が感想を聞けば、『脱がしやすそうでいいと思う』となんとかひねりだして、答えてくれるのだ。
(そう、紫貴は努力してくれてるもの! だから、不満はない……でも、……)
 でも、紫貴が楽しめないならいいやとスーパーにしか行かなくなった。観光もしなくなった。あの部屋で紫貴と二人きりでいいやと思うようになった。親や友人にも連絡を取らなくなり、……穏やかな毎日だった。
 そのことになんの不満もない。
(ない……はずだけど……)
 この二日、紫貴の声を聞いてない。それだけで日々から色がなくなってしまう。とても寂しくて、とても不安で、とても怖くなる。
 そんな中、このおっさん。
 嫌なやつだし、大嫌いだし、ぎゃあぎゃあうるさいし、ムカつくおっさんではあるけれど、買い物一つとっても心底どうでもいいと思っている紫貴と比べると張り合いがある。
「ほら、行くぞ、ワンちゃん」
「本当にいずれ殴る……」
 とはいえ、このおっさんのせいでかかってくるストレスは段違いなので早めに消えてほしい。そんなことを思いながら、掴まれた手首を見る。彼の手は熱いぐらいだ。
(こんなところも、紫貴と違う)
 彼からする香水の香りは紫貴の甘苦いものよりも軽く、この海の街に似合う潮の香りがする。その軽やさかと爽やかさは、悔しいがこの人に似合っている。おっさんではあるけど色男には間違いないのだ。だからこそ、より嫌いだ。
(……こんな人に預けてもいいと思われてるのは、私への信頼の証じゃない。きっと紫貴は……私よりこのおっさんを信じているのね……)
 不意に彼が止まった。
「この店、可愛いんだよ」
 そこはジュエリー専門のセレクトショップだった。外観のベースは深い焦げ茶色、各所が金で装飾された、シックでシンプルで高級感がある店構えだ。その金色の取っ手をひねって、彼が扉を開ける。
「ここの指輪可愛いから好きなんだよな。ほれ、これもここのやつ」
 彼の左手の小指にハマっていたのは『M』と筆記体の刻印の入ったリングだった。少しくすんだゴールドのリングのモチーフは蝋印のようだ。大きすぎないデザインはシンプルで可愛い。
 いや、よくよく見たら、めちゃくちゃに、可愛い。
「えっ、可愛い……」
「なー、可愛いよなー、アメリカのいいところはサイズ展開が豊富なところだな」
「たしかに……え、可愛い……えっ……」
 フラフラと店内を見渡す。
 華奢なものから派手なものまで、全部可愛いのだ。おっさんは後ろから「いいだろー?」とのんきに問いかけてくる。
(一万円ぐらいのもある……え、お手頃……)
「こういう店たくさんあるぞ、この辺。嬉しいだろ?」
 反論しようとしたが、もう胸はときめき始めていた。
「可愛い、ムカつく、可愛い……可愛いんだけど!」
 逆ギレしながら背後のおっさんを振り返ると、彼はニヤァと笑った。
「日本帰るなら好きなだけ買ってやるけど?」
「黙って死んで」
「ケケケ。ここのものは一期一会だぞ、どうすんの?」
 私は頭の中の貯金表を取り出した。
「……シンプルなリングセットなら買えるわね、よし……」
「俺のみたいにモチーフ付いてる方が好みなんじゃァないの?」
「うっさい、おっさん、ばか!」
「ケケケ」
 意地悪く笑うおっさんを無視して、私は店員さんに指のサイズを測ってもらった。それから悩みに悩んで、シンプルな三連のリングを右手の人差し指のサイズに合わせて購入した。
(可愛すぎる)
 写真を撮って、紫貴に送る。既読にもならないから、とても忙しいのだろう。でも送っておいた。
(帰ってきたら見てもらおう。可愛いねって、紫貴はきっと言ってくれる)
 次に連れて行かれたのは日本には展開していないおしゃれな服屋さんだった。ひいひい言いながらワンピースを買ってしまった。で、その次はランチにネパール料理。アメリカに来てまでと思ったけど、店は綺麗だし、値段は良心的だし、何より久しぶりのガッツリスパイス。美味しくて泣きそうになるぐらいだった。
 ランチの後は街歩き用に買ったラテを片手に煉瓦道道を闊歩する。この足音の響きさえ楽しい。私の手首を掴むおっさんが振り返り、ニヤニヤ笑った。
「隠居老人みたいな生活にはない刺激だろ?」
「隠居老人じゃありません! 私達は毎日平和に……」
「なあに? 今日は楽しくねえってか?」
「……楽しいですよ!」
 おっさんは私の答えにゲラゲラ笑った。
「素直なのはいいことだぜ、『お嬢ちゃん』」
「その呼び方やめてください」
「『パピーちゃん』?」
「殴りますよ」
「拗ねんな。だからガキなんだ。次行くぞ」
「エ、ちょっと、……!」
 彼は私の手首を引っ張って車に戻ると、海沿いのジャズバーに連れて行ってくれた。紫貴も弾くことがあるお店らしい。彼はジンジャエールを頼むと、私にカクテルのメニューを渡してきた。
「飲めるんだろ。日比谷が飲まねえからってあんたも飲まないでいる理由はないぜ?」
「昼間から……」
「飲まない理由はないだろ? 俺相手に使う気なんかもってんのかよ、『お嬢ちゃん』。……俺様に惚れたわけでもねえよなぁ?」
「飲みます!」
 カッとなって、「マンハッタン!」と注文してしまった。彼はゲラゲラと笑い、店員さんはくすくす笑った。結局、久しぶりに飲んだお酒は――
「……おいしいわ」
「なんで不満そうなんだよ」
 そんなの理由は一つだ。
「今日のお店、全部、紫貴と来たかった……」
 おっさんはゲラゲラ笑い、私は半泣きになった。
 


 バーで三杯もカクテルを飲んだあと百々目さんの車に乗せられた。しかし車はニュージャージーには向かわず、どこかへと進んでいく。
「ねえ、どこ向かっているの?」
「アリスのためのお茶会」
「意味分からないんだけど……」
 彼はこの国において珍しい右ハンドルで運転する。だから彼の助手席は見慣れた景色だ。しかし逆車線だから、頭が混乱してくる。しかも彼は私に道を覚えさせないためかグルグルと道を曲がる。
(気持ち悪い、変な国に迷い込んだみたい……)
 眩暈がして、私は目を閉じた。
「アリスは読んだことあるか?」
「映画は観たけど本はないわ。子ども向けなのかなって……」
「映画より本の方が、頭がおかしくなりたいときにお勧めだ」
「病気よ、それ」
「病気で何が悪い? 背負って生きていくだけだ」
 彼はゲラゲラ笑いながら道を曲がり、どこかに向かって進んでいく。とっくの昔に自分の居場所もわからない。酔いが進んだ頭を背もたれに預けて、息をする。
「なあ、あんた、今日のは傍から見たら立派なデートだぜ?」
 クツクツ笑いながら男が話し出す。
「いい大人がデートなんかしたら、行く先は決まってると思わねぇか」
「はぁ? どういう意味?」
 目を開けて、運転席の男を見た。
 気が付けば建物がなくなっていて、真っ暗な畑の中。標識もなく、宛もない。スマホは永遠に圏外。彼は車を止めて私を見る。エンジン音だけが響く真っ暗な車内で私はマフィアと二人きりだ。
「あんたの返答次第だ。この先が……此岸か彼岸か」
 彼はもう笑っていなかった。ちゃんと私に対峙していた。
「あんたは日比谷の何を知っていて、何が好きなんだ」
 私は息を深く吸ってから彼を睨んだ。
「私は紫貴の優しいところを全部知っている。だから好きなの」
「優しい? ……優しいね、あいつが」
「優しいわ。他の誰よりも、ウウン、比べ物にならないぐらい紫貴は優しくて、格好良い。……大好きなの。だから、私はただ紫貴と生活していきたいだけ。あの家で朝起きて、一緒にご飯を作って、散歩して犬を構ったりして、それから夜を過ごしたいだけ。普通のことでしょう?」
 彼はジャケットの内ポケットから煙草を取り出した。
「……あァ、そうだな、普通のことなんだろうな。俺たちにとっては高望みだが……」
 彼は煙草を一本咥えた。火をつけることなく、彼はそれを前歯で弄ぶ。
「俺が、……あいつに会ったのは二十八のときだ。あいつはまだ十四だった」
 煙草を咥えたまま彼はつぶやくように話し始めた。私に聞かせるというよりは、古いアルバムを見ながら昔を振り返るかのように、彼は話し始める。私の耳には蓋がないから、彼の言葉を聞く事しか出来なかった。
「笑わない、泣かない、雑談どころか挨拶もしない、飯もまともに食わない、女にも興味がない、挙句の果てに命乞いを聞きながらじゃなきゃ寝られない。……要するに三大欲求ぶっ壊れるほど病んでた。その癖、もう一人前の悪いやつだった。病んでてもこいつは器用にマフィアとして生きてはいけるだろうとは思ったよ」
 彼はふと思い出したようにライターを取り出すと、薄く窓を開けて、煙草に火をつけた。苦い香りが車内に満ちていく。彼の横顔は悔しいほどの色男だ。
「……俺はガキがつまんない顔をしてるのは嫌でな。だからあいつの世話役を受けた。それから、あいつと一緒にいた。……、何かの仕事で寄った店にピアノがあったんだ。『弾いてみろよ』ってやらしてみたら意外にうまくてさ、吃驚した。つい『お前のピアノすごいな、また弾いてくれ』って言ったらさ、……すげえ困った顔をしてな、……クク、いや、思い出しても笑える顔だ。あいつはそれまで、仕事以外で褒められたことなかったんだ、とよ。……そりゃハマるよな。あいつはピアノを弾いては俺に褒めてもらいたがったし、俺はもちろん褒めた。あいつはどんどん俺に懐いて、……ようやく笑うようになった。マア、……ましになったという程度だが……」
 彼の語る一人の少年の姿が、空っぽの家にいた紫貴に重なる。だから彼が嘘をついていないと理解してしまう。
「あいつの本質は、あんたの言う通り、優しさだろう。けれどあいつはマフィア以外は選べない生まれだ。だからあいつは、……馬鹿みたいに入れ墨を入れて武装している。あれは、マフィア以外の道を選ばないための、……救いを見つけないための覚悟だ。……なのに、あんたはあいつの武装なんか気にもせずに近寄って、まんまと恋心をかっ攫ったわけだ」
 彼がこちらを見て笑った。それはいつもの嫌な笑顔ではもうなかった。
「あいつは今まで女に興味がなかった。俺の女たちに手ほどきは受けてもらってたし、仕事でヤれと言われりゃ何でもしてたけどな。でも……それだけだ。あんたとは違う。あんたとは、……一緒に飯食って、遊んで、寝て、しかも籍も入れたいときてる。早いとこ死にたいって顔してたガキが、あんたとなら生きたいと笑う。……ハ、親代わりとしては嬉しい限りだ。あんたには感謝しかない」
 彼が咥えていた煙草を窓の外に捨てる。赤い小さな火が重力に則り、地に落ちていく。
「だから今の内に別れろ」
 彼のその言葉は、今までのどの言葉よりも重く響いた。
「どうして……?」
「マフィアだからだ。それが絶対の理由になる」
「マフィアって……何? 紫貴はピアニストよ、……そう言ったのよ」
 頭が痛い。それでもなんとか絞り出した私の言葉に、彼はため息を吐いた。
「そもそもな、日比谷っていうのは俺がつけたあだ名だ」
 彼は勝手に話してしまう。もう聞きたくないことを、こちらが受け止める前に勝手に投げつけてくる。奥歯を噛み締めて、彼を見る。
「日比谷の本当の姓はあいつの生まれ育った土地の名前だ。実際、あの辺の奴らは日比谷から仕事をもらってる。でもあいつ、日比谷っぽくないか? だから、日比谷って呼ぶようにした」
 目の前の男は場違いにも茶目っ気あふれる笑顔を浮かべた。
(紫貴はきっと自分の名前が嫌だったんだ。この人は紫貴に合わせて、そんなあだ名を付けて……この人は、私よりも、紫貴を知っている……)
 どんなに自分の身体を抱きしめて、震えを止めることができない。
「……紫貴は私に、名前すら教えてくれてなかった、ってこと?」
「逆に言えば、そのぐらいあいつは本気で、あんた相手に普通のフリをしているってことだ」
「……もし、私がもっと英語ができて、もっとこの街に慣れたら、ここじゃない、紫貴に会えるの……?」
 いつか、紫貴にも聞いたことだ。
 あのとき、紫貴は怖いといった。私を傷つけるのが怖いと。
 しかし目の前の彼は「馬鹿だな」と笑う。「それじゃ意味ないだろ」と、心底私を見下して笑う。
「あいつはあんたの隣で普通の男をしたいんだよ。なのに、なんであんたに素の自分を見せる? 手間暇かけて飼う理由がなくなるだろ」
「……、飼う?」
 彼の心無い言葉に心臓が、一瞬、止まった気がした。視界が暗くなる。ドク、と、鼓動がはねる。
「紫貴はあんたにバスの乗り方も電車の乗り方もフェリーの乗り方もまともに教えず、免許の取り方も教えず、まず足を奪った」
「そんなこと……」
「実際、あんた一人じゃあの街から出られないだろ」
 否定はできなかった。たしかに私は一人でどこにも行けないのだ。でもそれは、そんなことをしなくてもいいぐらい、あの部屋が完璧だったから。
(……本当に?)
 胸をおさえても、頭をおさえても、ドク、ドクと痛みは続く。
(私は紫貴がいないと生きられない……この国に来たときは一人でどうにかしようと思っていたのに……今はもう、……)
「家にしまわれて、偶に散歩に出してもらって、長期の旅行のときはペットシッターをつけられる。……あんた、そういう立場だろ」
 この人は誰よりも紫貴のことを知っている。この人が言うならきっと、そうなのだろう。
(でも、……)
 ころんと丸まってラグで寝る紫貴は猫みたいで可愛いのだ。柔らかい素材の黒い部屋着一枚で、無防備に転がって、私を見上げて『みどり』と笑う顔。『日向あったかいよ』とあどけなく笑う彼を見ると、たまらない気持ちになった。
(……紫貴は植物を見るのが好きだといった。手をかけたら応えてくれるのも嬉しいと……だから丁寧に世話をしてくれた……)
 人参も大根も育ててしまうし、アボカドも発芽させてしまう。だから私は棚を用意して、日当たりのいいところを植物と紫貴にゆずった。陽の光を浴びる紫貴は天使みたいで、私はそれを見ているだけで体がポカポカするぐらい嬉しいのだ。
(紫貴はニューヨークの空気が嫌いだって……喉が痛くなるからって……私も喉が痛かったとき、すぐ薬を用意してくれて、ずっとそばにいてくれた……)
 紫貴のタトゥーだらけの体に抱きしめられて話をしているだけで体が楽になった。彼のタトゥーの数を何度も数えては、毎回違う数になることを二人で笑った。
(この人の話が正しくたって、この一ヶ月私が見てきたことも確かだ)
 目から涙が溢れる。でもおっさんにそれを見られるのが嫌で、両手で拭って、深く息をする。けれど、湿った熱い息がこぼれてしまった。
「……わかった。あんた、ちゃんと日比谷が好きなんだな」
 彼のため息混じりのうんざりした言葉に、より泣けてしまった。
(そうよ。どうして、今更気が付かせるの。……こんなに好きにならせておいて、今更、……)
 あの部屋は完璧なのだ。
 飼われてもいいぐらい、私にとって完璧なのだ。でもそうだと気がついてしまって檻に戻れるほど、私は無知ではなかった。
「……私、紫貴が好きよ。好きなの、だけど……このまま何もできなくなりたいわけじゃない……だけど……でも……大好きなの……」
 私の隣にいた彼は私の頭を掴んで自分の腕に導いた。高そうな背広を思い切り濡らしてやろう、素直にそう思って、私は彼にしがみついて、涙をぬぐった。
 夢が終わり、恐ろしい現実が目の前に現れて、何もかもを押し流してしまう、そんな夜だった。
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