4 / 13
第一章 夢一夜
第四話 夢見るように触れる
しおりを挟む
私が生まれたのは広島の三原っていうところ。
海沿いの街で、尾道の隣にあって、田舎すぎなくて都会すぎない。何があるかと言われたら何もない街。嫌いな街ではないし、今でも戻ることは考える。住むのに不自由しない、というよりもむしろ住みやすい街だから。でも、……そういうことを考えると、中学生の時の自分が心の中で『嫌だ!』って言い出すの。『私の場所はここじゃない』って……。そんな年頃からそう考えていて、だから大学で上京したの。それで一人暮らしを始めたのよ。
大学では薬学を専攻したの。三原に大きな病院がなくて不便だったから医療に興味を持つようになって……でも医者は大変でしょ? 薬剤師は食いっぱぐれないと聞いていたし、丁度いいかなって。マァ、結果として薬剤師にはならなかったけど、大学で勉強していたお陰で製薬会社には入ることができた。結構いい会社だったのよ? 給料もそこそこ、福利厚生もしっかり、知名度も高いし……ウン、そうね、入りたくて入りたいというより『意地』で入った会社だった。
大学で初めて男の人とお付き合いをしたの。
私、東京に比べたらはるか田舎の土地から出てきていたから、いい……『的』だったんだろうなって今なら分かる。でも、そのときは分からなかった。憧れの東京で、憧れのキャンパスライフで、浮かれていて、楽しくて、声をかけてもらえたのも嬉しくて、付き合ってって言われて、何も考えないで頷いてた。
本当は声をかけられたときも、デートに行ったときも、告白されたときも、違和感があったんだ。店員さんに対する態度とか、ポイ捨てするとか、無理やり触ってくるとか……でも後先考えないで……それで、……エエト、その、いわゆるそういうことをしたら急に相手が冷たくなった。今までしつこいぐらいくっついてきたのに、もう、次の瞬間にはそっけないの。
……それで、すぐ浮気。
と言うか……『私のターン』は終わったんだって。全部そういう『ゲーム』だったんだって……田舎から出てきた女を誰が一番多くモノにできるかっていう……そういう、男の人の間でやっていたゲーム。都道府県ごとにポイントも違うんだって。広島の女は少ないからポイント高かったんだって、……そんなの、聞いても何も嬉しくはないけどね。
それで、……傷ついた。
違和感があってもその時には好きになっていたから。だからとても傷ついて、でも、……私がそれで負けるのはムカつくでしょ? だから勉強頑張って一番いい会社に入ったの。その時は、溜飲が下がるっていうのかな、気持ちはスッキリした。
でもそんな気持ちで入った会社だったから仕事にやりがいは見つけられなかった。いい会社だし、いい人達と働いていたから楽しかったけど、毎日定時を待ってた。会社だと男の人と関わらなきゃいけないのも、きつかった。年上の男性はやっぱり立てなきゃいけない空気とか、若い女の子は可愛がられなきゃいけない空気とか、そういうの……きつくて……家で一人で、内容のない海外ドラマ観てる時が一番楽だった。
そんなときに社内で新しい企画のコンペがあったの。任意参加だったから、私はスルーしたんだけど、……一つ上の男の人が参加していた。社内コンペだし、通ったらそのプロジェクトのリーダーをやらなきゃいけないから、普通、三十代、四十代の人が参加するの。でもその人は二十五で、でも誰よりも熱意があって、……圧倒的に良かった。だからその人の企画が通ったの。
その人のプロジェクトのメンバーは挙手制で、私は手を挙げなかったけど……、たまに私の受け持ってた研究に近いところがあって、そういうときは手伝いをしてた。その人、誰よりも頑張ってて……誰よりも楽しそうで……つい手伝いたくなる、そんな人だった。
ちゃんと話したことはないけど、いつも楽しそうだった。ちゃんと話したことはないけど、いつか話したいと思ってた。いつか、あの人と……ちゃんと、仕事がしてみたい。次に彼のプロジェクトのメンバー募集されるときは絶対に手を上げよう、そう、思ってた。
その人ね、突然死んじゃったの。
原因は分からなくて、心不全らしいんだけど、なんで? って感じで……。あんなに楽しそうに生きていた人が死んでしまう……明日が来ないかもしれないことが怖くなった。人はいつも早すぎる内に死ぬ、当たり前のことなのに、その当たり前が怖かった。
私、今のまま死んだら、死にきれない、そう思った。
まだニューヨークにも行ってないし、まだやりがいのある仕事も見つけていないし……まだ、本当に好きな人と付き合ったこともない。だから仕事を辞めて、ここに来たの。無鉄砲でしょう? でも、そのぐらい、衝撃だった……。
息を吐いて、紫貴の手を握る。
「……私の初恋はあの人だろうなって思う。付き合いたいとかじゃなくて、……、知りたいって気持ちになったのはあの人が初めてで……でも、何も、……死んでしまったらもう何も聞けなくて……」
「ウン、わかるよ」
紫貴の声はいつものように、何でも受けいれてくれる響きがした。だからその手に縋って、泣くのをこらえて視線を上げる。
「……だから、紫貴、あなたに声かけたの……、あなたが助けてくれたとき、あなたをもっと知りたいって思ったから。もう、後悔したくなかったから。だからすごく頑張ったのよ……ナンパなんて慣れてないんだから、ね」
頑張って笑った。
けれど彼はつられて笑ってはくれず、私の手を握って「ウン」と、真面目な顔で頷くだけ
「ごめん。こんな自分語り重かったよね……何言いたいのかもわかんないし……えへへ、ごめんね、何も気にしないで……」
「笑わないでいい。わかった。……だから俺を好きになってくれたんだね」
彼の低い声が鼓膜に届き、心に落ちる。
自分でも何を言いたいのか言葉にできなかったのに、彼には伝わってくれた。息を吐いたら、一滴だけ涙が落ちてしまった。それを慌てて拭ってから、彼を見る。
「こんなに光栄なことは、この先ないだろうな」
彼は目を細めて、私の手を持ち上げる。彼の唇が指に触れた。
「俺ができる全部で、これまでのみどり、これからのみどり、全部、大事にさせてほしい」
彼の瞳が少しグレーがかっていることに、不意に気がついた。
「俺のところに来てくれて、ありがとうね」
「……ウン、……あそこに、いてくれて、ありがとう……、紫貴」
その後のディナーは、ただ美味しくて、楽しくて、安心して浮かれることができた。紫貴もずっと楽しそうで、ずっと優しい瞳で、私を見てくれていた。私がマナー違反をしても小声で教えてくれるし、私が一杯一杯になって「好き」とこぼしても、「知ってる」と優しく受け止め続けてくれた。
「いこ、みどり」
「ウン」
ディナーの後、彼の車に乗ったときに行き先は聞かなかった。彼についていくと、決めていたから。
□
「じゃあここはもう、ニューヨークではないの?」
「ウン、ニュージャージー州のウエストニューヨーク。ニューヨーク州は川の向こう」
「千葉に南東京って都市があるみたいなこと?」
「ウン、そうなるのかな? こっちのが家賃安いし広いから、こっちの家にしたんだ。……みどり、眠いの?」
紫貴の運転はとても丁寧だ。ボコボコ穴があいている道路だというのに、気がついたら眠くなってしまうほど、スムーズで安心してしまう。
(でも、折角お家に連れ込まれるというのに寝るわけには……)
「寝ちゃっていいよ?」
不甲斐ない私の頭を撫でて、紫貴は笑ってくれる。
「本当に寝ちゃうよ?」
「時差ボケの中、無理させる気はないよ」
「……いいの?」
「ウン? 何がだめ?」
右手で私の髪の毛をくるくると遊ばせながら、左手で運転をする彼の横顔は、やっぱりそのまま美術館に陳列してほしいぐらい素敵だ。私は瞬きをして、あくびを噛み殺した。
「寝ちゃったら困るでしょ?」
「みどりを布団まで運ぶぐらいの筋力はあるよ」
「そうじゃなくって……男の人って、そういうこと好きなんでしょ? ……ゲームにしちゃうくらいには……」
わざと嫌な言い方をすると、紫貴は眉間にシワをよせてくれた。
「みどりを傷つけたクソ野郎殺すとして……俺をそれと一緒にするのは、やめて」
「いきなりすごく口が悪い! あはは、ありがとう、怒ってくれて」
「笑い事ではないんだけどな。……ね、みどり、今どんくらいお金あるの?」
「エ?」
私は貯金や売れそうなものを思い返してから、「どうしてそんなこと聞くの?」と尋ねる。彼は少し黙ったあと、「この後、俺の家にみどりを連れ込むんだけどね」と切り出した。その切り出しでいいのかなと思いつつ「それと私のお金は関係あるの?」と先をうながしてみた。
彼は言葉を選んでいるのか、また黙る。しかし意を決したように口を開いた。
「家に連れ込んだら帰したくなくなるというか、すでに帰したくないんだよ。だから理由が欲しくて。金に余裕ないなら、俺の家に住んでくれる理由にならないかなって思ったの。ホテル代はいらないし、俺がすぐ車出すし、案内するし……便利だよ?」
「……家連れ込んで事が済んでも、すぐ追い出したりしないよ、ということ?」
「次、そのクソ野郎との経験で俺の行動予測したら怒るからね?」
彼が本当に不愉快そうに言うからかえって嬉しくなってしまった。
私の頭の上で遊んでいる彼の右手を捕まえて、指を絡める。片手運転はあぶないよ、と言うべきなのに、彼の手を離したくなかった。
「私、家族としか暮らしたことないから。喧嘩したり、失敗したりするかも……」
「たしかに。喧嘩も失敗はたくさんするかもね。でも、みどりとしてみたい。やだ?」
「もう。やだって言わせる気ないでしょ」
「ウン、あったらそもそも提案しないよ」
「もう! フフ……」
思わず笑うと「マア、返事は明日でいいよ」と紫貴も笑った。彼の笑顔には、どんな私の結論でも受け止めてくれる度量があって、だから好きになったんだとあらためて思った。
車がマンションの駐車場に入っていく。
時差ボケと満腹で本格的に眠くなっている私があくびをすると、紫貴は「部屋まで我慢ね。抱っこで連れてってもいいけど、やでしょ?」とクスクス笑った。
紫貴のマンションはフロントにコンシェルジュがいた。彼は紫貴にいくつかの郵便を手渡してきた。紫貴はそれを受け取りながら、コンシェルジュにいくつかの指示みたいなのをする。そのやり取りが手慣れていて、ここで暮らしたときのイメージになった。
「いこ」
「ウン」
ゴウン、ゴウン、とゆっくりとのぼるエレベーターに乗って、最上階にのぼる。そして、案内された一番奥……紫貴の家は、開けた瞬間に「エ」と声を出してしまいたくなる部屋だった。
まず、異様に暗い。
「紫貴、これ、電気付いてる?」
「付いてるよ? でも暗いんだよな。その辺で靴脱いで上がって。俺、部屋では靴履かないから」
「……わかった」
部屋はフルフラットになっていて、日本で言うところの玄関的なスペースはなかった。紫貴に言われた通り、ドアの近くで靴を脱ぎ、部屋に上がる。
(電球が切れてるのかな?)
念のために壁の照明スイッチをつけたり消したりする。ついているのに、やはり暗いようだ。
(……ん?)
照明のスイッチの横に、細いバーがついていた。バーといっても出っ張っているわけではない。小さなボタンのようなものが、細いバーの上にある。指を当ててみると、どうやらそれはバーの上を上下に動くようだ。
(まさか……)
「みどり? 家、案内するけど……何してるの?」
奥に行っていた紫貴を手招いて、発見したバーとボタンを指差す。彼が不思議そうにそれを見ているので、そっと、ボタンを上へ移動させた。
部屋が明るくなり、目をまんまるにしている紫貴の顔がはっきりと見えた。
「紫貴、まさか……」
「……受け止めきれない。……え? 二年ここで暮らしてるんだぞ……? は? まさか他の部屋も……?」
紫貴は口をおさえて、顔を伏せる。しばらく待っていると、口をおさえるのをやめ、彼は私を見た。
「みどり、一緒に暮らそう。俺を一人にしないで」
「ア、ウン、そうね。……プッ……フフフッ」
彼は真顔だったので、よりおかしくなってしまった。笑いをこらえられない私に紫貴はム、と顔をしかめる。
「みどり、笑い事じゃない。もしかしてシャワーもお湯が出る可能性すらあるんだぞ」
「紫貴、あなた……」
「大寒波の夜に極寒シャワーした俺の努力は……」
「フ……アッハッハッハッ!」
「笑い事じゃないんだってば! ちょっと確認して、みどり!」
これはちょっと大変かもしれないと思いながら、私の手を引っ張る彼に続いて、家に上がった。
□
窓の外、川向うの景色にはニューヨークの夜景が見えた。
(リバーサイドで、この景色。きっと家賃高いんだろうな……ニューヨークよりは安くても……)
だけど、今はそんな美しい夜景よりも室内が問題だ。
5LDKでお風呂もトイレも二つもついているというのに、どの部屋もフローリングが全部見えている。備え付け家電の他には服ぐらいしかなく、私物らしい私物がないからだ。辛うじて寝室にはベッドはある。そのベッドはクイーンサイズと大きいのだが、逆に言えばそのベッドが入ってしまってもなお、がらんどうの印象を受けるほど物がない。
新しい部屋に内見に行ったときみたいに、私達の足音や声が響くほどだ。
(なんなの、この部屋……)
そしてその部屋の住人である紫貴は、能天気にシンクに腰掛けて「温かいシャワーは最高だね。みどりも入ってきたら?」などと笑っている。
彼は着替えても黒のスウェットであるし、初めてさらされた足の甲には蜘蛛が踊っていたけど、そんなことはどうでもいい。私はマナー違反を無視して、冷蔵庫を開けた。
(これは駄目。ひどすぎる)
ワインとビールと日本酒とウイスキーのみが並んでいた。
「何を食べて生きてるの?」
「冷凍庫に入ってるでしょ、アイス」
「主食アイスなの!? ……いや、アイスって氷しかないよ!?」
「ロックで飲む酒が一番うまいらしいよ。ほら、カップアイスもどっかに入ってるだろ? ……みどり、なんでそんな怖い顔するのさ」
私は気がついた。
(『家』じゃない)
照明の調節に気が付かないのも、シャワーのお湯の出し方を知らないのも、そうだ。生活感がないのは『家』じゃない。
『紫貴』に、生活感がないのだ。
「……本当にここで暮らしてるの?」
「そんなところから疑われる?」
濡れた髪をタオルで拭く紫貴を睨むと、彼は「ええと、……」と言い訳をし始めた。
「生きていくのに必要な最低限は揃ってるでしょう?」
「生きていくだけじゃなくて、もっと、楽しくなるようなもの……そうだ。ピアノは?」
「練習したいときはスタジオ借りてる。一階にジムとスタジオがあるんだよ。そこでこのマンション選んだの」
何がおかしいのと言わんばかりの態度だ。私は紫貴の前に立って、その頬を包んだ。シャワーを浴びたばかりだからホカホカしている。しかし保湿は一切されていない。
「ドライヤーは?」
「タオルで拭けば乾くよ?」
彼の持っているものは紛うことなきペットタオルだ。
「すぐ乾くの、これ。ついでにシャワールームの水も全部ふけるからカビない、便利でしょ」
紫貴は自慢げに言った。私はめまいがした。
「……ミニマリストなの? なら、もう、余計なことは聞かないけど……」
「いや、そんな白い顔で言われてもな……何買えばいいのかわからないだけだよ。スペース空いてるなあとは思ってた。でも他に何がいるの?」
「『何がいるの』って……ねえ、紫貴、シャワー、水だと寒いでしょ? 部屋が暗いと見えにくいでしょ? お腹空いたときにご飯ないと嫌でしょう? 髪乾かさないと風邪ひくでしょう? 保湿しないと乾くでしょう?」
「ウン、困ってる。よくわかったね」
「『ウン、困ってる。よくわかったね』?」
いよいよ、クラクラしてきた。
「どうしよう、一人にしておけない、この子……」
フラついた私を紫貴が立ち上がって抱きとめてくれた。
「じゃあ、ここにいてよ、みどり」
彼はクスクス笑いながら、低い声を耳に注ぎ込んでくる。呆れて見上げると、カプと頬を噛まれた。
子どもが遊びに誘うような、そんな甘噛み。
「俺が足りないと言うなら、みどりが埋めて」
彼の手が私の腰に触れ、ドレス越しに彼の体温を感じた。するすると彼の手は私の背中を撫で、うなじにあるドレスのジッパーに触れる。
しかしジッパーは下ろされることなく、彼の手はまた私の背中を撫でて、優しく腰に戻る。
(したいのかな)
彼の目を見ると、大学のときの彼のような獣じみた目はしていない。でも雄弁に『どうする?』と聞いていた。
(……もう少し、触って欲しい)
彼の腰に手を回し彼の胸に耳をつける。トク、トク、と聞こえる鼓動は、私と同じぐらい早かった。
「観葉植物とかラグとか可愛いカーテンとかソファーとか、色々、他にも……私には必要なの。紫貴にとって必要最低限に入らないものばかりだけど、いいの? ……邪魔じゃない?」
「みどりが要るなら俺に必要なものだ。一緒に買いに行こう。俺も頑張って調べる、興味ないけど」
「もう……素直だなあ……」
彼の気持ち、彼の形を確かめるために、スウェットの裾から手を入れて、彼の腰に直接触れてみた。
(身体、あったかい……)
彼は真似るように私の腰を撫でながら、「似合ってるよ、ドレス」と低い声で囁いてくれた。
「でもずっと、脱がせたかった。ごめんね、男で」
「……脱がされるんだと思って準備してきたもの。怖くなんかない」
「いい子、……顔上げて」
紫貴からの二回目のキスは、優しく始まった。
緊張している私に寄り添うように、優しく唇が触れ合う。子どもの戯れ、天使のいたずら、そんな言葉が似合うキス。
私の隙間を埋めてくれる、多幸感。
彼にとってもそうであればいいのにと願いながら、舌先でキスに応える。すると私に応えるように、彼のキスは深く、重くなっていく。一歩ずつ、彼が私の中に入り込んでくる。
(私に合わせてくれてる)
チカチカと頭の中に、『ナニカ』、走る。
(安心して、この人のこと、好きになっていいんだ)
彼の唇が離れたとき、追いかけてしまう。
彼は当たり前のように戻ってきて、宥めるように、諌めるように、キスを続けてくれる。経験の少ない私を、優しくエスコートしてくれる。息がもたなくて、しがみつけば、彼は力強く抱き返してくれた。
「……ア、」
背中に回された彼の手が、ドレスのジッパーを優しく下ろしていく。髪を挟まないように、服を痛めないように、それから私をおびえさせないように、ゆっくりと、優しく、脱がされていく。
彼の吐息が耳に当たる。焦らされているようにさえ、感じた。
首や耳にキスをされ、背中や腰を撫でられながら、与えられたドレスは脱がされた。晒された肌が寒さを感じる。
(あ! 下着、そういえばっ……!)
ハッと思い出して恥ずかしくなって、彼の視界を隠すために、彼の頭を胸に抱きかかえる。彼は「わわ」とわざとらしく声を上げて、しかし抵抗なく私に抱きかかえられた。
「みーどり、見せて」
「ま、まって……」
しがみついたままでいると、「ウン」と彼は笑った。
彼の頷き方はいつもの通りだ。何でも受け入れてくれる、いつもの声だ。そっと力を抜くと、彼は私の腕を抜け出して代わりに私を腕の中に閉じ込めた。
「可愛い、似合ってる」
「これも、紫貴が選んだの……?」
「当然。俺の好みだ。興奮する」
彼は嬉しそうに笑いながら、私を姫抱きにしてしまった。首にしがみついて「重くない? あの、私、ほら、急で、そのダイエットとかできてなくて、おなかとか、あの……アッそうだ、シャワー……」と言い訳していたら、キスで言葉を封じられてしまった。
「シー、……みどり、静かに。大丈夫だから。俺についてきて」
そうして、彼は私をベッドに連れて行ってくれた。
◆
私をベッドに下ろすと、彼は私の上に覆いかぶさってキスを始めた。今度は最初から深く、性的だ。舌で歯列をなぞられると、何故か足の指が動いてしまう。自分の舌をどこに置いたらいいかさえわからなくて、彼に身を委ねていると、彼の人差し指が下着の上から胸に触れた。
「ひっ」
あの悪夢のような初体験のとき、胸は乱暴に扱われた。そのことを思い出してしまった身体が固くなる。が、予想を裏切り、彼の指は下着のレースを優しくなぞるだけ。それよりもキスが深くなり、上顎までいじめられてしまい、気が遠くなる。
「ふぁ」
そうして力が抜けたところで、ふに、と彼の指が私の胸に触れた。ゾワゾワと全身が総毛立つ。警戒のとれた私の身体は彼の指を受け入れ、まるでマッサージを受けるかのように気持ち良さだけを享受していく。
「ふ、う、……」
私の口から声が漏れ始めると、彼の手はさらに大胆になる。ブラジャーの中に差し込まれた彼の手が優しく私の胸を包む。形を確かめるように胸を揉まれると、今まで感じたことのない何かが足の指から頭の先に走っていく。彼がキスをやめ、みどり、とかすれた声で私を呼んだ。返事をしようとしたが、その前に彼の舌が私の耳に触れていた。
「ひぁ」
濡れた音が耳に直接注がれる。脳が溶けていくような、感じたことのない妙な気持ちよさに目を閉じる。すると彼に触れられた胸の触感がさらに響いて、体の奥が熱くなる。頭の中は溶けそうなのに、身体は妙に緊張して、膝をすり合わせる。
彼の身体が私を優しく押しつぶすと、互いの香水が混ざり合って、甘やかな匂いになった。汗ばんでいるのか濡れているのかもわからない、ただ、湿っている。どんどん知らない世界に連れていかれるみたいで、少し怖い。だけど、止められない。
彼の手が私の腹に触れたとき、ふに、っとした。その事実にハッとして、カアっと頭が熱くなる。
(肉だ! 今のは、絶対に肉だ! やだ! 筋トレしてればよかったー! ばかー!)
半泣きになりながら身を強張らせると、彼が私の額にキスをした。
「みどり?」
恐る恐る顔をあげると、彼は優しく笑っていた。高められていた『そういう雰囲気』を壊した上で、「どした?」と微笑む。そのことにホッと身体から力が抜けた。
「ごめんなさい、慣れてなくて……」
「俺に? じゃあ触って。慣れるまで」
「さ、触ってって……」
「脱がして、ダーリン」
低く甘い囁き声に首筋に寒気が走る。
(な、……泣きそう……)
うながされて彼のスウェットをめくると、模様だらけのお腹が見えた。へそにまで模様がある腹は、ボディービルダーのようにボコボコしている。
「ずるい……」
「ずるい?」
「私も筋トレしておけば……」
「何の話してるの」
クスクスと彼はいつものように笑う。それが悔しくて、エイっと彼のスウェットを胸元までめくる。彼は「ありがと」とスウェットから頭を抜き、ポイとそれをベッドの脇に落とした。
晒された彼の上半身には、龍がいた。
(しかも二匹。いや、二頭……?)
彼が私の両手首を掴むと自分の胸に導く。龍の模様の入った彼の筋肉でできた彼の胸は、私のものよりも弾力があった。ふに、とした感触が気持ちよくて、手のひらで彼の胸を撫でる。
「ン、……」
視線を上げた先にあった彼の顔は欲に濡れていた。その欲はあっという間に私に感染していく。恥ずかしくて彼から手を離そうとすると、彼が私の手首を握り直し、微笑む。
「みどり、もっと触って。君が触れてくれると気持ちいい」
「そ……んな、恥ずかしいこと……」
「恥ずかしくなんかないよ、嬉しいことだ」
彼は慰めるように、諫めるように、優しいキスをしながら、私を抱き起こして膝に乗せた。彼のセットされた髪や汗ばんだ肌から上質な香りがする。
(甘くて苦い香り、……好き……)
彼の肩に手を回してぎゅうと抱きしめると、彼は嬉しそうに「くすぐったい」と笑った。少しも嫌そうじゃないことにほっとする。
「ね、怖くないでしょ? 全部、みどりがしたいようにしていいんだよ」
「したいように……」
ふと、デート前に検索した『能動的なセックス』を思い出した。
「その……のけぞって叫んだりした方がいい?」
「エクソシスト?」
「そう……そうだよね、フフ」
「やっと笑った」
彼の唇が喉に触れ、鎖骨に触れ、胸の谷間に触れる。銀髪を撫でると、彼が上目で私を見つめた。目でも触られているみたいで、息が漏れてしまう。
彼の前歯がフロントホックをかじると、パチ、と音を鳴った。おさまっていた胸がホロとまろびでると、彼がゴクリとつばを飲んだ。その生々しい音に、ビクリと膝が勝手に震える。
「みどり、膝立てて。その方が触りやすい」
「……うん……」
恥ずかしいけれど言われた通り、彼の足をまたぐようにして膝を立てると、彼に胸を差し出す形になってしまう。彼は私の腰を抱き寄せると、私の目を見ながら、胸の間におさまってしまう。ちゅ、と軽いリップ音を立てて、彼が私の胸に触れる。
「ア、……」
ドク、ドク、と自分の鼓動が反響してくるみたいに聞こえる。鼓動に合わせて顔が熱くなり、下腹部がソワソワと震え、勝手に腰が揺れてしまう。
(紫貴に触られたところ、なんか……変、……)
彼の白い前歯が唇から覗き、私の敏感な肌の上を滑る。喉から勝手に高い声が漏れ、彼の頭に触れる指先に力がこもり、更に彼に胸を押し付けてしまう。彼ははしたない私をからかうことなく、甘やかに、深く、鋭く、私をいじめ続ける。それに翻弄されていると、彼の指や、膝や、手のひらが、いつの間にか私の足や、腰や、へそをいじめてしまう。
「紫貴、なんか、ぅっ、……ふぁ、あんっ……や、変な声出る……」
「変じゃない」
「変なのっ、うぁ……意地悪しないでっ、ひっ」
「してないよ」
赤い舌が蛇のように、しなやかに、ゆっくりと、悩ましく、私を撫でていく。
(知らない、こんなの……)
ヒュウと喉から空気が抜け、背中が勝手にのけぞり、太ももが痙攣する。自分の体なのに制御できなくて、彼のつくる波に翻弄される。溺れそうで彼にしがみつくと、彼の手がわたしの足の付け根に触れた。濡れたショーツの上から彼の指先が私の熱を撫でてしまう。自分の口から洩れる声が人生で聞いた事のない色をしていて、怖いのに、止められない。彼の指の揺さぶりに、頭の中が真っ白になる。
気が付いたら彼の頭を抱きしめて、私は汗だくになっていた。
「……可愛いよ、みどり。上手にイケたね」
彼の優しいキスにさえ、腰が揺れてしまう。
――知っていたはずの行為なのに、こんなことは何一つ知らない。
「まって、まって、しらない……しらないの……」
勝手に零れる私の涙を浴びて、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「ウン、待つよ。大丈夫だから」
彼の低い声が鼓膜を揺さぶるだけで、濡れてしまうのがわかった。
「俺に委ねて」
今までの経験をすべて消し去るような、そんな『初体験』だった。
□
「眠くなってきた?」
「少し……」
大きなベッドの上で裸のまま布横たわっていると、紫貴がアイスクリームをもってきてくれた。見たことないブランドのイチゴ味のアイスクリームだ。彼は私を抱き起こし、彼の胸を背もたれにさせてくれた。
裸の私を後ろから抱きしめる彼もまた裸だ。しかし、私のお腹に回される腕には龍もいれば鯉もいるし、私の足に絡まってくる両足には天女もいれば悪魔もいる。
(すごいなぁ。天国と地獄に抱きしめられてるみたい……)
彼の右腕にいる龍の頭を撫でながら、彼の胸に凭れ、アイスクリームを一匙すくって食べる。アイスを口に入れたときに体が乾いていたことに気がついた。もう一匙すくって紫貴の口元に寄せる。彼はそれをぺろりと舐めると、息を吐いた。
「ね、みどり、ここにいて。俺が好きだろ」
彼の声が少しかすれていて、それすら、好きだと思った。だから私は彼の誘いに――頷いた。
「シャッ!」
彼が急に大きい声を出してガッツポーズをした。あまりにも子どもっぽくて、ケラケラ笑ってしまう。彼もまたケラケラ笑った。
「なら決まりだ。明日、朝一でホテルの荷物取りに行こう」
「そしたら午後は家具屋さんよ。紫貴、『今、お金、どのくらいあるの』?」
紫貴はクククと私の耳の近くで笑った。
「任せろ。うなるほどある」
「アハ、何それ」
笑いながらイチゴ味のキスをし始めたら、自然とまた抱き合ってしまった。
「しがみついて、みどり」
押し倒されて早急に求められてもいいぐらい、私の体は彼に媚びている。私が濡れれば彼も濡れ、彼が揺れれば私も揺れる。海のようにどこまでも波が続いて、私は溺れて、息もできない。だけどやめられない。
「連れてって、どこにだってついていくから」
同僚の突然死から初めて、心から安らいだ夜だった。
海沿いの街で、尾道の隣にあって、田舎すぎなくて都会すぎない。何があるかと言われたら何もない街。嫌いな街ではないし、今でも戻ることは考える。住むのに不自由しない、というよりもむしろ住みやすい街だから。でも、……そういうことを考えると、中学生の時の自分が心の中で『嫌だ!』って言い出すの。『私の場所はここじゃない』って……。そんな年頃からそう考えていて、だから大学で上京したの。それで一人暮らしを始めたのよ。
大学では薬学を専攻したの。三原に大きな病院がなくて不便だったから医療に興味を持つようになって……でも医者は大変でしょ? 薬剤師は食いっぱぐれないと聞いていたし、丁度いいかなって。マァ、結果として薬剤師にはならなかったけど、大学で勉強していたお陰で製薬会社には入ることができた。結構いい会社だったのよ? 給料もそこそこ、福利厚生もしっかり、知名度も高いし……ウン、そうね、入りたくて入りたいというより『意地』で入った会社だった。
大学で初めて男の人とお付き合いをしたの。
私、東京に比べたらはるか田舎の土地から出てきていたから、いい……『的』だったんだろうなって今なら分かる。でも、そのときは分からなかった。憧れの東京で、憧れのキャンパスライフで、浮かれていて、楽しくて、声をかけてもらえたのも嬉しくて、付き合ってって言われて、何も考えないで頷いてた。
本当は声をかけられたときも、デートに行ったときも、告白されたときも、違和感があったんだ。店員さんに対する態度とか、ポイ捨てするとか、無理やり触ってくるとか……でも後先考えないで……それで、……エエト、その、いわゆるそういうことをしたら急に相手が冷たくなった。今までしつこいぐらいくっついてきたのに、もう、次の瞬間にはそっけないの。
……それで、すぐ浮気。
と言うか……『私のターン』は終わったんだって。全部そういう『ゲーム』だったんだって……田舎から出てきた女を誰が一番多くモノにできるかっていう……そういう、男の人の間でやっていたゲーム。都道府県ごとにポイントも違うんだって。広島の女は少ないからポイント高かったんだって、……そんなの、聞いても何も嬉しくはないけどね。
それで、……傷ついた。
違和感があってもその時には好きになっていたから。だからとても傷ついて、でも、……私がそれで負けるのはムカつくでしょ? だから勉強頑張って一番いい会社に入ったの。その時は、溜飲が下がるっていうのかな、気持ちはスッキリした。
でもそんな気持ちで入った会社だったから仕事にやりがいは見つけられなかった。いい会社だし、いい人達と働いていたから楽しかったけど、毎日定時を待ってた。会社だと男の人と関わらなきゃいけないのも、きつかった。年上の男性はやっぱり立てなきゃいけない空気とか、若い女の子は可愛がられなきゃいけない空気とか、そういうの……きつくて……家で一人で、内容のない海外ドラマ観てる時が一番楽だった。
そんなときに社内で新しい企画のコンペがあったの。任意参加だったから、私はスルーしたんだけど、……一つ上の男の人が参加していた。社内コンペだし、通ったらそのプロジェクトのリーダーをやらなきゃいけないから、普通、三十代、四十代の人が参加するの。でもその人は二十五で、でも誰よりも熱意があって、……圧倒的に良かった。だからその人の企画が通ったの。
その人のプロジェクトのメンバーは挙手制で、私は手を挙げなかったけど……、たまに私の受け持ってた研究に近いところがあって、そういうときは手伝いをしてた。その人、誰よりも頑張ってて……誰よりも楽しそうで……つい手伝いたくなる、そんな人だった。
ちゃんと話したことはないけど、いつも楽しそうだった。ちゃんと話したことはないけど、いつか話したいと思ってた。いつか、あの人と……ちゃんと、仕事がしてみたい。次に彼のプロジェクトのメンバー募集されるときは絶対に手を上げよう、そう、思ってた。
その人ね、突然死んじゃったの。
原因は分からなくて、心不全らしいんだけど、なんで? って感じで……。あんなに楽しそうに生きていた人が死んでしまう……明日が来ないかもしれないことが怖くなった。人はいつも早すぎる内に死ぬ、当たり前のことなのに、その当たり前が怖かった。
私、今のまま死んだら、死にきれない、そう思った。
まだニューヨークにも行ってないし、まだやりがいのある仕事も見つけていないし……まだ、本当に好きな人と付き合ったこともない。だから仕事を辞めて、ここに来たの。無鉄砲でしょう? でも、そのぐらい、衝撃だった……。
息を吐いて、紫貴の手を握る。
「……私の初恋はあの人だろうなって思う。付き合いたいとかじゃなくて、……、知りたいって気持ちになったのはあの人が初めてで……でも、何も、……死んでしまったらもう何も聞けなくて……」
「ウン、わかるよ」
紫貴の声はいつものように、何でも受けいれてくれる響きがした。だからその手に縋って、泣くのをこらえて視線を上げる。
「……だから、紫貴、あなたに声かけたの……、あなたが助けてくれたとき、あなたをもっと知りたいって思ったから。もう、後悔したくなかったから。だからすごく頑張ったのよ……ナンパなんて慣れてないんだから、ね」
頑張って笑った。
けれど彼はつられて笑ってはくれず、私の手を握って「ウン」と、真面目な顔で頷くだけ
「ごめん。こんな自分語り重かったよね……何言いたいのかもわかんないし……えへへ、ごめんね、何も気にしないで……」
「笑わないでいい。わかった。……だから俺を好きになってくれたんだね」
彼の低い声が鼓膜に届き、心に落ちる。
自分でも何を言いたいのか言葉にできなかったのに、彼には伝わってくれた。息を吐いたら、一滴だけ涙が落ちてしまった。それを慌てて拭ってから、彼を見る。
「こんなに光栄なことは、この先ないだろうな」
彼は目を細めて、私の手を持ち上げる。彼の唇が指に触れた。
「俺ができる全部で、これまでのみどり、これからのみどり、全部、大事にさせてほしい」
彼の瞳が少しグレーがかっていることに、不意に気がついた。
「俺のところに来てくれて、ありがとうね」
「……ウン、……あそこに、いてくれて、ありがとう……、紫貴」
その後のディナーは、ただ美味しくて、楽しくて、安心して浮かれることができた。紫貴もずっと楽しそうで、ずっと優しい瞳で、私を見てくれていた。私がマナー違反をしても小声で教えてくれるし、私が一杯一杯になって「好き」とこぼしても、「知ってる」と優しく受け止め続けてくれた。
「いこ、みどり」
「ウン」
ディナーの後、彼の車に乗ったときに行き先は聞かなかった。彼についていくと、決めていたから。
□
「じゃあここはもう、ニューヨークではないの?」
「ウン、ニュージャージー州のウエストニューヨーク。ニューヨーク州は川の向こう」
「千葉に南東京って都市があるみたいなこと?」
「ウン、そうなるのかな? こっちのが家賃安いし広いから、こっちの家にしたんだ。……みどり、眠いの?」
紫貴の運転はとても丁寧だ。ボコボコ穴があいている道路だというのに、気がついたら眠くなってしまうほど、スムーズで安心してしまう。
(でも、折角お家に連れ込まれるというのに寝るわけには……)
「寝ちゃっていいよ?」
不甲斐ない私の頭を撫でて、紫貴は笑ってくれる。
「本当に寝ちゃうよ?」
「時差ボケの中、無理させる気はないよ」
「……いいの?」
「ウン? 何がだめ?」
右手で私の髪の毛をくるくると遊ばせながら、左手で運転をする彼の横顔は、やっぱりそのまま美術館に陳列してほしいぐらい素敵だ。私は瞬きをして、あくびを噛み殺した。
「寝ちゃったら困るでしょ?」
「みどりを布団まで運ぶぐらいの筋力はあるよ」
「そうじゃなくって……男の人って、そういうこと好きなんでしょ? ……ゲームにしちゃうくらいには……」
わざと嫌な言い方をすると、紫貴は眉間にシワをよせてくれた。
「みどりを傷つけたクソ野郎殺すとして……俺をそれと一緒にするのは、やめて」
「いきなりすごく口が悪い! あはは、ありがとう、怒ってくれて」
「笑い事ではないんだけどな。……ね、みどり、今どんくらいお金あるの?」
「エ?」
私は貯金や売れそうなものを思い返してから、「どうしてそんなこと聞くの?」と尋ねる。彼は少し黙ったあと、「この後、俺の家にみどりを連れ込むんだけどね」と切り出した。その切り出しでいいのかなと思いつつ「それと私のお金は関係あるの?」と先をうながしてみた。
彼は言葉を選んでいるのか、また黙る。しかし意を決したように口を開いた。
「家に連れ込んだら帰したくなくなるというか、すでに帰したくないんだよ。だから理由が欲しくて。金に余裕ないなら、俺の家に住んでくれる理由にならないかなって思ったの。ホテル代はいらないし、俺がすぐ車出すし、案内するし……便利だよ?」
「……家連れ込んで事が済んでも、すぐ追い出したりしないよ、ということ?」
「次、そのクソ野郎との経験で俺の行動予測したら怒るからね?」
彼が本当に不愉快そうに言うからかえって嬉しくなってしまった。
私の頭の上で遊んでいる彼の右手を捕まえて、指を絡める。片手運転はあぶないよ、と言うべきなのに、彼の手を離したくなかった。
「私、家族としか暮らしたことないから。喧嘩したり、失敗したりするかも……」
「たしかに。喧嘩も失敗はたくさんするかもね。でも、みどりとしてみたい。やだ?」
「もう。やだって言わせる気ないでしょ」
「ウン、あったらそもそも提案しないよ」
「もう! フフ……」
思わず笑うと「マア、返事は明日でいいよ」と紫貴も笑った。彼の笑顔には、どんな私の結論でも受け止めてくれる度量があって、だから好きになったんだとあらためて思った。
車がマンションの駐車場に入っていく。
時差ボケと満腹で本格的に眠くなっている私があくびをすると、紫貴は「部屋まで我慢ね。抱っこで連れてってもいいけど、やでしょ?」とクスクス笑った。
紫貴のマンションはフロントにコンシェルジュがいた。彼は紫貴にいくつかの郵便を手渡してきた。紫貴はそれを受け取りながら、コンシェルジュにいくつかの指示みたいなのをする。そのやり取りが手慣れていて、ここで暮らしたときのイメージになった。
「いこ」
「ウン」
ゴウン、ゴウン、とゆっくりとのぼるエレベーターに乗って、最上階にのぼる。そして、案内された一番奥……紫貴の家は、開けた瞬間に「エ」と声を出してしまいたくなる部屋だった。
まず、異様に暗い。
「紫貴、これ、電気付いてる?」
「付いてるよ? でも暗いんだよな。その辺で靴脱いで上がって。俺、部屋では靴履かないから」
「……わかった」
部屋はフルフラットになっていて、日本で言うところの玄関的なスペースはなかった。紫貴に言われた通り、ドアの近くで靴を脱ぎ、部屋に上がる。
(電球が切れてるのかな?)
念のために壁の照明スイッチをつけたり消したりする。ついているのに、やはり暗いようだ。
(……ん?)
照明のスイッチの横に、細いバーがついていた。バーといっても出っ張っているわけではない。小さなボタンのようなものが、細いバーの上にある。指を当ててみると、どうやらそれはバーの上を上下に動くようだ。
(まさか……)
「みどり? 家、案内するけど……何してるの?」
奥に行っていた紫貴を手招いて、発見したバーとボタンを指差す。彼が不思議そうにそれを見ているので、そっと、ボタンを上へ移動させた。
部屋が明るくなり、目をまんまるにしている紫貴の顔がはっきりと見えた。
「紫貴、まさか……」
「……受け止めきれない。……え? 二年ここで暮らしてるんだぞ……? は? まさか他の部屋も……?」
紫貴は口をおさえて、顔を伏せる。しばらく待っていると、口をおさえるのをやめ、彼は私を見た。
「みどり、一緒に暮らそう。俺を一人にしないで」
「ア、ウン、そうね。……プッ……フフフッ」
彼は真顔だったので、よりおかしくなってしまった。笑いをこらえられない私に紫貴はム、と顔をしかめる。
「みどり、笑い事じゃない。もしかしてシャワーもお湯が出る可能性すらあるんだぞ」
「紫貴、あなた……」
「大寒波の夜に極寒シャワーした俺の努力は……」
「フ……アッハッハッハッ!」
「笑い事じゃないんだってば! ちょっと確認して、みどり!」
これはちょっと大変かもしれないと思いながら、私の手を引っ張る彼に続いて、家に上がった。
□
窓の外、川向うの景色にはニューヨークの夜景が見えた。
(リバーサイドで、この景色。きっと家賃高いんだろうな……ニューヨークよりは安くても……)
だけど、今はそんな美しい夜景よりも室内が問題だ。
5LDKでお風呂もトイレも二つもついているというのに、どの部屋もフローリングが全部見えている。備え付け家電の他には服ぐらいしかなく、私物らしい私物がないからだ。辛うじて寝室にはベッドはある。そのベッドはクイーンサイズと大きいのだが、逆に言えばそのベッドが入ってしまってもなお、がらんどうの印象を受けるほど物がない。
新しい部屋に内見に行ったときみたいに、私達の足音や声が響くほどだ。
(なんなの、この部屋……)
そしてその部屋の住人である紫貴は、能天気にシンクに腰掛けて「温かいシャワーは最高だね。みどりも入ってきたら?」などと笑っている。
彼は着替えても黒のスウェットであるし、初めてさらされた足の甲には蜘蛛が踊っていたけど、そんなことはどうでもいい。私はマナー違反を無視して、冷蔵庫を開けた。
(これは駄目。ひどすぎる)
ワインとビールと日本酒とウイスキーのみが並んでいた。
「何を食べて生きてるの?」
「冷凍庫に入ってるでしょ、アイス」
「主食アイスなの!? ……いや、アイスって氷しかないよ!?」
「ロックで飲む酒が一番うまいらしいよ。ほら、カップアイスもどっかに入ってるだろ? ……みどり、なんでそんな怖い顔するのさ」
私は気がついた。
(『家』じゃない)
照明の調節に気が付かないのも、シャワーのお湯の出し方を知らないのも、そうだ。生活感がないのは『家』じゃない。
『紫貴』に、生活感がないのだ。
「……本当にここで暮らしてるの?」
「そんなところから疑われる?」
濡れた髪をタオルで拭く紫貴を睨むと、彼は「ええと、……」と言い訳をし始めた。
「生きていくのに必要な最低限は揃ってるでしょう?」
「生きていくだけじゃなくて、もっと、楽しくなるようなもの……そうだ。ピアノは?」
「練習したいときはスタジオ借りてる。一階にジムとスタジオがあるんだよ。そこでこのマンション選んだの」
何がおかしいのと言わんばかりの態度だ。私は紫貴の前に立って、その頬を包んだ。シャワーを浴びたばかりだからホカホカしている。しかし保湿は一切されていない。
「ドライヤーは?」
「タオルで拭けば乾くよ?」
彼の持っているものは紛うことなきペットタオルだ。
「すぐ乾くの、これ。ついでにシャワールームの水も全部ふけるからカビない、便利でしょ」
紫貴は自慢げに言った。私はめまいがした。
「……ミニマリストなの? なら、もう、余計なことは聞かないけど……」
「いや、そんな白い顔で言われてもな……何買えばいいのかわからないだけだよ。スペース空いてるなあとは思ってた。でも他に何がいるの?」
「『何がいるの』って……ねえ、紫貴、シャワー、水だと寒いでしょ? 部屋が暗いと見えにくいでしょ? お腹空いたときにご飯ないと嫌でしょう? 髪乾かさないと風邪ひくでしょう? 保湿しないと乾くでしょう?」
「ウン、困ってる。よくわかったね」
「『ウン、困ってる。よくわかったね』?」
いよいよ、クラクラしてきた。
「どうしよう、一人にしておけない、この子……」
フラついた私を紫貴が立ち上がって抱きとめてくれた。
「じゃあ、ここにいてよ、みどり」
彼はクスクス笑いながら、低い声を耳に注ぎ込んでくる。呆れて見上げると、カプと頬を噛まれた。
子どもが遊びに誘うような、そんな甘噛み。
「俺が足りないと言うなら、みどりが埋めて」
彼の手が私の腰に触れ、ドレス越しに彼の体温を感じた。するすると彼の手は私の背中を撫で、うなじにあるドレスのジッパーに触れる。
しかしジッパーは下ろされることなく、彼の手はまた私の背中を撫でて、優しく腰に戻る。
(したいのかな)
彼の目を見ると、大学のときの彼のような獣じみた目はしていない。でも雄弁に『どうする?』と聞いていた。
(……もう少し、触って欲しい)
彼の腰に手を回し彼の胸に耳をつける。トク、トク、と聞こえる鼓動は、私と同じぐらい早かった。
「観葉植物とかラグとか可愛いカーテンとかソファーとか、色々、他にも……私には必要なの。紫貴にとって必要最低限に入らないものばかりだけど、いいの? ……邪魔じゃない?」
「みどりが要るなら俺に必要なものだ。一緒に買いに行こう。俺も頑張って調べる、興味ないけど」
「もう……素直だなあ……」
彼の気持ち、彼の形を確かめるために、スウェットの裾から手を入れて、彼の腰に直接触れてみた。
(身体、あったかい……)
彼は真似るように私の腰を撫でながら、「似合ってるよ、ドレス」と低い声で囁いてくれた。
「でもずっと、脱がせたかった。ごめんね、男で」
「……脱がされるんだと思って準備してきたもの。怖くなんかない」
「いい子、……顔上げて」
紫貴からの二回目のキスは、優しく始まった。
緊張している私に寄り添うように、優しく唇が触れ合う。子どもの戯れ、天使のいたずら、そんな言葉が似合うキス。
私の隙間を埋めてくれる、多幸感。
彼にとってもそうであればいいのにと願いながら、舌先でキスに応える。すると私に応えるように、彼のキスは深く、重くなっていく。一歩ずつ、彼が私の中に入り込んでくる。
(私に合わせてくれてる)
チカチカと頭の中に、『ナニカ』、走る。
(安心して、この人のこと、好きになっていいんだ)
彼の唇が離れたとき、追いかけてしまう。
彼は当たり前のように戻ってきて、宥めるように、諌めるように、キスを続けてくれる。経験の少ない私を、優しくエスコートしてくれる。息がもたなくて、しがみつけば、彼は力強く抱き返してくれた。
「……ア、」
背中に回された彼の手が、ドレスのジッパーを優しく下ろしていく。髪を挟まないように、服を痛めないように、それから私をおびえさせないように、ゆっくりと、優しく、脱がされていく。
彼の吐息が耳に当たる。焦らされているようにさえ、感じた。
首や耳にキスをされ、背中や腰を撫でられながら、与えられたドレスは脱がされた。晒された肌が寒さを感じる。
(あ! 下着、そういえばっ……!)
ハッと思い出して恥ずかしくなって、彼の視界を隠すために、彼の頭を胸に抱きかかえる。彼は「わわ」とわざとらしく声を上げて、しかし抵抗なく私に抱きかかえられた。
「みーどり、見せて」
「ま、まって……」
しがみついたままでいると、「ウン」と彼は笑った。
彼の頷き方はいつもの通りだ。何でも受け入れてくれる、いつもの声だ。そっと力を抜くと、彼は私の腕を抜け出して代わりに私を腕の中に閉じ込めた。
「可愛い、似合ってる」
「これも、紫貴が選んだの……?」
「当然。俺の好みだ。興奮する」
彼は嬉しそうに笑いながら、私を姫抱きにしてしまった。首にしがみついて「重くない? あの、私、ほら、急で、そのダイエットとかできてなくて、おなかとか、あの……アッそうだ、シャワー……」と言い訳していたら、キスで言葉を封じられてしまった。
「シー、……みどり、静かに。大丈夫だから。俺についてきて」
そうして、彼は私をベッドに連れて行ってくれた。
◆
私をベッドに下ろすと、彼は私の上に覆いかぶさってキスを始めた。今度は最初から深く、性的だ。舌で歯列をなぞられると、何故か足の指が動いてしまう。自分の舌をどこに置いたらいいかさえわからなくて、彼に身を委ねていると、彼の人差し指が下着の上から胸に触れた。
「ひっ」
あの悪夢のような初体験のとき、胸は乱暴に扱われた。そのことを思い出してしまった身体が固くなる。が、予想を裏切り、彼の指は下着のレースを優しくなぞるだけ。それよりもキスが深くなり、上顎までいじめられてしまい、気が遠くなる。
「ふぁ」
そうして力が抜けたところで、ふに、と彼の指が私の胸に触れた。ゾワゾワと全身が総毛立つ。警戒のとれた私の身体は彼の指を受け入れ、まるでマッサージを受けるかのように気持ち良さだけを享受していく。
「ふ、う、……」
私の口から声が漏れ始めると、彼の手はさらに大胆になる。ブラジャーの中に差し込まれた彼の手が優しく私の胸を包む。形を確かめるように胸を揉まれると、今まで感じたことのない何かが足の指から頭の先に走っていく。彼がキスをやめ、みどり、とかすれた声で私を呼んだ。返事をしようとしたが、その前に彼の舌が私の耳に触れていた。
「ひぁ」
濡れた音が耳に直接注がれる。脳が溶けていくような、感じたことのない妙な気持ちよさに目を閉じる。すると彼に触れられた胸の触感がさらに響いて、体の奥が熱くなる。頭の中は溶けそうなのに、身体は妙に緊張して、膝をすり合わせる。
彼の身体が私を優しく押しつぶすと、互いの香水が混ざり合って、甘やかな匂いになった。汗ばんでいるのか濡れているのかもわからない、ただ、湿っている。どんどん知らない世界に連れていかれるみたいで、少し怖い。だけど、止められない。
彼の手が私の腹に触れたとき、ふに、っとした。その事実にハッとして、カアっと頭が熱くなる。
(肉だ! 今のは、絶対に肉だ! やだ! 筋トレしてればよかったー! ばかー!)
半泣きになりながら身を強張らせると、彼が私の額にキスをした。
「みどり?」
恐る恐る顔をあげると、彼は優しく笑っていた。高められていた『そういう雰囲気』を壊した上で、「どした?」と微笑む。そのことにホッと身体から力が抜けた。
「ごめんなさい、慣れてなくて……」
「俺に? じゃあ触って。慣れるまで」
「さ、触ってって……」
「脱がして、ダーリン」
低く甘い囁き声に首筋に寒気が走る。
(な、……泣きそう……)
うながされて彼のスウェットをめくると、模様だらけのお腹が見えた。へそにまで模様がある腹は、ボディービルダーのようにボコボコしている。
「ずるい……」
「ずるい?」
「私も筋トレしておけば……」
「何の話してるの」
クスクスと彼はいつものように笑う。それが悔しくて、エイっと彼のスウェットを胸元までめくる。彼は「ありがと」とスウェットから頭を抜き、ポイとそれをベッドの脇に落とした。
晒された彼の上半身には、龍がいた。
(しかも二匹。いや、二頭……?)
彼が私の両手首を掴むと自分の胸に導く。龍の模様の入った彼の筋肉でできた彼の胸は、私のものよりも弾力があった。ふに、とした感触が気持ちよくて、手のひらで彼の胸を撫でる。
「ン、……」
視線を上げた先にあった彼の顔は欲に濡れていた。その欲はあっという間に私に感染していく。恥ずかしくて彼から手を離そうとすると、彼が私の手首を握り直し、微笑む。
「みどり、もっと触って。君が触れてくれると気持ちいい」
「そ……んな、恥ずかしいこと……」
「恥ずかしくなんかないよ、嬉しいことだ」
彼は慰めるように、諫めるように、優しいキスをしながら、私を抱き起こして膝に乗せた。彼のセットされた髪や汗ばんだ肌から上質な香りがする。
(甘くて苦い香り、……好き……)
彼の肩に手を回してぎゅうと抱きしめると、彼は嬉しそうに「くすぐったい」と笑った。少しも嫌そうじゃないことにほっとする。
「ね、怖くないでしょ? 全部、みどりがしたいようにしていいんだよ」
「したいように……」
ふと、デート前に検索した『能動的なセックス』を思い出した。
「その……のけぞって叫んだりした方がいい?」
「エクソシスト?」
「そう……そうだよね、フフ」
「やっと笑った」
彼の唇が喉に触れ、鎖骨に触れ、胸の谷間に触れる。銀髪を撫でると、彼が上目で私を見つめた。目でも触られているみたいで、息が漏れてしまう。
彼の前歯がフロントホックをかじると、パチ、と音を鳴った。おさまっていた胸がホロとまろびでると、彼がゴクリとつばを飲んだ。その生々しい音に、ビクリと膝が勝手に震える。
「みどり、膝立てて。その方が触りやすい」
「……うん……」
恥ずかしいけれど言われた通り、彼の足をまたぐようにして膝を立てると、彼に胸を差し出す形になってしまう。彼は私の腰を抱き寄せると、私の目を見ながら、胸の間におさまってしまう。ちゅ、と軽いリップ音を立てて、彼が私の胸に触れる。
「ア、……」
ドク、ドク、と自分の鼓動が反響してくるみたいに聞こえる。鼓動に合わせて顔が熱くなり、下腹部がソワソワと震え、勝手に腰が揺れてしまう。
(紫貴に触られたところ、なんか……変、……)
彼の白い前歯が唇から覗き、私の敏感な肌の上を滑る。喉から勝手に高い声が漏れ、彼の頭に触れる指先に力がこもり、更に彼に胸を押し付けてしまう。彼ははしたない私をからかうことなく、甘やかに、深く、鋭く、私をいじめ続ける。それに翻弄されていると、彼の指や、膝や、手のひらが、いつの間にか私の足や、腰や、へそをいじめてしまう。
「紫貴、なんか、ぅっ、……ふぁ、あんっ……や、変な声出る……」
「変じゃない」
「変なのっ、うぁ……意地悪しないでっ、ひっ」
「してないよ」
赤い舌が蛇のように、しなやかに、ゆっくりと、悩ましく、私を撫でていく。
(知らない、こんなの……)
ヒュウと喉から空気が抜け、背中が勝手にのけぞり、太ももが痙攣する。自分の体なのに制御できなくて、彼のつくる波に翻弄される。溺れそうで彼にしがみつくと、彼の手がわたしの足の付け根に触れた。濡れたショーツの上から彼の指先が私の熱を撫でてしまう。自分の口から洩れる声が人生で聞いた事のない色をしていて、怖いのに、止められない。彼の指の揺さぶりに、頭の中が真っ白になる。
気が付いたら彼の頭を抱きしめて、私は汗だくになっていた。
「……可愛いよ、みどり。上手にイケたね」
彼の優しいキスにさえ、腰が揺れてしまう。
――知っていたはずの行為なのに、こんなことは何一つ知らない。
「まって、まって、しらない……しらないの……」
勝手に零れる私の涙を浴びて、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「ウン、待つよ。大丈夫だから」
彼の低い声が鼓膜を揺さぶるだけで、濡れてしまうのがわかった。
「俺に委ねて」
今までの経験をすべて消し去るような、そんな『初体験』だった。
□
「眠くなってきた?」
「少し……」
大きなベッドの上で裸のまま布横たわっていると、紫貴がアイスクリームをもってきてくれた。見たことないブランドのイチゴ味のアイスクリームだ。彼は私を抱き起こし、彼の胸を背もたれにさせてくれた。
裸の私を後ろから抱きしめる彼もまた裸だ。しかし、私のお腹に回される腕には龍もいれば鯉もいるし、私の足に絡まってくる両足には天女もいれば悪魔もいる。
(すごいなぁ。天国と地獄に抱きしめられてるみたい……)
彼の右腕にいる龍の頭を撫でながら、彼の胸に凭れ、アイスクリームを一匙すくって食べる。アイスを口に入れたときに体が乾いていたことに気がついた。もう一匙すくって紫貴の口元に寄せる。彼はそれをぺろりと舐めると、息を吐いた。
「ね、みどり、ここにいて。俺が好きだろ」
彼の声が少しかすれていて、それすら、好きだと思った。だから私は彼の誘いに――頷いた。
「シャッ!」
彼が急に大きい声を出してガッツポーズをした。あまりにも子どもっぽくて、ケラケラ笑ってしまう。彼もまたケラケラ笑った。
「なら決まりだ。明日、朝一でホテルの荷物取りに行こう」
「そしたら午後は家具屋さんよ。紫貴、『今、お金、どのくらいあるの』?」
紫貴はクククと私の耳の近くで笑った。
「任せろ。うなるほどある」
「アハ、何それ」
笑いながらイチゴ味のキスをし始めたら、自然とまた抱き合ってしまった。
「しがみついて、みどり」
押し倒されて早急に求められてもいいぐらい、私の体は彼に媚びている。私が濡れれば彼も濡れ、彼が揺れれば私も揺れる。海のようにどこまでも波が続いて、私は溺れて、息もできない。だけどやめられない。
「連れてって、どこにだってついていくから」
同僚の突然死から初めて、心から安らいだ夜だった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
二人の甘い夜は終わらない
藤谷藍
恋愛
*この作品の書籍化がアルファポリス社で現在進んでおります。正式に決定しますと6月13日にこの作品をウェブから引き下げとなりますので、よろしくご了承下さい*
年齢=恋人いない歴28年。多忙な花乃は、昔キッパリ振られているのに、初恋の彼がずっと忘れられない。いまだに彼を想い続けているそんな誕生日の夜、彼に面影がそっくりな男性と出会い、夢心地のまま酔った勢いで幸せな一夜を共に––––、なのに、初めての朝チュンでパニックになり、逃げ出してしまった。甘酸っぱい思い出のファーストラブ。幻の夢のようなセカンドラブ。優しい彼には逢うたびに心を持っていかれる。今も昔も、過剰なほど甘やかされるけど、この歳になって相変わらずな子供扱いも! そして極甘で強引な彼のペースに、花乃はみるみる絡め取られて……⁈ ちょっぴり個性派、花乃の初恋胸キュンラブです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました
入海月子
恋愛
有本瑞希
仕事に燃える設計士 27歳
×
黒瀬諒
飄々として軽い一級建築士 35歳
女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。
彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。
ある日、同僚のミスが発覚して――。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
溺愛ダーリンと逆シークレットベビー
葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。
立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。
優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる