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第一章 夢一夜

第二話 軽やかに知り合い

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「Good afternoon, everyone...(こんにちは、皆さま……)」
 機内が明るくなり、アナウンスにうながされて目を覚ます。まだ夢を見ているような気持ちのまま、目をこすり、口元を拭う。
(何時だろう……)
 直後の機内放送で告げられたのは『午後三時』だった。そんな馬鹿なと一瞬戸惑い、それから、『ニューヨーク時間』になったことを理解する。
(本当に行くんだ、ニューヨーク)
 昔、テレビのクイズ番組で『ニューヨークに行きたいか』と叫んでいたらしい。今は令和だけれど、やっぱり『行きたいか』と聞くなら、きっと、ニューヨーク。そう言われるのがどこよりも似合う街。
 カーテンを押し上げ、外を見る。
 空は青。いつもと変わらないように見えるけど、ここはもうアメリカの空だ。
(さあ! まずはメイク!)
 私は気合を入れ直した。



「おはよう、みどりさん。あれ? メイクしてるんだ」
「初ニューヨークなので……えへへ」
「そか。可愛い」
 私のメイクが終わる頃に目を開いた紫貴さんは、まず立ち上がって大きく伸びをしてから、私の顔を見た。そうして『可愛い』なんて、寝起きでもそんなことを当たり前みたいに言ってくれる。
(実質私の彼氏なのでは?)
 上目遣いで「よかったです」と高い声で答えてみる。しかし目一杯頑張った私のぶりっ子を、彼は眠たそうに目をこすっていて見ていなかった。彼は欠伸をしながら席に戻ると、申し訳なさそうに眉を下げてこちらを見る。
「ごめん。俺、寝るね」
「もう、ご飯配られますよ?」
「夜食もらったからいいや……。ごめん、着陸したら、また話そ……」
 それだけ言い残して紫貴さんはまた目を閉じた。彼の胸は深く上下している。深い呼吸、眠りの呼吸だ。
(本当に寝ちゃった)
 消灯後すぐに私は寝てしまったけど、紫貴さんは寝付けなかったのだろう。ならできるだけ寝かせてあげようと残りの搭乗時間、音を立てないように過ごした。その甲斐あってか紫貴さんは着陸の衝撃を受けるまでずっと眠っていた。何故それがわかるかというと、私は音を立てずに、彼が寝ていることをいいことにその横顔をずっと見ていたからである。
「寝顔見ないで、恥ずかしい」
 寝起きの彼はそう笑ってくれた。その笑顔が可愛くて、私もつい笑ってしまった。
 飛行機が止まるとすぐ、彼は私の荷物を棚から下ろしてくれた。さすがに断ったけれど、荷物まで持とうとしてくれた。
(優しすぎない? もしかしてめちゃくちゃ手慣れているのかしら)
 立って並んでみてわかったのだけれど、彼は私より頭二つ分ぐらい背が高く、意外と体格も良い。バンドのボーカルみたいな装いだから細いだろうと勝手な想像をしていたのだけれど、隣に立つと威圧感を感じる程度には身体が厚い。
(私の手荷物、軽々下ろしてくれたし、鍛えているんだろうなあ)
 鍛えられた体躯だからか、真っ黒なモッズコートに真っ黒なセーターに、真っ黒で艶っぽいパンツに、真っ黒なブーツ……カラスと言うか、中学二年生というか、アニメキャラみたいな服装がしっかり似合っていて、しかも格好いい。
(彼がイケメンだから許されるのか……それとも私が浮かれているからか……両方か)
 そんな失礼なことを考つつ、彼と並んで入国検査に向かった。彼はコートの前を合わせながら、欠伸をする。
「すごく寒いね」
「今日は最高気温がマイナス二度って言ってましたよ。今はマイナス十三度とか……」
「摂氏だよね? いやそれにしても、そんなに?」
「ニューヨークっていつもこのぐらい寒いわけじゃないんですか?」
「日にもよるけど、さすがに寒波かな。最近、こっちのニュース聞いてなかったから知らなかった。厚着しておけばよかったな」
 彼の服装で特に寒そうなのは首元だ。タトゥーに防寒効果はないから、そこから寒さが入ってくるのだろう。私は手荷物の中から、寒さ対策で入れていた大判のストールを引き出す。青と緑をベースとしたチェック柄のストールで、ユニセックスのデザインだ。
(これなら紫貴さんでも大丈夫よね) 
 差し出すと、彼は不思議そうにストールと私を見た。彼の目が伏せられると、そのつけまつげみたいに綺麗なまつげがよく見えた。瞼から頬に落ちる影までも、彫刻みたいに綺麗だ。
「どうぞ、紫貴さん。首に巻いたら少しは温かいと思いますよ」
「……貸してくれるの?」
「はい、物を貸すとまた会えるので」
「何、その可愛い下心。そんなの言われたら借りるしかないじゃん」
 彼はクスっと笑うと、ストールを受け取ってくれた。彼はストールをテキトーに首に巻く。モノトーンの彼の中でストールだけが色鮮やかだ。
「ウン、ありがと。温かい」
「良かったです。似合ってますよ」
「フフ、よかった。ハート柄だったら、半泣きで巻いてたよ」
「ハート柄でも身につけてくれるんですか?」
「マァ、みどりさんが可愛いこと言ってくれたから……なあに、嬉しそうな顔して。ずるい人だな」
 彼の右手が持ち上がり、ためらいがちに私の肩に触れた。コート越し、しかもほんの一瞬だから体温すらわからない。だけど初めて彼が私に触れてくれた。
(……少しも嫌じゃない)
 侵略おじさんとは大違いだ。彼の、伺いを立てるような躊躇う触れ方。そしてそれに対する私の感情。何もかも大違い。
 私は深く息を吸い、そっと、彼が巻いてくれたストールの先を一回つつく。
「よかったですね、私がユニセックステザインが好きな人で」
「ウン、よかった」
 私に触れられても、彼は少しも嫌そうではなかった。そのことにすごく、ホッとした。



「時間かかってたね、入国手続。混んでたの?」
 私の入国手続をベンチに腰掛けて待っていてくれた紫貴さんに、自分の英語力がポンコツ過ぎて別室送りになりそうだったと説明すると、彼はクスと品よく笑ってくれた。
「俺の見た目でも別室送りはあんまりないよ、大丈夫」
「紫貴さんの見た目だと大変なんですか?」
「マァ、パスポートの時と入れ墨の量が違うからね。違う人に見えなくはないかも。でも本当毎回『パスポートと違う』って言われるから、大変なんだよ。今のパスポート更新するまでは顔に入れられないなあ……本当は般若を入れたいんだ。こう、顔の全面に、格好いいでしょ?」
 彼はなんてことないようにとんでもないことを言った。
 私の入国検査もそれなりに時間がかかったけど、きっと彼ほどではないと思い直し、「旅行者の方は列が混んでました」と付け加えると、「寒い中、みんなよく来たね」と彼は穏やかに微笑んだ。その後、二人で預け荷物を受け取りに行ったが、レーンから出てくるまで時間がかかりそうだった。ぼんやりと周りを見てから、彼を見る。彼の手の中のパスポートは青色だった。
「青色ですね」
「ン? あぁ、パスポート? アメリカで発行したからね」
「あ、日本で発行してないんですね」
 彼は口元を人差し指で気まずそうに触った。
「……俺、日本と関わりがあるから和名もあるんだけど、日本国籍じゃないの。いや?」
「へ。嫌じゃないですよ! ア、日本語お上手ですね?」
 私の咄嗟の回答に彼はクスクスと品よく笑った。
「日本の人、すぐそれ言う。なんなの? 当たり前のこと言われても困るよ」
「ウ、だって日本語難しいじゃないですか、英語と全然違うから」
「人の口から出るものなら真似しやすいよ。猫の真似のが大変」
「にゃーお?」
「フフ、あざとい」
 そんなことを話しながら荷物を待ち続けていると、「この後、俺は税関だな」と彼は退屈そうに呟いた。
「みどりさんは税関、何かある?」
「何もないです、紫貴さんは?」
「酒と煙草。でも、他にも持ち込んでると疑われて、すごく時間がかかる。だからもう申告しないで通り過ぎようとしても捕まる……入国手続きで言っているのに、絶対にもう一回は捕まるんだ……」
「ワァ、苦労されてる……」
「俺が終わるまで待っていてくれる?」
 彼はあざとく首を傾げる。可愛いなあと思いながら、私は頷く。彼は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「むしろ、ちょうどいいですよ。私、その間にホテル探せますし」
「へ、ホテル? ……なぜ?」
「実は衝動のままに来たので、今日泊まるところも決まってなくて。急ぎ、近場で探そうと……」
「あァ。なんだ、そういう意味か」
「え?」
 彼を見上げると、彼はわざとらしく目をそらす。彼のその『気まずそうな』仕草を見て、少し考えて『意図』に気がつく。
「もし私が二人泊まれるホテル探したらどうされるんです?」
「……そりゃ、みどりさんに誘われたらホイホイついていくよ?」
 言葉を交わして、視線を交わして、お互いの好意の量を探り合う。多分今が一番、恋の楽しいときだ。
(そわそわして、ふわふわして、楽しい。紫貴さんもそうだといいけど……)
 頑張って、彼の左手の小指を掴んでみた。彼は一瞬体を震わせたが、ゆっくりと、私の手に指を絡める。彼の手は冷えていた。初めて感じる体温だ。
 私は彼を見上げて、ニッコリ笑う。
「シングルを探します」
「……ふうん」
「エ、怒りましたか?」
「怒ってないよ、拗ねただけ」
「その言葉のチョイスはずるくないですか?」
「マア、いいや。お薦めホテル教えてあげるよ。観光地アクセスしやすくて、日本語話せるスタッフがいて、治安よくてシングルが安いところ」
「エ、すごく助かります、ありがとうございます!」
「マァ、ダブルも安いけどね……」
「ウフフ」
「エ、ごめん、怒った?」
「怒ってないです、浮かれてるだけです」
「その回答も可愛すぎない?」
 ようやくレーンに荷物が流れ始めた。流れてきた彼のトランクはやはり黒で、おかしくて笑ってしまった。彼は私が笑った理由を聞くと「楽なんだよ、黒は」と苦笑した。
 その後、税関手続きで彼は本当に時間を要していた。
 その間に私は彼のお勧めホテルに連絡をすると、日本語で応対してくれるスタッフも在席にしてくれていたので、スムーズにシングルの予約が取れた。値段もマンハッタンの中心街に近いにも関わらず、それほど高くはない。とはいえ私の貯金をそこそこ食いつぶす額ではあった。
(ちゃんと考えなさいね、市村みどり。この恋にどこまで費やせるか、ちゃんと計算しないと……)
 浮かれる恋心に再度釘をさしつつ、彼を待った。
 


「送るだけでごめんね。本当は夕食一緒にとりたいんだけど……」
「いえ、すでに色々していただき過ぎなので。本当にありがとうございます。紫貴さんには助けてもらいっぱなしです」
 紫貴さんは税関で酷い目にあったらしく、出てくるときには心底疲れた顔をしていたけれど、私が待っているのを見た途端にパアっと花咲くみたいに笑ってくれた。
 彼は私のためにアプリでタクシーを呼んでくれ、同乗してホテルまで送ってくれた上に、チェックインも手伝ってくれたし、ベルボーイに荷物を渡すまで私の荷物を運んでくれた。
 そこまでしてくれた上で「でもみどりさんの初ニューヨークの初ディナー……ご一緒したかったな」なんて、私との別れを惜しんでくれるのだ。付き合ってもいないのに彼氏などよりよほど優しい。
(むしろ優しすぎて、怖い。このあと私、全財産むしり取られるのかしら)
 財産と呼べるようなものが私にないことを、紫貴さんはすでに勘づいているはずだ。私は無職で、何も考えずにプレミアムエコノミーをとってしまっただけの小市民。ロマンス詐欺に遭えないぐらいには金がなく、また借金できるほどの社会的な信頼もない。自分で言っていて悲しくなるが、紫貴さんがわざわざ騙すのであれば他にいい女はいくらでもいる。
(この人は絶対にモテるだろうし)
 見知らぬ女を助けてくれるぐらい優しいし、聞き上手だし、外見はタトゥーだらけというのも刺さる人には刺さるだろう。だから、きっと紫貴さんは女に困っていない。もっと言えば、紫貴さんと恋人になりたい人は私以外にたくさんいる。
(だから、『騙されるかも』なんて疑っている余裕はない。何にもないからこそ、私が頑張らないと。貰いっぱなしじゃ駄目よ、市村みどり。覚悟を見せなさい!)
 別れ難そうに、行きたくなさそうに私のマフラーの先をつつく紫貴さんの右手の指、その骨ばった男らしい手を『エイッ』と気合いを入れて、両手で握る。やっぱり冷たい手だった。彼の右手をあたためるように両手で包み、そっと息を吹きかける。
「お仕事、頑張ってください」
 顔が赤くなってる自覚はあった。だけど顔を上げて、彼を見て笑う。
 彼は目を細めて、私を見下ろしていた。嬉しそうというよりは苛立っている顔だ。さすがにやり過ぎだったかなと思っていると「ずるい人」と彼は微笑んだ。
(よかった、このぐらいは嬉しい範囲みたいだ)
 彼の右手を両手で握ったまま「えへへへ」とついついニヤつく。彼はそんな私の顔を「可愛い顔して」と笑ったあと、そっと私の両手から右手を引き抜いた。
「すっごく名残惜しいけど……ハア、なんで仕事入れたかな……あぁ、もう本当に名残惜しいけど、行かないと。みどりさん、明日起きたら連絡して。時差ボケで早朝に起きたとしてもいいから、すぐに」
 彼が私の肩を掴み、彼の胸に引き寄せてくれた。触れているのは肩だけだけど、彼の体温が伝わるぐらいには近い。彼は私の耳に口を寄せた。
「最初のモーニングはもらうから」
「えへへ」
 鼓膜を揺さぶる低い声が嬉しくて、またニヤついてしまった。彼はそんな私の反応に、「ずるいぐらい可愛い」と浮かれたことを言ってから、心底嫌そうにタクシーを呼び、仕事に向かっていった。彼の乗った車が見えなくなるまで見送ってから、ずっと待っていてくれたベルボーイの案内で予約した部屋に向かった。
 シャワーを浴びてから夕飯を食べようと思ったのだが、シャワーが水しか出なかった。慌ててフロントに電話をかけ「Please…… tell me how to put out ……hot water in the shower.お湯の出し方を……教えてください……」とやっていたらすっかり遅い時間。少し休もうと布団にくるまったら最後、翌朝の五時になっていた。
『最初のディナーを寝過ごしたので最初のモーニングにして初ニューヨークご飯です……』
 と情けなく、しかし約束した通り起床直後に紫貴さんにメッセージを送る。すぐに既読になり『時差ボケあるあるだよ』と返事をくれた。この時間に起きているということは、きっと紫貴さんも似たような状態なのだろう。
『迎えに行くよ。いい?』 
 一晩寝ても、まだ会いたい。一晩寝ても、まだ、会いたいと思ってくれている。
(……よかった)
 私は深呼吸をしてから、手持ちの中で一番可愛い服とメイクに身を整えた。よく寝たからか、浮かれているからか肌の調子はすこぶるいい。
「人生は一回きり。いつ終わるかわからない。だからこの街で、後悔するぐらいちゃんと恋をしよう。恥ずかしくても、怖くても、浮かれすぎちゃっても、いい。恋なんだから、みっともなくてもいい」
 後悔なんて今更だ。
「今日は絶対にキスをする。やるぞ、市村みどり」
 これがニューヨークでの初めての朝だった。



 ホテルのラウンジで彼を待っていると、外からガアンとすごい音がした。立ち上がって確認しようとしたら、スタッフに止められる。身振り手振りと聞き取れた単語から察するに、どうやら近くの店に車がつっこんだらしい。
(怖すぎ……。紫貴さん、大丈夫かしら。事故に巻き込まれてないといいけど……)
 ラウンジのソファーに腰掛け直すと、慌ただしいスタッフたちの横をすり抜けて彼が現れた。約束の五分前。
(ア、素敵)
 相変わらず真っ黒コーディネートだが、機内の服装と素材が異なるのは一瞬でわかる。そのままランウェイに出てもいいぐらい、決まっている。髪もちゃんとセットされている。昨日も格好良かったけど、今日の彼の方がキラキラしていた。
 彼は私を見ると、目を細めて「ウン」と頷いた。そして彼は右手を差し出してくれた。入れ墨だらけの右手に右手を重ねると、彼はクスクスと笑った。
「握手じゃ歩けないよ」
「ア! そ、アッ……すいませんっ」
 慌てて左手でつなぎ直そうとしたが、その前に彼の左手が私の右手を掴んでくれた。当たり前みたいに恋人繋ぎで、当たり前みたいに嬉しい。冷たすぎるその左手をぎゅうと握り返すと、彼が嬉しそうに笑いながら私を見てくれた。
「みどりさんが可愛い格好してくれて、嬉しい。どんな格好でも嬉しかったけど、俺の空回りじゃなくて安心した」
「……私も、一人で気合入ってなくて安心しました」
「俺、デート服も黒しかなくてごめんね?」
「ア、ハイ、いや、……ウン、デートでよかったです」
 彼の右手が私の左手に伸ばされる。ア、と思う前につかまって、彼の左腕に導かれた。彼の導きに便乗してピッタリと寄り添ってみると顔が熱くなった。彼が「嫌じゃない?」と聞いてきた。もちろん、嫌ではない。恥ずかしくて、嬉しくて、慣れないだけだ。そんな私の気持ちはきっと顔に出ている。二十五歳にもなって垢抜けていない自覚はあった。
 それでも、私は気合を入れて彼の腕を掴んだまま、赤くなっているであろう顔を上げて、彼と目を合わせる。
「私、デート服、これしか持ってきてないので、後で買います。そしたら、……またデートしてくれますか?」
 彼は目を丸くした。それから彼は私から目を逸すと、二回咳き込んだ。
「じゃあ、それは朝食の後ね。俺のための服なら俺が買うから」
「え、いや、そういうつもりじゃ……」
「なんで? 俺のためじゃないの?」
「そこじゃなくてっ」
「もう、わかったから。あんまり照れさせないで。俺、こういうの慣れてないんだよ、……早く行こう。コーヒー飲みたい」
 早口で早足になった彼に引っ付いて小走りでホテルを出る。ホテルの近くにパトカーや救急車が来ているようだった。
「ア、そういえばさっき事故があったみたいで」
「行こ。渋滞に巻き込まれると面倒だ」
「え、あ、はい……」
 彼は事故があった方を一瞥してから、そちらとは逆方向に歩き出した。
(なんだろう、やけに冷たいような……いや、デート前に渋滞に巻き込まれたくはないもんね)
 小さな違和感に目をつぶり、彼の隣を歩く。彼の冷たい手が私の体温に馴染むぐらい歩いた先に停められていた車は黒の高級車で、「また黒!」とつい言ってしまうと、彼は赤い頬で「好きなの、黒」と笑った。



「連絡先聞かれたときに詐欺だと思った」
 左ハンドルで運転する紫貴さんの横顔を見つめていると、不意に彼がそんなことを言った。文脈も何もない発言に「ヘッ?」と返すと、彼はニヤリと悪役みたいに笑う。
「でも詐欺なら、こんな蛇を相手にしたのは失敗だったよ。絶対後悔する」
「蛇?」
 タトゥーだらけの彼は「俺。模様が蛇っぽいってよく言われる」と冗談とも本気ともとれることを言って、笑う。その皮肉っぽい笑顔に「もっとその蛇のこと知りたいです、捕まえたらわかるんですか?」と返した。彼はム、と黙ってから、チラ、と横目で私を見た。私も同じ顔をしてミラー越しに見返すと、彼はフンと鼻を鳴らした。
「絶対にロマンス詐欺。これから俺はみどりさんに金を搾り取られるんだ」
 思わず笑ってしまうと、彼はムムとした顔で「マア、それでも楽しいからいいんだけどさ……」と、やはり冗談なのか本気なのかよくわからないことを言う。
(紫貴さんに言われる台詞じゃないでしょ)
 私は腕を組んで、フン、と彼を真似て鼻を鳴らした。
「そんなこと言うなら紫貴さんこそ、モテるのに私なんかとデートしてくれてるのって、どう考えても裏があるじゃないですか……」
 紫貴さんは怪訝そうに目を細める。
「ン? エ? エ、俺がモテると思ってるの?」
「エ、ハイ」
「ははは……」
 乾ききった笑いだった。意味が分からず「エ?」と聞き返すと、彼は「はぁー……」と深く息を吐く。それから、乱暴に左手で右腕のシャツをまくりあげた。
 晒されていた指と同様に、無秩序に、言われてみればたしかに蛇の模様のようなタトゥーの群れがそこにはあった。その模様の奥には筋張った鍛えられた腕が見えて、『やっぱりモテそう』と私が思っていると、彼は「ありえないでしょ」と皮肉っぽく笑う。
「説教されたり、十字切られたりはよくあるけど……連絡先なんて聞かれない」
「『そういうの』が好きな人はたくさんいらっしゃるでしょう?」
「『こういうの』が好きな人は、俺みたいなやつは好きじゃないから、そっちにはそっちでモテない」
「……どういうことですか?」
 彼は「俺、好きな子には優しくしたいし、優しくされたいから」と当たり前のこと言って、皮肉っぽく笑う。
「何がいけないんです。好きな人には、みんな優しくしたいし、優しくされたいでしょう?」
「みどりさんはそうなんだね、よかった」
 サラッと彼はそう言った。まだ一度も食事もしてないのに、好きだとも言っていないのに、サラッと言ってしまう。
「……そういうところ、詐欺みたい」
「こっちの台詞」
「だって、いいんですか? 私、本気にしますよ?」
「それも俺の台詞。本気にさせていいの? 怖いよ、俺。見たらわかると思うけど」
 本当に心から『私が騙してる』と思っているのか、諦めた様子で「傷つけないでね」なんて彼は笑ってしまう。たまたま彼の周りの人々の目は節穴ばかりで、だから彼が誰にも見つかってない……、そんな私にとって都合のいいことがあるなら最高だ。
(そんなことあるわけないじゃん)
 でも、そう思って、だから無理だと諦めて動かなかったら、今、こんな風に助手席には座ってない。こんな近くで彼の笑顔は見られていない。あの機内で何もしなかったら、……しない後悔より、する後悔、……私はそう決めたのだ。
(騙されていても、いい。後悔する覚悟はしたんだ)
 赤信号で車が止まる。
「そういえばモーニング、俺のおすすめの店で……」
 彼の言葉を聞かずに、彼の肩に手を添えて、頬にキスをする。勢いが良すぎて、彼の頬と前歯がガチンとあたってしまった。
(すごい音、した……)
 唇を離し、ゆっくりと離れる。彼もゆっくりとこちらを向く。本当に驚いた顔をしていた。私はきっと真っ赤だろう。
「自分から人にキスしたの初めてで……海外ドラマみたいに、上手くできなかったですね……」
「……ア、……ウン」
「何ですか、その、気のない返事……」
 沈黙の中、信号が青になり、クラクションが鳴る。彼は「あぁ、……」と呟いてから車を発進させ、信号を渡った。私は全身が心臓になったみたいで、頭の奥からバクバクと音がして、膝も震えてしまう。膝の上においた手は勝手に拳の形になってしまって、俯いたら視線をもうあげられなくなってしまった。
 でも、……キスはした。
(やった! キスした! 嬉しい!)
 単純にそう喜ぶのはきっと下心。
(絶対にやりすぎ! はしたない! 何してんの、ばか!)
 そう叫んでいるのは、きっと理性。
(嫌わないでほしい、好かれたい、興味を持ってほしい、もっと、……欲しがってほしい)
 そう祈っているのはきっと恋心。
(もうだめ、泣きそう)
 そしてそんな心を支えきれなくて、体がパンクしそうだ。泣きたくないのに涙が込み上げてきて、笑うところじゃないのに笑いたくて、でも結局何もできなくて歯が震えてしまう。耳の奥がジンジン痛みだしたとき、――車が止まった。
「みどりさん」
 エンジン音が消えて、彼の低い声がよく聞こえる。
「ごめん。俺、酷いこと言ったね」
 (そうだ)と私の中で声が響いた。下心も理性も恋心も、みんなそう言った。――そうだ、酷い――私は、怖くてもこんなに頑張ってるのに――冷たい彼の手が頬に触れる。うながされ、ようやく視線をあげられた。
 彼はちゃんと私を見ていた。
「君に惹かれてる。だから、俺のことを知ってほしい。これから俺がピアノ弾いてる店に連れていくし、時間があるなら俺のピアノも聞いてほしい。……本当は、今すぐどこかに連れ込んでキスしたい。……だから本気にして。俺も、本気にする」
 彼が私に顔を寄せる。
 彼の唇が、私の唇に触れ、――る前に逸れ、私の頬に触れた。彼の顔が離れ、手が離れ、彼は左手で顔を隠した。
「ごめん、……、俺、その……今、一杯一杯で……」
 彼の顔が真っ赤だった。
 私ももう耐えきれず、顔を覆って呻いてしまった。
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