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湖畔に行く男と女
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月明かりが、ゆったりと落ちていた。
夜の散歩には最適だ、と一ノ宮は思った。
リーリーと鳴く虫の声が聞こえる。それだけで真夏らしさは失せて、早すぎる秋の気配を感じ取る。
「どこまで行くんだよ」
数歩、後ろを歩いている六人部が訊いた。
「せっかくだし、『人魚』のいる湖でも見てみようかと思って」
新しいタバコに火を点けて、瑠璃色の空に煙を放つ。紫煙が月の淡い光と合わさって、幻想的な光景だった。
「おい、タバコ吸いすぎだぞ」
煙と戯れる一ノ宮に、六人部が諫言した。
うっとうしい。
一ノ宮はうんざりした。
「仕方ないじゃない。職業病みたいなもんよ。――二十七にもなってぶりっ子で通しているあの三井も、今ごろ部屋でスパスパやってるわ」
「ゲ、あいつハタチっつってたのに、二十七だったのかよ?」
「そうよ。アタシより三つもババァ。いい加減、本気で目障りだわ」
忌々しげに一ノ宮がフィルターを噛んだ。
さぁっと風が吹くと、水の匂いが漂ってきた。
いつの間にか、件の湖の前まで来ていた。なるほど、池と呼ぶには大きいが、思ったよりは小さい。
黒い水面の湖は、魚も虫も微生物もいないような――あるいは死に絶えたかのように、シンと静まり返っていた。
『人魚』の住処、という曰く付きの場としては上々だ。
月明かりは湖底まで届かなさそうで、今にも得体の知れない何かが腕をにょきっと出して、飛んでいる鳥や虫、もしくは縁辺にいる食料――すなわち人間を、無慈悲に引き込みそうだった。
「気持ち悪」
そう言って、一ノ宮は吸い殻を水面に投げつけた。
ゆらり、と見下ろしている自分の姿が揺れる。
「お、天下の一ノ宮サマも、さっきの話思い出してビビってる?」
六人部がからかってきた。
「あんなの眉唾に決まってるじゃない。確かに、一瞬雰囲気に呑まれたけど。やっぱり本物の美形は迫力が違うわね」
「何だよ。もしかして大和クンとやらのこと、狙ってんの?」
「んなわけないでしょ。あの子、十六歳だって言ってたじゃない」
ガキには興味ないわ、と一刀両断する傍ら、一ノ宮はふと思い当たった。
十六歳といえば、弟と同い年だ。
ますますそういった対象に見るわけにはいかない。だが、そんな真っ当な精神をこの男に話すつもりはなかった。どうせ理解されないだろうから。
「オレ、妬いちゃうかもよ? 一ノ宮チャン」
言いながら、六人部は一ノ宮の腰に手を回し、口唇を寄せてきた。
巧みなキスだった。女の情欲を煽る術を、この男は身につけている。悔しいがそれだけは確かだ。
「な、明日の前に……ちょっとだけいいだろ?」
六人部が尋ねてくる。鼻息が荒い。
「……アレ持ってる?」
一ノ宮が、六人部の耳元で囁く。彼が怯んだ気配がした。
「ナシじゃダメ?」
「何言ってんの。常識でしょ」
トン、と一ノ宮が六人部の肩口を押して、身体を離した。無いなら絶対にやらない、と強固に態度で示している。
「……持ってくるから、どっか行くなよ。絶対だぞ」
「はいはい、早く戻ってきてねダーリン」
絶対だぞと再度念押しして、六人部がログハウスに戻った。
その後ろ姿を見ながら、一ノ宮は嘆息した。
少々面倒だが仕方がない。
残業だとでも思おう。
新しいタバコを銜えて、ライターを点火する。その時、羽虫が彼女の鼻先に飛んできた。反射的に振り払うと、
「熱っ!」
ライターの火が指先に当たり、思わず放り投げる。
右手の人差し指が熱を帯び、じくじくとした痛みが生じた。
一瞬ためらったが、彼女は湖に指を突っ込んだ。身体が資本である職業の身としては、火傷のひとつも許されない。
冷たい水に浸していると、徐々に痛みが治まってきた。痕になりませんように、と願いながら、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。
液晶画面に、パッと待受画像が映る。
母親と弟妹との家族写真だ。今年の春、満開の桜の木の下で撮った。変顔をしている高校生の弟に、何度見ても癒され、笑ってしまう。
一ノ宮が高校生の頃だ。父親が蒸発した。
しばらくは母親が踏ん張っていたが、まもなく身体を壊して外で働けなくなった。
一ノ宮は迷わず高校を自主退学し、一家の大黒柱となった。
母親に充分な治療を受けさせたいし、弟妹を本人たちが望んだとおり大学まで行かせてやりたい。それには多額の金が必要だった。
だからこそ彼女は、今の仕事を選んだ。
(……にしても、あの志知七虹って子、大丈夫なのかね)
脳裏に、今日初めて会った、ショートボブでいかにも大切に育てられたお嬢さんといった女の姿が浮かぶ。
明日、何がするのか――何が起こるのか、彼女は本当に理解しているのだろうか。
そんな余計なことを思った。
一ノ宮は長い間『姉』をやってきたので、自分より年下の人間を、つい心配する癖があった。
……まぁこんなところまでノコノコやってきたような女だ。
多少怖い目に遭っても、自業自得というものだろう。
何より一ノ宮に、自分以外の人間を考慮してやる余裕は無い。
今考えるべきことは、明日がつつがなく終わって、事前に知らされていたなかなかいい額のギャラを無事にもらえるかどうかだ……。
指先の具合を見るために、水から引き上げた。触れてみると少しピリリと痛むが、大事ないようだった。
その時だった。
さわ、と木々が揺れた。無数に近い葉がざわめいた。雲が流れ、月が隠れる。淡い光が消える。
……無音、だった。
さっきまで確かに聞こえていた虫の合唱も、消えた。すべての虫が一瞬で息絶えてしまったかのように。
生ぬるいようでひややかな空気が、一ノ宮のうなじを、そわり、と撫でた。
何だろう。
妙な感じがした。何か、何かがいるような。そんな気配がする。
「六人部……?」
言いながら、違う、と思った。
六人部ならこんな気配はしない。
というか、他の誰でもない。
……ちゃぷん。
水音が、ふいに立った。ささくれだった神経が、そんな些細な音すら不愉快なものとして拾う。
じわりと嫌な汗が肌に滲んだ。と同時に、鳥肌が立った。まとわりつくような奇妙な気配を振り払おうと、一ノ宮が立ち上がった時だった。
目の前がまっくらになった。
さぁっと雲が晴れて、月が辺りを明るく照らした。
大きくて黒いものが眼前にある。一ノ宮の額ほどの高さの位置には、白いような茶色いような小石みたいなものがズラッと並んでいた。それを一ノ宮は上目遣いで捉えた。
「は……?」
――『歯』。
一ノ宮の最期に言葉を、漢字に変換するならそれだった。彼女は次の瞬間、全身をまっくらに呑まれた。
夜の散歩には最適だ、と一ノ宮は思った。
リーリーと鳴く虫の声が聞こえる。それだけで真夏らしさは失せて、早すぎる秋の気配を感じ取る。
「どこまで行くんだよ」
数歩、後ろを歩いている六人部が訊いた。
「せっかくだし、『人魚』のいる湖でも見てみようかと思って」
新しいタバコに火を点けて、瑠璃色の空に煙を放つ。紫煙が月の淡い光と合わさって、幻想的な光景だった。
「おい、タバコ吸いすぎだぞ」
煙と戯れる一ノ宮に、六人部が諫言した。
うっとうしい。
一ノ宮はうんざりした。
「仕方ないじゃない。職業病みたいなもんよ。――二十七にもなってぶりっ子で通しているあの三井も、今ごろ部屋でスパスパやってるわ」
「ゲ、あいつハタチっつってたのに、二十七だったのかよ?」
「そうよ。アタシより三つもババァ。いい加減、本気で目障りだわ」
忌々しげに一ノ宮がフィルターを噛んだ。
さぁっと風が吹くと、水の匂いが漂ってきた。
いつの間にか、件の湖の前まで来ていた。なるほど、池と呼ぶには大きいが、思ったよりは小さい。
黒い水面の湖は、魚も虫も微生物もいないような――あるいは死に絶えたかのように、シンと静まり返っていた。
『人魚』の住処、という曰く付きの場としては上々だ。
月明かりは湖底まで届かなさそうで、今にも得体の知れない何かが腕をにょきっと出して、飛んでいる鳥や虫、もしくは縁辺にいる食料――すなわち人間を、無慈悲に引き込みそうだった。
「気持ち悪」
そう言って、一ノ宮は吸い殻を水面に投げつけた。
ゆらり、と見下ろしている自分の姿が揺れる。
「お、天下の一ノ宮サマも、さっきの話思い出してビビってる?」
六人部がからかってきた。
「あんなの眉唾に決まってるじゃない。確かに、一瞬雰囲気に呑まれたけど。やっぱり本物の美形は迫力が違うわね」
「何だよ。もしかして大和クンとやらのこと、狙ってんの?」
「んなわけないでしょ。あの子、十六歳だって言ってたじゃない」
ガキには興味ないわ、と一刀両断する傍ら、一ノ宮はふと思い当たった。
十六歳といえば、弟と同い年だ。
ますますそういった対象に見るわけにはいかない。だが、そんな真っ当な精神をこの男に話すつもりはなかった。どうせ理解されないだろうから。
「オレ、妬いちゃうかもよ? 一ノ宮チャン」
言いながら、六人部は一ノ宮の腰に手を回し、口唇を寄せてきた。
巧みなキスだった。女の情欲を煽る術を、この男は身につけている。悔しいがそれだけは確かだ。
「な、明日の前に……ちょっとだけいいだろ?」
六人部が尋ねてくる。鼻息が荒い。
「……アレ持ってる?」
一ノ宮が、六人部の耳元で囁く。彼が怯んだ気配がした。
「ナシじゃダメ?」
「何言ってんの。常識でしょ」
トン、と一ノ宮が六人部の肩口を押して、身体を離した。無いなら絶対にやらない、と強固に態度で示している。
「……持ってくるから、どっか行くなよ。絶対だぞ」
「はいはい、早く戻ってきてねダーリン」
絶対だぞと再度念押しして、六人部がログハウスに戻った。
その後ろ姿を見ながら、一ノ宮は嘆息した。
少々面倒だが仕方がない。
残業だとでも思おう。
新しいタバコを銜えて、ライターを点火する。その時、羽虫が彼女の鼻先に飛んできた。反射的に振り払うと、
「熱っ!」
ライターの火が指先に当たり、思わず放り投げる。
右手の人差し指が熱を帯び、じくじくとした痛みが生じた。
一瞬ためらったが、彼女は湖に指を突っ込んだ。身体が資本である職業の身としては、火傷のひとつも許されない。
冷たい水に浸していると、徐々に痛みが治まってきた。痕になりませんように、と願いながら、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。
液晶画面に、パッと待受画像が映る。
母親と弟妹との家族写真だ。今年の春、満開の桜の木の下で撮った。変顔をしている高校生の弟に、何度見ても癒され、笑ってしまう。
一ノ宮が高校生の頃だ。父親が蒸発した。
しばらくは母親が踏ん張っていたが、まもなく身体を壊して外で働けなくなった。
一ノ宮は迷わず高校を自主退学し、一家の大黒柱となった。
母親に充分な治療を受けさせたいし、弟妹を本人たちが望んだとおり大学まで行かせてやりたい。それには多額の金が必要だった。
だからこそ彼女は、今の仕事を選んだ。
(……にしても、あの志知七虹って子、大丈夫なのかね)
脳裏に、今日初めて会った、ショートボブでいかにも大切に育てられたお嬢さんといった女の姿が浮かぶ。
明日、何がするのか――何が起こるのか、彼女は本当に理解しているのだろうか。
そんな余計なことを思った。
一ノ宮は長い間『姉』をやってきたので、自分より年下の人間を、つい心配する癖があった。
……まぁこんなところまでノコノコやってきたような女だ。
多少怖い目に遭っても、自業自得というものだろう。
何より一ノ宮に、自分以外の人間を考慮してやる余裕は無い。
今考えるべきことは、明日がつつがなく終わって、事前に知らされていたなかなかいい額のギャラを無事にもらえるかどうかだ……。
指先の具合を見るために、水から引き上げた。触れてみると少しピリリと痛むが、大事ないようだった。
その時だった。
さわ、と木々が揺れた。無数に近い葉がざわめいた。雲が流れ、月が隠れる。淡い光が消える。
……無音、だった。
さっきまで確かに聞こえていた虫の合唱も、消えた。すべての虫が一瞬で息絶えてしまったかのように。
生ぬるいようでひややかな空気が、一ノ宮のうなじを、そわり、と撫でた。
何だろう。
妙な感じがした。何か、何かがいるような。そんな気配がする。
「六人部……?」
言いながら、違う、と思った。
六人部ならこんな気配はしない。
というか、他の誰でもない。
……ちゃぷん。
水音が、ふいに立った。ささくれだった神経が、そんな些細な音すら不愉快なものとして拾う。
じわりと嫌な汗が肌に滲んだ。と同時に、鳥肌が立った。まとわりつくような奇妙な気配を振り払おうと、一ノ宮が立ち上がった時だった。
目の前がまっくらになった。
さぁっと雲が晴れて、月が辺りを明るく照らした。
大きくて黒いものが眼前にある。一ノ宮の額ほどの高さの位置には、白いような茶色いような小石みたいなものがズラッと並んでいた。それを一ノ宮は上目遣いで捉えた。
「は……?」
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