原罪神父

鳥谷綾斗(とやあやと)

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1.〈憤怒〉の境界線

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 日曜礼拝が終わると、穏やかな春の陽射しで満たされた礼拝堂はやにわに騒がしくなった。

「神父さま、今日も素敵なお話をありがとうございました」
「心が洗われるようでしたわ」

 参加者たちが口々に神父への礼を述べる。皆一様に瞳を潤ませ、声を弾ませて。
 娘の由仁ゆにの言ったとおりだ、と雁井かりいは思った。

 この町の小さな憩いの場――ポモナ教会の神父さまは、噂どおりの見目麗しさで、聖書のメッセージを話す説教も川のせせらぎのように心地よく、人々から慕われるのも納得がいった。参加者は女性が多いが、子どもや老人、雁井と同じ四十代後半と思しき男性もいる。
『美しい』という概念は万人の心をつかむものだ。
 十四年前、雁井が妻の美しさに惚れたように――

 多津乃たつの
 雁井は妻の名前を胸の中で呼んだ。
 由仁。
 雁井は娘の名前を胸の中でつぶやく。

 腹の底から苦しさがわきあがり、雁井は項垂れ、頭を抱えた。自らの葛藤に没頭する雁井の耳には、神父が花壇を荒らしたのは誰かと言う問いかけから始まる一連の会話はほとんど届かなかった。
 礼拝堂内がようやく静けさを取り戻した時だ。

「どうかされましたか?」

 頭上から落ちてきた声に、雁井は雷に打たれたようにさっと面を上げた。
 例の神父――日生と言ったか――が、雁井の隣で佇んでいる。

「あ……神父さま」
「ご気分がすぐれないのでしたら、奥で休まれますか」
「い、いえ。大丈夫、です」

 条件反射で嘘をついたが、顔色が悪く、声が弱々しいのは自覚していた。
「そうですか」
 しかし日生神父は嘘を追及せず、雁井の隣に座った。至近距離でその整った顔貌を目の当たりにし、雁井は気後れした。
 日生神父は何も言わず、ただ目を、黒縁眼鏡の奥にある少し虹彩の色が薄い双眸を雁井に向けた。

 雁井はギクリとした。
 何だろう、この目は。
 完璧な円球の硝子玉のようなのに、どこか異質さを感じる。
 恐ろしさを感じる。

 だが雁井は、その目に突き動かされるようにして口を開いてしまった。

「神父さま、……告解をしていただけませんか」

 天窓から麗かな陽光が差し込んでいた。天からの恵みのおかげで礼拝堂内はひどく明るい。
 ふいに天窓の外に白い鳥が止まった。
 白いはずのその姿は、磨き上げられた床に黒く大きく影を落とす。
 完璧な静寂に守られた場で、迷える黒い仔羊は胸の裡を明かす。


「実は先月、十三年連れ添った妻が家を出まして」
「離婚、ということですか」
「いいえ。蒸発です」

 雁井の言葉に、日生神父の眉がぴくりと動く。
 雁井は懐から一枚の写真を取り出した。常にパスケースの中に入れている、家族三人で伊豆に旅行に行った際に撮った記念写真だ。

「これが妻の多津乃です」
 日生神父に教えると、彼は「素敵な方ですね」と返した。ほんの少しだけ嬉しかった。
「ええ。夫の私が言うのもなんですが、美人で……と言っても派手ではなくて、野花のような魅力を持つ女です。よく気のつく良妻でしてね、出張が多くて家を空けがちな私にいつも尽くしてくれました」
 雁井の指先が、多津乃の顔にそっと触れる。
「私の一目惚れから始まり、求婚して結婚してから十三年、幸せな家庭を築いてると思っていました。ーーですが」

 グシャ

 雁井の手が、写真を握り潰した。

「まさか、あんなことを隠していたなんて……!」
 雁井は声を絞り出した。手からしわくちゃになった写真が落ちる。
 日生神父はそれを拾い上げた。夫婦に挟まれ、幸せそうに笑う少女の姿が、歪んでいる。

「娘さんーーですね」

 平凡だが幸せな家族の思い出のひとかけら。そんな写真を見つめ、神父は言った。断定に近かった。
 雁井が頷く。

「娘は……私の子どもではなかったのです」
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