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65.お怒り胡蝶蘭

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「ジブンな、胡蝶蘭が好っきやねん」

 新しい建物の匂いがする食堂で、Eさんはそう言った。

 ホラー映画の新作を撮るための軍資金稼ぎに、今日も今日とておれはバイトに精を出していた。
 通販会社の在庫整理の短期バイトだ。
 大阪在住のおじさんの伝手だけど、案の定、社長のEさんもコッテコテの大阪人である。

 Eさんはおれの壮大なる目標――『我が手で第二次Jホラーブームを作り出す』をおじさんから聞いたそうで、「今時珍しくアホ……やのうて気骨のある若造やな!」と一瞬でおれを気に入ってくれた。
 ちょくちょく飯を奢ってくれるようになり、今も会社近くにある改装したばかりの食堂で昼飯なう(古い)。

 すると。
 玄関口にある胡蝶蘭の鉢植えを見て、唐突にEさんは語り出した。

「胡蝶蘭以上に目立って、ごっつい存在感の花ある? ないやろ? コタローよ、五万十万する胡蝶蘭見たことあるか? あっこにあるショボイやつちゃうで。あれはせいぜい一万円や」

 確かに小ぶりだけど、それは失礼ぶっこき丸だろ。

「圧倒されんで。威厳さえ感じられて、まさに花の女王や」

 Eさんによると、胡蝶蘭は専門店があるとのこと。
 昔から馴染みの店があり、Eさんは会社の取引先だけでなく友人知人の慶事にも大きな胡蝶蘭を贈った。

「社屋とかやとエントランスに祝花ブワー並べるやん? それのセンターには、絶対にジブンの胡蝶蘭が配置されてんよ。一番立派やったからな」

 胡蝶蘭をアイドルみたいに言うじゃん。

「それ以外の花なんぞ霞ませるほど、胡蝶蘭は完璧やったんや」

 完璧な美しさを誇る花。
 それを他者に与えられる自分。

 その両方の事実にうっとりして、Eさんはせっかく注文した熱々のかた焼きそばの存在すら忘れる。
 おれは適当に相槌を打ちながら、トロトロの餡がかかった野菜を頬張った。

 なんでこんな話になったんだっけ。
 そうだ。おれが「実際に起こった怖い話をよく聞く」って言ったからだ。

「――でもな」

 ふいに、Eさんの表情に影がさした。
 おれの箸が止まる。
 予感がした。

 ホラーの、予感。


「何年か前にな、母の日にオカンにも胡蝶蘭贈ってん」

 Eさんの実家は、小さな小売店を営んでいたそうだ。
 普通のカーネーションではなく、豪華な胡蝶蘭なら客との会話も弾むだろう。そんな親孝行な考えからだった。

「いっちゃんデカくて真っ白なやつやった。十万はしたなぁ」

 母の日当日。
 Eさんはお母さんの店を訪れた。

「狭い店内やから、出入り口付近にある棚の上に置こうってことになった。スペースを空けて花の到着を待ってたら」

 お母さんが電話で席を外した直後、配送業者が胡蝶蘭を運んできた。
 ひと抱えほどもあるそれをどうにか棚の上に置いて、保護用ボックスを外す。

 Eさんは息を呑んだ。

 覆い被さるような大きさのそれは、誰もが目を奪われるほど美麗だった。さながら高貴な鶴が翼を広げたような。
 これなら絶対にお母さんが喜んでくれる――小学生みたいな嬉しさがEさんの胸中に広がった。

 ところが。

「何かの拍子で……爪で、うっかり花を引っ掻いてもうてん。よりにもよって中央一列目、まさに花形の花に」
「うわ、最悪っすね」

 センターの花に無惨な傷が入った。
 Eさんは大いに焦った。イタズラして皿を割ってしまった小学生のように。

「つい『隠さな!』って思ってしもてん。我ながらガキやわ。怒られるとでも思たんかな」
「んー、お母さんのがっかりした顔を見たくなかったんじゃないっすかね?」
「せやろか。……まあ、どっちにしろその後の行動がヤバかってんよ」

 オロオロしているうちに、電話を終えたお母さんが戻ってくる気配がした。
 Eさんはとっさにスマホを取り出して――

「『ちょっと! お宅で買った胡蝶蘭、花びらに傷が入ってたんやけど!』……って、花屋に電話して怒鳴りつけてしもた」

 へへへ、とEさんは卑屈な笑みを浮かべた。

 花屋は当然、「そんなはずはない!」と反論したらしい。
 だがEさんももはや引き下がれない。
 お母さんが戸惑うほどの剣幕で偽物のクレームをカマし、とうとう花を交換させた。

(大阪人怖ぇ~~)
 いやこれ風評被害だわ。やばいのは大阪人ではなくEさんだ。お詫びして訂正します。

 気の良いおっちゃんだと思ってたのに。
 なんとなく、かた焼きそばが喉を通りづらくなった。

「そん時はそれでおしまいやったんやけど、……あとで、問題が起こったんや」
「問題?」

 おれの耳がぴくりと動く。

「ジブンが胡蝶蘭を送った人らが、次々と不幸に見舞われてん」
「えっ?」
「病気になったり怪我したり、商売が行き詰まって不渡を出したり」

 そんなことが続いて、トドメのひと刺しは実家で起こったと言う。
 母の日に、嘘をついて交換させた胡蝶蘭。

「ずっしり重い鉢植えが、触ってもないのに棚から落ちたんや。オカンは無事やったけど、同居していた妹がな……割れた破片で怪我してしもて」

 はあ、とEさんがため息をつく。

「たぶん、怒りを買ったんやろな。胡蝶蘭ていかにもプライド高そうやし」

 Eさんが頬杖をついて、食堂の出入り口に置かれた小ぶりの胡蝶蘭を見やる。

「今度新しく会社を立ち上げんねんけど、お祝いは胡蝶蘭以外にしてくれって方々に言ってんねん」

 Eさんは悪びれもせずに笑い飛ばした。
 おれは、こういう場面に最適の返答――『何も答えずに曖昧な笑みでごまかす』を選択して、かた焼きそばの残りをかきこんだ。


 ところが、最後に。


「おおきに、ごっそっさん――うわぁ!」

 お代を支払って店を出ようとした時、Eさんが出入り口ですっ転んだ。

「な、なんや? 何もないのに転んだで……痛っ! 痛たたっ、嘘やんギックリ腰やー!」

 地面で七転八倒するEさん。泡食いつつもEさんを助け起こすおれ。

 けれど視界の端に、それは映り込んだ。

 胡蝶蘭の花が風もないのに揺れている。
 優雅なその舞いはまるで――「してやったり!」と喜んでいるようだった。
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