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19.四つ辻の女

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 うちの中学校の通学路にある十字路に、四秒以上留まってはいけない。
 そして振り返ってはいけない。
 もしも振り返ったら、……。

 スマホの画面の向こうで、詠美えいみがわざとらしく恐ろしげな声音でそんな話ーーいわゆる怪談を話す。
 夏休みが終わり、始業式を迎えた日の夜。
 夕飯のあと、あたしはリビング横の和室で勉強するふりをして親友の由希奈ゆきなと詠美とグループ通話をしていた。引き戸を隔てたキッチンから、お母さんが食器を洗う音が聞こえてくる。
 なんでこんな話になったんだっけ? ああ、夏休みは受験生だからロクに遊べず、さりとて勉強が捗ったわけでもない(だってやる気が死んでたんだもん)我が身を嘆いてたんだっけ。
 中学校最後の夏休みだったのに夏っぽいこと何もできなかったよー、なんて由希奈が泣き真似したから詠美が話し始めたんだ。

「夏といえば怖い話って、安直すぎん?」
『だまらっしゃい、未春みはる。で、詠美。振り返るとどうなるの?』
『髪の長い女の幽霊が、真後ろに立ってるんだって』
『ヒャーー』
『しかもその女の姿を見たら、取り憑かれるんだって』
『ヒャーー』

 由希奈が悲鳴モドキを上げる。あーうるさい。オーバーなリアクション芸はテレビや動画の中だけでいいっての。
 由希奈があまりにも「こわーい、ぴえーん」なんて可愛こぶるものだから、

「じゃあさ、明日試してみようよ!」

 あたしは思わず、そう提案していた。
 ぴたっ、と静寂が通る。

『……えー、でもぉ』
『やばくない?』

 由希奈も詠美も言葉だけは遠慮してた。言葉だけは。けれどその声音は、ぬるい期待を滲ませて、満更でもないのだと分かる。
「いーじゃん! 夏の思い出だって」
 最後の一押しを放つ。勉強一色に染められた毎日を送る、思い出と何より刺激に飢えた受験生。たいていこれで落ちる。
『……そうだよねー』
『たまには息抜きも必要だよね!』

 ほーらね。
 あたしの思惑どおり二人は乗ってきて、さっそく詳細を決めた。
 明日は学校の短縮授業が終わったら、それぞれ塾の九月講習だ。それが終わった夕方六時半に神社前に集合。例の通学路の十字路に近い場所で。

 内容はアレだけど、久々に友達と遊べる。なんだかあたしもワクワクしてきて、

「明日さ、コンビニ寄って新作のアイスも食べ」
「ーーやめとけよ、ねーちゃん」

 急にそんな声が頭から降ってきた。畳にうつ伏せに寝転がっていたあたしは、ガバッと起き上がる。

榛音はるね!? あんたいつの間に……ノックくらいしなよ!」
『はるね? えっ、弟くんいるの?』

 由希奈の能天気な声。ひとつ下の弟・榛音は、いつもの仏頂面であたしを見下ろす。腕組みをして、えらそーに。

「やめとけよ。『四つ辻の女』を見に行くなんて」
「よ、四つ辻……?」

 何それ?

「十字路のこと。古来から、道が交わった四つ辻は、幽霊が出やすいって言われてて」
 榛音がクドクド説明しだす。一瞬でウンザリした。このオカルトオタクめ。
「ごめん、一旦切るね」
 二人に断って通話を切ると、あたしは榛音を睨みつける。
「どーいうつもりよ。ヒトの楽しみの邪魔してさ」
 なのに榛音は動じない。
「楽しみ? 幽霊を見に行くことが?」
「バッカみたい。幽霊なんかいるわけないじゃん。ただあたしは友達と」
「オモイデヅクリとやらなら無難にマックなりタピオカ屋なりにしろよ。オレ、何百回も言ってるよな? 心霊スポットは危険だって!」

 ああ、また始まった。
 榛音は自称『霊能力者』だ。小さい頃から、しきりに幽霊が見えると訴えてきた。
 でもあたしは信じてない。コイツはただ、お母さんや周りの大人の気を引きたくて法螺を吹いているだけだ。そうに決まっている。
 だってあたし、幽霊なんて見たことないもん。

「ねーちゃんには分からなくても、この世には科学じゃ説明できねーことがあるんだよ!」

 あーうるさいうるさい。コイツはいつもそうだ。家族で旅行に行った時も、この宿にはお化けがいる、この山道は怖い、頭が痛いと駄々をこねまくった。そのせいで、うちは旅行やお出かけに縁遠い家になったーー積もりに積もった恨みが爆発しそうになる。
 けれど言い返そうとした時、
「未春ー? 榛音ー? 何騒いでるのー?」
 キッチンからお母さんが声かけてきた。あたしは咄嗟に「何でもない」と返して誤魔化す。榛音との言い争いを見られたら、問答無用であたしが悪者にされるからだ。
 榛音は舌打ちして、
「オレは忠告したからな。絶対にやめとけよ」
 そう吐き捨てて、引き戸を乱暴に閉めた。
(誰がやめるもんか!)
 あたしは心の中で舌を出した。


 翌日の夕方。やっと昼間のえげつない暑さがこころもち引いた頃。
 塾が終わると、即神社に向かった。最近、日の入りがほんの少しだけ早くなった気がする。それでも晩夏の夕陽はまだまだ辺りを照らしていた。
「未春ー! こっちー!」
 由希奈と詠美はもう来ていた。昨日から思ってたけど、由希奈、何気に日に焼けてる。そういえば家族に海に行ったって写真送ってきたっけ。いいな。うちは榛音が嫌がるから海水浴なんかしたことない。
 さっそく三人で十字路ーー四つ辻に向かった。道端に死にかけの蝉がジジッ、ジジッ、と断末魔を放つ。
「あ、スマホ忘れてる」
 ふいに気づいた。確か、塾に行く前に動画見てて……あ、リビングのテーブルに置いたんだった。
「由希奈、長い髪の女オバケが出たら撮影よろしくね」
 ふざけ半分で言うと、由希奈は「やだー、こわーい」とやっぱ茶番めいた反応をする。
 きゃいきゃい話していたら、うっかり四つ辻を素通りしそうになった。あっぶない。通り慣れた道だからなー。

「んじゃ、やるねー」
 四つの道が交わった場所、つまり十字のド真ん中に立って、怪談の手順を始める。
 でも頭の中はこのあと食べるアイスでいっぱいだった。
 あたしの真横で、二人が声を揃える。

「いーち」
(おなか空いたなー)

「にーい」
(アイス以外にもなんか食べたい)

「さーん」
(アメリカンドックにしよっかな、安いし)

「よんっ」

 くるり

 掛け声とほぼ同時に、あたしは振り返った。
 当然だけど、目に入ったのはいつもの通学路の光景だった。オレンジ色の夕陽に染まっただけの。
 ハイ、終わりー。そう思った、時。
「ねえ」
 真後ろから呼びかけられた。返事するより先に振り向く、と。
 視界の端で、何か黒くて長いものがサッと動いたのが映った。紐? いや、あれは……
(髪?)
 髪の先っぽが見えたのだ。まるで、長い長いものすごく長ーーい髪の人が素早く移動したみたいな。
 違和感を覚えて、あたしは由希奈と詠美の方を向くと、

「いま誰かいなかっーー」
「未春動いちゃダメ動かないで!!」

 詠美の大声が弾けて、ビクッと肩が跳ねる。な、何?
「み、みはる……うしろ……ふりかえっ……ひ、ひぃっ」
 由希奈が大きく目を見開いて、上擦った声を出す。
「な、何よ、どうしたの!」
 訊いても、二人は半泣きで首を振るばかりだ。意味が分からなくて視線を巡らせると、ふいにアスファルトの地面が見え……え?
 地面に伸びるあたしの影。黒い影。
 それに覆い被さるように、まっくろな影が重なっていた。

 あたしの真後ろに 誰か いる。

 シルエットからして女。長い髪の女。
 そう認識した瞬間、背筋に寒気が走った。
 悲鳴が迸る直前に、詠美があたしの腕を掴んだ。強く引っ張って走り出す。由希奈もそれに続く。

「え、詠美、由希奈! い、いま、あたしの後ろに誰かっ」
「ダメ! 未春振り返らないで!」
「前だけ見て、走って、逃げるよぉ!」

 二人は完全に泣いていた。あたしたちは一心不乱に走る。


 四つ辻から遠く離れた公園に着いたところで、やっと詠美は手を離した。
「ここまで来れば……っ!」
 詠美が咳き込みながら、由希奈に、
「あ、『あれ』は……?」
 と確認した。
「いない、みたい……」
 二人がホウ、と吐息をつく。あたしは肩で息を整えて、
「どういうことなの。あたしの後ろに何がいたの!」
「何が……って」
 詠美が言い淀んだ。由希奈は嗚咽をもらし、また泣き出す。
「し、知らない方がいいよ、あんなの……」
 あんなのって? そう尋ねる前に、詠美まで泣き出した。
「ごめん、未春……こんな話、して……」
 詠美の目から涙がポロポロこぼれる。あたしは何も言えなくなった。
 二人はあたしを自宅マンションまで送ってくれた。
 あまりにも何度も謝るから、あたしの方が「もういいよ。試そうって言ったのあたしだし」と慰めることになった。
 別れたあとも、何度も振り返ってこちらを伺う。苦々しい表情で。

(あたし……どうなっちゃうんだろう)
 でも、大丈夫だよね。
 詠美の話じゃ、『その女の姿を見たら、取り憑かれる』らしいし。
 あたしが見たのは髪の先だけ。ほんのちょっとだ。
 大丈夫、大丈夫、きっと、ううん絶対。
 ゆっくり頭を降って、ポケットから出した鍵で家の鍵を開けた。
 玄関の三和土に、榛音の靴がない。ホッとした。『何か』あったのを知られたら、何を言われるか分かったもんじゃない。

「ただいまー」

 努めて明るい声を出す。返事がない代わりに、ダイニングキッチンから水音。お母さんが水仕事中なんだろう。
 いつもの音だ。生活の音。なんだか安心できて、あたしは洗面所で手を洗うとダイニングキッチンを通って、リビングのソファに鞄を置いた。
「お母さん、今日の晩ごはん何ー? あっ」
 テーブルにあたしのスマホがちょこんと載っていた。
(よかった、スマホあった)
「ねえ」
「ん?」

 お母さんに呼びかけられて、振り返った瞬間、すべての音がやんだ。

 さっきまで確かに聞こえていた水音が、ぴたり、と。
 そしてキッチンにはーーお母さんの姿はなかった。

「え……?」
 あたしの口から間抜けな声が出た時、

 ヴーッ!

 テーブルの上のスマホが振動した。
 液晶画面に、榛音の名前が表示される。
 無意識に通話ボタンが押すと、榛音が叫んだ。

『ねーちゃん! やっと出た!』
「はる、ね……」
『何してんだよ、バカ! ああそんなん言ってる場合じゃない、ねーちゃん、今すぐ家から出ろ!』
「え……?」
『いいから出ろ! オレと母さんはもう避難したから!』

(…………は?)

 オレと母さんは、避難……?
 榛音とお母さんは、家から出たってこと?
 でも、でも、さっきまでキッチンに……
 頭の中がまっしろになるあたしに、榛音が怒鳴る。

『ねーちゃん、四つ辻の女を呼び出したんだろ! ーー来たんだよ、うちに!』
「来、た……?」

 うち、に?
 この家に?

! だから早く家から出ろ! あと『ねえ』って呼びかけられても絶対に振り向くなよ! もし振り向いたら」



 終わりだから



 そのたった六文字の、意味がうまく飲み込めなかった。
 飲み込めなかった、けど……

「は、榛音……」
 頭の中がぐわんぐわん鳴る。背筋がゾクゾクする。鳥肌が立つ。あたしの腕を 誰か が真後ろから掴んでいる。固い、冷たい、湿った手の感触。

「も、う、遅かった、みたい……」

 榛音の声が遠くなる。
 涙でゆがむ視界の端に、映った。

 黒くて長い髪の、先。
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