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17.冷蔵庫の音

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 私の家は、ちいさな小売店です。
 二階が住居で一階が店舗、業務用の大きな冷蔵庫が置いてあります。
 冷蔵庫は二十四時間稼働します。お店を閉めて、私たち家族が眠った後も。

「お父さん、おやすみなさーい」
 夜の十時。一階の店舗で売上の計算や在庫確認や、機械のメンテナンスをするお父さんの背中に声をかけました。
 中学生なのに十時に寝るとか小学生かよ、と、学校で友達にからかわれたことを思い出しました。だって眠いんだもん、部活の朝練もあるし、と心の中で言い返します。
 欠伸をしていると、お父さんが返事しました。

「はい、おやすみ。……ああもう、この冷蔵庫も古いからなぁ。音がうるさいったら」

ン゙ン゙ーーーーーーーー

 お父さんが愚痴るのも分かります。先月までの酷暑のせいで、冷蔵庫の調子が悪いのです。
 音が、とにかくうるさい。
 そして、店舗の真上にある二階の洋室が私の部屋です。しかもベットではなく床に布団。部屋の真ん中に敷いた布団に横になると、

ン゙ン゙ーーーーーーーー

 階下から響く冷蔵庫の音が、ひどく、耳につきます。

(……まあ、そこまで気にしないけどね)
 まっすぐなリズムの低音なので、慣れればどうってことありません。
 部屋を真っ暗にして、右を向いて目をつむると、

ン゙ン゙ーーーーーーーー

 確かに最近、やたら大きく聞こえるなぁ。そう思いましたが、私はすぐに眠りに落ちました。


「ああー……よく寝たぁ」
 伸びをしていると、アレッ? と思いました。雀の鳴き声がよく聞こえるなと思ったら、窓が開いていたのです。
「窓、開けたっけ?」
 首を傾げながら、ひやりと冷たい窓を閉めました。



「お父さん、おやすみ……あれ、冷蔵庫どうしたの?」
 いつもみたいにお店で細々こまごまとした作業をするお父さんが、冷蔵庫の中のものを出していました。
「買い換えることにした。これも何十年も使ってるし、電気も食うしな」

ン゙ン゙ーーーーーーーー

 音はますます大きくなっているようでした。
 明日には新品が来るぞ、とお父さんはどこか寂しそうに言いました。
 私は寝支度をして、布団に潜り込みました。横にゴロンと寝転ぶと、耳によく届く、

ン゙ン゙ーーーーーーーー

 という音。
(この音がなくなっちゃうのか……なんか寂しいな)
 何故か、一抹の惜しさがありました。
 夢うつつで、冷蔵庫の音を聞いて、眠りました。


 翌朝、私の部屋のドアが少し開いていました。


「お父さん、おやすみ」
 いつものようにお父さんに声をかけましたが、お父さんは振り向きもせず、新しい冷蔵庫に夢中です。
「いやぁ、やっぱり最新式のはいいなぁ。見てみろ、この静かさ! 音がほとんどしない! あ、いや、聞いてみろ、か?」

 はははははは、とお父さんは一人で楽しそうに笑っていました。
 新しい冷蔵庫は確かにとても静かで、前のとは違って、存在をこれっぽっちも主張せず、ただそこにいました。
 そういえば『物』ってそういうものだった、と私は思い出しました。
 私は自室に入ると、すぐに布団を敷きました。カーテンを引き、電気を消す。部屋は真っ暗になり、自動点灯の時計だけがぼんやりと光ります。

 布団に入り、いつものように横を向く。けれど、妙に落ち着きませんでした。
 自分の心臓の鼓動が、耳の奥で聞こえる。なんだか新鮮な気持ちのまま、私は落ちるように意識を手放しました。

 けれど。

「……ん」
 私はふいに目を覚ましました。いつも一度寝たら朝まで起きないのに。暗闇に浮かぶ時計を見ると、午前一時半でした。

ン゙ン゙ーーーーーーーー

(冷蔵庫の音……すごいなぁ)


ン゙ン゙ーーーーーーーー

ン゙ン゙ーーーーーーーー

ン゙ン゙ーーーーーーーー


(……えっ?)

 あの古い冷蔵庫は、もう無いのに?

 私は重い身体を動かして、仰向けになりました。すると目の端に、何かが映りました。

 私の真横です。

 寝る私のすぐ横に、人の背中があります。

 ずんぐりとした、大人の、たぶん男の人の……せな、か。

 すぅ、と血の気が引いて、声も出ず呼吸ができなくな、

(だ、だれ……)

 パサッ、と音がして、カーテンが翻りました。窓から吹いてきた風の仕業です。絶対に閉めたはずの窓から。
 外の明かりが部屋の中に入るのと、
 その背中がゆっくりと動き、こちらに寝返りを打つのはほぼ同時でした。

「……」

 すぐにカーテンは元に戻ったので、顔は口元しか見えない。
 真一文字に結ばれた男の口。震える男の喉元。まっすぐなリズムの低音。真横で放たれたモノに震わされる私の鼓膜。


ン゙ン゙ーーーーーーーー


 ずっとずっとずっと近くで聞いていた、あの冷蔵庫の音。
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