アララギ兄妹の現代怪異事件簿

鳥谷綾斗(とやあやと)

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壱.【工藤家の怪異③】オフライン除霊の章

再憑依と後遺症

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「やはり後遺症です」

 あたしの腕の中で両目を剥いてのけぞる歩望を見て、李夢ちゃんが言った。

「歩望もあの〈よみっち〉という男も、憑依、つまり幽霊が心身に侵入するのを許してしまった。追い出したとしても一度生じた心身の『隙』のようなものは消えず、人より取り憑かれやすい体質になったのです」

 看護師のお母さんの教えを、思い返した。

 感染症の患者が陽性から陰性になっても、すぐに罹患する前の、健康な状態に戻るわけじゃない。
 ウィルスと戦った体は疲弊して傷つき、何かしらの体調不良が残り、人によっては何年も続く、って。
 そんなの嫌でしょ、だからせめて百パーセントは防げなくても予防はしっかりしなさい――とあたしたちに仕込んだ。

「たとえ助かっても、取り憑かれる前の状態には決して戻りません。だから心霊スポットになんか行くべきじゃないんです」

 桃吾くんが唇を噛み締めた。

 歩望と〈よみっち〉のパパパ状態は続く。どうすべきか考えていると、

 ズリッ……と何かが引きずる音がした。
〈よみっち〉が力なく垂れ下がる足を動かして、こちらに近づいてきた。

「ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ」

〈よみっち〉の手が何かをつかみとるように伸びてきた。
 あたし、じゃない、歩望に!

「逃げましょう!」

 桃吾くんが歩望を横抱きにして、李夢ちゃんがあたしを立ち上がらせる。

「どこへ!」
「工藤さんのお宅です! 神社を探して匿ってもらう余裕はない!」
「振り向かずに走ってください」

 李夢ちゃんがあたしの背中を押す。
 転げそうになりながら階段を駆け下りる。
 でもどうしても気になって、背後の〈よみっち〉を伺った。

〈よみっち〉は『逆さ』になってあたしたちを追いかけていた。
 両手を地面について階段を下りてくる。
 一見するとただの逆立ち歩きだけど、顔はこちらに向けていて、一切バランスを崩さなかった。ありえなさすぎて無理!

 当事者じゃなければお腹がよじれるほど笑う光景だけど、その異常さに鳥肌が立つし涙がこぼれるし気絶できるものなら気絶したかった。

 異常だ。この状況は、異常だ!

 なんでこんなことになったの! って、今年こればっかり言ってるな!

 半ばキレながら走る――町中なのに通行人の一人も見かけないという異常さの中、我が家をひたすら目指した。


 全員が家の中に入ると即座に鍵とチェーンをかけた。

「紙と書くものを!」

 桃吾くんがリビングのソファに歩望を寝かせ、そう要求した。
 電話横のメモ帳とボールペンを渡す。
 筆を選ばない桃吾くんはそれでお札を作り、真新しい掃き出し窓に貼りつけ――直後、バンッとガラスが震えた。
 血まみれの手のひらがガラスに貼りつく。
〈よみっち〉の虚ろな顔が生首みたいに暗闇に浮かぶ。

 首がちぎれる勢いで左右に振り、「ぱぱぱぱぱ!!」と声を迸らせる。

「即席なのでしばらくしか保ちません」
「兄上、応援を要請しましょう。工藤さん、サブスクの祝詞を流しておいてください」
「ダメなの。家のWi-Fiが起動しないし、スマホも圏外になってる」
「電話は?」
「……通じない」
「ご丁寧なことです。『ぱ』しか発せないのに」

 李夢ちゃんが皮肉めいた笑みを浮かべた。
 外への連絡手段がない。助けは求められない。

「あ、李夢ちゃんが除霊すればいいんじゃないの? 前みたいにさ!」
「……申し訳ありません。それはできかねます」

 痛々しげに李夢ちゃんが眉を寄せ、右手首を握る。
 前に会った時にはつけていた紅い紐と鈴のブレスレットがないことに気づいた。

「ど、どうして?」
「以前、僕が除霊には気力が必要だと言ったのを覚えていますか」
「うん」
「妹は、その気力の量が常人の何倍もあるんです。ですが、あまりに巨大な力すぎてコントロールできていない」
「未熟ゆえです。お恥ずかしい」
「李夢、やめなさい。――制御の紐はどうした?」
「先ほど感情が昂った際、引きちぎれてしまいました。申し訳ありません」

 李夢ちゃんが苦しそうに謝る。
 桃吾くんはため息はついても妹を責めなかった。

「制御の紐で抑えないと、霊だけでなく取り憑いた人に怪我を負わせたり周囲のものを壊してしまうんです。だから妹には、町中や人の多い場所で力を使うのを禁じています」
「ああ、うちの窓ガラスを粉々にしたみたいに?」
「……あれも、制御の紐で二割程度に抑えたつもりなのに、焦って失敗しました。すみません」

 二割で強化ガラスを粉々にできるのか……。
 なんとなくイメージできた。
 ヒグマがセミの抜け殻に触れるようなものか。

「……ちなみに制御なしで除霊したら、具体的にはどうなんの?」
「対象者の歩望くんと〈よみっち〉さんは骨や内臓に深刻なダメージを受けますし、この家は一階部分が吹き飛ぶと思います」

 めまいがした。それは困る、と事の重大さの割にはライトな感想が出た。
 万事休すという言葉が嫌でも思い浮かんだ時、

「ぱぱたぱす、ぱぱぱけぱ……ゲホッ」

 歩望が激しく咳き込んだ。
 赤いものが混じった唾液を吐き出す。
 それでも声を出し続けた。

「喉が切れたようです。歩望……」

 李夢ちゃんがハンカチで歩望の口を押さえながら言った。

 ガン!
 窓の方から何かがぶつかる音がした。
〈よみっち〉が額をガラスに叩きつけたのだ。

「ぱぱぱがぱたぱぱぱぱすぱぱけぱ!!」

 ガンッガンッ!
 額が割れても〈よみっち〉は止まらない。
 ガラスに血痕が飛び散る。

 もうやめて。
 何がしたいの、そんなにこの家に入りたいの。
 どうして?

 頭を抱えて吐きそうになる――と、微かな『声』が耳に届いた。
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