4 / 5
はじまり
いつの間にかの変化
しおりを挟む
空丘が別店舗へヘルプに行ってから、十日ほど経った。
海峰も店長代理のままだ。とことんこの職場の『しばらくの間』はあてにならない。
空丘が抜けた穴は予測以上に大きく、毎日の人手不足と、このまま不在が続いた場合におけるシフト調整に頭を悩ませていた。
店を閉めた後、事務所にひとり。
真っ暗な中でパソコンの画面と対峙する。
傍らには、チョコレートがある。
有名店のカカオトリュフ。ソルティキャラメルとシャンパーニュのアソートタイプで、歯を入れた瞬間の柔らかさが格別だった。
芳醇な酒の香りのシャンパーニュも良いが、ソルティキャラメルの中にはキャラメルチップが混ざっており、食感がよく、最後には旨みのある塩気が後を引く。
けれど、心は動かない。
次はアーモンドチョコレート。苦みばしったココアパウダーの下には純白のホワイトチョコレート。マスカルポーネチーズを練りこんであるという。ローストしたアーモンドも香ばしい。
けれどそれでも、心は動かない。
間断なく、何かを埋めるように機械的に海峰はチョコレートを食べ続ける。
その手がふと止まった。
「……うっ」
蛙が押しつぶされたような声が出た。
まずいと思うや、トイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出した。
食べ過ぎだった。
(最悪……)
数千円するチョコレートがすべて無駄になった。
何度か咳き込み、苦しさに喘ぐ。
しばらくしてから深呼吸すると、どうにか落ち着いた。
ふらつく足取りでトイレから出る。洗面台で雑に顔を洗った。
何やってんだ、俺。
鏡に映ったびしょ濡れの己の顔に、自嘲する。
しんどい、疲れた、……そういう感情すら通り越して、ただただ情けない。
こんな姿を見たら、あいつは何と言うのだろう。
脳裏に浮かんでしまう能天気な笑顔に、海峰はハッと息を吐いた。
これはもう。
認めるしか、ないのかもしれない。
自分の中にずっとあった『もの』に。
観念しようと思った。認めようと思った。
(やっぱり俺は……)
濡れた顔を袖でゴシゴシこすり、悄然と事務所に戻る――と、消していたはずの電灯が点いていた。
まさか。
「また電気点けるの忘れてるっすよ、先輩」
煌々とした明かりの下、空丘が笑っていた。
――返事するよりも先に、体が動いた。
海峰はラグビー選手もかくやの勢いで、空丘の図体にタックルをかました。
「うぉわぁお!!」
突然の猛進に空丘は驚き、とっさに海峰を受け止めたが、勢いは殺せず後ろ向きに倒れた。
だが、すぐ後ろに休憩用のソファがあったのでダメージも物音も最小限に抑えられた。
ちなみに『幸い』ではない。海峰は後ろにソファがあるのを承知の上で、きちんと安全第一で突っ込んだのである。
「ここで会ったが百年目だ! 抱きしめろ! 何も言わず何も考えずひたすら無心に俺を抱きしめろ!」
「いやぁああ怖い! 飢えてる先輩めっちゃ怖い! え、草食系だっつってたのに肉食系だったの!? ロールキャベツ系男子!?」
「黙れ小僧! いいから抱け!」
と叫ぶが早いか、海峰は空丘の胸元に顔を埋めた。
書店エプロンではなくラフなジャケットだったが、中のシャツに使っている柔軟剤は同じもので、懐かしい匂いにたまらなくなる。
空丘がおずおずと手を伸ばす。その熱い手が、嘔吐で体温が下がった海峰の体に触れる。
彼の熱が悪寒も疲労も吸い取ってくれる。
ぽっかりと空いた穴も埋まった気がした。
しばし、無言で抱きしめ合った。
「……はぁーー……」
熱い湯船に浸かった瞬間のような長く深い息を吐き、海峰は満たされた思いで空丘から離れた。
そのまま床に座り、乱れに乱れた佇まいを直す。
空丘もむくりとソファから起き上がった。
「えっと、落ち着きました?」
「うん」
「珍しく素直な返事っすね。びっくりしたー、あっちの店が終わってこっち来たらいきなり襲われるんだもん」
「すまん」
「え、ほんとに珍しい……」
一旦距離を置くと、心の余計なバリアが薄くなるものらしい。
変なプライドも鎮火して、妙な清々しさがある。冷静な自己分析も可能だ。
「おまえ、直帰しなかったのか? なんでわざわざこっちに戻ってきたんだよ」
素朴な疑問に、空丘も珍しい反応――少しばかり言い淀んだ。
「そんなん、先輩に会いたかったからに決まってんでしょ」
言わせないでくださいよ、と頬をかく。
そんな空丘に、海峰はキョトンとなり、まじまじ見つめる。
(……長いような短いような濃いような薄いような付き合いだけど)
こいつのこんな態度、初めてだ。
「それよか先輩も、俺に何か言いたいことあるんじゃないですか?」
空丘がわざとらしく首を傾げ、期待に両目を輝かせて、海峰の本音をねだる。
言わせてくれるなよ、とは思ったが、隠しても仕方がない。
これは多分、言った方が良いことだ。
素直に正直に、言うべきだ。
「……おまえがいなくなってから」
「はい」
「ずっとチョコ食いまくってた」
「はいはい」
「でも全然癒されなかっった。おまえに抱きしめられたら一瞬で回復したのに。疲れが溜まる一方だった」
「はいはいはい」
「それでやっと気づいた。――俺」
「はい!!」
声がでけぇ。
空丘の期待が最高潮クライマックスの一歩手前まで上がる。
だが海峰は、逆に声のトーンを落として、
「思っていた以上にストレスが溜まっていたんだって……!!」
と、ありのまま心のまま思いのままの本音を告白した。
海峰も店長代理のままだ。とことんこの職場の『しばらくの間』はあてにならない。
空丘が抜けた穴は予測以上に大きく、毎日の人手不足と、このまま不在が続いた場合におけるシフト調整に頭を悩ませていた。
店を閉めた後、事務所にひとり。
真っ暗な中でパソコンの画面と対峙する。
傍らには、チョコレートがある。
有名店のカカオトリュフ。ソルティキャラメルとシャンパーニュのアソートタイプで、歯を入れた瞬間の柔らかさが格別だった。
芳醇な酒の香りのシャンパーニュも良いが、ソルティキャラメルの中にはキャラメルチップが混ざっており、食感がよく、最後には旨みのある塩気が後を引く。
けれど、心は動かない。
次はアーモンドチョコレート。苦みばしったココアパウダーの下には純白のホワイトチョコレート。マスカルポーネチーズを練りこんであるという。ローストしたアーモンドも香ばしい。
けれどそれでも、心は動かない。
間断なく、何かを埋めるように機械的に海峰はチョコレートを食べ続ける。
その手がふと止まった。
「……うっ」
蛙が押しつぶされたような声が出た。
まずいと思うや、トイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出した。
食べ過ぎだった。
(最悪……)
数千円するチョコレートがすべて無駄になった。
何度か咳き込み、苦しさに喘ぐ。
しばらくしてから深呼吸すると、どうにか落ち着いた。
ふらつく足取りでトイレから出る。洗面台で雑に顔を洗った。
何やってんだ、俺。
鏡に映ったびしょ濡れの己の顔に、自嘲する。
しんどい、疲れた、……そういう感情すら通り越して、ただただ情けない。
こんな姿を見たら、あいつは何と言うのだろう。
脳裏に浮かんでしまう能天気な笑顔に、海峰はハッと息を吐いた。
これはもう。
認めるしか、ないのかもしれない。
自分の中にずっとあった『もの』に。
観念しようと思った。認めようと思った。
(やっぱり俺は……)
濡れた顔を袖でゴシゴシこすり、悄然と事務所に戻る――と、消していたはずの電灯が点いていた。
まさか。
「また電気点けるの忘れてるっすよ、先輩」
煌々とした明かりの下、空丘が笑っていた。
――返事するよりも先に、体が動いた。
海峰はラグビー選手もかくやの勢いで、空丘の図体にタックルをかました。
「うぉわぁお!!」
突然の猛進に空丘は驚き、とっさに海峰を受け止めたが、勢いは殺せず後ろ向きに倒れた。
だが、すぐ後ろに休憩用のソファがあったのでダメージも物音も最小限に抑えられた。
ちなみに『幸い』ではない。海峰は後ろにソファがあるのを承知の上で、きちんと安全第一で突っ込んだのである。
「ここで会ったが百年目だ! 抱きしめろ! 何も言わず何も考えずひたすら無心に俺を抱きしめろ!」
「いやぁああ怖い! 飢えてる先輩めっちゃ怖い! え、草食系だっつってたのに肉食系だったの!? ロールキャベツ系男子!?」
「黙れ小僧! いいから抱け!」
と叫ぶが早いか、海峰は空丘の胸元に顔を埋めた。
書店エプロンではなくラフなジャケットだったが、中のシャツに使っている柔軟剤は同じもので、懐かしい匂いにたまらなくなる。
空丘がおずおずと手を伸ばす。その熱い手が、嘔吐で体温が下がった海峰の体に触れる。
彼の熱が悪寒も疲労も吸い取ってくれる。
ぽっかりと空いた穴も埋まった気がした。
しばし、無言で抱きしめ合った。
「……はぁーー……」
熱い湯船に浸かった瞬間のような長く深い息を吐き、海峰は満たされた思いで空丘から離れた。
そのまま床に座り、乱れに乱れた佇まいを直す。
空丘もむくりとソファから起き上がった。
「えっと、落ち着きました?」
「うん」
「珍しく素直な返事っすね。びっくりしたー、あっちの店が終わってこっち来たらいきなり襲われるんだもん」
「すまん」
「え、ほんとに珍しい……」
一旦距離を置くと、心の余計なバリアが薄くなるものらしい。
変なプライドも鎮火して、妙な清々しさがある。冷静な自己分析も可能だ。
「おまえ、直帰しなかったのか? なんでわざわざこっちに戻ってきたんだよ」
素朴な疑問に、空丘も珍しい反応――少しばかり言い淀んだ。
「そんなん、先輩に会いたかったからに決まってんでしょ」
言わせないでくださいよ、と頬をかく。
そんな空丘に、海峰はキョトンとなり、まじまじ見つめる。
(……長いような短いような濃いような薄いような付き合いだけど)
こいつのこんな態度、初めてだ。
「それよか先輩も、俺に何か言いたいことあるんじゃないですか?」
空丘がわざとらしく首を傾げ、期待に両目を輝かせて、海峰の本音をねだる。
言わせてくれるなよ、とは思ったが、隠しても仕方がない。
これは多分、言った方が良いことだ。
素直に正直に、言うべきだ。
「……おまえがいなくなってから」
「はい」
「ずっとチョコ食いまくってた」
「はいはい」
「でも全然癒されなかっった。おまえに抱きしめられたら一瞬で回復したのに。疲れが溜まる一方だった」
「はいはいはい」
「それでやっと気づいた。――俺」
「はい!!」
声がでけぇ。
空丘の期待が最高潮クライマックスの一歩手前まで上がる。
だが海峰は、逆に声のトーンを落として、
「思っていた以上にストレスが溜まっていたんだって……!!」
と、ありのまま心のまま思いのままの本音を告白した。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
黄色い水仙を君に贈る
えんがわ
BL
──────────
「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」
「ああ、そうだな」
「っ……ばいばい……」
俺は……ただっ……
「うわああああああああ!」
君に愛して欲しかっただけなのに……
僕の選んだバレンタインチョコレートはその当日に二つに増えた
光城 朱純
BL
毎年大量にバレンタインチョコレートをもらってくる彼に、今年こそ僕もチョコレートを渡そう。
バレンタイン当日、熱出して寝込んでしまった僕は、やはり今年も渡すのを諦めようと思う。
僕を心配して枕元に座り込んだ彼から渡されたのはーーー。
エブリスタでも公開中です。
天然くんはエリート彼氏にメロメロに溺愛されています
氷魚(ひお)
BL
<現代BL小説/全年齢BL>
恋愛・結婚に性別は関係ない世界で
エリート彼氏×天然くんが紡いでいく
💖ピュアラブ💖ハッピーストーリー!
Kindle配信中の『エリート彼氏と天然くん』の大学生時のエピソードになります!
こちらの作品のみでもお楽しみ頂けます(^^)
♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡
進学で田舎から上京してきた五十鈴は、羊のキャラクター「プティクロシェット」が大のお気に入り。
バイト先で知り合った将が、同じキャンパスの先輩で、プティクロシェットが好きと分かり、すぐ仲良くなる。
夏前に将に告白され、付き合うことになった。
今日は将と、初めてアイスを食べに行くことになり…!?
♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡
ラブラブで甘々な二人のお話です💕
おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~
天岸 あおい
BL
英国の若き青年×職人気質のおっさん塗師。
「カツミさん、アナタはワタシのミューズです!」
「おっさんにミューズはないだろ……っ!」
愛などいらぬ!が信条の中年塗師が英国青年と出会って仲を深めていくコメディBL。男前おっさん×伝統工芸×田舎ライフ物語。
第10回BL小説大賞エントリー作品。よろしくお願い致します!
【完結】遍く、歪んだ花たちに。
古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。
和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。
「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」
No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。
漢方薬局「泡影堂」調剤録
珈琲屋
BL
母子家庭苦労人真面目長男(17)× 生活力0放浪癖漢方医(32)の体格差&年の差恋愛(予定)。じりじり片恋。
キヨフミには最近悩みがあった。3歳児と5歳児を抱えての家事と諸々、加えて勉強。父はとうになく、母はいっさい頼りにならず、妹は受験真っ最中だ。この先俺が生き残るには…そうだ、「泡影堂」にいこう。
高校生×漢方医の先生の話をメインに、二人に関わる人々の話を閑話で書いていく予定です。
メイン2章、閑話1章の順で進めていきます。恋愛は非常にゆっくりです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる