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はじまり

チョコがないとやってられない

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 ひとつ目は、カフェフレーバーのチョコレートバー。
 高級店らしい凝ったラッピングを開けると、コーヒーの香りがふんわりと。
 口に運んでかじれば、ザクザクとした音と歯応えが快い。ココアクッキーをベースにしていて、ナッツの食感とドライフルーツのねっちりとした強い甘みがリッチだ。

 ふたつ目は、洋酒入りのボンボンショコラ。
 昔はウィスキーボンボンと呼ばれていたが、中に入っている酒は単体でも世界を目指せる逸品だ。
 舌全体に酒の刺激が広がり、鼻に抜ける香気と喉を焦がす感覚に、海峰かいほう帆希ほまれはうっとりと――しなかった。

 全然まったくこれっぽっちもうっとりしなかった。

 むしろ両目が充血し、荒みきったオーラを放っていた。

 彼は苛立ちさえ滲ませ、オランジェットを口内に放り込んだ。
 砂糖漬けのオレンジピールの切ないほろ苦さがビターチョコレートとハーモニーを奏でるが、まったく心が動かない。

 真っ暗な事務所で、煌々と光るパソコンの画面。
 書類やら注文票やらポップが雑然と積まれた机にかじりつき、海峰はひたすら高価なチョコを貪りながら数字を目で追う。
 すると、唐突に室内が明るくなった。誰かが電灯を点けたのだ。

「先輩ってば、また電気点けるの忘れてるー」

 スナック菓子のように軽い調子で指摘してきたのは、空丘そらおか虹哉こうやだ。

 彼は店のエプロンを着けたまま、版元に返品する雑誌を抱えていた。
 その様子を横目で見た海峰は、「あの雑誌、来月から入荷数減らないとな」と思った。

「うっさい。閉店作業、終わったのか?」
「掃除、戸締まり、シャッターすべて完璧完了でございマス、テンチョー代理」

 空丘がふざけ半分で敬礼する。

 店長代理。
 なんと忌々しい四字熟語か。

 ムカつきをぶつけるように、海峰はピスタチオのチョコバーを食いかじった。


 海峰が契約社員として勤める〈こうぞブックストア〉は、中規模のチェーン系書店である。

 一ヶ月ほど前のこと。
 店長の地田ちだが、心身休養のために休職を取った。端的に書くと「ウツ病一歩手前になったのでドクターストップがかかりました」である。
 本社のエリアマネージャーは、海峰に店長代理を任命した。
 当然だが渋った。だがエリアマネージャーは、「しばらくの間だけだから! ね! マジでしばらくの間だけから!」とゴリ押しした……

「なーにがしばらくの間だけだ、あのタヌキ野郎!」
「まさか一ヶ月経っても代わりの社員さんを派遣しないとか、マジ笑えないっすねー」

 ヘラヘラ笑う空丘に舌打ちしたくなる。この能天気な後輩は口の利き方も知らんのか。

「ガチで笑えねーよ。おかげでこのひと月、激務もいいところだ」

 給料は変わらないのに仕事量は大激増。これすなわちこの世の地獄。

 休職を選択した地田に対しては、特に恨みはない。店長という立場のハードさを骨身に沁みて痛感したからだ。
 だから地田はゆっくり休めばいい。
 しかし、それ(地田への気遣い)とこれ(クソ多い仕事と本社による放置)とは話が別だ。

「で、先輩はまたチョコ爆食いしてるんですか? ハイパー激務で疲れ切った心身を癒すために」

 空丘が机の上に散乱した包み紙を指さす。
 店を閉めて事務所で作業をする際に、チョコレートをつまむ。
 少し前からそんな習慣ができていた。

「疲れにはチョコがいいってバイトの子からもらったやつが、劇的に効いたんだよな」
「でもこれって、けっこーな高級品ばかりっすよね。わざわざ店舗に買いに行ったんすか」
「んな時間ねぇよ。ネットにある某南米の熱帯雨林で買ったんだよ」
「わはー。一応本屋のライバル的存在なのに、こーゆー時と書名検索する時は便利っすよねー」

 机に積まれた箱たち。チョコバーもボンボンショコラもオランジェットもすべて別々の店のものだ。
 
「いちいち選ぶのも面倒だから、テキトーなのが週一で届くよう定期便にしてる」
「ふーん。でも味は気に食わない感じ?」
「はぁ?」
「だって、眉間にシワ寄ったままっすよ?」

 空丘がズイッと距離を詰め、海峰の眉間を指でつっつく真似をする。

「二重の意味でもったいなくないっすか? せっかくおいしーチョコ食ってる上に、せっかく先輩は可愛い顔してるんだから」
「……どーいう意味だソレ」
「もっとこう、とろぉーんと蕩けちゃう~~みたいな表情になってください」
「アホぬかせ」

 一昔前に流行ったグルメ漫画じゃあるまいし。
 いくら美味でも、食べただけで表情筋を崩壊させ、ふにゃふにゃになるなんて現実ではありえない。コミック担当だからって漫画の読みすぎた。

 そして空丘に「可愛い」呼ばわりされたのも不快だった。
 少々チャラいが、自分よりよっぽどイケメンのくせに。
 アッシュブラック系のツーブロック刈り上げという一歩間違えればヤカラに見えそうな髪型なのに、さわやかな造形の顔面で中和している。
 少し垂れた目は人懐っこい大型犬のようで、空丘目当てで来る女性客は少なくない。

 対して海峰は、学生時代からほとんど変わらない黒髪短髪。もう二十五歳になるが未だに学生と間違えられる。
 そんな海峰に、空丘は、勤務初日からずっと「先輩」と呼んで――年はひとつしか変わらないのに――まとわりついている。

(コイツ絶対俺をからかってんだろ……)

 ぷいっと空丘から顔を背けて仕事に戻った。
 その拍子に、手の甲が包みを破っていたボンボンショコラに触れ、あえなく床に落っこちた。
 しまった。そうは思ったが、手は既に報告書を書くためにキーボードを打っていて中断する気にはなれなかった。
 一区切りついてから拾えばいいか、と、ぬるく考えた。

 それが悪かった。

「あ、ウマーい」

 という空丘のハッピーな声と、ボリボリという咀嚼音。
 海峰が振り向くと、そこには落としたボンボンショコラをもぐもぐする空丘の姿があった。


「テメェ何食ってんだ!」

 ゴルァと巻き舌モードになり、立ち上がった海峰は空丘に詰め寄った。
 空丘がごくりとチョコを飲み込む。

「だ、だって床に落ちたし、どうせ捨てるんならいっかなって」
「捨てねーよ! あとで拾って食べるつもりだったよ!」
「えぇ!? それやばくないっすか雑菌的な意味で! 三秒ルールどころじゃない!」
「床に落ちた時点で雑菌まみれなんだから三秒も三十分も一緒だろ!」

 そうでもない。生理的な抵抗感という意味で、三秒と三十分には大きな差がある。
 だが荒ぶる海峰にそんな一般論は通じなかった。

 何故ならこれが、最後のチョコレートだったからだ。

 ひととおり空丘を非難すると、海峰は椅子にどかっと座って頭を抱える。
 そして、何百冊もあるコミックスに立ち読み防止用のビニールを手作業で巻く時のような、重ーーーーいため息をもらした。

「どーすんだよ……もうチョコねーよ……」
「週一の定期便って言ってましたけど、次いつ来るんです?」
「四日後」
「一週間分のチョコを三日で……? やばくないすか精神状態とか血糖値とか血圧とか」

(血圧はあんま関係ないだろ……)

 チョコレートの摂取量が右肩上がりなのは自覚していたが、今はこれだけが頼りだった。

 数週間前、疲労困憊でフラフラだった朝。
 店長代理になってから数日で痩せて顔色も悪くなった海峰に、アルバイトの子が差し入れてくれたチョコレート。

 一口食べると、心も体もふわっとほどけるような心地になった。
 どうやらチョコレートに含まれる『テオブロミン』だか『ポリフェノール』だかが作用しているらしいが、ともかくその一口で、海峰はとんでもなく救われたのである。

 その辺のコンビニで買ったものではダメだった。
 そういう馴染みのあるチョコレートを卑下するわけではないが、今の海峰が求めているものではなかった。
 かと言って、遠方にある専門店やデパ地下に買いに行く暇はない。
 間が悪いことに次の休みは五日後。ネット注文で届くものの方が早い。
 ちなみに今から別口で注文しても、人気店ゆえに一週間以上かかることは調べ済みだ。

「……どうしよう」

 海峰がポツリと本音をこぼした。
 この一ヶ月、意識して出さないようにしていた弱音が口から出た。
 海峰の二十五歳にしては甘ったるい童顔が闇色に歪む。
 たかがチョコレートごときで大げさな、と自分でも呆れる。
 だが正直、まだまだ残っている仕事をチョコレート抜きで片づけられるだろうかという不安が勝っていた。

 たった一人でやり抜くためのお供だったのに。

「……先輩」

 項垂れる海峰を、空丘が呼ぶ。

 顔を上げると、諸悪の根源(※荒んでいるがゆえの表現)が妙に真剣な顔つきで、

 何故か両手を広げて、待ち受けていた。

「お詫びにオレ、先輩を癒します」
「……はあ?」

 何を言っているんだコイツは。

「SNSで見たんです。疲労回復に超有効だって。
 ――だからオレ、先輩をハグします!」
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